小さき訪問者
さて、諸君も一度は考えたのではないだろうか。当たり前のように自我をむき出しにしながら語りを務めているこの”私”が、なぜ彼らの―つまりテオやリーゼルたちの―言動を、その場にいないのにもかかわらず把握しているのか、ということを。考えたこともない?それも良かろう。
答えは極めて簡単だ。私が緋眼で、その中でも知を司る能力を持っているから。詳しく言うなら、過去に起きたほとんどすべてのことを知ることができる、ということだ。ある人がこれを『全智の緋』と呼んだことがあるが、率直に言って、完全には程遠い能力だと思う。
確かに、望めば知りたい過去をこの目で見、この耳で聞くことができるが、諸君には想像もできないほどの労力を要するし、時折抜け出せないこともある。逆に、どうしても見ることができない過去もある。弾かれたように現実に戻されてしまうのだ。また、知りたくもない誰かの過去を夢に見たりもする。戦争だとか、拷問だとか、あとは…ああ、この話はよそう。
そうは言ってもやはり恩恵のほうが多い。世界中の学者が追い求めている聖女クレアが書いた手記を、断片的とはいえ覗き見ることができたのはこの能力のおかげなのだから。
ちなみに私には姉がいるのだが、彼女は未来の出来事を知ることができる。同じ人に『先見の緋』と命名されていたと記憶している。もっとも、彼女が知る未来はいつも抽象的で、おまけに能力を使うと悪い時には数日寝込むはめになるのだが。今はどうだか知らないとも。何せ十数年会っていないからね。
リーゼルの屋敷に招待されてからというもの、テオは彼女の厚意―来たいときにいつでもいらっしゃい―に甘えに甘え、連日入り浸るようになっていた。遠慮を知らない奴だ。
無銭飲食生活が始まって数日が経過したが、ウィリアムからは音沙汰がなく、血濡れの天使もまた大人しくしているようだった。テオにとっては、彼女が国を去ってしまったのではないかと気を揉む日々であった。
その間、テオがリーゼルについて知ったことと言えば、彼女が屋敷ではその瞳を露わにするということだけであった。その緋き瞳が時折貫くように彼を捉えるのには、彼女もわざとやっているわけではないとはいえ、テオを脅かした。
ある日の昼頃、彼は当然のように屋敷を訪れ、ジリアンを呆れさせた。
「ようこそおいでくださいました。ですが、本日はお引き取りくださいませ。主には来客のご予定がございますので」
「まじで?今日も来て良いって言われたけど」
「…左様でございますか。失礼いたしました」
侍女である身としては、そう言う他あるまい?ジリアンは眉をひそめたが、主人がそう言ったのならば―この異国人が嘘をついていない限り―何か考えがあってのことだろうと思い直した。テオはジリアンについていって厨房に入ろうとしたが、その鋭い視線に阻まれてしまった。数日程度では彼女の氷山のような警戒心を溶かすことはできないのである。
「何か御用でしょうか、お客様」
「おう。世間話でもどうかと思って」
「申し訳ありませんが遠慮させていただきます。御覧の通り仕事がございますので」
ジリアンは手元を見つめて作業に集中していた。テオは入口の枠に寄りかかり、呆れたようにため息をついた。
「んな硬いこと言うなよ。仲良くしようぜ、『お客様』とかやめてさ、ジル?」
テオが彼女の声色をまねてそう言うと、ジリアンの機嫌はますます悪くなったようだった。彼女は先ほどよりも鋭い、突き刺すような一瞥をテオに与えた。愛称を使われたのが気に食わないのだ。彼はわかったよ、と両手をあげて降参した。それでも退散まではしないのがテオである。
「そういえばさ、なんでウィリアムの屋敷であんたが出てきたんだ?」
この男はなぜ愚かにもグレイフォール卿を呼び捨てにしようと思ったのだろう?また彼女に睨まれているではないか。
「卿の執事が取り込み中だったので」
「だからって他所の侍女が応対したりしなくないか?」
「ええ。おっしゃる通りです。ただの習慣でございます。かつては卿にお仕えしていた身ですから」
「へえ。なんでまたリーゼルに鞍替えしたんだよ?」
無視。ジリアンは余計なことを喋ってしまったといった様子で、黙々と作業に集中し始めた。鍋を火にかけ、具材を切り…。と、そこに玄関の扉を誰かが打ち鳴らす音が聞こえてきた。テオは―まだそこにいたのか―その音に反応して玄関のほうを見ながら言った。
「俺が出ちゃおうかな」
「ご冗談はその寝ぐせだけになさってください」
確かに彼はなかなか芸術的な寝ぐせを携えていた。ジリアンは布巾で手を拭きながら彼の横を通り抜けた。そして去り際に振り向いたかと思うと、頭を鍋のほうに傾けながら付け加えた。
「お暇なら鍋が噴きこぼれないかどうかだけ見ておいてくださいますか?」
「あいよ」
そう、この数日でジリアンはテオの扱いを心得てきたらしく、たまにこうして彼に頼みごとをするようになっていた。言い方を変えれば、扱いが雑になってきたというだけなのであるが。
客人はロイドという少年であった。少年といってもそれは見た目の話であって、実際はウィリアムと同い年なのだが。
彼は百五十年ほど前、ルーセチカ王国が隣国と激しい戦争をした際に、齢十六にして―彼の見た目はその頃のままなのだが、その背の低さと童顔さのために、余計に子どものように見える―軍師として名を馳せた人物である。ちなみにウィリアムがグレイフォール領を国王から賜ったのもこの戦争のときである。
「国王かロイドのどちらかでも欠けていたらルーセチカが屈辱的な敗北を味わっていただろう」というのはよく言われており、その名声は世界中に広がっているとかいないとか。そういうわけなので、テオが彼と対峙したとき、ジリアンは諸々の説明をしておかなかったことを悔やんだに違いなかった。
「おっ。リーゼルの弟か?」
恐るべき第一声。唖然とするロイドの後ろでジリアンは言葉も出ない様子で固まっていた。が、すぐにロイドは笑い出した。
「この僕を知らないということは、君が噂のテオなんだろうね?」
そう言うと、ロイドの若葉の色をした瞳が緋く輝いた。瞳に宿すは『浮勢の緋』。彼はふわりと宙に浮かび、テオと顔をつきあわせた。テオはぎょっとして身を引きかけたが、その場にとどまってその目を見つめ返した。
「ただの子どもじゃなさそうだな」
ロイドは大人びているようでまだあどけない顔で再び笑うと、宙で胡坐をかいた。そしてその見た目にしては大きい手を彼に差し出した。
「僕はロイド。君が思っているよりはずっと年寄りだし、ずっと偉いんだよ」
「はあ…」
テオは戸惑いながら目の前に浮かんでいる少年と握手をした。その間ジリアンはというと、じっと押し黙ってテオの寝ぐせを見つめていた。ロイドが来る前に直させておけばよかったとでも思っていたのだろう。そこに、物音も立てずに屋敷の主が下りてくる。その気配に振り向いたロイドは床に降り立つと、彼女を見上げて言った。
「やあ、お嬢様。元気そうだね」
「ええ、ロイド様も。―あら、テオ。来ていたのね。ごめんなさい。ロイド様がいらっしゃるって、昨日はすっかり忘れていて。今日は悪いけれど…」
リーゼルは申し訳なさそうに控えめな微笑みを浮かべた。ジリアンが背後でやっぱり、と言いたげに首を振った。テオはあからさまに落胆した。
「あー、そう?…いや、しょうがないよな!うん、いっつも御馳走になってるのも悪いし。帰るよ、俺」
「僕としてはいてくれて構わないよ」
「そんなこと言われたら、俺本気にするんだけど。…いいのか?」
「もちろん。君のことはウィリアムからも聞いていたし」
テオは期待に満ちた瞳をリーゼルに向けた。彼女は安堵とわずかな困惑が入り混じったような顔つきで頷き返し、ロイドにちらりと目をやった。ロイドは気付かない振りをして適当な世間話を始めた。ひとまずここでの役目はなさそうだと見て取ったジリアンは厨房に戻っていった。テオは彼女をそっと引き留め、耳打ちした。
「あのロイドって子ども…いや、年寄り?ってすげえ奴なのか?」
「はい。すげえ方です」
侍女はそうあしらい、せかせかと準備を始めた。テオが少しふてくされながら振り向くと、二人はそこにいなかった。テオを置いて一足先に食堂へ入ってしまったようである。再び厨房を覗き込んだが、やはりジリアンは彼のことなど眼中にないといった様子で料理を盛り付けていた。テオはため息をつき、ふらふらと食堂に向かって歩きだした。
皿を均一に並べたところでジリアンは下がり、わずかながらの厳かさを帯びた食事が始まった。作法をわきまえていないテオのほかに音を立てているのは壁の中央に構えている時計だけだった。ふと手を止め、リーゼルがその沈黙を破った。
「ロイド様。本日は議会があるのでしょう?」
「あるよ。またどうでもいいことを話し合うだけだろうけどね。何で?気になることでもある?」
「こうゆっくり食事を取っていたら、きっとまた遅刻なさると思って。そうなったらグレイフォール卿が良い顔をしないのでしょう」
「別に僕が行かなくったってなあ」
ロイドは正面にいるリーゼルのほうをちらと見やったが、食事の手は止めなかった。リーゼルも再び手を動かし始めた。食事が始まってからというもの一切顔を上げずにいたテオは、料理を貪るのを一時停止して二人の顔を交互に見た。そして数瞬躊躇してから口を挟んだ。
「議会?」
今度はロイドが手を止める番だった。リーゼルは静かにスープを口に運んでいる。
「誓民議会って言ってね。陛下の代わりに色々決めごとをするんだ。ま、実際僕たちを集めたのはジェローム王子だけどね」
「へえ。王族は忙しいってことか?」
「さあね。陛下が姿を見せなくなってからしばらく経つけど、どうしているかはわからず仕舞いさ。王子には政をするだけの脳がない上に瞳も、ね」
「んなこと言っていいのかよ…」
リーゼルが呆れたように頭を振り、ロイドは乾いた笑いでテオに返事をした。再び沈黙が走り、テオはあっという間に皿に残っていた料理を食らい尽くしてしまった。少し経って、二人がほとんど同じ頃合いに食事を終えると、時機を知っていたかのようにジリアンがやってきて皿を下げていった。扉が閉まると、テオが半ば独り言のように呟いた。
「…ルーセチカは紫だっけ」
ルーセチカ王位継承者は紫苑の花のごとき紫色の瞳を持って生まれてくる。瞳の色が王たる証となるのはこの国に限った話ではなく、伝統ある国の王家はそれぞれ特有の瞳の色を継いでいるのである。
ルーセチカ現国王アルフレッドも例に漏れず麗しき紫の瞳をしているのだが、問題は先ほど話に出てきた第一王子ジェロームの瞳が母親譲りの藍色であるために、伝統に従おうとすると現時点では誰も王位を継承できないという点にある。まあ、私の知ったことではないが。
「うん。宝石なんて比にならないくらい綺麗なんだよ」
ロイドが頬杖を突きながら微笑んだ。どこを見ているわけでもなかったから、きっとあの若々しい王の顔を思い浮かべていたのだろう。リーゼルは自分の手元を見つめながら言った。
「王家の瞳と言えど、ロイド様がそんな風に褒めるなんて。私もいつかお目にかかりたいものですね」
「その言い方じゃ、僕が普段何も褒めようとしないみたいじゃないか」
「ウィリアム様のほうがまだ賞賛の言葉を口になさいます。…そろそろお時間なのでは?」
彼女は時計を見やった。ロイドが屋敷に来てから二時間ほどが経過しただろうか、いまや時計の針がもう一周しないうちに議会が始まる時刻であった。議員殿は伸びをすると、少し姿勢を崩して天井を仰いだ。
「紅茶を楽しむ時間くらいあるさ。もうじき君の侍女が紅茶を淹れて持ってきてくれるでしょ」
「ジリアンなら今頃お掃除に精を出していますよ」
ロイドは天井から視線を戻すと、リーゼルが微笑するのを見て肩をすくめた。靴を投げ出して椅子の上に胡坐をかき、物思いに耽っていたテオ―随分大人しくしていたものだ―が彼女のほうに顔を向けて言った。
「俺の分もないの?」
「頼めば淹れてくれると思うわ」
そう言ってリーゼルは小首を傾げた。ようやくロイドが立ち上がり、気だるげに扉へと歩き始めた。待ってましたと言わんばかりにジリアンがその両開きの扉を開き、彼を迎えた。
「ご馳走様、美味しかったよ。紅茶も申し分なかった」
「ご満足いただけたようで幸いでございます」
と、侍女はロイドのために道を開けた。去り際のロイドにテオが声をかけた。
「なあ。その議会って王子様も来んの?」
「いや。興味がないらしい」
「なんだ。こっそりあんたの後をつけて顔でも拝もうと思ってたのに」
ロイドは短く笑うと、見送りに廊下まで出てきたリーゼルの頬に軽く唇を触れさせてから玄関へとゆっくり歩いて行った。その姿が屋敷の外に消えてゆくのを見届けると、リーゼルは二階の自室に向かおうとした。彼女が階段の一段目に足をかけたところで、食堂を出てきたテオが呼び止めた。
「あれ。もう部屋に戻るのか?」
「ええ。今日はやることがあるの。そうしたければのんびりしていていいのだけれど」
振り向いたリーゼルの緋い瞳が灯りを受けて不気味に輝いた。テオは頭を搔いて答えた。
「そう言ってくれるなら遠慮はしないぜ。―でも、あんたがいてくれないなら暇になるな。ここんとこ天使の情報もないし」
「あら、そうなの。…ひょっとしたら、もうここにはいないのかもしれないわね?」
「そりゃないだろうな。絶対もう一騒ぎ、いや二騒ぎくらい起こすに決まってんだ」
「あなたが言うならそうなのでしょうね」
リーゼルは微笑み、再び階段を登ろうとしたが、今度は玄関からの物音でそれを阻まれた。見ると、例の好青年―ウィリアムの屋敷でテオがぶつかりかけた男―が入って来たところであった。彼がリーゼルの用心棒であるということ、そしてその名がオスカーであるということをテオが知るのにはそう長くはかからなかった。彼女の紹介があったため、二人はすでに顔見知りであった。オスカーは初めにテオに気が付き、片手を上げて挨拶した。リーゼルが顔を覗かせた。
「おかえりなさい、オスカー。早いのね」
「ただいま戻りました。―ロイド様はどちらに?ご挨拶したく、こうして急ぎ戻って来たのですが」
「それなら一足遅かったわね。ちょうどお帰りになったところよ。すれ違わなかったの?」
そう尋ねたリーゼルはむせるような咳をし、テオから見えないように顔を背けた。オスカーは彼女の問いに答えることも、彼女の心配をすることもせずに、片手を口元に当て、思案するようにテオが立っていないほうの壁を見上げた。テオはその様子を何も考えていなさそうな表情で見つめていた。それらはほんの数秒の出来事で、二人はすぐに何事もなかったかのように会話を続けた。
「…では、お嬢様。何かありましたらすぐにお呼び立てください」
「ええ」
リーゼルが行ってしまうと、テオは自身の場違いさを突然思い知ったかのように、そそくさとその場を去ろうとした。
「帰っちゃうの、テオ?」
その言い方は特別寂しそうでもなく、ただの確認に過ぎないようであった。テオは唖然とした顔で振り返った。
「えーっと…だめか?」
「そうじゃないよ。せっかくお互い時間があるなら、お茶でもどうかと思ってね。僕たち、知り合ってからろくに話したことがないでしょ?」
「いつ俺が時間を持て余してるっつったよ?…ま、その通りなんだけど」
「すまない。他意はないんだ。―それで、どうかな?」
「いいぜ。リーゼルに受けた話でも披露してやるよ」
テオはもとより紅茶をいただいていくつもりだったに違いないが、それをジリアンにどう頼んだものかと考えていたのだった。彼がそんなことを言い出せば、あの侍女は呆れ顔をするに決まっていた。
どういうわけか彼の図々しさを咎めるのはジリアンだけで、それも直接的ではないものだから、テオは余計に図に乗り、かつその些細なお咎めも必死で回避しようとするのである。
そういう事情があるので、彼にとってオスカーの誘いは非常に都合が良かった。この才色兼備の恋敵―だとテオは勝手にみなしている―をあまり好ましく思っていなかったとしても、だ。
さて、部屋に戻ったリーゼルは何やらごそごそと準備を始めた。こもるのではなく出かけると見える。彼女は寝台の横にある戸棚の鍵を開けると、中からおぼろげな輝きを放つ緋石を取り出した。彼女がそれを両手で包み込み、祈るように目を閉じると、部屋中が光に満たされた。次の瞬間には、まるでその光に溶けてしまったかのように、彼女の姿は部屋から消えてしまった。
2025.1.8




