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その瞳には、毒がある  作者: 小娘
その娘、疾走する
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刃に思いを込めて

 ゾルギック皇帝イザベラは、両手に乗せた衝撃にどう対処するか決めかねていた。彼女がこうも動揺したのは久方ぶりのことである。アルフレッドが死んだ。いや、コスタトからの使者だという男の言うことを信じるならば、彼は死んでいたのである。


彼の死から一年ほどが経過しようとしていて、さらに彼は約十年間死んでいるも同然の状態でいたのだと、コスタトの使者は無表情に告げた。ルーセチカの友好国の君主である彼女が知らされていないことを、何故コスタトが知っているのか?


しかし、疑うこともよもやできなかった。使者は証拠としてイザベラに箱を献上した。聖騎士カーラがそれを受け取り、イザベラの前で開いた。その中に入っていたのは、アルフレッドの首であった。イザベラはひったくるように箱を取り、よく見知っているその顔を眺めた。とっくに腐っていたはずだが、コスタトはわざわざその顔を復元したようであった。眠っているようにすら見えた。本物だと疑う余地はなかった。


その使者に今にも飛び掛かりそうなカーラを制し、イザベラは使者を追い出した。彼は玉座の間を出た瞬間、糸が切れたように倒れた。彼もまた、死んでいたのである。ベラディールの王女が一枚噛んでいると気付き、イザベラの表情に陰りが増した。


後先のことなど考えていられなかった彼女は、すぐにルーセチカへと発つようカーラに命じた。カーラはミロに言われたことを思い出しながら、皇帝の命令に従った。



 青い顔をしたアンドルーがやって来たとき、ジェロームとロイドはイザベラから届いた文書を茫然としながら読んでいた。彼らもまた生気を失ったかのような顔をしていた。二人がウィリアムの不在を不審に思っているのは明らかで、アンドルーの到着に落胆したようにすら見えた。


が、彼の様子がおかしいことに気付くのには時間はかからなかった。ロイドは瞬時に最悪の知らせが来ることを察した。彼が何事かと尋ねる前に、アンドルーは震える声で言った。


「グレイフォール卿が…」


「…ウィリアムが、何?何があった、アンドルー?」


ロイドは必死に動揺を隠して低く言った。それに驚愕したように、アンドルーは目を丸くした。彼が混乱しているのは誰が見ても明らかだった。


「グレイフォール卿が、塔に…ぶら下がって…」


「どういうことだ、アンドルー!」


もどかしさに声を荒げながら、ジェロームは勢いよく立ち上がった。その瞳は動揺に震えていた。


「あれじゃまるで罪人です…あんまりですよ…あんな、あんな死に方…」


アンドルーは両手で顔を覆いながら、聞こえるか聞こえないかくらいの声量でそう言った。今度はロイドが声高に言った。


「ウィリアムが死んだって言うの?その目で見たのか?」


アンドルーは突然顔を上げ、緋くした自分の瞳を指さしながら絶望的に叫んだ。


「見ました、見ましたよ!微に入り細を穿つまで、この目で!」


彼は苦しげに息を吐き、またうなだれて顔を覆った。どうなっているんだ、とロイドが呟いた。ジェロームは怒りに促されるまま怒鳴った。


「コスタトめ、虚仮にしよって!出陣するぞ、ロイド!」


「駄目だ、それだけは駄目だ。籠城してでも君には生き残ってもらわないと困る」


「そのようなことを言っている場合か!?私はこの国の王だぞ!」


ジェロームがそう言うと、まだ青ざめた顔のままのロイドは辟易した目線を王に投げた。彼が死んだ目をしているとは珍しい。


「…無理やりその座に就こうとしなければ、今頃君も戦場に出られたのにね」


ここまで感情の起伏が激しい人間がいることに驚きが隠せないが、ジェロームは妙に冷めた調子で応酬した。


「では何か?あのまま、眠るだけの無能になったあの男を王に据えていたほうが良かったと言うのか?それとも、私が死ねば良かったか?我が愚妹が本当に一族を皆殺しにしたのなら、私さえいなくなればあの男は目覚めたはずだった、そうだな?だから私が死ねば良かったと、お前はそう言うのだな」


「そうかもね」


ロイドはいつもの皮肉っぽい笑みすら浮かべずに言うと、魂が抜けてしまったかのような様子で突っ立っているアンドルーのほうを振り返った。


「アンドルー、アルフレッドの亡骸が盗まれた。ゾルギックと、多分カルツァにも彼の死が暴露されたみたいだ」


そう言われたときには、アンドルーはむしろ落ち着き払っているように見えた。上ずっていた声は普段よりも低いほどにまで沈み込み、ただ彼の瞠目だけが、その動揺を物語っていた。


「なっ…そんなこと、どうやって?」


「さあね。霊廟を見てきてくれ。僕はウィリアムを」


「…わかりました。あの、ジスレーヌさんを呼んだほうが良いですよ。一人ではとても下ろせませんから…」


「ジスレーヌ、ね…」


ロイドは足早にその場を後にした。アンドルーはその背中を見送ると、旧友の様子を恐る恐る窺った。ジェロームは彼のほうこそ見ていなかったが、たった今ロイドが出て行った扉を憎らしそうに凝視していた。そしてつかつかとそちらへ歩いていき、すれ違う段階になってようやく彼と目を合わせた。


「霊廟に行くのだろう」


国王はいつまでもそこに佇むつもりでいるかのような男を睥睨した。アンドルーは石像のように静謐で慎重であった。


「ええ、まあ。…どこに行くつもりなんです?」


「私には私の軍がある。あやつが何と言おうと、私は戦場に出よう」


「ですが、あなたが命を落とせば―」


「そんなことは断じて起きない」


そう言い切ると、ジェロームは扉に手を掛けた。アンドルーはその場から動かずに続けた。


「わかってます。仮定の話ですから。もしあなたが命を落としたら、この国はいよいよお終いだ、と言いたかっただけです」


「くだらないことを言うな」


出て行きかけたジェロームは首を回し、蛇のように―おっと、蛇だった―相手を睨みつけた。やはりアンドルーは蛙ではないと見える。彼はじっと動かずに言う。


「あなたのやり方に思うところはないと言ったら噓になりますが、それに目を瞑ってたのは、あなたにこの国を率いていくという意志があると思ってたからです」


「偉くなったものだな、お前も」


そう吐き捨て、ジェロームは今度こそと言わんばかりに足を踏み出したが、彼の旧友はそれを言葉でもって必死に押し止めた。


「前線に立って戦うことだけが守るということではありませんよ、ジェローム。それを引き受けるのは、俺や、あなたの妹君です」


「黙れ。二度と私の前であやつの話をするな」


「わかりました。それなら、この話は一度しかしません」


アンドルーは決然と国王に近づいていき、滅多にしないことながら跪いた。


「王座をあの御方にお譲りください、陛下。それならば俺は、あなたが戦場に出られることを引き留めはしません。代わりにあの御方がこの城に残れば良いのですから」


「馬鹿を言うな!今更あの男の力を継ぐ者がいるなどと、一体誰が信じるというのだ?」


「信じるかどうかの問題ではありません!あの瞳こそが揺るぎない真実ではありませんか!彼女さえ無事なら、アルフレッド様を失ったこの国も必ず立ち直れます。今回の戦で何があろうとも…」


彼の声は震えていたが、それは決して畏れから来るものではなかった。不思議なことに、彼はひどく感激していたのである。彼以上にあの紫苑を妄信している人間などいるはずもなかった。彼だけが、あの紫苑が玉座に舞い戻ることを待望していた。何とも悲しい男だと、私はいつも思う。


ジェロームは深く息を吸ったが、何も言わずに去っていった。乱暴に扉が閉まったとき、アンドルーは今にも倒れてしまいそうに見えた。



「ロイド様、どういうことなの?一体どうしてウィリアム様が…」


「僕にわかるもんか」


アーテルニアにて、一同はウィリアムの遺体を見下ろしていた。彼らの背後では、気力を削がれることなく来るべき戦いに奮い立つ大勢の黒豹族がうごめいている。ロイドはオスカーに頼んで釘付けの状態だったウィリアムの亡骸を下ろさせていた。それをなるべく見ないようにしながらリーンは言った。


「えっと…戦に備えて皆避難してたから、町は無人だったんだよね?この人、ここで…その、殺されたのかな?」


「どこだって同じだよ。ウィリアムは死んだんだ」


ロイドは覇気のない目でそれを見つめながら、ぶっきらぼうに言った。テオは彼に向かって眉をひそめた。


「あんた、よくそんなこと言えるな。戦友なんじゃなかったのかよ?」


「だから、同じだよ。誰が死のうと、嘆き悲しんでいる暇なんかない。もうこの国にもアルフレッドの死は知れ渡り始めているんだ。コスタトが攻めて来るとしたら、国が混乱している今だ」


ロイドは目を伏せ、友の遺体に背を向けた。実際、旧王都はそれなりの混乱に陥ってはいた。敗北が現実味を帯び始めていたからである。しかし、国柄と言うべきだろうか、ルーセチカの国民はやはりどこかでコスタトに勝利するということを期待していた。実に愚かなことだ。アメラが憤懣やるかたない様子で言った。


「アメラ、ヒキョーな奴は嫌いだ。戦う前から忍び込むのは良くない!」


「…だけど、見張りに立っていたアンドルーがコスタトの動きに気付かないなんてことがあり得るかな?」


オスカーはアンドルーを知る者なら誰もが行き着いたであろう疑問を口にした。すると、ロイドが背後で吐き捨てるように呟いた。


「やめてくれ、オスカー」


オスカーははっとして口を噤んだ。彼は自分でも何を慎んでいるのかわかっていないに違いなかった。そこへ緋石を片手にアンドルーが姿を現し、幾分か落ち着いた様子で言った。


「報告します。コスタトはまもなく進軍を開始するようです。…それから、霊廟に荒らされた形跡はありませんでしたよ、ロイドさん」


軍師は別段驚いた様子も見せずに頷いた。


「わかった。―皆、今は考えている場合じゃない。とにかく敵を追い返すことに集中してくれ。あと、決して無理はしないように。減らしたいのは向こうの数で、こっちの数じゃないんだ。良いね?」


一同は固い表情で頷き合い、それぞれの役割を果たすために散っていった。テオ、アメラ、ジリアンがアーテルニアから旧王都に続く道を押さえに行った。国境方面にはリーンとカイが向かっていった。彼らにはイーサンが加わることになっており、またセレスティアもそちらの方向に行くよう指示されていたが、彼女はまだ動き出さなかった。


喜び勇んで駆け出そうとする黒豹たちを制するロイド―ウィリアムがいない以上、ひとまず彼がコスタトの将と相対する他ない―に、彼女は声を落として尋ねた。


「ジスレーヌはどこなの?」


「イーサンを呼びにやった。今にやってくるさ」


と言い切るが早いか、ジスレーヌの足が空間の隙間から突き出て、続いて彼女の胴体、頭がもったいぶるように登場した。その影が異様に濃いのは、イーサンがぴったりくっついているからだ。彼女はウィリアムを見て口元を扇で隠し、小さく呟いた。


「何てこと…」


セレスティアとロイドは何も反応を示さなかった。前線に出る予定のないジョーイが遺体を別の場所に移す役を買って出たので、ジスレーヌが空間を開き、イーサンが彼を手伝った。その間に、ロイドはセレスティアに目配せをして位置に着くよう促した。彼女は躊躇いこそすれ、反抗はしなかった。


アンドルーとジスレーヌは戻って来たジョーイとともに塔に入り、ロイドは敵軍の正面に陣取るために黒豹族を率いて去っていった。



 期せずして二人きりになったリーンとカイは、持ち場へと急ぎながら普段のように軽口を交わし合おうとした。が、その試みは上手くいかなかった。彼らは本格的に死が迫っていることをその身で感じていた。もちろんそれは誰もが感じていたことであったが、面と向かってその感覚に対峙していたのはこの二人だけだったのだと思う。


ロイドは戦力を一部に集中させ、その隙に背後から各部隊を撃破する策を取ったが、それはこちらの陣営に緋眼が何人もいたから取ることができた選択肢に過ぎない。しかし、カイは不死身の身体を持つだけで戦いを得意とするわけではないし、リーンもあちこちに現れては消えることができるだけで、その仕組みが見破られればあっという間に太刀打ちできなくなるのは目に見えていた。


イーサンは経験豊富だから問題ないのかもしれない。ジリアンの能力は生き延びる上では役に立つわけだが、それでは大した足止めにはならないだろう。アメラはエッタほどの力を持っているわけではないし、何よりもまだ子どもだ。テオに至っては緋眼ですらない。


つまり、実際に常軌を逸した力を持つのはセレスティアとオスカーだけだということになる。しかし、たった二人で何ができるというのだろう?


「ねえ、カイ…」


リーンはおもむろに口を開いた。二人とも忙しなく足を動かしている。


「あたし、生きて戻れるかな」


「お前を死なせはしない」


「そんなこと言ってる場合じゃないじゃん。あたしたちで奇襲を成功させなきゃいけないんだから」


「…何にせよ、先に死ぬのは俺だ。絶対に、何があっても」


「ありえないでしょ。あたしは不死身じゃないもん」


リーンが皮肉っぽく鼻を鳴らし、またぎこちない沈黙が流れた。彼女がまた開口した。


「ねえ、あたしが先に死んだら、あんたが本当に死んじゃっても寂しい思いなんかしないで済むんだよね」


「だがそのときは、俺はきっとお前の何倍も苦しむことになる」


カイは至極当然のようにそう言ったが、その返答はリーンにとって意外なものだったらしい。彼女は目を見開いたが、彼のほうを見ることも、足を止めることもしなかった。ふとカイが乾いた笑いを漏らした。


「何笑ってんのさ」


「少し、思い出したんだ。―リーン、俺には痛みがある。ふざけたこの身体には効かなくとも、とっくに孤独に妥協したはずのこの心が、時に痛みに屈してしまいそうになる。俺はいつか、そんなことをオスカーに話した。


そうしたらあいつは言った。愛を証明する手立てがあるとすれば、それは痛みだと。痛みだけは、決して欺けないと。もし本当にあいつの言う通りなら、リーン、俺に愛を思い出させてくれたのはお前だ。お前がいなかったら、俺は人の心なんか忘れちまってたかもしれない。…ありがとう」


そう言いながら、カイはいつの間に立ち止まってじっと相棒を見つめていた。少し先で振り返ったリーンは、呆然と相棒を見つめ返した。それからすぐに顔を前に向き直り、落ち着かない様子で言った。


「そ…んな畏まられても困るんだけど!野暮ってやつだよ、野、暮!…ほら、もう、行くよ!」


カイは穏やかな表情で彼女の後ろ姿を眺めていたが、リーンが大声で急かすので、大股で歩いて彼女の横についた。しばらく歩き、この辺りで良いだろうと二人は足を止めた。まだ敵の姿は見えない。じゃあ、とリーンが呟いた。


「どっちが死ぬとかじゃなくて、生きて一緒に帰ろっか?」


「…ああ。そうしよう」


「ん。約束ね!」


約束の印に、二人は軽く拳を触れ合わせた。そこへ、黒い影が忍び寄り―と言ってもイーサンなのだが―二人の背後で動きを止めた。彼は人の形を取り戻すと、恭しく頭を下げた。


「遅ればせながら、参上いたしました」


「…さては、聞いてたでしょ」


「はて…心当たりはございませんが」


そう言うと、イーサンは二人の影の中に落ち着いた。リーンは下唇を突き出して不平を示し、カイはただ肩をすくめた。遠くにコスタトの旗が見えた。



 ロイドは黒豹族の群れの先頭でコスタトの本軍と対峙した。予想通り、行く当てもない軍隊は、塊になって正面から敵に相対峙しようとしていた。敵軍を率いていたのはヴァレンティノではなく、その体格のためにどんな戦法を取るのかが一目瞭然である大男、つまりマルコであった。


ロイドは黒豹たちに言ったことを思い出したことだろう―敵兵は飛び道具を使うだろうから、出来るだけ早く距離を詰めて無力化させるんだ。


「あの男は使わないだろうな」


ロイドは独り言のように呟いた。すぐ横に立っていたミカゲが殺気立った様子で答えた。


「ああ。…あいつ、ヴァレンティノに指示してた奴だ」


「そうか。奴はどうも怪しい。近寄らないようにね」


「心配するな」


ミカゲがそう請け負ったとき、後ろからかなりの人数が行進してくる足音が聞こえてきた。数匹の黒豹が振り返った。ロイドはその足音が誰のものか知っていたので、じっと敵軍を見据えたままだった。背後を顧みていたゼンが困惑したように声をかけてきてようやく軍師は振り向いた。


「これは予想外だ。僕がこういうの嫌いだって知らないの、ジェローム?」


ジェロームは彼を無視し、群れを押し退けるようにして前に出た。


「何とでも言え。私は戦う。たとえ父に勝らずとも…」


「そうやって、君の勝手な都合で国民を死に追いやるのか」


「あれは私が育てた兵士たちだ。見るが良い、我が兵士たちの闘志に満ちた顔つきを。最早守られるだけの民ではない」


確かに志願兵は私の予想よりもはるかに多かった。彼らは来るべき時に備え、日々特訓を積み重ねてきていた。余程退屈していたのだろう。滑稽なのは、彼らが揃いも揃って自身を英雄と呼ばれるに相応しい存在だと考えていることだ。一体どうして、アルフレッドと並び立てるなどと思うことができるのだろう?ロイドは頭を押さえ、小声で言った。


「馬鹿なことを…」


「私は父やお前が民から奪った力を与えたまでだ。どちらが愚かなのか、此度の戦いで証明してくれるわ」


ジェロームは兵士に前に出るよう手で合図した。彼と奮い立って進み出て来る兵士の間に割って入ったのはゼンだった。彼は国王をまっすぐに見つめ、まるで野生の動物を手懐けようとするかのように慎重に口を切った。


「悪いことは言わない。やめておけ。コスタト軍が持っているのは火薬を使った兵器だ。人間の速さではとてもじゃないが太刀打ちできない」


「黙れ。貴様に何がわかる、この猫が」


ロイドが蛇の後ろで首を振った。こうなったら言っても無駄だ。ゼンはため息をついて脇に退いた。そこへ、敵方の使者がよろよろと近づいてくる。


「揉、め事、か?」


話し方がおかしい。大方もう死んでいるのだろう。しかし、ひょっとすると、ルシアの限界が近いのかもしれない。


「そちらの要求は?」


「こ、降伏し、ろ」


「できぬ相談だな」


ジェロームが憮然として言うと、使者はけたたましく途切れた笑い声を上げ、そのまま地面に倒れた。それが開戦の合図となったらしい。コスタト兵の雄叫びが響き渡った。それに触発されたようにルーセチカ兵は吠えながら進軍を開始した。


だが、相手が駆け出す気配はなかった。そんなことを気にする素振りも見せず、我が国の軍は突撃をやめようとしない。角笛の低音が鳴り響いた。コスタト兵は武器を構えた。両軍の距離は縮みつつあった。


また角笛の音がして、直後に爆音が戦場を包んだ。あちこちで悲鳴が上がった。が、それは鈍痛のためではなく、驚愕のためであった。弾は誰にも当たらなかった。奇妙な静寂がほんの一時訪れた。


「この力は温存しておきたかったのに」


ロイドは呟いたが、はるか高くに浮かんでいたので誰にもそのぼやきは聞こえなかったことだろう。彼は緋眼を暴走させ、広範囲にわたって物質を浮遊させる力を解放した。だから弾は空中に留まり、すぐに地面に落ちた。


彼は黒豹族に進軍の命令を下した。またコスタト軍が射撃をしたが、結果は同じであった。ミカゲが金眼を光らせ、群れもそれに続いた。黒豹は素早い。彼らはあっという間にルーセチカ兵を追い越し、敵に飛び掛かった。マルコはこの展開を後方で至極愉快そうに眺めている。


さらにその後方で大勢の兵士が控えているのが見えるが、それにしても、マルコが余裕のある笑みを浮かべているのにはロイドも違和感を覚えているようであった。こちらが知らない何かを隠し持っているのは明らかだった。

2025.2.8

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