不都合な因子
翌日、テオを筆頭に一同はコスタト王国随一の規模を誇る兵舎を襲撃した。四匹の亜人を含むこの小隊が、戦終わりで気が抜けていた人間の兵士たちを一網打尽にするのは容易いことだった。コスタト産の兵器に損害を負わせるため、武器庫に火を点けたリーンが危うく爆発に巻き込まれそうになったこと以外は、大した問題も発生しなかった。一同は各々の任務を済ませると、それぞれ別方面に分かれて追手を攪乱し、見事全員揃って逃げおおせることに成功した。
一方その頃、セレスティアはサルヴァトーレと一対一で向き合っていた。ジョーイが保証した通り、王子は二つ返事で彼女と二人きりで会うことを承諾したのである。彼は従者と見える顔立ちの麗しい少年を侍らせ、馬車で現れた。彼は一緒に乗って来たジョーイと御者をしていた少年を馬車から降ろすと、セレスティアを中に招いた。励ますように頷いたオスカーに頷き返してから、彼女は馬車に乗り込んだ。
「御機嫌麗しゅう、王女殿下。いや、今は国王陛下とお呼びするべきかな?」
サルヴァトーレは愛想良く微笑み、彼女の手を取ろうとして、鮮やかに拒まれた。彼女は両手をしっかりと重ね、押し黙っていた。気にする素振りもなく彼は続けた。
「ルーセチカ王家の瞳の継承者が現れたという噂は、こちらにも流れてきていてね。父上が、何故挨拶一つないのかと首を傾げていたよ。根も葉もない噂だと言って差し上げたら、やけに納得していたけれど」
「約束通り、これを返すわ」
セレスティアは唐突にそう切り出し、彼から預かっていた指輪を差し出した。彼はそれを指先で取り、目の前に掲げてうっとりと眺めた。
「ああ、良かった。随分遅いから、もう一度カルツァに行かなければならないのかと気を揉んでいたところでね」
「あなたに苦労をかけることにならなくて良かったわ。用はそれだけよ。私はもう行くわ」
彼女が警戒を露わにしながら扉に手を掛けようとすると、サルヴァトーレは彼女の肘をそっと掴み、哀願するような眼差しを彼女に向けた。
「待ってくれよ。せっかく会えたんだ、もう少し共に過ごしてくれても良いじゃないか」
「何を勘違いしているのか知らないけれど、私は今こうしてあなたと会っていると考えただけで気が狂いそうなくらいなのよ」
「俺が愛しいあまりに?嬉しいことを言ってくれるね」
「馬鹿にしないで」
「そんなつもりはないさ。ねえ、レス、コスタト人は恋に落ちるのが早いなんてよく言われるけれど、俺はそれがあながち間違っていないと思うよ。そうでなければ、俺の君に対する気持ちに説明がつかないでしょう?」
冗談とわかっていてもなお、その軽薄さが神経を逆撫でする。セレスティアは彼を睨みつけ、腕を振り払った。
「これ以上の茶番は我慢ならないわ」
「本気だったら。ねえ、よく考えてもごらんよ。俺たちは敵同士。これ以降、こんな風に腰を落ち着けて話す機会なんて訪れないかもしれない」
「そうであることを切に願うわ」
彼女はいよいよ馬車を降りようとした。彼は距離を詰め、馬車の扉を開けようとする彼女の手を押し止めながら、耳元で囁いた。
「そうなれば、俺がどうして彼らに加担するのかも、謎のままになってしまうよ」
彼が簡単に逃がしてくれそうにないとわかると、セレスティアは狭い空間で何とか身を引きながら、まっすぐに彼の柘榴を見つめた。
「仮にあなたが今すべてを打ち明けたとしても、私はそれを一言だって信じるつもりはないわ」
サルヴァトーレは一瞬黙り込み、彼女の紫苑を恍惚として眺めた。見惚れ、微笑む。
「手厳しいね、レス。…うん、君は獣だ。きっとこの世界の誰よりも、獣と呼ぶに相応しい」
「何を―」
彼女が眉をひそめ、それ以上やりようがないのにもかかわらず身を引こうとすると、彼はすかさず彼女の耳に顔を寄せ、再び囁くように言った。
「俺は褒めているのさ。だって、獣性のない人間なんていやしないけど、ほとんどはその情熱を瞳に宿してはいないでしょう?けれど君は、獣のような瞳をしている。決して、手が付けられぬほど獰猛だという意味ではなくね。俺はね、レス、そんな瞳をした君をこの上なく美しいと思う。君は、俺が愛してやまない類の人間なのさ」
彼は呆気に取られてものも言えない彼女から離れ、大袈裟な身振りで肩をすくめた。
「君と敵対しなければならないことが残念でならないよ。君が俺に賛同してくれさえすれば良いのだけれど」
「そんなこと、ありえないわ」
セレスティアは未知の生命体とでも相対しているかのような、わずかに恐れの混じった声で答えた。彼は笑った。
「そうかな?君は祖国を守りたいだけなのだとばかり思っていたよ。命を捨ててでも、ね」
彼女は返事をしなかったが、彼は答えなどわかり切っていると言いたげに頷き、続けた。
「図星でしょう?ねえ、レス。俺なら君の祖国を守ってあげられるよ。我が国も、あとはおそらく彼らも、他のすべての国を滅亡させたいわけじゃない。箱には適度な仕切りが必要だからね。君が彼らに服従するなら、君の祖国が滅ぼされる心配はない。俺が彼らに言い添えてあげるよ」
「…あなたは彼らが何をしようとしているかわかっているの?」
「略奪の天使を蘇らせる、でしょう?一体それの何が問題なの?」
サルヴァトーレは平然として言い、それがセレスティアの驚愕を誘った。略奪の天使エリシアは悪に堕ちたのであり、天使アストルに討たれていなければ世界を破滅に導いていたであろう、というのは常識の中でも常識であった。エリシアを信奉するのは、異端ぶった狂人たちだけなのだ。
「天使エリシアがするのは搾取だけよ。彼女は大罪人だった。討たれるべくして討たれたの」
「確かに。けれど、だからといって俺たちがアストルを賞賛しないといけないわけじゃない。エリシアが大罪人なら、彼もまた大罪人だ」
「どういうこと?」
彼女が尋ねると、彼は待ってましたと言わんばかりに怪しく笑った。
「この世界の構造を狂わせたのは他でもないアストルじゃないか。彼は命の価値を軽くし過ぎてしまった。彼の与えたもうた、万病を癒し長寿を叶える力は、それだけ聞けば素晴らしいもののようだけれど、結局は強者の特権に過ぎない…俺の言っていることがわかるかな?」
「話をすり替えないで」
「すり替えてなどいないさ!俺は元々この話がしたかったんだ。せめてアストルが、人徳者だけが報われるようにしてくれていれば良かったんだけれど、反吐が出るほど薄汚い連中のほうが得をしているのが実情でしょう?彼らは搾取に搾取を繰り返し、立場の弱い者を苦しめる…」
「あなたの国のようにね」
セレスティアが吐き捨てるように言うと、彼はいかにも傷ついたかのような表情で首を振った。
「俺の父上のように、ね。まあ、この国のことはどうだって良い。略奪の天使が蘇れば改善するから」
「悪化の一途を辿るの間違いじゃないのかしら」
「君はまだ勘違いをしているね、レス。重要なのは、エリシアが復活することじゃない。黄泉忘れが使われることさ」
サルヴァトーレは彼の言ったことの意味が十分に彼女に伝わるのを待った。彼女ははっとして目を見開いた。その呆然とした表情に、彼は満足気に頷いてみせた。
「俺のやりたいことを理解したようだね」
「…けれど、そんなことが本当に起こり得るの?」
「理屈の上では。彼女が死んだという事実は抹消され、アストルと聖女クレアは、天使が一人になったときのみ行えるという解放の儀を執行できたはずがなかったということになる。つまり、世界は彼の力が人々に解放される前の状態に戻るはず…」
ああ、そうか!確かにその通りだ!エドガールの手記によって判明した事柄の一つに、その解放の儀のことがあったではないか!天使が一人を残して皆倒れたとき、その生き残りは己の持つ力を世界に対して解放することができる。ある種、真の支配とも言えなくもないその状況を創り出す儀式だ。それさえなければ、我々の抱える命というものは、より尊ぶべき無二の宝となっていたはずなのだ。
「そうだとしても、それはエリシアを蘇らせて良い理由にはならないわ。彼女はいずれ、略奪の末に世界を滅ぼす存在よ」
気を取り直したように、セレスティアは毅然として言った。サルヴァトーレは気楽に微笑んだ。
「そうなる前に、誰か善良な人間が彼女を何とかしてくれるさ」
「もし、誰も彼女を止められなかったら?」
「そのときは、彼女が正しかったということが証明されるだけだよ。勝った者が正しく、善良とされるこの世界だから。…それで、どうかな?俺の手を取る気になった?」
決まり文句を口にした彼は、自信と余裕に満ち溢れていた。それは楽観視の結果か、それとも信念の産物なのだろうか?その笑顔を見つめる彼女を占めていたのは、疑心と固執であった。それは悲観視の結果か、それともまた信念の産物なのか?
「あなたの考えはわかったわ。けれど、そのやり方にはとても頷けない」
「俺にはこうするしか手段がないんだ、レス」
ふと、サルヴァトーレは微笑の仮面を取り外した。その表情からは、彼が計画に対して、また彼女を引き入れることに対して、ひどく愚直であるということが瞭然としていた。セレスティアの気分というのは、どうしようもなく絶望的であったに違いなかった。彼女は仲間を見つめるときのような眼差しをしていた。
「…彼らは王族を皆排除するつもりよ。あなただって例外じゃないわ」
「そんなことは塵埃に過ぎない。何かを達成するのに、犠牲はつきものさ。君だってそれには共感してくれると思うけれど」
彼女は何も答えず、ただ当惑と悲哀の感じられる面持ちを彼に向けていた。彼は深く息をつくと、さて、とわざとらしく明るい声で言った。
「俺が言いたかったことはこれで全部だ。君の決意を揺らがせることができなかったなら、仕方ない。でも俺はほんのちょっと諦めが悪くてね。もう少し、君に考えてほしいんだ。せめて、丸一日くらいは使ってね。…明日、同じ時間にこの場所で。どうかな?」
「何日かけて考えても、私があなたに賛同することはないわ。会うだけ無駄よ」
「それでも俺は明日、ここで待っているよ」
サルヴァトーレが優しくそう告げたとき、セレスティアは綻びを見せてはいけないことを悟った。それに気付けば、人は縫い目を解くのが容易いことなのだと思い出すものだ。
「…次に会うとき、私はあなたを殺すわ。それか、あなたが私を殺すか。二つに一つよ。共存の道はないでしょうね」
彼女はこれ以上なく明白に告げた。まるで、運命さえなければ和平を結ぶことができたとでも言うかのようであった。彼は車窓から町の様子を眺めた。
「ここが死に場所か。悪くはないけれど」
セレスティアは彼の気の抜けた冗談―あるいは、本気で言っているのかもしれないが―には反応せず、今度こそ扉に手を掛け、それを開けた。脚を下ろす前に、彼女は言った。
「もうすべては始まっているわ。私が始めたから。明日、なんて悠長なこと、あなたも言っていられなくなるかもしれないわよ」
怒鳴るなり睨みつけるなりしてくれたなら、彼女も心を悩まさずに済んだかもしれないというのに、彼は温情を込めて微笑んだ。
「また明日、レス」
「…ええ、また。…サルヴァ」
彼女が馬車を降りると、オスカーが安堵の表情で彼女を出迎えた。従者の少年は品定めするかのように彼女の全身に素早く目線を走らせ、それから無関心を装って恭しく頭を下げた。馬車が走り去ると、ジョーイがぼんやりと呟いた。
「困った方だろ、あの方は」
テオは敵を撒いたのをしつこいほどに確かめてから、宿屋に戻って来た。彼らの居場所が割れるのは時間の問題とはいえ、皆が揃うのを待つ余裕はありそうであった。彼は外套の頭巾を外すと、首を鳴らしながら部屋に入った。部屋には誰もいなかった。疲れを癒そうと寝台に横になったとき、誰かが廊下を歩く音が聞こえた。彼のいる部屋を過ぎてすぐ扉を開けたので、仲間の一人が帰って来たのだとわかった。
そう間隔を開けず、別の誰かが隣の部屋に入っていった音がした。直後、何やら大きな喚き声が聞こえてきた。何と言っているのかまでは判断がつかないが、リーンの声であるようだった。テオは気怠そうに起き上がり、欠伸をしながら隣室に向かった。
「何を騒いで―」
そう言いながら中に入っていった彼は、目の前の光景に思わず口を噤んだ。広がった血だまりの中央にツキノが横たわっている。服でよく見えないが、腹にはいくつかの傷口が広がっているようだ。喉には曲刀が突き刺さっている。しかし、彼女はまだ生きていた。刀を抜こうとする気力もなく、ただ横たわっているだけだが、まだ息があるのである。
彼女の横には青ざめたゼンが跪いており、彼に向かってリーンが罵声を浴びせかけていた。無理もない。真実がどうあれ、彼がツキノを手に掛けたように見えるのは確かだった。テオは血を跨ぎ、リーンの傍に立った。
「ちょ、落ち着けって!―ゼン、どうした?」
「違うんだ…戻って来て、ツキノの様子を見に来たら、もう…」
「何とぼけてんの、あんたがやったんでしょ!?そうじゃなきゃ―」
リーンは明らかに恐慌状態に陥っており、微かにとはいえ息をしているツキノを完全に放置していた。テオは彼女の肩を掴み、自身のほうを向かせた。
「お前はどうしちゃったんだよ、リーン!ちょっとは落ち着けよ!」
「ゼンじゃないなら誰がやったっての?他に誰ができたと思うわけ?」
彼女はテオの両手を振り払いながら、彼にそう訴えかけた。ゼンもまた、背後から懇願するように言った。
「違う、俺じゃない!」
「言い争ってる場合かよ!助けないとだろ?」
「ずっとやってるが、傷が治らないんだ…くそ、どうなって…」
まだ光のあるツキノの瞳を見つめ、ゼンは望みもなく首を振った。彼女は言葉にならない声を漏らしながら、絶えず涙を流していた。テオは彼女の横に屈み込んだ。傷を検めて彼が確信を持ったことは、彼女が生きているのが異常なことであるということだった。
そのとき、彼の脳裏をある情景が掠めた。くり抜かれてなお鼓動する心臓、そこに突き立てられた短剣。彼ははっとして、ツキノの喉を貫く刀を見た。出血を気にしてか、ゼンとリーンが刀を即座に抜かなかったのが不幸中の幸いだろうか。いや、不幸を増すだけか。
「…駄目だ。もう、死んでるようなもんだぜ」
「あんたなんてこと言うの!?」
声高に叫ぶリーンのほうを振り返ることなく、テオは悔しそうに刀を見つめ続けた。
「前に見たんだよ!今、ツキノが生きてられてんのは―」
そのときだった、この場に最も居合わせてはいけない人物の声がしたのは。彼らは目の前の惨劇に夢中になるあまり、部屋の外のことはまるで気にかけていなかった。
「…ツキノ」
三人は同時に扉のほうを見た。ミカゲが呆然と立っていた。ツキノは何かを伝えようとするかのように呻いたが、その音は何の意味も成していなかった。ミカゲは間に入ろうとしたテオを突き飛ばすと、足早に妹のほうに向かい、迷うことなく刀に手を伸ばした。テオは咄嗟に怒鳴った。
「馬鹿野郎!それに触るな!」
この状況で、ミカゲがそんな忠告を聞くはずもなかった。彼女は最期、絶望的な表情をした。刀が抜かれたときこそ終わりだと、告げられていたのかもしれない。刃先が肉の合間から姿を現したとき、少女は絶命した。今やその瞳は光を宿さず、ただ希望の途絶えたことを知らせる一筋の涙が、もう青ざめるのみの顔を寂し気に辿った。ミカゲは瞬時に妹の死を悟ったが、それが自身の手によるものだとは気付いていないようであった。
「…誰がやった?」
彼は刀を取り落とし、怒りに震える声で言った。あれほど騒いでいたリーンも、彼に気圧されて言葉が出ない様子であった。ゼンは死人のように青くなり、口を半開きにして相棒を見上げていた。ミカゲは冷ややかに彼を見下ろした。
「お前なのか?」
「違う、俺じゃない…何で俺が、ツキノを…」
「コスタトに味方してるのか?」
「いつ俺がそんな素振りを見せた!出会った頃から、俺はお前とツキノとずっと一緒だっただろ?お前のことも、ツキノのことも、本当の家族みたいに大切に思ってきたんだ!それがこんな…こんなこと、できるわけないだろ!?第一、俺はそんな刀なんか持っちゃいない!」
ついに語気を荒げたゼンは、忌々しそうにミカゲが落とした刀を指さした。実際のところ、彼がツキノに対して特別な感情を抱いていたのは誰の目にも明らかであったし、彼女もまた、彼を憎からず思っていたはずであった。そのことを考えると、彼が彼女を殺めたというのもなさそうな話ではある。
しかしおそらく、ミカゲには家族愛以上の愛の形など到底理解できないのであろうし、どんなに親しくとも、彼が相棒を家族とみなしたことなどなかったのだろう。彼にはもう、家族はいなかった。考えるのが苦手な彼は、早くも犯人を断定しつつあった。
「金を何に使った?」
「…は?」
「そこの奴に聞いた。お前があの女に金を求めたと」
ミカゲはテオのほうに顎をしゃくった。ゼンは信じがたいものを見るような目でテオを見た。テオは黒豹族が何に金を使うのかとミカゲに尋ね、成り行きで昨晩の出来事をすっかり話していたのである。
「あれは違う…なあ、そうだろ?」
ゼンは慌てて言い、救いを求めるようにテオに問いかけた。テオは困惑して目を泳がせた。
「え、な、わかんねえ、けど…」
彼がそう言い終えるが早いか、何か床に重いものが落ちる音がした。新しく血が飛び散り、テオの顔にはねた。リーンが怯えたように息を呑んだ。ミカゲは手についた血を振り払った。そのとき、面倒を避けたいがために騒動が聞こえぬ振りをしていた宿屋番の黒豹が、ようやく重い腰を上げて彼らの様子を見に来た。青年は、想像だにしていなかった光景に言葉をなくした。ミカゲは無感情に彼のほうへ顔を向けた。
「お前もあいつらの仲間だろ」
いやはや、早とちりな男である。またも血飛沫が舞い、リーンは思わず両目を覆った。はっとしたテオが慌ててミカゲに詰め寄る。
「こ…んの馬鹿野郎が!お前、自分が何したかわかってんのか!?」
「…お前には関係ない」
「くそ!おい、ずらかるぞ!」
テオが怒鳴ると、ミカゲは舌打ちをしながら移動を始めた。それに続こうとして、テオは部屋の中で固まったままのリーンに声をかけた。
「リーン、急げ!まずいって!」
リーンは突然意識を取り戻したかのように顔を上げると、本能のままに部屋を飛び出し、テオと共に廊下を駆けて行った。彼らは宿屋の外で、追手の陽動を終えて戻って来たエッタとアメラに鉢合わせた。
「おぬしら、何があった?」
いち早く異変に気付いたエッタが低く言った。
「後で話すけど、とにかく今はとっととずらからねえとまずいことになる!―おい、アメラ。わりいけど、セレスティアを探してきてくれ。ここに戻って来られちゃ困る」
「そうみたいだな」
アメラは血の匂いに顔をしかめながら頷くと、セレスティアたちを探しに駆け出した。テオは辺りを見回し、ミカゲの姿がないことに気が付いた。
「あの野郎、どこ行きやがったんだ?」
「ミカゲの場所なら儂にわかる。ついてこい」
エッタはそう言って、彼が辿った道を追跡し始めた。テオとリーンは何とか彼女についていき、やがて三人は町の外れの、所有者がいないらしい古びた建物の前にやってきた。
「―そう。何にせよ、あそこには長居できなかったものね。彼らは総力を挙げて襲撃犯を探しているでしょうから」
宿屋での事の顛末を聞いたセレスティアの反応は、こうも味気ないものだった。しかし、テオやリーンにはそのことに驚愕したり抗議したりする気力も湧かなかった。彼女の人が変わったかのような態度には、コスタトに入ってからというもの、皆ひしひしと感じていたものだったに違いない。
ミカゲは離れたところに座り、警戒するように彼らの様子を窺っていた。彼が逃げ出さないのは、彼一人では何もできないということを承知していたためであり、また彼の離脱が一同に大きな損害を与えるということに気付いていたためであろう。
「ここがばれるのも時間の問題か。どうする気だ?」
テオはため息交じりに尋ねた。
「相手が動くのを待ちましょう。ベッファや、あとはあのヴァレンティノという男…彼らを駆り出さざるを得ない状況に仕立て上げたのだから。あとは一度に叩くだけ…」
「窮鼠猫を嚙む、だな。奴らが怯んでる今が好機な気もするが」
物憂げにジョーイが言った。彼に同調するように頷きながら、胡坐をかいたリーンは大きく伸びをした。
「ね。あいつらが出て来るのを待ってないで、このままお城まで攻め上がっちゃったほうが良いんじゃない?こうしている間にも、きっと向こうは態勢を整えてるよ」
「けどよ、奴らはルーセチカとゾルギックに戦をけしかけたんだぜ?ルーセチカでかなり消耗したはずだし、ゾルギックでも大勢死人が出たって話だ。さすがにろくな兵力は残ってないだろ」
と、テオ。失った兵士の数で言えば、確かにコスタトが圧倒的に損害を被っていた。皇帝とその血筋を失ったゾルギックが再起不能な状態にあるのは言うまでもないが。エッタが反駁した。
「であれば、なおさら宮城を取りに行くべきではないかのう?」
「いいえ。今あの城に私の求めているものはないわ。彼らがそこに現れるまで待たなければ」
セレスティアが答えると、アメラは不思議そうな顔をして彼女を見上げた。少女はまだ、人との価値観の違いという溝に気付いてはいなかった。
「セレスタは、あいつらを殺せたら満足なのか?」
「そうよ。命ある限り、彼らは目的の達成に尽力し続けるでしょうから」
すべてが自身の充足のためではないと、信じたいだけではないのか?…などと、直接尋ねることができたら良かったのに。彼女は今やすっかり歯止めが効かなくなって、自身が何を求めているのかさえ、最早わかっていないのかもしれないが。アメラは何か言いかけて口を閉ざし、むっとして丸くなった。
「ね、ていうか、ここって一晩持つのかな?ここで見つかったら、さすがに戦うには狭すぎるけど」
リーンはわざとらしく口を挟むと、埃っぽい小部屋を見回し、口元を歪めた。
「王都も広いから、一晩くらいは身を隠せるんじゃないかな。向こうだって人手不足だ」
魂が抜けたように黙りこくっていたオスカーが答えた。テオは皮肉っぽく笑った。
「砂漠の真ん中じゃ、野営も上手くいかないしな」
「僕が見張っておくから、いつでも動けるように準備だけしておいてくれれば良いよ」
オスカーは疲れているようには確かに見えないのだが、それにしてもぼんやりとしていて、どこか人間味のない雰囲気を醸し出していた。リーンもそれを察していたのだろう。
「働き過ぎでしょ、騎士様。他の人に任せなよ、あたしは嫌だけどさ」
「心配はいらぬ。妙な気配がしたら儂の目が覚めよう」
そう言うと、エッタは早速寝そべって目を閉じた。オスカーは結局眠らずにいるつもりのようだったが、セレスティアはそれを制そうとはしなかった。リーンは説得を諦めて眠りに就き、テオもまた上の空で、問題をまったく気に留めていないようだった。夜の帳が下り始めていた。
2025.2.17




