道化師とお戯れを
リーゼルが持っていた緋石を覚えているだろうか?彼女が議場に赴くために自室でこっそり使っていた石のことだ。
”緋”とついているので察しがつくだろうが、あれは緋眼の能力の一部を他人が行使できるようにする代物で、簡単に手に入るものではない。ましてジスレーヌの『統隙の緋』―空間を操る能力。彼女が大富豪になれたのはこの力のおかげと言っても過言ではない―が込められているならなおさらである。
ちなみに能力を貸し出す方法はこれだけではなく、もう一つ、『緋月の契約』というものがある。緋石の使用者と能力の持ち主はあくまで対等な関係にあるといえるが、緋月の契約においては主従関係が生まれる。
主となる者は能力の”器”―説明はまたの機会に―の一部を貸し出す代わりに、より強く緋眼としての力を発揮できるようになる。従となる者は器の一部を借り入れる代わりに、相手への服従を誓うことになる。が、従うほうの負担が大きく、そもそもこの契約自体がよく知られていないのもあって、滅多に行われるものではない。
数日経ち、天使が思い出したかのように責務を全うした。人々が集う噴水広場に見るも無残な死体が転がっていたという話は、ウィリアムからの使いによってすぐにテオの耳に入れられた。話を聞いて回った結果、その被害者は昨晩ある店で強盗を企て失敗したのだが、店主の計らいで事が大きくならずに済んだということだった。つまり、被害者がルーセチカで稀に見る悪党だと知っていた人物は片手で数えられるほどしかいないのである。
「なら天使とやらはどこからその強盗の話を嗅ぎつけたんだ?」
人々から話を聞き終えて屋敷に戻ってきたテオは呟いた。長机を挟んだ正面にはリーゼルが座っていて、優雅に紅茶を口に運んでいる。先日の議会が終わってから―あの道化師を見てから―彼女はなるべく誰かしらと一緒にいるようにしているようだった。実際テオがやってくるまでは、雑事をこなそうとするジリアンを長々と引き留め続けていた。
「その事件に関係していたのかもしれないわね」
「いや。店主から事情を知っている人を聞いたけど、ああいうやり方ができそうなやつはいなかった。もちろんその店主も含めてな」
そうなのね、と残念そうに答えながら、リーゼルは窓の外をちらと見た。彼女がやけに気難しそうな顔つきで立ち上がると、ちょうどジリアンが扉を叩く音がした。部屋に入ってきた侍女に向かってリーゼルは言った。
「馬車を呼んでくれるかしら?そうしたら今日は下がっていいわ」
「すぐにご用意いたします。私はご一緒しなくてよろしいのですか?」
「ええ、大丈夫よ。よかったらテオの相手をしてあげて。一人で考え込むより誰かに話したほうがいいって、ロイド様が前に言っていたから」
「かしこまりました、リーゼル様」
ジリアンがさっさと部屋を出て行ってしまうと、テオはようやく話す権利を得られた、というような調子で言った。
「どこ行くんだよ?」
「知り合いのところよ。ちょっとした用事を思い出したの」
「あんたにも知り合いがいるんだな」
「もう、私を何だと思っているの?」
テオの不躾な発言に微笑みを返してリーゼルは自室に引き上げた。やがて馬車が外に停まった音がして、目元を覆ったリーゼルはジリアンに導かれて馬車に乗り込んだ。窓からその様子を眺めていたテオには、彼女が御者に告げた行き先がどこかはわからなかった。馬車が走り去るとジリアンが主人の言いつけ通りにやってきて、先ほどまでリーゼルが座っていた位置に腰かけた。唖然としてテオが言った。
「ほんとに話し相手になってくれるってか?」
「はい。不要でしたら…」
「いや、いる!助かるよ、ほんとに。それでさ…」
テオが一方的に話すのを、ジリアンはにこりともせずに聞き続けた。何か尋ねられたとき以外は口を開かず、まるでどんな些細な動きも見逃すまいとするかのように、じっとテオから視線を動かさなかった。
リーゼルが赴いたのはアンドルーの住む小屋であった。アンドルーは豪勢な屋敷で暮らすことを好まず、あまり人の寄り付かない森の中で気楽に暮らしているようだった。
リーゼルは馬車を降り、御者に銀貨を渡した。その御者は気を利かせて彼女を小屋の入り口まで連れて行ってやった。リーゼルは礼を言って、もう一枚銀貨を渡そうとしたが断られた。本当にただの親切だったらしい。
扉を叩こうとしたとき、突然けばけばしい女性が中から飛び出してきて、リーゼルは危うくぶつかりそうになった。憤慨しているその女性は彼女を半ば押しのけるようにして走り去った。開いたままの扉を閉めようとして出てきたアンドルーは彼女に気付いて首を傾げた。
「あれ。珍しいですね。何してるんです?」
「あなたに会いに来ただけ」
中に戻った二人はその小屋に似つかわしくない柔らかそうな長椅子に並んで腰かけた。向かい合って座るための椅子も、客人に出す紅茶もその小屋にはなかった。アンドルーは胡坐をかき、背もたれに腕を乗せながらリーゼルのほうに若干体を向けた。
「取らないんですか、それ」
リーゼルは暫し考えてから目元に手をやった。
「これのこと?」
「はい。邪魔でしょう」
「そうね。…さっきの方は?」
包帯を取りながらリーゼルは尋ねた。もちろん憤慨したけばけばしい女性のことである。アンドルーは長めの髪を指でいじりながら答えた。
「あぁ…別に、昨日道端で知り合っただけです。割と退屈な人でした」
「それは残念ね。今度は何て言って怒らせたの?」
「ここに招いた理由を聞かれたので、ただ正直に顔が好みじゃなかったからだと答えたんです。怒ることないのに、平手打ちを喰らうところでしたよ。よけましたけど」
笑みをこぼしたリーゼルの瞳に鈍い灯りが映り、アンドルーはそれをまじまじと見つめた。何かついてるかと尋ねるリーゼルに、彼は別に、と短く返して目を逸らした。その横顔を見つめたままリーゼルが再び口を開いた。
「それにしても変わってるのね。好みじゃない方が良かったなんて」
「そうですかね。綺麗な女性にはお淑やかに佇んでいてほしいだけですよ。…それで、何の御用なんですか?俺が昨晩から今まで何をしていたのか根掘り葉掘り聞くつもりでもないでしょう」
「ええ、興味ないもの。実はあなたの目を見込んでの頼みがあって。聞いてもらえるかしら」
リーゼルに視線を戻したアンドルーは、彼女が珍しく困ったような顔をしているのを見て眉をひそめた。彼は毛先をいじるのをやめて答えた。
「あなたの頼みなら聞かないわけにはいきませんね。内容は?楽な仕事だと嬉しいんですけど」
「あなたにやってほしいのは私の屋敷の監視。あなたなら王の塔に入ることも、そこから屋敷を見張ることもできるでしょう。それで、ある男が近くをうろついているのを見つけたら、すぐに私に知らせるか、射殺して。…本当、楽な仕事であってほしいわね」
「なんだか物騒ですね。男の人相は?」
「身長はあなたと同じくらい。体格は普通よりがっしりしていたと思うわ。それに、道化師じみた化粧をしているの。気味が悪いったらないわ」
「そんな妙ちくりんな奴がいるなんて話、聞いたことないですけど。一体何をしたらそんなのに付け狙われるんです?」
知らないわ、とため息をつくと、リーゼルは先日の議会のあとに初めてその男を見かけたことから話し始めた。その日から五日が経過していたが、その間道化師が現れたのは計三回。
一度目は彼女の部屋を屋敷の裏手にある庭園から見上げていて、二度目は図書室の窓に張り付くようにして彼女を見ていた。三度目のときにはその姿が鏡に映っていた。三回とも、彼女が見直したときにはいなくなっていた。そう説明されると、アンドルーはますます顔をしかめた。
「気色悪。…でもなあ。疑うわけじゃないですけど、ちょっと疲れているんじゃないですか?そんな一瞬で姿を消したりできる奴なんてそうそういませんよ」
「わかってるわ。だから私の気のせいかどうか確かめるためにあなたに頼んでいるんじゃないの」
リーゼルは不服そうに言った。話すうちに彼女は少しずつ前のめりになっていった。まるでおばけの存在を親に信じ込ませようと躍起になる子どものようだ。そういう子どもと同じように、リーゼルは真剣そのものだった。アンドルーもまた、興奮する子どもを落ち着かせようとする親のような調子で言った。
「そうですよね。気に障ったなら謝ります。それで、そいつのことをジルには話したんですか?あの娘なら見かけているかもしれませんよ」
「いいえ。彼女のことだから、こんな話をしたら私の気が狂ったと思うでしょうし、第一怪しい人を見かけていたらすぐに報告してくるはずだもの」
「それもそうか。まあ、とりあえず引き受けますよ。他に頼める相手もいないんでしょう」
アンドルーは―彼にしては珍しいことだが―友愛のような何かがこもった表情でリーゼルを見つめた。彼女に頼りにされたのを喜ばしく思ったのだろうか?どこか悲しげにも見えるその顔つきは、彼らの仲を考えても、味わい深いものであった。リーゼルはほっとしたように頬を緩め、立ち上がりながら言った。
「ありがとう。きっとお礼をするわ」
「よしてください。俺はあなたに対して図々しく見返りを求めたりはしませんよ。…ただ、もし許されるのであれば」
アンドルーも立ち上がり、哀願するような瞳を彼女に向けた。続きを言いかけたが、躊躇って閉口した。困惑したリーゼルに名を呼びかけられて、彼はようやく囁きに近い声でその欲望を告げた。
「…もし許されるのであれば、どうかあなたに跪かせてください。今一度、俺の忠誠をその目で確かめてください…」
返事を待たずに崩れ落ちるように跪こうとしたアンドルーの体をそっと支えて、リーゼルは首を振った。そのまま彼の耳元で何かを囁き、彼女は小屋を後にした。
リーゼルが屋敷に戻ってきたとき、テオはまだジリアンを相手にあれやこれやと血濡れの天使にまつわる仮説を展開していた。屋敷の侍女はそれを身動き一つ取らないで聞き続けた。氷のような青の瞳は、その間片時も相手から逸らされなかった。
左手に包帯を握りしめたまま部屋に入ってきたリーゼルを、テオは思わず二度見した。ジリアンの眼差しなど比にならないほどの鋭さを帯びた緋は彼を貫くようで、色のせいか、激しく燃え上がるかのように思われた。主の登場はジリアンの表情をわずかに和らげさせた。
二人がありきたりな主従の会話をしている様子をそっと伺おうと、テオが顔を上げた。そのときにはすでに、彼女の瞳はいつもの不気味さと陽だまりのような優しさをたたえていた。リーゼルは自分を見つめるテオの視線に気付いて微笑んだ。
「お話は進んだ?」
弓を携えた狩人が王のおわす塔に入るのは訳無かった。それはもちろん、彼が正当な権利―かつて存在した警備隊の隊長にまで上り詰めた彼にはそれなりの権威がある。誓民議会に招集されていることからも明白だ―を持っているからであるが。
しかし残念なことに、数日間粘ってはみたものの、アンドルーがリーゼルの言っていた道化師を目撃することはなかった。彼の鷲目は、リーゼルの屋敷の装飾を細部まで見分けることができたというのに。しかもリーゼルはその数日間で確かに道化師が現れたと主張した。言い訳として、アンドルーは屋敷の裏側までは塔からは確認できないと繰り返す羽目になった。
しかし屋敷の裏側から続く道の先には小さな村しかないし、それも馬が必要なくらいには遠い場所にあった。わざわざそんなところからやってきて、ただ屋敷を覗いて帰るなどという狂気の沙汰を繰り返しているとは思えない、とリーゼルは訴えた。それにはアンドルーも同意した。
「間違いなくアーテルニアのどこかにいるはず…」
「ですが、どうやって俺に見つからずに侵入していると言うんです?」
「わからないから困っているんでしょう!」
リーゼルは甲高い声で言い、何度も頭を横に振った。しかしすぐに落ち着きを取り戻し、しばし考え込んだ。
「そういえば、あの道化師はいつも…。やっぱりそうだわ」
「いつも、何なんですか?」
「屋敷の裏手側にしか現れないの。庭園もそうだし、図書室の窓も。…ほぼ確実に人に見られる心配がないところを選んでいるというわけかしら」
「なるほど。やっぱりあなたの幻覚ではないのかもしれませんね」
まだ疑っていたの、と不服そうに呟いたリーゼルに、アンドルーは肩をすくめてみせた。
「お客人はどうです?」
「ジリアンに探らせているけれど、特に何もないみたい。毎日のように酒場に行っているくらいね」
「はあ。天使を探してるならもっともな行動ですかね。そこで誰と接触しているかが問題ですけど」
アンドルーはまた髪をいじっている。リーゼルは短く唸って考え始めた。風が窓をがたつかせる音だけが響いた。アンドルーは窓のそばまで歩いていくと、帳をめくって空の色を確かめた。
「うわ。今夜はひどい天気になりそうですよ」
「そう。―ねえ、今から酒場に行ってきてくれないかしら。今日は酒場にいるって言っていたの」
世間話をする気などさらさらないらしい。だが一応リーゼルも立って行って、窓の外を眺めた。彼女にも外が見えるように、先ほどよりも帳を大きくめくりあげたアンドルーは、雲の流れを目で追いながら言った。
「聞き耳立てろってことですか?別にいいですけど、俺が行くと若干目立ちますよ」
「なら私が行くしかないわね」
「ああ、もう。わかりましたよ、俺が行きますから。で、どっちの酒場ですか」
「若い女性が切り盛りしているほう。なんて方だったかしらね」
窓から離れながらリーゼルはそう答えた。腕を下ろしたアンドルーはそれを聞いてため息をついた。
「スーのほうですか。あの人は元気すぎるので苦手なんですけどね」
渋々スーの酒場に足を運んだアンドルーは、店主の店内に響き渡る第一声で帰りたくなったに違いない。
「まあ、アンドルー様!こちらにいらっしゃるなんて!」
「…どうも、スー。今日も調子が良さそうですね」
うんざりした顔を隠そうともしないアンドルーに、スーは満面の笑みで応えた。その日は繁盛していて、横木の席しか空いてなかった。都合は良いが、具合は悪い席だ。一つ開けて隣の席にいつものようにテオとヒューが並んで座っていた。
面識はなかったが、アンドルーは黒髪のほうがテオだろうと見当をつけたようだ。大正解。
スーが注文を尋ねてきた。何でもいいと答えたアンドルーに、彼女は二番目に高い酒を出した。本当に、ちゃっかりした人だ。そこに、これはアンドルーにとっても予想外のことだったのだが、やけに酔っぱらったヒューが身を乗り出して絡んできた。
「よう!団長じゃねえの!一杯やりましょうや!」
「はあ。誰ですか、あなた。そもそも団長じゃないですけど」
「んあ?聞こえなかったぜ!まあいいか!」
げらげら笑いながらヒューは酒を煽った。しかめっ面をしたアンドルーは、これ以上変なのに絡まれないようにと近くにいた女性客を引っかけ始めた。もちろんリーゼルに頼まれたことを忘れてしまっているわけではない。ヒューの隣で渋い顔をしていたテオが言った。
「お前、誰彼構わず話しかけて回るのやめろよな…」
「いいじゃねえの、テオ!楽しくやろうぜ」
「団長だかなんだか知らないけどさ、あれってとりあえず偉い人なんじゃないのか?」
テオは少し声の調子を抑えて尋ねた。ヒューもそれに合わせたが、アンドルーは耳が良いので全部聞こえていたと思われる。つい先ほどまでとは打って変わって、ヒューは真面目腐った顔をしてみた。
「まあな。むかーしあった警備隊を率いていたんだと。今は議員以外で何してんだかわかんねえけどな」
噂好きのこの男は、何がおかしいのかわからないが、くすくすと笑った。呆れたようにテオも薄く笑いを浮かべた。
「じゃあ隊長じゃねえか。…議員ってことは結構すごい役職だったってことだよな」
「俺が知るかよ。警備隊が解散したのは俺が生まれてもない頃だぜ」
「はあ?いつだよ、それ」
「二十年とか三十年とか、そんくらい前だろ。とにかく、知らん!」
自分の知らない話題になるとふてくされるのは噂好きの悪い癖ではないだろうか?それはさておき、テオはヒューの言葉に違和感を覚えたに違いない。アンドルーの見た目が明らかに二十歳あたりであり、一般的な感覚で言えばそう何十年も若さを保つことは不可能であるからだ。
とはいえ、すぐにテオは思い直した。議員ともなればそれなりに敬愛されていても不思議ではないし、そもそもアンドルーはモテそうだ、と。今のは私の憶測にすぎないが、アンドルーの横顔を見つめるテオの顔には確かにそう書いてあった。そして彼がもう一つ思い出したことがあった。
「命の売買、か」
「なんだ、豆でもぶつけられたみてえな顔してると思ったら、そのことかよ。…まあ、若いよな、団長。今いくつなんだろな」
ヒューも彼の横顔を眺めながら言った。と、アンドルーとの間にいた客が勘定をして帰っていったので、ヒューはすかさず席を詰めた。
「なあ、団長!あんた今年でいくつになるんですかい?」
今時そんなことを気にするとは。アンドルーはまた話しかけてくるとは思わなかったのだろう、唖然として―若干の嫌悪と共に―答えた。
「七十三です。じゃなくて、あなたは誰なん…」
「っへええ!すげえんだな、やっぱ。毎年いくらかかるのか、想像もつかないぜ」
「…別に、わざわざ買うほど切羽詰まってないです」
アンドルーは諦めたらしい。まだやたらと何か言っているヒューを無視してテオのほうを見やると、偶然―それともずっと見ていたのだろうか―視線が交わった。その刹那、アンドルーはどういうわけか目を緋く光らせた。わざとテオにしかわからないようにしたのだと思う。
テオはその視線のせいで留められてしまったかのようにみじろぎもできず、ただ瞬きを繰り返した。さながら鳩のような顔を見て、思わずアンドルーは笑ってしまった。彼はテオに聞こえるように比較的大きな声で言った。
「ああ、すみません。こういう風に人を見てしまうのは俺の癖みたいなものなんです」
「おお…?そっか…」
なんて間の抜けた返事だ。まさか今のやり取りのおかげでアンドルーの信用を勝ち得たとは、テオも思っていないだろう。そのとき外で激しく雷が鳴り、雨が地面を打つ音も聞こえ始めた。アンドルーは独り言のように呟いた。
「雨になる前に帰ろうと思ってたのに…」
ちょうど通りがかったスーが窓のほうを振り向きながら、これまた独り言のように言った。
「この調子じゃ一晩中続きそうね」
銀貨を置いて立ち上がったテオもついでにぼやいた。
「なんだよ。今夜は眠れそうにないな」
それからいつの間にか熟睡しているヒューを見て苦笑した。
その晩、屋敷を訪れたアンドルーの報告を聞いて、リーゼルは安堵したようだった。彼女も毎日のようにやってくるあの人懐こい男のことを疑いたくはなかったのだろう。夜が更けた頃に彼女は床に就いた。廊下からジリアンが消灯して回る足音がわずかに聞こえてくる。考え事ばかりをしていて疲れていたのか、リーゼルはすぐに眠りに落ちた。
リーゼルはふと目を覚ました。雷のせいだろうか?雨脚は弱くなってきていた。暗闇の中で少しぼんやりとしてから、彼女は寝返りを打って再び眠りにつこうとした。しかし彼女は気付いた。そこに、彼女の隣に、毛布の下に、奴が、道化師がいることに。
愕然として、リーゼルは声も出ない様子だった。彼女は毛布を飛び出すと、寝台を見つめ、扉へとゆっくりと後退った。山なりになった毛布は、鴉のような笑い声に合わせて上下していた。彼女は青ざめ、扉を叩きつけるようにして部屋を出た。
勢いよく開閉された扉の音を聞きつけ、すぐにオスカーも廊下に出てきた。彼に何を問いかけられても、リーゼルは返事一つしない。ようやく、今、と掠れた声で呟いたと思うと、その先は続かず、彼女はオスカーの腕の中にもたれて身じろぎもしなくなってしまった。彼女の心臓だけが激しく拍動し、それはまるでオスカーの鼓動までもを早めんとしているかのようで、かつその通りになってしまったのだから困ったものだ。
しばらくして、どちらが言い出したわけでもないが、彼らは庭園に出ることにし、何も語らず、ただ夜明けまで空を眺めていた。
夜明け前―
「ちゃァんと、確認してきたんだァよ!」
「それで?」
「お前の言う通りだァね!ほらァ、ここ。鎌風みたいだァよ!」
道化師は頬を突き出しながら傷口を指さしている。
「風を求めんとすれば、ルーセチカに調和を謡え…だったか?馬鹿らしい…」
「どうするのだァよ?」
「どうもしない。…ご苦労だったな」
「はァい!」
道化師は不自然なほどの満面の笑みを浮かべた。
2025.1.8