陸之時化
洞窟が暗いという考えは堅気のものである。
氷でできた半球状の天蓋は、日が差すと万華鏡を凍床に映し出す。
踏む度、靴型の罅を走らせる雪湖の只中に、奴らは棲んでいた。
「グルック。今日は私と組もうか」
「え、付いて来れんの?」
「あんたがね。シーラはベルの護衛。レイチェルとエインは中衛。私達と後衛の間をキープして」
「待ちなさいナキ。先鋒は私の役でしょ」
「混戦でベルをひとりにできない。一対多は得意でしょ。来るよ」
私達を姿を捉えて以来、唸り続けていた狼人間達が、到頭こちらへ三々五々に走り迫ってくる。
頤の高さで切り揃えた桃髪と、刈り込まれた黒髪が冷風に揺れた。
私は左へ、彼は右へ。
弧を描いた末に合流するよう駆ける。
最初の一頭と接敵。
「ウレバンスか」
木の棒に蔓で岩を縛り付けただけの鈍器が振り被られる。
白狼というには些か灰味が強い毛並みで、双眸に狩猟本能を滾らせていた。
居合で抜いた刃を落とされた棍棒の先に合わせ、拳を前へ。
斜めに傾いだ剣身を、先方の得物が滑っていく。
体軸を横旋させながら右下へ屈む。
一周後、斬り払い。
右肩下がりの銀跡が過ぎて、赤く萌えながら獣躯がくの字に落ちていく。
両足を大きく開いて股を広げながら、腰を捻ってさらに回転。
正面で止まる下半身を上半身が追い抜いて、利き腕を振り切った。
両脛を裁断され、後続だった二足歩行する狼が覆い被さってくる。
さらに廻々。
右下に桃髪を薙ぎ、追従する右手が握った柄を、左掌で押し込む。
毛腹を貫いた切っ先が、三体目の胸も縫い留める。
劔を右へ振り切る時、マゼンダ煌が吹いた。
ふたつの人躯が上下に分かたれ、弾け飛ぶ。
そのまま刃に紅紫雫を伝わせて、目視した三頭の背後に佇んだ。
氷地に、一瞬前までなかった朱い華画が現れる。
「うぉっ」
「あ、ごめ」
目元に返り血を打ち付けられた浅黒い青年が尻もちを付いた。
そこへ殺到する二頭のウレバンス。
「ああもうっ!」
劔が赤燐として水平に一過する。
転がった狼貌のひとつが彼女の靴に当たり、シーラは片足を少し浮かせた。
「じれったいっ。だから私がやるって言ってるのに」
空洞内を発破音が木霊する。
見れば少し離れて、翠糸が幾条と昇っていた。
白煙の中に白髪の少年が飛び込んでいき、すぐに剣戟の音が響いてくる。
「残りは?」
「十二体ってとこじゃないの。あ」
群れで走ってくる亜人達の一体が、胸を鏃に穿たれて崩れ落ちた。
「十一体……」
「仕方ないね。私がベルに付く。シーラが切り込んで、グルックが討ち漏らしを狩る感じで。じゃあ、あっちの二人呼んでくるから」
粉塵と、その手前で新品の杖に頬擦りする青年に向かいながら、得物を鞘に納める。
氷のカマクラで、金鳴りと水音の演奏はしばらく続いた。
*
蝋燭の火を頼りに長い冬の夜を越えるのは、寒村では当たり前のことで、私達の出身はそれぞれ違うけれど、グルック以外は皆同じような境遇だったと言っていい。
そんな私達だから、街に来て最初に大衆食堂を訪れた時など、あちこちで焚かれた篝火の明るさと暖かさに驚嘆しきりだった。
今はもう慣れたもので、寒い中夕餉を囲むなんて考えられないけど。
木匙をビーフシチューに入れ、牛すじ肉を掬って口に運ぶ。
「竜より亜人族の方が報酬が良いのっておかしいよね」
「分かるわナキ。どう考えたってウレバンスよりゲルトラのが強いもの」
ふたりして深く頷き合っていると、向かいのレイチェルが半眼を向けてきた。
「竜は自発的に人を襲わないからね。亜人族は食い詰めてたまに畑を狙ってくる。依頼人が多ければ出資嵩も高くなるさ」
「竜だって街の空を飛んで横切ることがあるぜ。別に降りてくる訳じゃねーのに警鐘が鳴って大騒ぎになるんだ」
「おや流石、ビレフ出身なだけあって街事情に詳しいじゃないの」
「るせー」
グルックが行儀悪く頬杖を突いたまま木杯を呷る。
揺らめく燈を受けて明滅する紺髪の下で、赤ら顔がコンソメスープを啜った。
食卓の中心にドカッとローストビーフと山盛りサラダが入った木皿が乗せられて、皆の目線が置き主を仰ぐ。
「そら、奢ってやる。節制もいいけど、肉も食べないと身に付かないよ」
「おぉ、姐さん待ってました!」
「ひひ、気前良いじゃん」
エインとシーラは上機嫌でフォークを突き出す。
灯りに鍍銀が閃いた。
隣の空席に腰を下ろしたベルに見えるよう、テーブルに羊皮紙の束を取り出す。
「明日はどうしよっか」
「森は今ハーバットが群居してるらしい。ご同業の間ではその噂で持ち切りだから、実入りは少ないかもね」
「あの口が横に開く犬っころか。トラソーン湖なんてどうかな。この時期寒いし、他のパーティ来ないでしょ」
「依頼あるかい?」
「うーん……」
パラララ……。
「なかった」
「だろうね。冬に活動が鈍るのは獣も同じだ。水辺なんて尚更さ」
背凭れに上体を預けて息を吐いた。
天井の梁に小鳥が留まっている。
「雀かな」
「鴫でしょ」
同じところを仰ぐシーラは骨付き肉を齧っていた。
「迷ってるみたいだね。じゃあ、こういうのは如何かな」
レイチェルはミニトマトを口に含み、ヘタをこちらに向けて悪戯笑いする。
*
陸の海という言葉がある。
故事成語というやつなので、寺子屋なんかに行ってた者なら通りがいいだろうか。
まあ当然、私にそんな学はないけども。
由来はこうだ。
だだっ広い草原に、二つに分けるような、長い々い壁があった。
古びた石造りの城壁は、誰がなんの目的で建てたものなのかも不明で、近隣の村落に住む人々からは、岩河の隔たりなんて呼ばれていた。
ある日、遠くに霊峰の尾根が見える方から、幾百という数の羊が押し寄せてきた。
その足音はまるで土砂崩れのようで、平野の民らは泡を食って逃げようとする。
だが彼らはふと気付く。
羊達に、あの壁を越えることはできるだろうかと。
果たして、牧畜達は動きを止めていた。
様子を見に行った若者がそれを伝え、期せずして金の生る木の苗が沢山手に入ったと、皆は宴を開いて大いに喜んだ。
祭囃子まで立てていたものだから、壁が崩れる音に誰も気付けなかった。
高原から逃げてきた羊達は、とうとうその災禍を逃れることは叶わなかった。
火砕流はそのまま原野を洗い、村も草木も焼き尽くして、後には焦土だけが残された。
命からがら逃げ延びた人々は、火山災害を恐れて海辺の街へと流れ着いた。
鬱念を晴らそうと、若者が桟橋の柱に留まった水雉にこれまでの経緯を話して聞かせると、反対側で釣りをしていたらしいひょうきんな漁師が振り向いて言う。
船乗りなら考えられねーな。
いつもと違う海には時化が来ると思え。
水夫の間じゃ常識さ。
若者は頭を抱えた。
陸で同じ事が起こるなんて、誰に予想できただろうか。
*
リバースブーケは魔物の名前として小洒落過ぎていると思う。
そんなこと、口に出しても共感してくれるのはシーラくらいで、レイチェルなどため息付いて横目にするだろうから、言わない。
「とか、考えてそうな顔だな」
「心を読むな」
「いてっ」
エインの脛をつま先で小突くと、バランスを崩して逆側に少し踏鞴を踏んだ。
草原と雪山はもう攻略済み。
このうえ、森でも湖でもない未探索の土地を探そうと思えば、候補はかなり絞られる。
ふぅっと吐いた息が薄白みながら背後に吹き流されていく。
通りすがりの木肌を手で撫ぜながら、横に首を巡らせた。
「森じゃん」
「そうだね」
レイチェルはゆっくり目を細めながら口端を軽く吊る。
樹々が赤黄に色づいてざわめいた。
落ち葉の絨毯はブーツが少し沈む。
金属音が小さく嘶いたのでそちらを見ると、僅かに距離を空けて双房髪の少女が劔を朱く濡らしていた。
シーラは横顔だけこちらに向けてから、遅れて瞳をこちらに上げて。
「犬」
「ハーバットね、はいはい」
木の根に乗ってあばらを反らしながら横這いになる裂け貌の犬類。
緑の毛並みに残る赤い刃標をチラとだけ見納め、前へ歩いた。
「裏返る花束か。どういう意味だろうね」
「魔物の名前なんてな、パッと見の印象で決めたもんに違いねーだろ」
白髪君が目を瞑り喉の奥で苦笑すると、黒肌君は得物の穂先を木に突き立て、それを足場に枝まで跳ぶ。
「はぁ……」
しょうがないから、槍を引き抜いて肩に担った。
「うん。この辺りでいい」
「そう?」
先頭だった高い位置にある緑髪の娘が、肩に掛けていた弓を脱ぎ、背の筒から鏑矢を抜いて番える。
ベルは右膝を地に着きながら左脚を立て、限りなく垂直に近い空目掛けて弦を解き放った。
丹色の鏃から、鷹の鳴き声にも似た間延び音が奔る。
後は待つ。
六人六様、立ち尽くしたまま。
日は高いのに、紅葉を透かした斜光は、まるで夕差しみたいだ。
重く湿った物を引き摺るような響きが、森暗の先から聴こえてくる。
空耳かと思ったそれは、次第にはっきりとした輪郭を帯びていく。
「なるほど、リバースだ」
乾いた笑いは、レイチェルによく似合う。
言ったら怒りそうだ、忘れよ。
木々を間を張って来たその長い体躯は、青い鱗に包まれて煌めいていた。
そこだけ見れば、足下に蒼穹が広がっているようである。
「蛇……じゃ、ないか」
シーラはしゃがみ込んでしげしげと観察していた。
頭らしきところにあるパーツは口だけ。
折り重なる牙は湾曲しながら斜めに生えて、螺旋を描いている。
見ようによっては薔薇に近いかもしれない。
その腹部……?に、当たる部位を矢が貫いた。
「うぎやああああああああああッッッ」
湿った空気を絶叫がつんざく。
とぐろを巻く蛇躯が波を打ち、橙の枯れ葉が舞い上がった。
「この地形であの図体だ、リバースブーケの動きは鈍い。ベルは走り回りながら援護。エイン、キャストは防御に使って。レイチェル、グルック、ふたりは頭部周辺で陽動。シーラと私で急所を探す。さあ!」
短い桃髪が跳ね、縛った金髪が浮いた。
ふたり、上体を倒して刃を抜きながら疾走する。
列牙見ゆる円腔が正面、放物線をなぞってこちらに迫った。