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長愛橋の恋伝説

 陽介が通っていた中学校から一キロほどの距離に長愛公園ちょうあいこうえんという広大な面積をほこる自然公園があり、公園の中を通っている小川に長愛橋という橋が掛かっている。

 今から十二、三年くらい前、陽介が中学生のときに「長愛橋の恋伝説」という噂話が中学校内で流行った。

「長愛橋の恋伝説」とは、長愛橋に好きな人と一緒に行き、長愛橋を中心に八の字に整備されている歩道をその人と手を繋いで、その人の名前を十回心の中で唱えながら一周歩き、その後、公園の中央にある花時計の前で愛の告白をすると二人は一生結ばれる、というものだった。誰が言ったかは定かでないが、長愛公園の隣に縁結びで有名な長愛寺という寺という寺があることもあって、陽介の通っていた中学校では誰もが知る恋の伝説として真しやかに信じられていた。


 三十分ほど前、陽介は長愛寺で失恋した。

「もう陽介の老人くさい趣味にはうんざりよ! 会えばいつも寺に行こうだ、神社に行こうだ、ってそんなところばかり行って何が楽しいのよ!」

 佳奈はそう言って、陽介の左頬に強烈な平手打ちを見舞って、陽介の元を去っていった。

(どうして……?)

 陽介はあまりの衝撃に体が硬直し、その場から一歩も動くことができなかった。

 陽介と佳奈は三年来の恋人だったが、デートといえば十中八九、陽介の唯一の趣味である寺社巡りだった。佳奈は陽介の寺社巡りに渋々付き合っていたが、本当は遊園地に行ったり、旅行に行ったり、美味しい料理を食べに出かけたりするほうがよっぽど好きだった。しかし、陽介は佳奈の望みを一切叶えることなく、自分の行きたい寺社へと佳奈をひたすら付き合わせた。誕生日もクリスマスイブも二人が交際を始めた記念日も……。

 陽介の身勝手な振る舞いは佳奈の寺社巡りに対する嫌悪感を次第に増長させ、佳奈が陽介に長愛寺に連れて来られたとき、遂に怒りが爆発した。

「素敵な場所に連れて行ってあげる」

 そう言って、陽介は佳奈を誘い出していた。

 佳奈は陽介の地元を案内してもらえると思い、喜びに満ち溢れていたが、真っ先に連れてこられた場所が“寺”だったことに何かが壊れ、喜びがそのまま怒りに変わった。

 陽介の頬は軽く熱を帯び、目からは涙が堰を切って流れていた。その様子を周囲の参拝客が訝しげに見つめていたが、陽介は憚ることなく涙を流していた。陽介の目元は日差しを受けて、まばゆく輝いていた。

 陽介が佳奈を長愛寺に連れて来た理由は「長愛橋の恋伝説」を実践するためだった。これからの人生を大きく左右する出来事の前に長愛寺でお参りをして、緊張から解放したかった。

 陽介は初めて「長愛橋の恋伝説」を聞いたときから、プロポーズはこれしかない、とずっと心に決めていた。それから十二年強。遂に訪れた、長い間憧れていたシチュエーションに心ははちきれんばかりに躍り、昨日は全然眠れなかったほどだった。心を落ち着かせて、いざ、というときに、崖から谷底に突き落とされたかの如く、陽介の思いは凄惨なまでに引き裂かれ、人生最良の日から最悪な日へと変わってしまった。

 陽介が我に返り、佳奈に振られたことを自覚したのは佳奈が陽介の元を去ってから一時間近くも経ったあとだった。陽介はようやく幾ばくかの落ち着きを取り戻し、家に帰ることにした。

 何も考えられぬまま、ぼんやりと自宅へ向かって歩いていると、

「もしかして陽ちゃん?」

 と、前から歩いて来る女性に声を掛けられた。

 陽介はその声に反応し、その女性の顔を見たが、誰だか認識できず、只々その顔を奇異的な物を見るように眺めた。

「やっぱり、陽ちゃんだ!」

 目の前の女性は陽介に顔を近づけて、陽介を凝視したあと、改めて言い、嬉しそうに笑った。

 その女性が笑うと、愛くるしい笑窪がくっきりと顔に浮かんだ。

「あ!」

 思わず声が出た。その笑窪を見た瞬間、過去の記憶が瞬く間に鮮明に蘇り、裕子だ、と陽介は確信した。

「もしかして、裕子?」

「うん、久しぶり。元気だった?」

 裕子は嬉しそうに笑った。

「まぁ、ね」

 陽介は照れ臭そうに笑った。本当は元気なわけがない。

「でも、よく私のこと分かったね」

「最初は誰だか分からなかったけど、その笑窪を見たらすぐに思い出した」

「何それ?」

 裕子はそう言って、再び笑った。陽介は裕子の笑顔を見て、笑窪は昔と全く変わっていないな、と感じた。

 裕子は陽介が密かに恋心を抱いていた同い年の幼馴染だった。父親の仕事の都合で中学二年生のときに九州に引っ越してしまったが、今回、偶然にもそれ以来の再会を果たした。久しぶりに見る裕子は身長も少し伸び、顔立ちも大人っぽくなっていたが、笑顔だけはあの頃のままだった。

「それより裕子、何で東京にいるんだ?」

「仕事で昨日からこっちに来ているの。それで今日は一日オフだから、昔の思い出にでも浸ろうかなって感じでここに来たの。でも、陽ちゃんこそ家と反対方向なのにこんなところにいるなんて珍しいね。どうしたの?」

「ちょ、ちょっとね……。乗るバスを間違えたんだよ」

 陽介は下手な嘘をついて、足早に歩き出した。

「どこ行くの、陽ちゃん?」

 裕子はすぐに追いかけてきたが、陽介は裕子に構わず歩いた。失恋したことなど言えるはずもなかった。

 結局、裕子を構わないまま歩き続けるのは心苦しくなり、陽介は裕子と二人で近くを散歩することにした。裕子は、ここら辺もすっかり変わったね、と久しぶりに訪れたかつての地元の変貌ぶりを見て少し疎外感を匂わすようなことを言っていたが、散歩を概ね満喫していた。

 しばらく歩いたあと、二人は長愛寺の前に辿り着いた。

「長愛寺だ、懐かしい!」

 裕子は声を弾ませた。

「ねぇ、ちょっと寄っていかない?」

 裕子が陽介の服の袖を引っ張りながら言った。

 はしゃいでいる裕子を尻目に、陽介は少し前に心に傷を負ったこの寺を直視することができなかった。気を紛らわそうと携帯電話を取り出して、裕子の方には見向きもせずにせわしなく操作しながらじわじわと距離を取り始めた。

「ねぇ、中に入らないの?」

 裕子は陽介の顔を覗き込んで、言った。

「うっ!」

 一瞬、突然視界に飛び込んできた裕子にうろたえながらも、すぐに気を引き締めて、

「今日は入る気がしないな」

 再び携帯電話の液晶画面を見ながら言った。

「何で? せっかくだから中に入ろうよ。私お参りしたい」

「いや、無理。お参りなんかしてもしょうが無いし、とにかく入りたくないんだ」

陽介は少し苛立つように言った。

「何で苛々しているのよ? 馬鹿じゃない」

 裕子も苛立つように言い返した。

 陽介はばつが悪そうに頭を掻いた。中学生の頃に信じていた伝説を実践しようとして失恋したなどと裕子が聞いたら何を言われるかわかったものではない、そう思うと、陽介は何も言うことができなかった。

「黙っていないで理由を言ってよ!」

 裕子はそう言って、陽介の右腕を掴んで上下に強く振った。

「離せよ!」

 陽介は裕子の腕を強く振り払った。

「何すんのよ!」

 裕子は陽介の右腕を再び掴んだ。

「さっきここで振られたんだよ!」

 陽介は怒鳴りつけるように言い、裕子の腕を再び振り払った。

 二人の間にしばし沈黙が訪れた。

「中学生の頃に長愛公園の縁結びの伝説が流行ったのを覚えているか?」

 陽介は、もうどうでもいいや、という思いを抱きながら話し始めた。

「何それ? 聞いたことないよ」

 陽介は裕子が狐につままれたような顔をしているのを見て、また裏目に出たか、と思い、溜息をついた。

「まぁ、いいや。とりあえずその縁結びの伝説を、結婚を考えていた彼女に実践しようとしたら結ばれるどころか振られちゃったんだよ」

「ここで?」

「あぁ、この中でな」

「そうだったの……」

「とにかく、そういうことだから入りたくない。悪いけど、行くなら一人で行ってくれ」

 陽介はそう言って、裕子を残したまま長愛寺から逃げるように離れていった。

「ごめん」

 裕子は力なく言い、陽介を追いかけた。

 陽介は追いかけてくる裕子を無視したまま歩き続けた。裕子は陽介の二、三歩後ろをついていったが、何も声を掛けることができないままでいた。

 結局、二人は一言も言葉を交わさぬまま陽介の自宅の前まで着いた。

「じゃあ、俺はここで」

 陽介は冷たい口調でそう言い、家の中に入っていった。

陽介は部屋に戻ると、急に強い絶望感に襲われた。恋人だった佳奈と幼馴染だった裕子をたった一日で両方とも失ってしまった、そう思うと、何もかもが嫌になり、ベッドの上に置いてあったクッションを力任せに、何度も殴打した。

 

 ピンポーン。


 しばらくすると、インターフォンが鳴った。陽介はそれを無視してひたすらクッションを殴打した。


 ピンポーン。


 インターフォンが再び鳴った。


 陽介は再び無視した。


 ピポピポピポピポピポピポピポピポピポピーンポーン。


 今度はインターフォンが連射された。うるさい機械音が家の中で何度もこだました。

「うるさい! 警察を呼ぶぞ!」

 陽介は玄関のドアを開け、大声で叫んだ。

「待って、陽ちゃん!」

 インターフォンをしつこく鳴らしていたのは裕子だった。

「帰れよ」

「やだ」

「迷惑だから帰れ」

「やだ」

「お前なんか見たくないから帰れ」

「いいから聞いて!」

 裕子は陽介の腕を強く引いて、陽介をドアの外まで引っ張りだした。

「もう一回、長愛寺に行こう」

 裕子は陽介の腕を力強く握って、言った。

「ふざけるな!」

 陽介は裕子に怒鳴りつけた。馬鹿にするにもほどがある。そう思うと、さすがに我慢ならなかった。

「いいから、来て!」

 裕子はそう言って、強引に陽介を玄関の外に連れ出した。

 裕子の鬼気迫る態度に陽介は、勘弁してくれよ、と思ったが、陽介に抗う気力は無かった。

「分かったよ」

 陽介は渋々と靴を履き、再び長愛寺に向かった。

 長愛寺の前まで来ると、陽介はやはり正面から寺を見ることができなかった。中に入るのを躊躇っている陽介を横目に裕子は、早く入ろう、と強引に陽介の背中を力強く押して中に入った。

 中に入って五分も経たないうちにお参りを済ませると、もう十分だから、と裕子は言い、二人はすぐに寺を出てしまった。陽介は、すぐ出るくらいなら俺がつきあう必要ないだろ、と思ったが、口を出すのは止めた。

 長愛寺を出ると、長愛公園の小川が見たい、と裕子が言いだしたので、陽介は黙って付き合うことにした。

「せっかくだから長愛橋の歩道を歩こうよ」

「面倒くさいよ」

「いいから、いいから」

 裕子はためらう陽介の手を無理矢理に掴んで、陽介を引きずるように歩道を歩いた。

「ありがとう。これで満足したよ」

 裕子はそう言って、陽介に深々と頭を下げた。

「あ、いや、別にそこまでしないでくれよ」

 陽介は対応に困り、まごついた。

「ねぇ、歩いたら喉が乾いちゃったから、花時計のところで少し休んで行かない?」

「そうだな」

 陽介は裕子の提案に従った。

 二人は花時計の前のベンチに座ってゆっくりとジュースを飲んだ。花時計の様々な花の香りが辺り一帯に広がり、その優しい香りが陽介の心を落ち着かせてくれた。

「知ってたよ」

不意に、裕子は言った。

「何が?」

「長愛橋の伝説」

「え?」

「好きな人と手を繋いで長愛橋の歩道を一周してからここで告白するとその人と一生結ばれるって」

 裕子はそう言って、下を向いた。

「でも、さっき聞いたことないって……」

「流行ったことはね。でも、伝説自体はお姉ちゃんから小学生の頃に聞いたことがあるから知っていたの」

「じゃあ……」

 陽介がそう言うと、裕子は軽く頷いた。

「だから陽ちゃんを家から強引に連れ出して、ここまで無理矢理連れてきたし、長愛橋を一周するのにも付き合ってもらった」

 裕子の目に涙が浮かんだ。

「覚えてる? 幼稚園のときの遠足のこと」

「確かここに来たよな?」

「うん。そのとき私がここで転んで、膝を擦り剝いて泣いていたら、陽ちゃんが鞄の中から絆創膏を取り出して、私に貼ってくれたの」

「あ……」

 陽介は微かにそのときのことを思い出した。

「貼ってくれたあとも私が泣き止むまで隣でずっと一緒に居てくれた」

 裕子は立ち上がって、陽介の正面に立った。

「私、あのときからずっと陽ちゃんのことが好きだった……」

 裕子の目から涙が零れ落ちた。

「私、陽ちゃんが今でも好きです!」

 裕子の突然の告白に陽介は戸惑った。

「え、でも、俺さっき……」

「いいの。私なんか好きじゃなくても。私は陽ちゃんに会えただけで十分幸せだったから。でも、陽ちゃんに会った途端、どうしてもこの思いを陽ちゃんに伝えたくなったの」

 裕子はそう言って、陽介に背を向けた。

「実は……中学生の頃、俺、裕子のことが好きだった。だから裕子が転向したときは凄く悲しかった。本当に悲しかった。でも、今、こうやってまた会えて、こうやって一緒にいられることが本当に嬉しいよ」

 陽介はそう言って、裕子の目の前に立った。


「俺と付き合ってもらえませんか?」


 陽介はそう言って、裕子を力強く抱き寄せた。裕子の耳に陽介の激しい鼓動が聞こえてきた。その音が裕子に陽介との強い繋がりと安らぎを感じさせてくれた。

「でも、しばらくは遠距離だよ?」

「休みになればいつでも会えるさ」

 陽介は力強く言った。

「ありがとう」

 裕子は陽介の胸に顔を埋めて、喜びを噛みしめた。

「でも、彼女のことはいいの?」

「彼女?」

「ほらさっきの」

「彼女って裕子のことでしょ?」

 陽介は甘えるように頬を裕子の頭に擦りつけた。

「もう、調子良いなぁ」

 裕子はそう言って笑い、陽介も笑った。

 そして、二人はそっと唇を重ねた。

 伝説が本当だったのかどうかは分からないままだが、陽介は唇を重ねながら、確かに好きな人と結ばれた、と思った。


現実では中々こういう甘酸っぱい体験ってできないてので、せめて、文章でくらいこういう思いをしてみたいなと思って書きました。

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