太刀筋は手によってその色を変える
アイントロートは嘘を付かない。
そんな諺が流行ったのは、今からもう三十年も前の話である。
「有名な戯曲家だね。僕は観劇を嗜まないから詳しくはないけれど、彼は存命の間一切フィクションを作らなかったそうだよ」
小さな丸眼鏡を燭光に閃かせ、黒髪の男はそう言ってウィスキーを飲んでいた。
「一般的にはそうね。でもその話、実は異説があるのよ。知りたい?んふふ、彼、アイントロートには愛人がいたらしいの。それで、周囲には独身で通っていたから、ある日逢瀬の現場に演者がばったり出くわして大わらわ。その時、監督をしていた男が彼にこう聞いたの。その人はあなたの妻なのかって。それに対して彼はこう答えたそうよ。伴侶ではありません、僕の全てですって」
艶やかなブラックドレスを纏った娼婦は、赤毛を耳に掛けてウィンクすると、酔漢のお酌に戻った。
どちらにせよ意味合いが、詐欺師は事実と全く反することは敢えて言わない、というものであることに変わりない。
まさに、彼は私にとってのアイントロートだった。
*
風が吹いても草が靡かないのは、大気が上下に層を為していて、地表付近は凪いでいるからだとか。
そしてその二段構造は、気化したマナが物質的に空気より重く、大気の底に沈殿することによって生まれる。
「つまり僕達キャスターが決まって地面に手を着けるのは、ここが一番魔法を発動し易いからなのだ」
「ふぅん」
「あ、なんだその興味無さげな態度は!?」
抗議する紺髪の青年に、私は聞えよがしなため息を吐いた。
なおの事ギャーギャーと騒ぐ男をほっぽって、巨大な影に向き直る。
紅い皮膚に覆われる体付きは蜥蜴のそれ。
前肢が長大な膜翼に発達して左右を羽ばたく。
貌は能面のような無表情だが人のものだった。
「ふたりともその辺に。ゲルトラは手強いよ」
白髪の少年が言いながら、小柄に不釣り合いな長い太刀の鯉口を切る。
「マナも練らずによく言うぜ」
首後ろと両腕に槍をかけた浅黒い肌に短い黒髪の青年がぼやいた。
「ふん、これだから魔術狂いは」
「シーラ貴様っ、誇り高き我らが魔術師ギルドを愚弄するのか!」
金髪を二つ結びにした少女は半眼で口角を吊り上げ、それから一同の最前に歩み出ていく。
「私の術技を見て、女神リースの威光にひれ伏しなさい」
すれ違う時、シーラは私を横目に笑った。
彼女の姿を目で追っていると、隣から草音がする。
「あたしは後ろでやらせてもらうよ」
「ぶれないね、ベルは」
上背のある女は緑髪を風になびかせて踵を返した。
自分の桃色の髪糸を耳に留める。
「ああああああああああああッッッ」
人面翼獣が臼歯を剥いて発声した。
左腰に佩いた鞘から剣を抜く途中、銀身が日差しに閃いた。
「ナキ」
逆巻く雪毛の男子が屈んだまま、声と共に振り向いた。
「レイチェルが先攻。シーラ、援護して」
「うん」
「いいわ」
「グルックは側面で待機。エインが爆撃したら入って」
「あいよ」
「ちょっと待て、僕への指示は!?」
「ベル」
顔だけ後ろに向けて、親指を上げる。
遠目には、彼女が笑ったように見えた。
断続的な振動を足下に感じて前に直ると、赤竜が不恰好に走り迫っていた。
「基本は削りに専念して。最後は私がやる。じゃあみんな、行くよ」
奴が間合いに白髪少年を捉える一歩を、踏んで。
「ッ」
レイチェルの栄えある第壱刀。
横一文字。
ゲルトラの左後肢、足首から朱が迸った。
彼の劔を紫硝的燐光がなぞる。
真っ赤な雫が宙に咲いたのは一瞬で、すぐに草葉の色を変えていく。
竜が回れ右をする。
巨体でありながら人のように機敏な動きで、小さな私達の感覚からすればコマ落としのように。
長大な尾が鞭のようにレイチェルを弾き飛ばした。
「あああああッッッッ」
正面に戻ってきた人面が喚いている。
その喉を、白銀が貫いた。
振り下ろしたシーラの刃は眩い十字赫輝を放っていて、血が霞んで見えるくらいだ。
「ふふっ」
唇から笑声を漏らし、彼女はゲルトラの眼を引いたまま右斜め前へと走り出す。
そちらに頭を巡らせたことで露出する首筋に、黒柄の槍が突き刺さった。
振り子のように体を振って両脚を高方へ伸ばし、跳んだ勢いで穂先を抜きながら竜に飛び乗る。
「控えろグルック、僕が先だぞ!」
紺の髪を浮き立たせるエインの、右手が土に触れ──。
「いいいいいいいいッッッ」
紅い双脚が大きな翠泡に包まれ、弾け飛んだ。
砂煙を吹かしながら、巨体がお腹から地面に沈む。
「そい」
褐色の青年が浮き上がった体が再び落ちるに合わせ、得物を下方へ突き出した。
かなり深々と埋まった槍からは、橙の星屑が渦を巻きながら空へ飛び立っていく。
「おおおおおおおおおおおッッッッッ」
ところで、ゲルトラの由来を知っているひとは、この中に何人いるのだろう。
合わせ言葉だ。
バイレー地方の古語でゲルは悠久、トラは刹那を表す。
赤色のドラゴンが刻の流れに例えられたのは、その一つ目に浮かび上がる模様が時計に似ているから。
額の中心で、大きく丸々とした単眸が瞠られた。
黒眼の中、闇夜に浮かぶ月の如き白い虹彩。
朱の瞳孔から放射状に同色の線が全体に走っている。
どこを見ているのか察することは難しい。
ただ、首が動かなくなったのは気になる。
あたかも、最早左右を確認する必要はなくなったと言わんばかりだ。
「おおおおおおおおお」
竜は、翼を前肢のように使った。
草地を掻いて、突進してきた。
「レイチェル。いい」
私は轟音の中でも通るように声を張って、自らの劔を正眼に立てる。
撥ねる草切れと土塊。
間近に肉薄する巨貌は、本当に大きかった。
「おおおおおおおおッッッッ」
パンッ……。
的としては、十分に過ぎるというもの。
後ろのベルが吐いた息の熱さえ、首裏にありありと感じられる。
すり鉢状に陥没する眸玉は、尾羽から蒼い煌煙を上げる矢に穿たれていた。
とはいえ、竜躯は急には止まれない。
そんな諺はないけれど。
「シーラとグルックも。言ったでしょ」
身刃から赤紫の火が滲み出す。
蝋燭ように小さかったそれは、いずれすぐに燃え広がって、それで。
世界が白滅した。
他の全てが黒く見えるくらいに。
私はただ柄を両手で握り、上段から縦に真っ直ぐ斬り下ろしただけ。
色が戻った視界では、左右に切断された巨体が肉断面を晒し、赤い雫吹雪を散らしながら、風のような速さで後ろへ行き過ぎていく。
「殺めは、私がやる」
大きなおおきな、屍がすれ違ったその後で。
頬に差した陽は、命が抜けそうに眩しい。
*
木造の家だからって、全部茶色い訳じゃない。
梁はそのままだが、壁にはコテで漆喰が塗ってあり、白色をしている。
屋根は瓦だ。
摂氏八百度程の素焼きである為、市井では鮮やかな紅色と形容されるが、実際は明るいオレンジ色をしていた。
二階建てくらしか高さのない家が並ぶから、空は広くて青が深い。
「いや~今日も大漁っ」
金髪お下げの娘が語尾に音符でも付けそうなご機嫌ボイスではしゃいだ。
伸ばした細腕の先、二指に緑色をした柄巾着の緒が摘ままれている。
底には赤黒い染みがあったりして。
「シーラ、街中で忌み袋を出すのはマナー違反じゃないかい?」
「堅いこと言ってんじゃないわよレイチェル。あんたこそ凱旋を尊ぶ気持ちはないワケ?」
額を寄せ合って睨み合うふたりを見ながら、黒肌黒髪の青年がパンを小さく食い千切った。
夕差しがその顔を撫ぜ、鳶色の双眸を黄金色に閃かせる。
そんな様子を横目にぼんやり仰いでいると、肩が指で小突かれた。
「なに、エイ──」
振り向いた先で、翡翠の瞳が真っ直ぐこちらを見下ろしているではないか。
「……ベル」
「あたしで悪かった」
その高い肩をペシッ。
「矢の補充だ。外すけどいい?」
「あぁ、いつものか。オッケ、気を付けてね」
「ははっあんたじゃあるまいし」
後ろ手を振って笑い去る背中を睨んでいると、横に青い外套の裾がザッと立つ。
「あんたのせいで恥掻いた」
「なんの事だが分からんが気にするな。人生とは謂わば旅、旅の恥は掻き捨てというもの」
「やかましわい。で?」
「うむ」
紺の髪を手で掻き上げ、野暮男は眉を上げてみせた。
「素手で地面を触ると泥が付いて洗い落とすのが大変なので、魔法の触媒で編まれた杖など所望したいと思ってな。買い出しに付き添ってはくれまいか」
「……呆れた。手は土に、それがキャスターの常識なんでしょ」
エインはきょとんとした。
さも何を言っているのか分からないというふうである。
出まかせだったらしい。
口を閉じたまま軽い息を吹く。
「いいけどさ、私がいても役には立たないと思うよ?」
「僕の気分が好くなる。そら行こう。グルック、後頼んだ」
「んー」
未だライ麦餅に夢中で、返事だって気もそぞろな彼にあのふたりを任せておくのは些か抵抗を覚えたが、手首を引かれては抗えない。
この人、意外と手が節くれだって大きい。
*
玄縁の眼鏡を掛けた茶髪の亭主がランプの硝子瓶を開けて、キャンドルの芯に鋏を寄せる。
刃の代わりに火打石が固定してあり、男が手を握ることで打ち合わさって、火花を散らした。
鈴の音は、薄暮の店内を軽く反響する。
「いらっしゃい」
「よおオッサン。連れてきたぞ」
「……どうも」
軽く会釈してから、隣に胡乱な目を向けた。
男は唸りながら眼鏡を直すと、板床を靴鳴らして近付き、屈んで私の顔をジッと見る。
「お嬢さん……これ、どう思う?」
背から前に突き出されたのは、木彫りの梟だった。
瞳に硝子玉が埋め込まれているようで、窓暁に緋を移されている。
意匠も丁寧で、こう。
「なんですかこの、親友が用意した要らない聖夜祭の贈り物みたいなやつは」
静寂が波紋を打つのに合わせて日が翳り、室内は紫一色に模様替えされた。
「あっはっは、ユニークなガールフレンドじゃないか少年」
呵々大笑といったふうに背をバシバシする亭主に、エインは肩を縮めながらもしたり顔。
それから私達は、夜の帳が降りるまで棚を見て回った。
杖といっても多様のようで。
「これは玉杖、先端に宝石が取り付けられている。こっちは杖槍、金属製で石突が尖っている。それから陣杖、木製で刻印が彫り込まれている」
眼鏡の男は順に、淡碧の球結晶を囲った棹棒、鈍い銀鍍金の長柄、褐色地に翠の蔓模様が奔る木刀を見せた。
闇に閉じ込められた屋内は、灯りがよく行き渡って。
エインが選んだのは結局、どこにでもありそうな、ありきたりな木の杖で。
財布の紐を緩めた彼が硬直する様を見て、私はすぐ店を後にした。