天使狩り
さて、以前触れた能力の”器”の話でもしようか。どんな人間にも―つまり緋眼であろうと凡眼であろうと―能力の許容値が設定されている。それが器だ。
生まれついたときから器の許容量は決まっており、決して変化しないと言われている。器が大きいほど強力な緋の力を発揮することができる。当然、緋眼は許容量を超えて能力を生まれ持つことはない。だから彼らは器のことで危機に瀕したりはしない。
一方で、これはごく稀な話だが、後天的に能力を獲得する者がいる。金眼と呼ばれる彼らは、いわゆる亜人みたいなものなのだが、少々困った事情―また話の種が増えたようだ―で凄まじい能力を得ることになる。そして大抵の者は器の許容量が足りなくなってしまう。
するとどうなるか?超過状態の彼らはおぞましい破壊衝動に苦しめられるとともに、自身が内側から崩壊していくような狂おしい感覚を味わい続けるのである。そうしたときに、『緋月の契約』だとかが役に立つのだが、そもそも金眼になる者自体が非常に少ないのであまり問題にはならない。
あくる日の早朝、ようやく正気を取り戻したリーゼルは、ジリアンに言いつけてアンドルーを呼び出した。怯えているというよりは殺気立っている彼女の様子を見て、アンドルーは最悪の事態になったことを直感したことだろう。
しばらく二人きりで話した後、リーゼルの部屋からは口論が聞こえ始めた。ジリアンは雑事もしないでその部屋の前で待機することにした。やがていつも以上に疲れた顔をしたアンドルーが、扉を勢いよく開いて出てきた。困惑した様子の侍女に向かって彼は考えなしにこう言い放った。
「あなたのご主人様はどうかしていますよ。話になりません!」
ジリアンはそのままリーゼルの部屋に入り、状況の説明を求めた。頑として部屋から出ていこうとしないジリアンに、リーゼルは渋々事情を話すことにした。ジリアンは一通りの説明を聞いて考え込んだ。それを見たリーゼルはうんざりしたように首を振った。
「そんな顔をすると思ったわ。どうかしているように見えるならそう言ってくれて構わないけれど」
「そうではありません。ただ…そのことをお客様に話すわけにはいかないものかと思いまして」
「テオに?説明のしようがないでしょう。とにかく今は決着をつける支度をしないと」
「ですが、アンドルー様はそれに反対していらっしゃったのではないのですか?」
「私の知ったことじゃないわ、そんなこと。初めから利害が衝突することくらいわかっていたもの」
リーゼルは苛立ちを隠そうともせずにジリアンを部屋から追い出そうとした。今度は大人しく言うことを聞くことにしたジリアンは、出ていく直前に言った。
「急いては事をし損ずると言います。どうか早まったことだけはなさらないでください」
「わかってる。…悪いわね、ジル」
目の前で閉まった扉を、ジリアンは主を待つ犬のように見つめた。
リーゼルは昼食に下りてこなかった。何も知らずにやって来たテオは、オスカーはまだしも、リーゼルがいないということに戸惑い、ジリアンから事情を聞きだそうとした。しかし彼女は質問攻めにされる前にそそくさと部屋を退出してしまった。
物思いに耽ったジリアンが、スープに多量の調味料を入れてしまったことを―本人は気付いていないが―私は知っている。ほら、一口飲んだだけでテオが顔をしかめた。それでもテオは綺麗に完食した。
事情を探ることはもう叶わないと察して、テオは宿の自室に戻って転寝を始めた。はっとして飛び起きたときは、日光の差し込む角度からして、まもなく日が暮れ始める頃であった。テオは退屈に身を委ねて再び目を閉じた。次に目を覚ましたときは、夕方と呼ぶに申し分ない空模様であった。
ようやく起き出すと、テオは例のごとくスーの酒場へと足を運んだ。店主は彼の顔を見て笑った。
「今日は随分眠そうね?」
「ちょっと暇でさ。そっちこそ、隈できてるみたいだけど」
「やだなあ、気付いてたの?最近ちょっと眠れないのよね」
スーははにかんだ。聞いておきながら、テオはあまり興味がなさそうだった。
「そっか。まあ、無理すんなよ。…そういや、あいつは?」
あいつ、とはヒューのことである。珍しいことに、この日彼はお決まりの席に陣取っていなかった。スーは肩をすくめた。
「さあね。昼寝でもしてるんじゃない?」
彼女がそう言ったとき、ちょうど入り口のドアが開き、やさぐれた様子のヒューが現れた。すでに酒が回っているらしい。千鳥足で近づいてきたヒューの顔に痣があるのが見受けられた。どこかで喧嘩でもしてきたのだろうか。それを見てスーは青ざめた。
「ちょっと…ねえ、どうしたの、それ?誰にやられたの?まさか…」
ヒューは片手を振って続きを遮ると、ぼんやりとした眼差しでテオを一瞥した。そしてほとんど聞き取れないほど低い声で言った。
「天使は…」
「ん、何?どうしたんだよ、お前」
返事はなかった。ヒューは崩れ落ちるように椅子に座ると、両手で顔を覆った。二人は唖然としてその様子を眺めた。スーが短く息を呑み、震える指でヒューの手元を示した。
「ね、それ…血?あんたのよね?傷があるなら、ほら、手当しないと…でしょ?ちょっと、見せて」
「よせよ。なんでもねえんだ…」
喧騒の中、三人の周囲だけが異様な静けさに包まれていた。スーはすっかり血の気のない顔をしていて、テオは訳がわからずただヒューの横顔を眺めている。そのヒューはうなだれたままで、大粒の汗が顔を伝っている。誰も身動き一つ取らなかった。
彼らの間でだけ時の流れが遅くなってしまったかのような感覚だ。隔てられた静寂の壁を打ち破ったのは、酒場の扉を吹き飛ばさんほどの勢いで入ってきた男の叫び声だった。
「おい!また…また死体が出たぞ!」
酒場中がどよめいた。スーは弾かれたようにその男に駆け寄った。そして目を見開きながら、悲鳴に近い声で言った。
「誰…!?誰が死んだの?天使がやったの?一体何が…」
「ちょっと落ち着けよ、スー。らしくないぜ。…死んだのはあのけち臭いルイの野郎だ。しかも、今回は天使じゃないみたいだぜ。頭が無事だったからな」
その言葉で、どよめきは一層広がった。面白がって現場まで見に行こうと立ち上がった人々の波をかき分けてスーが戻ってきた。彼女は今にも倒れてしまいそうな顔色をして、ヒューに半ばつかみかかるような恰好になった。
テオが立ち上がって軽くそれを制そうとしたが、彼はどちらかというと上の空で、あちこちに思考を巡らせているようであった。ごった返す入り口で、知らせに来た男が大声を上げているのが聞こえる。
「行っても見られないぞ!天使じゃないときたら憲兵のお出ましだからな!犯人捜しに精を出すつもりらしいぜ!ほら、戻った戻った!」
今度は文句を言う声が店を覆った。そのざわめきの中、スーが消え入りそうな声で言った。
「あんたじゃないわよね…?ねえ、違うんでしょ?ちょっと、何とか言ったらどうなの…?」
ヒューはなおも沈黙したままで、指の間から血走った眼を覗かせている。これでは自白しているも同然だ。状況を察したテオは、信じられないと言いたげに目の前の友人に目を落とした。言葉が出ない。向こうで騒いでいる人々のうちの一人が声を上げた。
「天使がいるのに殺しをやる馬鹿がいるとはな!今に天使の裁きが下るぞ!」
その声に同調して人々はさらにわめきたてた。天使の裁きを!天使の裁きを!荒く呼吸をするヒューがようやく顔を上げた。テオを見ているのだろうが、焦点が合っていない。そのまま縋りつくようにして彼は呻いた。
「俺は…天使の裁きなんか望んじゃいねえ…。悪いのは、ルイのくそったれだ…!なあ、助けてくれよ、テオ?早く天使を狩ってくれ…」
「なんでこんなことに…」
テオの口からやっと出た言葉はそれだけだった。泣き出したスーが繰り返し呟いている。
「私のせいだわ…きっとヒューは殺されちゃう…」
ヒューとスーの二人を含め、人々の興奮が収まったのは夜に差し掛かった頃だった。それは美しい月夜であった。落ち着いたスーがテオに事情を話した。その説明は混乱していて、決してわかりやすいものではなかった。内容はこうだ。
彼女が店を継ぐ前、すなわち彼女の父親が生きていたとき、酒場が経営不振に陥ったことがあった。そこを助けてくれたのが、この日殺されたルイであった。売上が上振れ始めた頃、ルイは利益の一部を毎月支払うよう要求し始めた。スーの父親はおとなしくそれに従った。
まもなく彼は亡くなり、スーが店を継いだ。揉め事は御免だと思い、彼女もルイに金を支払っていた。しかし最近になって、ルイは別のことを提案してきた。スーの尊厳を傷つける内容だった。だから彼女はそれを断り、ついでに金を無心するのもやめるように頼んだ。ルイは逆上した。厚顔無恥な女だと罵った。彼女はそれをヒューに相談した。ヒューは何度かルイに直談判しに行っていた。そして今日…。
「なるほどね」
テオは思案しながら呟いた。彼らは酒場の外の石段に座っていた。振り向くと、『閉店』と看板がかかった酒場のいつもの席に、うなだれたまま身じろぎもしないでいるヒューの背中が見える。夜風が清々しい。沈黙の後、テオは決心したように立ち上がった。酒場に入り、ヒューの背中に向かって言った。
「…お前の命、俺に預けてくれないか」
ついてきたスーは唖然としている。ヒューがゆっくりと振り向いた。その顔は、照明がついていないせいもあって幽霊のようであった。テオは彼の両肩をつかみながら言い聞かせるようにして続けた。
「いいか?血濡れの天使は今夜必ずやってくる。今夜だ。そうなったらお前は確実に死ぬ。そこで、だ。俺はお前を囮にしたい。うまくいったら命を救えるかもしれないが、お前が生き残るという保証はない。憲兵に自白したほうがまだ安全かもな。だからどうするかはお前が選んでくれ」
ヒューの虚ろな瞳がテオを捉えている。しばらくして、ヒューは独り言のように答えた。
「憲兵なんかが守ってくれるわけねえんだ。俺は異国人のあんたを信じることにするさ…」
「よし!そうと決まれば早速準備しなきゃな。…二人とも、武器になるもん持ってないか?」
そういえばテオは入国したときから武器を携帯していない。大方、憲兵に没収されているのだろう。これがルーセチカ式の異国人の扱いなのだ。それにしても、賞金狩りに来たのに武器を持たせてもらえないとは、何とも…。
月が煌々と照らす中を、ヒューは一人で歩いた。なるべく人のいないほうへと、ぎこちなく足を動かしている。しばらく歩いてから立ち止った。そのまま、ただ彼女の登場を待つ。
すぐそばの路地裏でテオが息を潜めて待っている手筈だった。やがて、月に雲が重なり、あたりが暗くなった。
そのときだ。彼女が建物の陰から姿を現したのは。その歩き方は上品そのもの。フードから緋い瞳が見え隠れしている。月明かりを背に歩く姿はまるで絵画のようである。ヒューはじっと彼女を見つめた。諦念したように笑みをこぼす。
「綺麗な殺し屋もいるもんだな…」
彼女はそれを無視して、静かに武器を構えた。が、すぐにヒューから顔を逸らした。それは彼が見るに堪えない生気のない顔をしていたからではない。すぐそばにある気配に気が付いたからである。彼女はテオのいる方角を見つめ続けた。
テオは誤魔化しが効きそうにないとわかると、仕方なしに彼女の前に姿を現した。両手に、スーから拝借した包丁をそれぞれ握っている。まさか包丁でどうにかするつもりだとは私も思わなかった。
「…やっと見つけたぜ、天使様」
「…」
「だんまりかよ。―おい、ヒュー。お前は逃げていい。あとは俺が何とかする」
「んな気力ねえよ」
テオが一瞬ヒューに視線を送った隙に、彼女は一気に間合いを詰めた。風が彼女を煽り立てるように吹く。既の所で初撃をかわしたが、テオには反撃する間もなかった。次の、弧を描いて振り下ろされた一撃が彼を待っていた。包丁で受け止めてみたが、おかげでもう使い物にならなくなってしまったようだ。
それにしても彼は中々の実力の持ち主らしい。相手が彼女でなければよかっただろうに。とはいえここでテオが負けるのかと言われると、そういうわけでもないのである。一つの仕事で二度も邪魔が入るとは、きっと彼女も予想だにしていなかっただろう。
そこに現れたのは二人分の人影だった。彼女はそれを見て攻撃の手を止めた。そして息を吞んだ。明らかに動揺している。テオもまた彼らのほうを見た。
片方はアンドルーだった。何かを悔やんでいるかのような哀しげな表情をして、じっとこちらの様子を窺っている。もう片方にはテオは会ったことがなかった。その男は尊大な態度で言った。
「再びお前と顔を合わせる日が来るとはな…」
2025.1.8