砂塵は風に吹かれて
好展開
桃白白
ジョーイはジスレーヌに道を作ってもらい、被弾したオスカーの救援に向かった。落下していくオスカーを茫然と眺めるジスレーヌは、珍しく青ざめていた。顔には出なかったものの、ジョーイもまたかなり動揺していた。彼が手の震えを、服を掴んで治めようとしていたことに気付かないほど、私もぼんやりとはしていない。
オスカーが砲撃を受けたのは、ロイドの退場によって自由を取り戻し、飛来してくる鉛玉を、巻き起こした風で撥ね退けた直後だった。攻撃に移る間もなかったのである。彼の傍に跪き、ジョーイは息をついた。彼はまだ生きていた。竜の肉体というのはやはり軟ではないらしい。が、重傷なのは確かだった。そんな状況にもかかわらず、オスカーは医者の姿に気付くと微笑を浮かべた。
「…君が来てくれて…安心したよ」
「こいつは驚いたぜ!話す余裕があるとはな、旦那。ま、静かにしといたほうが良いぜ。どうせすぐに良くなるからな」
オスカーは掠れた声で笑い、少しの間黙っていたが、再び口を開いた。
「ありがとう、ジョーイ…僕は、こんなところで死ぬわけには…いかないんだ。あんな…攻撃…」
「そうだろうさ。だが、こんなんじゃ死なないんだろう、あんたは?―ちょいと、ちくっとするぜ」
「これで死なないのはわかってた…でも、死ぬならこれのせいかも…って、さっきは本気で思ったんだ」
何を焦っているのだろう?ジョーイは安心させるように笑った。
「こんなときにおしゃべりになるのかい、旦那?さ、もうすぐだからな」
「うん…ありがとう、ジョーイ」
「礼なんか…」
ジョーイは曖昧に口角を持ち上げると、今扱っていた箇所の傷が完治したのを確かめ、息をつき、次の患部に慎重に道具の針を突き刺した。
「おい…何の騒ぎだよ、あれ?」
遠くから響いてくる低い唸りと、その合間に聞こえる大勢の悲鳴を耳にしたテオが呟いた。アメラは鼻をひくつかせた。
「あの変な武器とおんなじ匂いがするぞ」
「けど、あんな音じゃなかったよな?」
「同じ仕組みを使った、別の兵器でしょう。また戦況が変わったのかもしれません」
背筋をまっすぐに伸ばしたジリアンは、正面の空をじっと見据えながら言った。遠くの空で、虫のような弾が飛ぶのが見えた。
「なあ、ジル、こっからどうなんの?」
テオが尋ねると、ジリアンはもの問いたげに彼に目をやり、すぐにその言わんとしていることを理解した。彼女は躊躇ったが、何の悪気もなく向けられた期待の眼差しにとうとう観念した。
「…やるだけやってみます」
小さくため息をつき、ジリアンは瞳を緋くした。その瞳が虚ろになり、彼女が未来の世界に足を踏み入れたのがわかった。と思うと、彼女は突然目を見開き、激しく息を吸い込んだ。光の戻った瞳は元の色に戻っていた。ぎょっとしたテオが彼女を揺さぶった。
「ジル、どうした?」
「…これから起きることは、世界の秩序を大きく変化させることだ、ということしか今は言えません」
「わかったの、それだけか?それって良くないことなのか?」
アメラが横から心配そうに尋ねた。ジリアンは力なく首を振った。
「わかりません。今これ以上見ようとすれば…とにかく、戦の途中で倒れるわけには参りませんから。せめて、向こうで何が起きているのか確かめられたら良いのですが」
ジリアンはまたため息をついた。テオは俯いて少し考え込むと、顔を上げて二人のほうを見やった。
「…俺、ちょっと行って来る」
彼は返事も聞かずに歩き出した。ジリアンが後ろから声を上げる。
「なりません。私たちの役目は、ここに来た敵を食い止めることでしょう」
「あの騒ぎだぜ?敵なんざ来やしねえよ。ちょっと見て来るだけだからさ」
テオははにかむような笑みを浮かべて振り返った。アメラが彼に歩み寄りながら言った。
「なら、アメラが行く。アメラのほうがお前より速い」
「いいから待っとけって。大丈夫だ、絶対戻ってくっから。な?」
テオはアメラの肩に手を置くと、有無を言わさず、颯爽と駆け出した。
「テオ!」
「ほんと馬鹿だな、あいつ。行って戻って来るならアメラのほうが良いに決まってるのに」
「そういう問題では…」
ジリアンは辟易したように呟いたが、何かの音を耳にして口を閉ざした。それは背後から聞こえてくるようであった。彼女は武器を構えて振り返り、すぐに両手を下ろした。
「あれは…?」
どうやら敵襲ではないらしい。ジリアンが耳にしたのは、馬の蹄が鳴る音であった。体格の良いその馬は、制御を失って走っているように見えた。騎手を振り落としてきたのかと思われたが、よく見ると、その首にしがみつくようにしている何者かの姿があった。
「あれ、ツキノだ」
匂いを嗅ぎ取ったアメラが言った。二人は呆然としながらその馬が向かって来るのを眺めていた。ツキノは人がいるのに気付くと、馬を止めようと必死で手綱を引いた。馬は徐々に速度を緩め、ちょうど二人の前辺りでようやく止まった。ツキノは満身創痍といった様子で、これもまた格闘の末、何とか馬から降りることに成功した。
「あー、怖かった!死んじゃうかと思ったあ…」
「お前、ここで何してるんだ?」
「何って言われても…私、皆が戦ってるのに一人で待ってるの嫌だったから。何かできることがあったら良いなって思ってね」
「あなたにできることはありません。すぐに戻るのがよろしいかと」
「うっ…で、でも―」
「ここに敵が来ないとも限りません。現に私たちは、ここまで侵入してきた敵を排除するためにここにいるのですから。一人は勝手に離脱しましたが。とにかく、あなたの無事を保証することはできません。お戻りください」
ツキノは激しく首を振った。彼女が首を振るほどに、ジリアンは表情を険しくしていった。やがてツキノは動きを止め、縋るような眼差しを相手に向けた。
「邪魔になることくらい、私だってわかってるよ。でも、今前線で戦ってるのは私の家族なんだよ?じっとしてなんかいられないの…こういうのって、理屈じゃないでしょ?」
「戦は感情論でどうにかなるものではありません」
「そうかもしれないけど!でも私、皆が晒されているのと同じだけの危険の中にいたいの。自分の身の安全なんてどうだって良いよ…」
「なあ、ジル。ツキノの勝手だ。ほっといてやれよ」
アメラが仏頂面で言った。面倒くさがっているわけではないようだが、現実的でないほうの肩を持つとは一体どういう風の吹き回しだろう?ツキノは味方ができたことに喜んだ。
「そう、そうだよね、アメラ!そう、私の勝手にさせて!お願い、良いでしょ?」
ジリアンは暫し目を閉じて黙り込んだ。やがて彼女は目を開け、了承も拒否もせずにツキノから顔を背けた。諦念のため息が短く漂った。ツキノは顔を輝かせ、嬉々として黒い頭巾を被った。その頭巾は、ミカゲからは顔が見えにくいという理由で不評だったが、ゼンはよくできていると褒めてくれた。二人が帰ってきたら何をして無事を祝おうかと、ツキノは一人想像を膨らませた。
セレスティアに竜の退場を茫然と見送る時間などなかった。あの聞く者を余すことなく戦慄させる咆哮だけが、彼女に嘆くべき展開を知らせた。猛然と向かって来るようになった敵を捌きながら、彼女は繰り返し中央の戦線の方角に目をやったが、見えるのは舞い上がった砂埃ばかりだった。
やがて、セレスティアの元にも砲弾が降ってきた。なるほど、無理やりにでも彼女を先に進ませないつもりらしい。だが、それは逆効果だった。彼女はそれらをかわすことができたが、鈍いコスタト兵たちはそうではなかった。息絶えたり、粉砕した脚を抱えて発狂したりする彼らの様子を感じ取り、セレスティアは悔しそうに呟いた。
「敵も味方も、あったものじゃないわね」
そして彼女は考える間もなく走り出した。相手が味方諸共こちらを叩きのめす気でいるなら、この国の冠を戴いていたかもしれなかった者として、それをできるだけ早く阻止しなければならないと感じていたに違いない。しばらく走り、セレスティアは足を止めた。
ふと視界が開けたその先で、中央の戦線が死んでいた。この戦で―この戦に限らずとも―、彼女自身、大勢を殺めた身ではあったが、死に支配されたその場所には気圧される他なかった。彼女は包帯を斬り、その目で惨事を見つめた。砲弾の雨を免れた人々が、揃って王都の方角へと走っていく。今この一帯で安全なのは、王都だけであった。
避難するコスタト兵をそのままにしておいて良いのか、彼女にはわからなかった。彼女は道のように連なる死体を見下ろした。
「こんな、死に方…」
そう呟いたとき、セレスティアはぞっとして、オスカーのいた方角を振り返った。呼吸が乱れ、彼女は少しの間その場に立ち尽くしていた。轟音が彼女の意識を連れ戻した。嘆いている暇などなかった。
国王は考えていた。共に国を守ろうと、彼自らが声をかけて立ち上がらせた民たちが、彼の周囲で無残にも打ち砕かれていく、この信じがたい状況のことを考えていた。誰がいけなかったのか?何がいけなかったのか?その自問は答えを見つけることができず、泡のように弾けて消えた。
そしてジェロームは激しい憤りを覚えた。彼の国を、彼の民を滅茶苦茶にした者に報いを受けさせるのだと、彼は半ば錯乱状態で決意した。多くの民が死に、生き延びた者も彼を置いて逃げ去っていた。蛇の姿を目撃される心配はほとんどなかった。目撃されたとしても、彼にとってはもうどうでも良かった。毒蛇はうねる身体で血の混じった泥の中を這い、敵地を目指し始めた。
リーンは敵将マルコに背を向けて走っていた。が、彼女は撤退していたわけではない。いつの間に彼らの背後に陣取り、殺戮を繰り返す敵部隊を止めるべく、単騎で敵の中へ突っ込もうとしていたのである。
彼女の接近に対処すべく、敵兵が武器をこちらに向けてきていたが、リーンは蝶のように弾丸をかわし、空間という空間をすっ飛ばしながら前進を続けた。彼女は一つ目の砲台に到達すると、引き金に指をかけて彼女に狙いを定めている砲兵の首を掻き切った。砲台に向き直ったが、何がきっかけで弾が発射されるのかわからない彼女に、止め方など考え付くはずもなかった。
それに、敵兵はまだごまんといた。一体どこにいて、いつの間にこの攻撃の準備を進めていたのかという問いは、リーンの中には浮かばなかったようだ。彼女は使い方もわからないくせに、砲台の向きを何とかして変えて敵を一掃しようと企んだが、徒労に終わった。
「こいつらには使えるのに!」
自棄になって怒鳴りながら、彼女は匕首を構え直した。ようやく追いついたイーサンが彼女の脇に立った。二人は始まった一斉射撃を、大砲の陰に屈んで凌いだ。声を張り上げてリーンが言った。
「これ、壊して!」
「無茶なことを!」
「あたしに使えないんならこんなのに用ないもん!」
「手っ取り早いのは水をかけることですが…」
「じゃ、やってよ!」
「肝心の水がないのですがね」
イーサンは腹立ちまぎれに言った。リーンは舌打ちしながら敵のほうにわずかに頭を覗かせ、すぐに引っ込めた。敵は撃つ手を止めないよう工夫しながら、じりじりとこちらに迫って来ていた。
「むかつく!あんなの反則でしょ!?」
「さすがに分が悪い…何故指示も待たずに突っ込んだりしたのですか」
「うるっさいなあ!いちいち待ってたらとっくに全滅してるっての!」
リーンが向きになって言い、イーサンはそれ以上の追及を諦める他なかった。彼はふと思案顔になり、戦場に似合わぬ冷静さで考えを巡らせ始めた。
「しかし、あの数の部隊…彼らが迫ってくることに、何故我々は気付けなかったのでしょう?」
「そんなん、あたしが知るわけないじゃん!」
そのとき、背後からカイの雄叫びが聞こえてきた。見ると、彼はこちらに背を向けてマルコに殴りかかっていた。それをアンドルーが援護していたが、ことごとく命中する彼の矢は、敵将に大した深手を負わせることができなかった。
大抵がその巨大な腕に当たってしまったし、どこに傷ができても、マルコはすぐにそれを癒してしまったからである。その治癒の速度は異常で、何か仕掛けがあるのは間違いなかった。唯一マルコを苦しめたのは、先ほど首に命中した矢だけであった。それでも、矢継ぎ早の攻撃は鬱陶しいらしい。
「てめえの拳も使えねえ野郎が戦場に立つんじゃねえ!」
マルコは力任せにカイを抱え上げ、アンドルーのほうに投げ飛ばした。アンドルーは素早く横に飛び退くと、着地と共にまた矢を放った。地面に叩きつけられたカイはというと、痛くも痒くもないといった様子で起き上がり、再び敵に突進した。顔つきが正気であるように見えないのが気のせいだと良いが。
「しつこい野郎共だ…」
そう言いながらも、マルコの精神は昂る一方だった。かつて、これほどまで彼の攻撃をものともしなかった人間はいなかった。彼は目の前で息を荒くする鉄の塊のような男を殺すことに全神経を集中させることにした。飛んでくる矢など、虫だと思えば良かった。
そしてマルコは、たった今好敵手とみなした男に、勢いよく拳を振り下ろした。それはカイの左腕に当たった。しかし、その感触は彼がこれまでの殴り合いで体験し、また今想像していたものとは違っていた。脆い。人間の肉体とは思えないほどに、脆かった。
粉々になった腕に走る激痛に、カイは声の限り叫んだ。アンドルーが唖然として攻撃の手を止めた。マルコは理解しがたいものを見るような目をしながら、もう一度拳を振り上げ、相手の腰の辺りを狙って叩きつけた。カイは立てなくなった。リーンが異変に気付く。
「何、あれ…何で…?」
マルコはうずくまる敵を軽蔑したように睥睨すると、足でその頭を踏みつけた。潰れた。リーンの口から、声にならない悲鳴が漏れ出た。敵将はすっかり機嫌を損ね、もったいぶった足取りでリーンとイーサンのいるほうへ迫って来た。コスタト兵たちもすぐ傍で壁のように並んでいた。彼らは逃げ場を失った。
テオは王都を抜け、空虚に蹂躙されたその戦場に出た。先ほどは遠くの空に見えた砲弾が、今はすぐそこに落ちてきた。敵も味方も、無我夢中で生き延びようとしていた。大勢が彼の横を通り、ひとまずは安全らしい王都に逃げ込んだ。
氷のような眼差しで目の前の惨状を眺めていると、テオはすぐそこにミカゲとゼンがいることに気付いた。彼らは砲撃をものともせず、無様にも逃げ出すコスタト兵を相手に戦いを続けていた。実際、あの兵士たちはどの分際で我が国の王都に平穏を求めようと言うのだろう?このような混乱さえなければ、ルーセチカ陣営は間違いなく彼らを締め出したことだろうが。テオは砲弾の雨の中に飛び込み、黒豹たちの元に急いだ。
「よっ、お前ら!」
テオが声を張り上げると、ミカゲは怪訝そうに彼を振り返った。攻撃を仕掛けそうになって、味方だと思い出し手を止める。
「お前、ここで何をしてるんだ」
「んな睨むなよ。戦況が変だったから見に来ただけだって」
テオは助けを求めるようにゼンを見た。ゼンはその目線に気が付いたが、すぐに逸らして近くにのめり込んでいた砲弾に目をやった。
「この攻撃のことは、あいつらも仄めかしさえしなかったんだ。敵の様子からしても、知らされていたのはごく一部だったんだろうな」
彼は普段よりいくらか殺伐とした様子だったが、口調には穏やかさを残していた。彼の目線の先を追い、テオはため息をついた。
「味方まで巻き込むとか、ありかよ?ほんと糞野郎共だな」
コスタト人の青年が憤懣やるかたないといった調子でそんなことを言うのは、色彩の合わぬ衣服に身を包んだ者を見るときのような、気恥ずかしさと居心地の悪さを周りに与えた。ミカゲは考えるように数瞬黙り込み、辛うじて返事をした。
「…ああ。―おい、戻るぞ」
と、ゼンに対して言う。
「わかった」
二匹は素早く踵を返し、今にも王都に向けて駆け出すように見えた。テオが唖然とした様子で言う。
「え?あっち、行かねえの?」
「何しに行くんだ?」
ミカゲは憮然として振り返った。まるで鏡像のように、テオもわずかに顔をしかめた。
「俺が知るかよ。あっちで何か起きてるっぽいから…」
「あれの中を歩いていくのは簡単じゃないぞ。それより、俺たちは入り込んだ奴らをどうにかする」
ゼンは王都のほうに顎をしゃくった。そしてミカゲに頷きかけ、揃って颯爽と走り出した。テオは心残りのありそうな面持ちで敵陣の敷かれた方角を眺めたが、ついに諦め、悪態をつきながら彼らの後を追った。劇的な瞬間に立ち会おうとする衝動さえ、戦では鳴りを潜めるのであった。
セレスティアはようやく敵将の姿を視界に捉えた。少し離れたところに砲撃部隊が並んでおり、味方らしき人影がその傍にあった。砲撃があっという間に止んだのは、彼らのためかもしれない。彼女は夢中で足を進めた。
そして、視界の端に大蛇を捉えた。間違いなく兄であった。彼が何故こんなところにいるのかは、理屈の上では明瞭であったが、理解し難いものであると我が王女が考えたのは確かだった。彼女は嫌な予感がしたのか、なおのこと速度を上げた。
彼女がそこに到達するよりも早く、毒蛇は敵将マルコの背後を取っていた。コスタト兵の間にどよめきが走った。蛇の影が覆い被さるようにして視界を暗くしたので、マルコはおもむろに振り返った。
「報いを受けよ」
ジェロームはそれだけ言うと、大きく口を開け、頭からマルコに食らいついた。そのまま肩を、胴体をと飲み込んでいこうとしている。その場にいた誰もが、その光景にくぎ付けになった。コスタトの兵士たちは、将を討たれたとすっかり思い込み、数名は戦意を喪失したようにさえ見えた。
だが、次の瞬間には形勢は元通りになっていた。マルコはその巨腕を腹に入れられる前に目いっぱい伸ばして蛇の胴体に回すと、左右の腹を掴み、思い切り反対方向に引っ張った。肉を引きちぎられ、蛇の下半身がねじれながら落ちた。マルコは彼に食らいついたままの頭を乱暴に引き剥がした。
ジェロームはまだ息があるようで、そのおぞましい金眼で敵を睨みつけていた。マルコは蛇の上下の顎を掴み、引き裂いてしまうと、無造作にそれを捨てた。戦場だというのに、時が止まったかのような沈黙が流れた。リーンが激しい呼吸を繰り返すかん高い音だけがした。
セレスティアは思わず手前で足を止めた。彼女はすぐ先に落ちている兄だったものを見つめ、その隣にある誰かの死体を発見し、その正体に気付いて慄然とした。アンドルーは弓矢ではなく、コスタトの生み出した武器を音もなく取り出した。突然、マルコの哄笑が静寂を打ち破った。彼は部下たちのほうを振り返った。その顔つきから、誰もが彼はもう長くないのだと悟った。
「よく聞け、誇り高きコスタトの兵士共!俺はもうまともに戦えねえ。蛇の毒ごときにやられるとは情けねえがな!良いか、お前ら…最後の命令を下すぜ」
マルコはぎらついた瞳をしながら、アーテルニアの方角をまっすぐに指さした。
「…必ず落とせ!コスタトに勝利を!」
すると、抜け殻のようだった兵士たちが戦意を取り戻し、気合いのみなぎるままに声を上げた。マルコはにやりと笑いながらセレスティアたちを眺め下ろした。
その顔を見て、アンドルーは咄嗟に武器を構えた。愕然としている場合ではない。この男だけはここで、この手で仕留めなければならなかった。それが失った友のためか、敬愛する王女のためか、はたまたその両方なのか、私には判断がつかない。彼は迷いなく引き金を引いた。
兵士たちの雄叫びをかき消そうとするかのような轟音が鳴り響き、マルコの片目に弾丸がのめり込んだ。それを合図にしたかのように動き出したのは、リーンだった。彼女はほとんど意識がないような状態で緋眼を暴走させた。前方にいた兵士たちが宙に投げ出され、悲鳴と共に地面に叩きつけられる。セレスティアははっとして駆け出しながら怒鳴った。
「全員、撤退しなさい!」
彼女は敵兵の中に斬り込んでいった。仲間たちが続こうとしているのを感じ取ると、彼女はまた怒鳴った。
「邪魔をしないで!」
緋い閃光―セレスティアは棍で敵の壁を薙いだ。衝撃波のような風が彼らの身体を斬り刻む。アンドルーは、この場に居合わせれば自分も無事では済まないということを悟った。
「行きましょう、イーサン!」
そう叫びながら、彼はリーンの現在地を探した。彼女は上空と大地とを行き来して、ひたすらに兵士を痛めつけていた。とても正気には見えない。イーサンが素早く隣にやって来た。
「彼女、連れ戻さないと」
アンドルーは暴走するリーンから目を逸らさずに言った。
「私にお任せを」
そう言うと、イーサンは狙いを澄ましてリーンに近寄り、その影を登って彼女の後ろにつき、首を絞め上げた。猛獣のようだったリーンはすぐに気を失った。イーサンは彼女を軽々と抱え上げると、素早くその場を離れた。それを見届けたアンドルーも駆け出し、セレスティアは完全に孤立した。そして彼女は、父王が呪いをかけられたあの日以来初めて、その力を暴走させることを自分に許した。
2025.2.11




