キャンドルの下、君は俯いて
地平線の手前に向こう岸を拝める程度の広さ。
トラソーン湖自体は、それほど巨大なバイオームという訳ではない。
問題は、周辺に分布する岩礁地帯である。
草一本生えない大小の岩山が砂浜を埋め尽くし、構成された迷宮はそこかしこが魔物のねぐらである洞穴に繋がっていた。
「パーティ毎、自由に探索して構わない。音響筒を配っておくので、救援を要すると判断される場合、即時発砲するように」
オーディンはそう言うが、小姓達の姿は見当たらない。
危険な壁外に未成年を連れ出すのは憚られたのだろう。
さてではどう配布したものかと思っていたら、どうも彼に近しい冒険者達が他の者にも手渡していくようだ。
私のところには、長い黒髪と帯締めした黒衣の娘が来た。
そういえば、広場に招集された時も、彼の傍に立っていた人だ。
「ありがと」
受け取ろうと腕を伸ばすと、彼女は筒型の器械を持っていない左手で、出し抜けに私の手首を掴む。
「ハーバットの件は助かりました」
「え……いや、あの」
取り敢えず振り払おうとしたが、ギリギリと指が絞まって解けそうにない。
「あなた達ですよね?サジェ森林の厄介者を討伐してくれたのは。ハーバットは確かにこの辺り」
娘は辺りの岩丘地帯に瞳を移して。
「あの犬類は、石を掘って草葉と一緒に飲み込む習性を持つモゴンを狩って、出来上がった洞窟は根城にします。群れで行動する獰猛な肉食獣。ですがあの森には草食獣が極めて少なく、本来ハーバット達が長く棲息できるような環境ではない」
「つまり、リバースブーケのような肉の塊が徘徊していたが為に、餌の匂いに釣られて奴らが集まっていたと?」
口を挟みつつ、レイチェルは得物の柄頭をそっと彼女の腕に当てた。
娘は慌てて私に音響筒を持たせると、飛び退くようにして引き下がる。
「オーディン様も同様の推察をしておられ、私が調査を頼まれていました。先を越され、手荒な態度を取った非礼は詫びます。挨拶が遅れましたが、クレオです。有事の際は、なんなりとお声掛けくださいますよう」
*
耳鳴りかと思った。
「ナキ、今の音っ」
「分かってるッ」
身を翻して来た路を引き返す。
追従していた五人とすれ違い、暗がりの中を明り差す入口まで駆けた。
夕差しの下で出ると、一瞬目が眩む。
「うっ……」
呻きながら左右を見回すと、同じく洞穴から脱出してきたのだろう、武装した男女の姿が目に入った。
知った紫毛の青年がいて、追いついてきた皆を置いて走り寄る。
「パリク!」
「ッ……あ~、誰だっけ!」
「ナキよ!状況はっ?」
「お、俺達じゃないっ。うちの耳利きは、湖の方から聴こえたって」
「ってことは東か。ありがとっ」
踵を返して仲間の所へ戻っていく。
「俺らも向かう!岸辺で落ち合おう!」
「分かった!」
首だけ振り返って腕を挙げた。
「発信源が水辺に近い。たぶん近辺のパーティも位置を知らせようとして一斉に撃つ。ベル、案内任せていい?」
「了解だリーダー。でも必要か?」
パンパンッ……。
花火の如く、相次いで発砲が重なり合う。
それこそ、誰の耳にもはっきり方角が分かるくらいに。
私はゆるゆると首を振った。
「この音に釣られて、きっと魔物が集まってくる。路すがら遭遇戦になれば出足が遅れる。最悪辿り着いた頃にはもう終わってるかも」
「そしたら報酬はゼロね」
シーラもしかめっ面だ。
「うん。獣の足音や気配を避けつつ、本丸の所まで最短で」
「なるほど。じゃあ行こうか。商売の神は拙速を好むってね」
「うちはこんなのばっかりだな」
「お前もだろ……」
「あはは。楽しくなってきた」
先行する険しい顔の女子達に比べ、男共は暢気なものである。
レイチェルが笑ってるから、まあいいけど。
*
朱い飛沫が舞う度、色とりどりの衣装が斑に染まっていく。
「そっち行ったぞ!」
「おい、横取りはやめろよ!」
「これじゃキリがない!」
冒険者達は奮戦している。
襲い来る骨剣を弾き、その隙に懐へ潜り込んで、昏い黄色の肌に得物を突き刺す。
耳の長い人貌が苦悶に歪み、やがて膝から崩れ落ちて動かなくなった。
「ぐっ!?」
「おいっ!」
安堵の息を吐いた青年に後ろからナイフが刺さり、傍にいた男が泡を食ってその背を庇うように劔を構える。
金粉を体にまぶしたような毛肌。
小柄な矮躯と大きな頭。
「「「げぎゃぎゃぎゃッ」」」
嘲るような嗤い顔。
「ワコザイアか。多いな」
エインの杖を握る指が白んだ。
岩場を抜けた先は褪せた灰色の砂地で、その向こうから波が打ち寄せている。
浜辺には、見える限りだけでもざっと二百体はいるだろうか。
首尾よく斃せなければ足の踏み場もない感じだ。
散発的にそこかしこで紅炎と蒼風、翠輝や紫閃が飛び交っているが、敵勢の物量に覆い隠されて効果を窺い知ることはできていない。
既に付近の集団はこちらに気付き、相貌を歪めて嗤い始めていた。
「どいてろ。僕がやる」
杖先の形に砂を浅くへこませ、魔術師は紺髪を浮き立たせる。
「ベトロマ・ルファルタス」
鉱貨を積み上げる。
訳せばそんな感じの古語だ。
「ぎゃぎッ」
「ぎぇぎゃッ」
「ぐぎょッ」
小鬼の集団が固まっていた辺りの砂地に、広範囲に渡ってすり鉢状に陥穽が現れた。
円に含まれていた個体は勿論、淵にいたワコザイア達もバランスを崩し、落とし穴へと身を躍らせていく。
その直上に、翡球が膨らんだ。
それはちょうど形成されたクレーターにぴたりと合うサイズまで拡大して。空に垂らした水を捻り絞ったような、奇妙に湿った破裂音が鳴る。
緑に色付いた旋風が、ふわりと周囲へ広がった。
近くに立っていた長い赤毛の女が、頬の疵から赤染みを垂らしつつ、恐る恐る穴を覗き込む。
そして口を押えた。
昏れ黄色の肌が途切れ、朱い断面が露出している。
例えば胴を失った腰や、肩を失った腕や、首を失った顔が、幾つも積もり重なっていたのだ。
「行くぞ」
グルックが矢のように疾駆する。
身体の左右で槍を回し、穂先の刃で次々と獲物の首を刎ね飛ばしていく。
「これは負けてられない。と言いたいところだけど、ひとりじゃちょっと怖いや」
「背中はあたしが守ってやる。行ってこい」
震える手を見下ろしたレイチェルの肩に、ベルは前を向いたまま手を乗せる。
背丈が同じくらいだから、後ろからはとても仲の良い親友みたいに見えた。
弓を構えて矢羽根を引く緑髪ロングの娘をおいて、白髪男子は抜いた得物に手を添えて走る。
劔からは、菫色の透煙が滲みだしていた。
足下で座り込み、荒い息を吐く男の紺髪に手を置き、私は立ち尽くす。
「行かないの?」
シーラは細劔を抜いてひと振り、輪郭を失った紅華を揺らぎ咲かせた。
「オーディンがいない。クレオの姿も見えない。最初の発砲からもうすぐ四半刻経つっていうのに」
「聴こえなかったんじゃないの」
瞼を少し落とす。
「あれだけの音響、この一帯ならどこであれ届いた筈だよ。だって、トラソーン湖はそんなに広くないもの」
私も自分の得物を抜いた。
刃が鞘に擦れて鳴る。
「私は外す。シーラはこの子を守ってあげて」
「やかましわい。子供扱いするな」
ぽんぽんとやった手をエインに払われ、そのまま戦場を後にした。
金切り声が、逃げる私の背を笑ってる気がした。
*
トラソーン攻略作戦に於いて、冒険者は大別して四隊に分けられた。
即ち東西南北である。
私や広場で知り合ったパリクのパーティは西を担当した。
イレギュラーが発生した可能性が高いのは、鼻長猪モゴンや横開き口犬ハーバットの逃避行経路を辿った先にある両線の結び目。
則ち東及び南だ。
他の者達も同様に考えたのだろう。
移動中も人数の偏りが見て取れた。
『魔物だって馬鹿じゃない。あれだけ騒々しく歩いてれば、自然と静かな方へ流れてくるだろう』
とはエインの言である。
結果として金鬼ワコザイアと遭遇できたのだから僥倖、とも言い切れない。
私は岩の隙間路から岸を視界に納められる範囲で、湖の縁に沿って隠れながら南へ向かっていた。
道中、交戦する小柄な魔人と劔や槍を携えた男女を度々目にしている。
もしかしなくとも。
「群れが湖を囲んじゃってるよ……」
息を吹き、足を速めた。
当てもなく走ってる訳じゃない。
たまに聴こえる微かな高鳴。
音響筒が発砲されているのだ。
戦場に着いた冒険者達の仕業かとも思ったが、それにしては決まった方角を知らせているように感じる。
ぼんやりと、知り合ったばかりな黒髪の娘が脳裏に浮かんだ。
実はさっきから、空気の震えが途絶えている。
「……急ぐか」
傍の岩礁に跳び、ブーツの靴底を当てた。
吐いた白息が渦焼く。
石が爆ぜて欠片を散らした。
赤紫の波紋が宙に連なって溶ける。
風音が耳を掠めていく。
暁が後ろ髪や背衣を緋色に染めた。
空高く自らを打ち上げた感想を述べようか。
寒い。
以上。
「……っ、どこ……っ」
震える呼吸で声を絞り、首を巡らせて発信源を探す。
湖面の幾波が稜光に眩く煌めいていた。
明るい方が西だから、反対側。
振り向いた先に、狼煙を見つけた。
身体を何度となく横に回し、角度を整えたら目的地へと滑空する。
黄昏れの空に翳る桃色の髪を靡かせながら、宙返りして足を下へ。
せせらぐ浅瀬に水柱が飛沫上げた。
仰いだ水面に日だまりが揺れている。
痺れる腕と肢を漕いで、ゆっくりと浮かんでいき──。
「……ハァッ」
籠り音が消え、波の音が鮮明に耳朶を打った。
首から上を空気に晒し、荒い呼吸を繰り返す。
落ち着くのを待って、それから冷水の中を泳いでいく。
衣布が胸やお腹にへばりついて動きづらい。
どうにか靴先が砂底に着いて、そこから歩いて浜に上がった。
額にはりつく毛先から雫が垂れる。
遠くに剣戟が聴こえた。
トラソーン湖をぐるりと一周する砂浜の中、ここだけが小鬼のいない空白地帯と化している。
東から迫る暗穹に、無数の星屑が碧く瞬いた。
地に伏せる人影が、全部で四つ。
肩が大きく割れている緑毛の男と、口端に紅を伝わせる薄い青髪を結んだ女。
黒髪を広げてわき腹を押さえたまま痙攣する娘は、まだ意識があるだろうか。
先頭で倒れている男は、短く刈り込んだ茶毛に撥ねた血がこびりつき、瞼の上がった眼は瞳孔が開いていた。
獣はひとたび縄張りを定めると、他の場所へ移動することは基本的にない。
例外は二つ。
ひとつは天敵の出現によって住処を追われた場合。
そしてもうひとつは、同種族の極めて強力な個体に率いられた時だ。
私がビレフの門を潜ってから、魔物の大移動が起こったのはこれが初めてである。
周辺の未開拓域に余所者がやってきたことくらいは、遅かれ早かれ誰もが気付くこと。
そして、聡い者はもう一歩先を行く。
生態系を乱す程の魔物がやってきたのなら、それは群れの移動を齎す首魁の存在を意味していると。
だから彼らは他のパーティに露払いを任せ、自らは本丸に出向いたのだろう。
最奥に佇む黄金の巨体は、雷の化身もかくやというような、武威に満ちた風貌をしていた。
首から上を失ったその姿は、割れた剥製を見ているようである。
私は白い外套の前を開き、内ポケットから鉄筒を取り出した。
底にあった柄を押し込むと、風船が割れたような破裂音の後に、高い金鳴りが間延びして響いていく。
クレオを抱き上げ、潮騒を背後に、その場を離れた。
*
グラスに入った氷が琥珀色の液体の中で、泡になって溶けていく。
フォークで刺した葉野菜と肉を口に運んだ。
「焚き上げに参加したのは結局、僕とグルックだけか」
言いながらレイチェルが椅子を引いて座る。
吊るされた蝋燭の灯りは仄かで、狭い店の中でも同じ卓を囲む相手以外、客の顔は窺い知れない。
「私だって、慣れないお酒を嗜むくらいには」
「微睡みながらじゃあなんとも」
彼は私の杯を取り上げ、残りをひと息に飲み乾してしまった。
腕枕に突っ伏して、腋下からそっと後ろを覗く。
戸口の方から、微かに焦げた香りが漂ってきた。
「会場には来ないのに、すぐ傍の店で管を巻くとは、君らしくもない」
白髪を少年は黒い服を軽く払い、それから通り掛かりの給仕に料理を頼む。
「……昨日の夜」
「ん?」
「夢を見たよ。波打ち際であなたが倒れていて、私はそれをただ見下ろしていた」
レイチェルは指で口を覆って俯き、目を閉じると両手を合わせた。
「すまない。ナキの気持ちも考えず、辛く当たった」
「皮肉を言ってるんじゃないよ。本当に見たのよ。それでね、私切なくなったの。とても大事な話を、永遠に聞きそびれてしまったんじゃないかって……」
上体を起こし、彼の瞳を真っ直ぐ見つめる。
レイチェルは、しばらく息を詰めて。
それからゆっくり、口を開いた。