王太后さまのスープに浮いた芹の茎に、紫の斑点がある。気づけたのは「壁際で花でも見ていろ」と婚約者に言われていたわたしだけでした
「いいか、フランシーヌ。今夜、おまえは壁際で花でも見ていろ」
王宮の薔薇の間の入り口で、婚約者のダリウス様は、わたしの耳もとに口を寄せて言った。
「おまえは花と草の話しかできないんだからな。俺の客に話しかけるなよ。今夜の晩餐の差配は、全部俺がやったんだ。宮内府の上の方々も見ている。田舎の男爵家の娘が、薬草の話なんか始めたら、俺の顔に泥を塗ることになる」
「……はい」
「返事だけはいいな」
ダリウス様は鼻を鳴らして、わたしの背中を、軽く押した。壁のほうへ。
わたしは押されたとおりに、壁際まで歩いた。
薔薇の間の壁には、背の高い花台が等間隔に並んでいて、その一つ一つに、春の花が大きく活けてあった。白い木蓮。薄紅の桃。黄色い連翹。
わたしは連翹の花台の横に立った。
花を見ていろ、と言われた。
言われなくても、見ていた。
七日前のことを思い出した。ダリウス様が得意そうに、今夜の献立を見せてくれた日のことだ。
――王太后さまの七十のお祝いだ。前菜のあとに、王太后さまのお好きな白鷺芹のスープを出す。仕入れは俺が見直した。川べりで摘んだものを安く納める商人を見つけてな。宮内府の予算が半分で済む。
――川べりの芹ですか。
わたしは言わずにいられなかった。
――この季節の川べりには、白鷺芹とそっくりの鷺殺しが、いっしょに生えています。茎に紫の斑点があってちぎると鼠の匂いがします。仕入れのときに、一本ずつ確かめるように、商人に言って――
――花の話はやめろ。
ダリウス様は献立の紙をたたんで、わたしの言葉をそこで切った。
――おまえはいつもそれだ。草だの根だの。俺の仕事に口を出すな。
それきり、話は終わった。
あのとき、もう一度言えばよかった。宮内府に、手紙を書けばよかった。
でも、わたしは書かなかった。ダリウス様が怒鳴るから。それに、王宮の厨房には、腕のいい料理長がいるから。きっと誰かが確かめる。そう思うことにした。
南の丘の男爵家の娘、フランシーヌ。二十歳。
わたしの母は男爵領の丘の上で薬草園を営んでいた。
北向きの斜面に、百種類の草。南向きの斜面に、百種類の花。母は朝露が乾く前に畑に出て、葉を一枚ずつ指でつまんでは、鼻に近づけた。
「フラン、草は目で見ちゃだめ。目はすぐにだまされるから」
母はそう言って、わたしの鼻先に、ちぎった葉を差し出した。
「ちぎって嗅ぐの。白鷺芹は春の雨の匂い。鷺殺しは物置の鼠の匂い。どんなにそっくりでも、匂いは嘘をつかないわ」
十歳になるころには、わたしは目をつぶったままで、母の畑の二百種類を嗅ぎ分けられるようになっていた。
母は五年前の冬に、肺の病で亡くなった。
薬草園は父が人に貸した。わたしは王都の伯母の家に引き取られて、十八の春に、伯母の勧めで、ペンブルック子爵家の嫡男と婚約した。
ダリウス様は最初の顔合わせの日に、わたしの爪の間を見て笑った。
――土が入ってるぞ。男爵家ってのは令嬢に畑仕事をさせるのか。
それから二年、わたしはダリウス様の前で草の話をしなくなった。爪は毎朝、ブラシで洗っている。
壁際に立っていると、見知った顔が三つ、近づいてきた。
ダリウス様のお友達の、婚約者の方々だった。三人とも、流行りの淡い藤色のドレスを着ている。
「まあ、フランシーヌさま。今夜もお花の番ですの?」
真ん中の方が扇の陰で目を細めた。
「ダリウスさまがおっしゃっていたわ。うちのは草と話すほうが得意だから、放っておいてくれ、って」
三人が声をそろえて笑った。
わたしは口の端を上げた。笑い返したつもりだった。
「……今夜の花は、とてもよく活けてあります。連翹は枝を斜めに切ると水を吸いやすくて」
言いかけてやめた。
三人はもう聞いていなかった。扇を閉じて、広間の真ん中のほうへ行ってしまった。
連翹の黄色い花びらが、一枚、花台の上に落ちた。
わたしはそれを拾って手のひらにのせた。指先が少しだけ冷たかった。
花の話しかできない娘。
そうなのかもしれない。二年かけて、草の話を一つずつやめてきたのに、残ったのは花の話だけだった。
そのとき、上座の近くの花台の前で、背の高い男の人が足を止めるのが見えた。
その人は王太后さまの席のすぐ後ろの花台を、しばらく見上げていた。白い鈴蘭がたっぷりと活けてある。それから、給仕を一人呼んで何か短く言った。
給仕が鈴蘭の花瓶を両手で抱えて広間の外へ運んでいった。
わたしは手のひらの花びらを握りしめた。
鈴蘭は花も葉も、毒を持っている。活けた水にまで毒が溶け出す。お年寄りの席のそばに置くものではない。
母がいつもそう言っていた。
この広間で、それを知っている人が、わたしのほかにもう一人いる。
なぜだか、少しだけ、息がしやすくなった。
薔薇の間の長い卓が、客で埋まった。
上座の真ん中に、王太后さま。銀色の髪を低く結った、小柄なおばあさまだった。その両側に、国王陛下と王妃さま。少し離れて、王室の侍医長、ハートウェル公爵ナサニエル閣下が座っている。
さっき、鈴蘭を下げさせた人だ。
侍医長の閣下は宮廷で氷の侍医と呼ばれていた。
薄い金色の髪を、首の後ろで短く束ねている。三十にならない若さで侍医長になった人で、どんな重い病人の前でも、声の調子が一度も変わらない。笑ったところを見た者はいない、と噂されていた。
その閣下がさっきから二度、壁際のほうを見た。
わたしは連翹の陰に半分隠れた。わたしを見ているはずがない。きっと、花台の花を見ている。
陛下が杯を持って立ち上がり、王太后さまの七十の春を祝う言葉を述べた。広間じゅうが杯を上げる。王太后さまは小さな手で杯を持ち上げてゆっくりと広間を見渡した。
「ありがとう、みなさん。七十にもなると、欲しいものはあまりないの。でもね、ひとつだけ、毎年の楽しみがあるのよ」
王太后さまの目尻に、やわらかい皺が寄る。
「春の白鷺芹のスープ。生まれた村の味なの。今年も、それをいただけるのが、何よりうれしいわ」
広間に、温かい笑い声が広がった。
わたしも、壁際で少しだけ笑った。白鷺芹を好きな人に、悪い人はいない。母の口ぐせだ。
卓の端の、宮内府の役人たちの席から、ダリウス様の声が聞こえてきた。
「今夜の仕入れは、例年の半値ですよ。商人なんて、ちょっと強く出れば、いくらでも下げてくる。長官にも、さっきお褒めいただきました」
役人たちが感心したようにうなずいていた。ダリウス様は葡萄酒の杯を持ち上げて得意そうに笑った。
半値。
わたしは七日前の献立の紙を思い出した。川べりの芹。
大丈夫。料理長が確かめている。
わたしは自分にそう言い聞かせて連翹の枝の先に目を戻した。
前菜が下げられた。
配膳口の扉が開いて、給仕たちが、銀の深皿を捧げ持って出てきた。湯気といっしょに、青い香りが広間に流れた。白鷺芹のスープだ。
上座から順に、皿が置かれていく。
配膳口はわたしの立つ壁際のすぐそばだった。給仕の一人がわたしの目の前を通りすぎた。
皿の上に、刻んだ芹の葉と、細い茎が、ひとつまみ浮いていた。
茎に、紫の点が見えた。
わたしの足が床に縫いつけられた。
次の給仕が通った。湯気がわたしの鼻先をかすめた。
春の雨の匂いの奥に。
ほんのかすかに、物置の鼠の匂いがした。
上座を見た。
王太后さまが銀の匙を口に運んでいた。一匙。二匙。
王太后さまは満足そうに目を細めて隣の陛下に何か話しかけた。
わたしは配膳口のそばに立っていたダリウス様の袖をつかんだ。
「ダリウス様。スープを止めてください。鷺殺しが入っています」
「……は?」
「七日前にお話しした、あの草です。茎に紫の斑点があります。匂いも――」
「黙って花でも見ていろと言っただろう」
ダリウス様の顔が真っ赤になった。わたしの指を袖から乱暴にもぎ取った。
「王太后さまのお祝いの席だぞ。おまえが騒いだら、俺の差配がけちをつけられる。いいから壁際に戻れ」
そのとき、上座で銀の匙が床に落ちた。
からん、と高い音がした。
王太后さまの右手が、卓の上で指を広げたまま震えていた。
「……おかしいわね。手に、力が、入らないの」
王太后さまの声が、ゆっくりと、細くなっていった。
薔薇の間が凍りついた。
王妃さまが悲鳴を上げた。陛下が立ち上がった。侍医長の閣下が椅子を蹴るようにして王太后さまのそばへ走った。
「母上!」
「動かさないでください、陛下」
閣下は王太后さまの手首に指を当て、まぶたを指で開いて目をのぞきこんだ。それから、胸元に耳を寄せた。
客たちがざわざわと立ち上がりはじめた。給仕たちは皿を持ったまま、どうしていいかわからずに立ちつくしている。
「毒か?」
「料理長を呼べ!」
「厨房の者を捕らえろ!」
卓のあちこちで、まだスープに手をつけていない客が、匙を握ったまま顔を見合わせていた。何人かはもう一匙すくいかけていた。
わたしは壁際から一歩、前に出た。
「スープを飲まないでください!」
自分でも驚くほど、大きな声が出た。
広間じゅうの顔がこちらを向いた。匙がいくつも宙で止まった。
「スープに、鷺殺しという毒草が混ざっています。飲まないで。皿から手を離してください」
「フランシーヌ!」
ダリウス様がわたしの腕をつかんだ。
「おまえ、何を言い出すんだ! 男爵家の田舎娘が、草の話で騒ぎを大きくするな! 陛下の御前だぞ!」
わたしはダリウス様の手を見下ろした。
この手に、二年間、黙らされてきた。
でも、今夜は、黙っていたら人が死ぬ。
「放してください」
わたしはダリウス様の手を振りほどいた。腕に、指の跡が赤く残った。
上座へ走った。裾を両手でつかんで卓の列のあいだを。
侍医長の閣下が王太后さまの胸から耳を離して顔を上げた。灰色の目が走ってくるわたしを見た。
「閣下。鷺殺しです。白鷺芹とそっくりの、川べりの毒草です」
「根拠は」
短い声だった。氷の侍医、という呼び名どおりの。
わたしは王太后さまの皿から、芹の茎をひとつ、指でつまみ上げた。紫の斑点を、閣下の目の前に差し出した。
「斑点です。それから」
茎を指で折った。
「嗅いでください」
閣下はわたしの指先に鼻を寄せた。
ほんの一瞬だった。
閣下の灰色の目がわたしの顔の上で止まった。何かを確かめるように。
「――鼠の匂いだ」
閣下は立ち上がった。
「全員、スープに触れるな。給仕は皿を下げろ。厨房の鍋も、一滴も捨てずに封をしろ」
声は大きくなかった。けれど、広間の端まで届いた。給仕たちが弾かれたように動き出した。
厨房から、白い前掛けの料理長が、真っ青になって引き出されてきた。
「わ、わたくしは、芹を一束ずつ、この目で確かめました! どこにも傷んだ葉は――」
「目で見ても、わかりません」
わたしは言った。料理長がわたしを見た。
「鷺殺しは、白鷺芹と葉の形がまったく同じです。違うのは茎の斑点と、匂いだけ。刻んで湯に入れてしまえば、斑点も見えにくくなります。料理長さまのせいではありません」
料理長の膝ががくりと折れた。
「……仕入れ先が、今年から変わったのです。差配役の、ペンブルックさまのご指示で。前の商人は畑で育てた芹を納めていたのに」
広間の目が配膳口のそばのダリウス様に集まった。
ダリウス様は一歩、後ろに下がった。
閣下はわたしに向き直った。
「鷺殺しの毒について、知っていることを言え。全部だ」
「手足の先から、しびれが上ってきます。最後に、息をする力が止まります」
母の声を思い出しながら、わたしは言った。
「でも、心の臓は、最後まで止まりません。毒が体から抜けるまで六時間ほど。そのあいだ、息さえさせ続ければ、助かります。母の薬草園の近くで、羊飼いの子が、そうやって助かったのを見ました」
「六時間」
「はい。それから、今すぐ吐かせて炭の粉を。まだ胃の中に残っている毒を、少しでも減らせます」
閣下はもうわたしを見ていなかった。
「炭の粉を持ってこい。厨房の竈の、細かいものでいい。それから、清潔な布と、湯。王太后さまを奥の間へ運ぶ。担架を」
次々に命じる声を聞きながら、わたしは、床に膝をついた。
王太后さまが薄く目を開けてわたしを見ていた。唇がかすかに動いた。
「……壁際の、お嬢さん」
「はい、王太后さま。フランシーヌと申します」
「さっき、聞こえて、いたわ。花でも、見ていろ、と……」
王太后さまの、しびれはじめた指が、わたしの手の甲にのった。
「見ていて、くれて……よかった」
その夜は長かった。
奥の間の寝台の上で、王太后さまの息は、真夜中を過ぎたころから、少しずつ浅くなっていった。
閣下は、王太后さまの胸が上がらなくなるたびに、自分の口から、王太后さまの口へ息を吹きこんだ。数を数えながら、規則正しく。何十回も。何百回も。
わたしはその横で、王太后さまの手首を握っていた。脈が弱くなったら、閣下に伝える役だった。
「脈は」
「打っています。ゆっくりですが乱れていません」
「よし」
閣下の額に、汗の粒が浮いていた。わたしは手巾でそれをそっと拭いた。閣下は目だけでうなずいて、また息を吹きこんだ。
午前二時を過ぎたころ、閣下の息が一度だけ乱れた。
「代わります」
わたしは言った。
「やり方は、いま、ずっと見ていました。閣下が倒れたら、誰も王太后さまに息をさせられなくなります。少しだけ、休んでください」
閣下はわたしを見た。それから、黙って場所を空けた。
王太后さまの唇は、乾いていて、かすかに芹の匂いがした。
五年前の冬を思い出した。
母の寝台の横で、わたしは、母に教わった薬草を、片っぱしから煎じた。咳に効く根。熱を下げる葉。胸を温める花。どれも、母を助けなかった。
草は何でも治せるわけではない。
あの冬に、わたしはそれを知った。知ってから、草の話をするのが、少しだけ怖くなった。
もし今夜も、間違えていたら。
鷺殺しではなく、別の毒だったら。六時間で抜けなかったら。わたしが大声を出して、閣下を信じさせて、それで王太后さまが――
息を吹きこむ合間に、指先が震えた。
「数がずれている」
背中から、閣下の声がした。
「四つ数えて一回。焦ると、早くなる」
低くて平らな声だった。
「……すみません」
「謝らなくていい。医者が震えると、病人が怖がる。だから私は震えないことにしている。氷だの何だのと呼ばれるのはそのせいだ」
閣下がわたしの背中に、手のひらを一度だけ当てた。
「あなたは間違えていない。私も、匂いを嗅いだ」
わたしは四つ数えて息を吹きこんだ。
わたしは母の畑の朝露を思い出しながら、数を数えて息を吹きこんだ。一つ。二つ。三つ。
どうか。
母さま、どうか。
窓の外が白みはじめたころ。
王太后さまの右手の指が、わたしの手のひらの中でぴくりと動いた。
わたしは息を止めた。
もう一度、動いた。人差し指がわたしの指を、弱く、でも確かに握り返した。
王太后さまの胸が、自分の力でゆっくりと上がった。
閣下が寝台の向こう側で長い息を吐いた。
それから、片手で目元を覆った。
扉が開いて、陛下が駆けこんできた。一晩じゅう、隣の部屋で待っておられたのだと、あとで聞いた。
「母上は」
「峠は越えました。夕方には、口がきけるようになるはずです」
陛下は寝台の横に膝をついて、王太后さまの手を両手で包んだ。それから、顔を上げてわたしを見た。
「壁際にいた娘だな。名は」
「フランシーヌと申します。南の丘の、男爵家の娘です」
「フランシーヌ。この恩は忘れぬ」
国王陛下に頭を下げられて、わたしはどうしていいかわからず、ただ床に膝をついた。膝ががくがくと笑っている。
しばらくして、閣下は目元から手を下ろした。目の縁が少しだけ赤い。
「フランシーヌ嬢」
「はい」
「少し眠れ。あなたの手も、震えている」
言われて自分の手を見た。王太后さまの指を握っていた右手が、白くこわばっていた。
閣下が上着を脱いで、わたしの肩にかけた。消毒の酒と、かすかに薄荷の匂いがした。
窓の外で、王宮の庭の鳥が鳴きはじめた。わたしは椅子に座ったまま、上着の襟に鼻先をうずめてそのまま眠ってしまった。
厨房の鍋からは白鷺芹にまじって、鷺殺しの茎が十七本見つかった。
仕入れを請け負った商人は、その日の昼までに捕らえられた。ダリウス様が予算を半分にするために選んだ、川べりで摘んだ草を洗いもせずに納める男だった。浮いた予算の半分は、ダリウス様の懐に入っていた、とあとで聞いた。
宮内府の役人たちの前で、ダリウス様は、わたしを指さして叫んだそうだ。
――あいつは、何も言わなかった! 知っていたなら、なぜもっと強く止めなかったんだ!
その場にいた宮内府の長官が、静かに答えた。
――七日前に止められたそうだな。花の話はやめろ、と、君が言ったと。
ペンブルック子爵家は、着服した金の三倍を王家に納めることになった。ダリウス様は宮内府を追われ、わたしとの婚約は、伯母が先方に出向いて、その日のうちに解いてきた。
宮内府の長官の前で、ダリウス様は、口を開けたまま、ひとことも返せなかったという。
伯母は帰ってくるなり、わたしを抱きしめた。
「ごめんね、フランシーヌ。あなたの爪の土を、わたしまで恥ずかしいと思っていた」
わたしは伯母の背中に手を回した。
「伯母さま。わたし、また草の話をしてもいいでしょうか」
「いくらでもなさい。今度、わたしの庭の雑草の名前を、全部教えてちょうだい」
伯母がわたしの背中をとんとんと叩く。小さいころ、母がしてくれたのと同じ速さで。
爪の間には、もう土は入っていない。それがほんの少しだけさびしい。明日の朝はブラシを使わずにいようと思う。
王太后さまが寝台から起き上がれるようになった日、わたしは王宮に呼ばれた。
王太后さまは枕を背中にあてて寝台の上に座っていた。頬に、少しだけ赤みが戻っている。
「近くへいらっしゃい、壁際のお嬢さん」
王太后さまはわたしの手を取って指先を一本ずつ眺めた。
「侍医長から聞いたわ。あなたのお母さまは、南の丘で薬草園をなさっていたのね」
「はい」
「わたくしの生まれた村にも、白鷺芹の畑があったの。春になると、母がスープにしてくれた。それで、七十になっても、あの味が好きなの」
王太后さまは目を細めた。
「あなたのおかげで、来年の春も、きっと食べられるわ。今度はあなたが確かめた芹で」
わたしはうなずくことしかできなかった。王太后さまの手は、乾いていて、温かかった。
王太后さまのお部屋を出ると、廊下の窓のところに、侍医長の閣下が立っていた。
「少し、歩かないか」
閣下に連れられて王宮の東の庭に出た。
回廊を抜けるあいだ、閣下は何も言わなかった。わたしも黙って後ろを歩いた。砂利を踏む音が二人ぶん、ずれて続く。
「王太后さまは、あなたにお礼を言ったか」
「はい。……でも、わたし、お礼を言われる立場ではないんです」
閣下が足を止めた。
「七日前に、知っていました。仕入れが川べりの芹に変わったこと。ダリウス様に一度言って、怒鳴られて、それで黙りました。宮内府に手紙を書けばよかったのに。料理長さまに直接お伝えすればよかったのに」
言いながら、声が細くなっていく。
「わたしが黙っていたせいで、王太后さまは一晩苦しまれました。あの夜わたしが叫んだのは、半分は、自分が怖かったからです」
閣下はしばらくわたしを見ていた。灰色の目に、春の日差しが映っている。
「私は侍医長になって四年になる」
「……はい」
「四年のあいだに、助けられなかった病人が何人もいる。そのたびに、あと一日早く気づけばよかったと思った。今も思っている」
閣下はまた歩き出した。
「だが、あの夜スープを止めたのはあなたで、四つ数えて息を吹きこんだのもあなただ。怖かったなら、怖いまま走ったということだ。それを責める者は、この王宮にいない。あなた自身を除けば」
わたしは砂利の上で立ちつくした。
喉の奥が熱くなる。
閣下は振り返らずに、片手だけを後ろへ差し出した。わたしは小走りに追いついて、その指先を、そっとつまんだ。
庭の奥に、低い石垣で囲まれた一画があった。春の日差しの中に、背の低い草が、何列も行儀よく並んでいた。
わたしは足を止めた。
匂いがした。
春の雨の匂い。白鷺芹だ。その隣の列は迷迭香。その奥は薄荷。苦艾。鈴蘭。
北向きと南向きの、二つの斜面。
「……母の、薬草園と、同じ並び」
わたしは石垣の切れ目から中に入った。
しゃがんで迷迭香の葉を一枚つまむ。指先に、松の林のような匂いが移る。その隣の苦艾は葉の裏が銀色に光っていた。鈴蘭はいちばん奥の、どの道からも遠い列にだけ植えてある。
「鈴蘭を、奥にしたのは」
「子供が摘まないように。あなたの母上がそうしていた」
閣下は石垣の外に立ったまま答えた。
「薄荷は、手前の列。歩くたびに、裾が触れて匂いが立つように。それも、あなたの母上だ」
わたしはしゃがんだまま閣下を見上げた。
どうして、そんなことまで知っているのだろう。
「十二年前の夏、私は医者の見習いだった」
閣下は石垣の上に手を置いた。
「十六だった。薬草のことは本でしか知らなかった。それで、南の丘の男爵領に、評判のいい薬草園があると聞いて、ひと夏、住みこみで働かせてもらった」
十二年前。わたしは八つだった。
「最初の日、私は畑の芹を見て白鷺芹だと言った。そうしたら、小さな女の子が、私の手から葉を取り上げた」
閣下は石垣の向こうの芹の列を見ていた。
「目で見ちゃだめ。ちぎって嗅いで。鼠の匂いがしたら、食べちゃだめ。そう言って、ちぎった葉を、私の鼻に押しつけた。鷺殺しだった」
覚えている。
背の高い、無口なお兄さん。夏じゅう、母の後ろについて歩いて、何も言わずに、草の名前を一つずつ覚えていった。秋になって帰るとき、わたしは白鷺芹の種を一袋、その人の手に押しつけた。
「あの晩、皿の上の茎を折って私の鼻先に差し出したとき、あなたは、あの夏とまったく同じ手つきをしていた。嗅いでください、と言う前から、わかった」
閣下の声は晩餐の夜とは違って少しも冷たくなかった。
「この庭は、私が侍医長になった年に作った。あなたにもらった種が、最初の一列だ。十二年、毎年、種を採って蒔き直してきた」
風が吹いて、白鷺芹の列が、いっせいに揺れた。
わたしは何か言おうとした。でも、喉の奥が熱くて言葉が出てこなかった。
閣下は石垣の内側にかがみこんで、芹を一束、根元から摘み取った。
それから、わたしの前に立ってその束を両手で差し出した。
「あの夏、あなたの母上に教わったことが、もう一つある」
「……何を、ですか」
「南の丘では、求婚するとき、芹を一束渡すのだと。受け取った娘がその場で一枚かじれば、承諾。かじらずに返せば、断り」
閣下の耳の先が赤くなっていた。氷の侍医の耳が。
「十六の私は、何の役に立つ話かと思って聞いていた。十二年かかって役に立つ日が来た」
わたしは両手で芹の束を受け取った。
母さま。
あの夏、何を思ってこの人にそんな話をしたの。
わたしは束の中から葉を一枚ちぎって鼻に近づけた。
春の雨の匂いがした。
「……鼠の匂いは、しません」
「念のため、全部確かめた」
閣下が真顔でそう言った。
わたしは笑ってしまった。笑いながら、目の端から涙がこぼれた。
それから、ちぎった葉を、ゆっくりと口に入れた。
噛むと、青くて、少し苦くて春の雨の味がした。
閣下が一歩近づいた。わたしの手から、芹の束ごと、両手を包みこんだ。畑から離れて五年たっても、まだ少し荒れている、わたしの指を。
「明日から、この庭の鍵を、あなたに預けたい。爪に土が入っても、誰にも笑わせない」
わたしは葉を噛んだまま、うなずいた。
閣下の指がわたしの爪の先を、そっとなぞった。
次の春、王太后さまの七十一のお祝いの晩餐が、また薔薇の間で開かれた。
その日の朝、わたしは王宮の厨房にいた。
作業台の上に、東の庭で摘んだばかりの白鷺芹が、山になって積んである。料理長と並んで、一本ずつ茎を折っては、鼻に近づける。春の雨。春の雨。春の雨。
「奥さま、これで最後の一束です」
「はい。……大丈夫。全部、白鷺芹です」
料理長が前掛けの端で目元をこすった。去年の春から、料理長は、芹を一本ずつ嗅ぐのが癖になったのだという。
夜、薔薇の間の壁際には、今年も背の高い花台が並んだ。連翹。木蓮。桃。鈴蘭はどこにもない。
壁際の連翹の前を通るとき、去年の藤色のドレスの三人とすれ違った。三人はわたしに気づくと扇を下ろして、ぎこちなく膝を折った。
「侍医長夫人。今年のお花も見事ですわね」
「ええ。連翹は枝を斜めに切ると水を吸いやすいんです」
去年言いかけてやめた続きを、今年は最後まで言えた。三人は顔を見合わせてから、そうなんですの、と小さくうなずいた。
わたしは壁際には立たなかった。
上座の近くの席で、隣に座ったナサニエルが、運ばれてきたスープの皿から、芹の茎をひとつつまみ上げた。誰にも気づかれないように、指先で折る。それから、わたしの鼻先に、そっと差し出した。
「嗅いでくれ」
わたしは小さく吹き出しそうになるのをこらえて顔を寄せた。
春の雨の匂い。
「白鷺芹です、旦那さま」
「知っている」
ナサニエルは茎を皿に戻して、卓の下でわたしの手を探りあてた。
「あなたに、そう言ってほしかっただけだ」
上座で、王太后さまが銀の匙を口に運び、目を細めてこちらへ小さく杯を上げた。
(完)




