無辜はあなた
ルーセチカの警戒を嘲笑うかのように、コスタトは一向に動きを見せなかった。それはゾルギックがまんまと援軍を送って来るのを待っていたからかもしれないし、どんなに準備したところでルーセチカが敗北するものと決めてかかっていたからかもしれないが、定かではない。まさに嵐の前の静けさというもので、町自体が息を殺しているかのように、最後の休息をちまちまと味わっていたのである。
だからこのときだったのだと思う。塔の上から二番目の階でひっそりと過去を辿る私が、突然平手打ちを喰らったのは。私は夢を見るような感覚から無理に引き戻され、茫然と目の前に立つ人物を見つめた。相手が何も言わないので、私は平静を装って言った。
「…ご挨拶だなあ、姉さん」
動揺が声に表れてしまっていた。私の声は小さく、そして震えていた。声を出すのが久しぶりだったからだろうか?そうだったら良いのに。我が敬愛すべき姉、ジリアンは私を睨みつけていた。
「座ったらどうかな」
座る椅子などないのに、私はそう提案した。自分が立ち上がる気もさらさらなかった。私は閉口した。ジリアンは唐突に話し出した。
「知っているのでしょう、ルーク。何もかも。事の発端も、敵の正体も、狙いも、結末さえ、全部わかっているのでしょう?」
「結末を知っているのはどちらかと言うと姉さんのほうでしょう」
「ふざけないで。私の言う意味がわからないとは言わせませんよ」
「どうしたんだい、姉さん?」
「どうしたもこうしたもあるものですか!あなたはすべてを知った上で見て見ぬ振りをして、あの方を苦しめているのですよ、ルーク!」
「見て見ぬ振りなんてしていないよ」
「あなたのしていることが見て見ぬ振りでないのなら、一体何だと言うつもり?」
「私はすべてを記録しているんだよ」
「馬鹿なことを言わないで」
「私は真剣に言っているんだ、姉さん。信じられないなら読んでみたら良い」
私は机の上に置いた紙の束を指先で叩いた。ジリアンはそれに一瞥を与えただけで、めくってみようともしなかった。
「はぐらかさないで答えなさい。何故、アルフレッド様を手に掛けようと目論むジェローム様を止めなかったのです?あなたなら…あなたにしか止められなかったことでしょう。あの男が剣を携え、あなたのすぐ横を通っていくのを、止めない理由がどこにあったと言うのですか!」
「本当のことを言うと、気付かなかったんだよ、姉さん。私はそのときすでにあの人の軌跡を追っていたんだから。わかっているでしょう、私の意識が平手打ちでもしないと戻ってこないことくらい」
「すべてを記録しているなら、あの男の目論見も知っていたはずでしょう」
「私は私の見たすべてを記録しているだけだよ。あのときは、ジェロームがどうするかなんてちっとも興味がなかったから」
私は、そんなことをするつもりは全くなかったのだが、嘲笑するように息をついた。ジリアンの我慢は突如として限界を迎えた。
「この人でなし!」
「私だって人並には傷つくのだよ、姉さん」
ジリアンはふと悲し気に私を見た。妙なことだが、私は思った。ああ、私は確かに姉に愛されているのだ、と。
「何がしたいの、ルーク?」
「あの人の行く末を見ていたいんだ」
「あの方の破滅を望むのね」
「じゃあ、姉さんはあの人が破滅すると決め込んでいるのだね」
「こんなときまで揚げ足を取るなんて」
「何を興奮しているんだい、姉さん?いや、聞く必要はないな。見てあげるよ、どうせついさっき何かあったのでしょう」
私はここに来る前のジリアンに起きた出来事を覗き込んだ。彼女は旧王都を歩いていた。食料の買い出しだろう、両手で大きな袋を抱えている。町は賑わっていた。元々アーテルニアで暮らしていた人々が戦火を逃れて移ってきているせいもあるのだろう。喧騒の中、よく響く女性の声がジリアンを捉えた。その見かけには大した特徴のない女性は、別の女性に言っていた。
「それにしても、戦を仕掛けられたっていうのに、アルフレッド様はどちらにいらっしゃるのかねえ」
「おやめなさいよ。噂話なんかして、罰でも当たったって知らないわよ」
「あの御方がいつから天使様になったって言うのさ?そりゃ立派な王様だったけどねえ。姿をお見せにならなくなってから何年になるのやら…」
「良いじゃないの。きっと私たち国民を守ってくださるわ。ところで天使様と言えばだけど、聞いた?コスタトの先鋒部隊を追っ払うのに、例の天使が力を貸してくれたって話よ」
「あの、ちょっと前にアーテルニアでひと暴れした殺し屋のことかい?変わったことをするもんだねえ。案外、そっちの天使様のほうが頼りになったりしてね」
「おやめなさいったら、もう…」
二人の女性は喧しく笑った。ジリアンは足早にその場を後にした。ふむ、こんなことが?たったこれだけのことが、姉をここまで苛立たせたというのだろうか?私は目を覚まし、ジリアンを見た。彼女が私に平手打ちを喰らわせることなく、一部始終を見届けさせることを選んだことに驚いた。
「あの人は頼りにされているようだね」
「私を馬鹿にしているの?」
「いいや、違うよ。姉さんが怒っている理由が皆目わからないだけだ」
「あなたがその力を正しいことに使っていれば、今こんなことにはなっていなかったはずです、ルーク。アルフレッド様はこの世を去られ、セレスティア様は見えないも同然の敵と独りで戦っていらっしゃいます」
「あの人は独りじゃないよ…」
「あの方は正しい道を選び続けなければなりません。私たちだけではなく、より大勢を…世界中の人々を導く御人だからです。決して間違えられないのです。それを孤独と呼ばずに何と呼ぶのです?一体誰が、あの方を助けられると言うの!」
「その正しさとかいうものは理屈にならない。世界中があの人を指さして、あの人が間違っていると嘲笑ったとしても、あの人が正しいと信じていればそれは正しいのだよ。姉さんは私が正しくないことをしたと言ったね。
だけど、あえて指摘するよ…一体誰に、そんなことがわかるのだろう?姉さんの言う正しさは、まさしく姉さんにとっての正しさであって、それがこの世で共通する正しさだとは必ずしも言えない」
「そんな屁理屈で切り抜けようと言うのですね」
「屁理屈を言っているのは姉さんのほうだよ。姉さんは結果から物を言って、私の行動を正しくないと断定したのでしょう。じゃあ、仮に万事上手くいっていたとしたら、私の行動は正しかったことになるのか?やはり正しくなかったのか?いずれにせよ、そうなる理由は不明瞭だ。なぜなら―」
「いい加減にして、ルーク!」
「良いとも。だけど、もう一つだけ言いたいことがある。姉さんはあの人をアルフレッド様の継承者のように考えているみたいだけど、それは間違いだよ。だからといってあの人に対する正しい扱いが存在するわけじゃないことは言うまでもないだろうけど。
あの人を継承者たらしめているのは姉さんなんだよ。姉さんと、グレイフォール卿と、ミーレット氏と、ゼプレス嬢と、アンドルーと、アルフレッド様でさえ…挙げていたらきりがない。とにかく、あの人が今のあの人であるのは、誰もあの人に選択肢を与えなかったからだ。
つまりね、私が言いたいのは、姉さんたちの言う正しさで、あの人を縛っているのではないかってことだよ。もしもそんな風に縛られていなかったら、あの人は苦しまなかったかもしれない。オスカーのような人に出会って、もっと普通の幸せな家庭を築いていたかもしれない。
いや、姉さん、こうなったら最後まで言わせてもらうよ。あの人を王女でなくしておきながら、何故全員であの人に王家の責務を背負わせるのか?あの人を苦しめている張本人たちが、何故あの人を憐れむことができるのか?
そして何故、あの人が何者かを決める権利があの人自身にないのか?あの人がそれを疑問に思わないのは何故か?見て見ぬ振りをしているのは一体誰なのだろう?…ああ、そうだ、私はこれが言いたかったんだ!そうだよ、おかしいよ、姉さん!見て見ぬ振りをしていたのは私じゃなく、姉さんじゃないか!」
私はまた強かに打たれた。ジリアンが何度も口を挟もうとしていたのを、私が断固として許さなかったのだ。私としてはジリアンたちを責めるつもりはなかったのだが、何故ああも汲々と口が回ったのか、まったく自分とはわからないものである。姉の目はほとんど怯えているように見えた。
「…あなたが説得に応じると思った私が愚かでした。どうかしていますよ、ルーク」
ジリアンは、最後は私にほとんど目もくれずに去っていった。形の上だけでも謝罪をするべきだっただろうか?
まあ、良かろう。私がするのは我が王女の軌跡を追うことだけだ。セレスティアはグレイフォール領にいて、物思いに耽りながら活動的な黒豹族を眺めていた。彼らは領民に物怖じする様子もなく、気ままに動き回っていた。まるでこれから戦が本格的になることを忘れてしまったかのようである。その緋い瞳に何も映していないように見えるセレスティアの元に、テオがふらふらとやって来た。
「よお」
「どうかした?」
「や、別に」
「そう」
テオは彼女の隣に尻もちをつくような勢いで座った。彼女は身じろぎもしないで言った。
「何か用?」
「用がなきゃ隣に座るのも駄目なんだっけ」
「いいえ。けれど、こんなに広々したところで、用もないのにわざわざ隣に座る意味がわからない」
「何かピリピリしてんな…ロイドのこと、怒ってんの?」
「どうして私がロイド様に怒るの?」
「さあな。英雄と同列に扱うから?」
悪ふざけのようにそう言ったテオのほうを、セレスティアは抱えた片膝に頬を乗せるようにして見た。その眼差しはまるで錆びた刃物のようだ。テオは笑った。
「図星だろ」
だから何だと言いたげに、彼女は彼から顔を逸らした。彼は笑うのをやめ、今度は励ますような調子で言った。
「良いんじゃねえの。比べられて、お前は駄目だって言われるよりずっとましだろ?」
「どうかしらね」
どう働きかけても徒労に終わるということはよくあることで、今回のテオがそれだった。だから彼は半笑いをして、わけもなくセレスティアが見ているのと同じ方向を眺めた。彼らの前を、何匹かの黒豹族が通り過ぎていった。ふと彼女が口を開いた。
「…ねえ、エイデンを覚えている?」
「ん?ああ…あの、心臓抉り出された学長な」
「そう。酷い最期だった。ゆっくり弔うことすらできなかったわ」
「あの人とは長い付き合いだったんだっけ?」
「ええ。出会ったのは私がまだ子どもだったときだった。お父様が生きていて、お兄様との関係もまだ悪化していなかった頃。遠い昔のようだわ」
セレスティアは言葉を切り、ため息をついた。
「少し、昔話をしたい気分なの。暇ならそこにいてくれないかしら?」
「おう。ちゃんと聞いとく」
「別に、聞いていなくて良いわ」
「聞くよ。まじで」
今度はテオが愚鈍な眼差しを投げる番だった。セレスティアはそれを見つめ返し、また逸らした。
彼女が語ったことにわざわざ修正を入れる必要もあるまい。せっかくだからそのまま記録しておこうと思う。
いつかあなたは聞いたわね。何故王女である私の存在がなかったことになっているのかって。…聞いたのよ。だけど、その質問は正確とは言えない。私がこの国で王女として存在していたことなんて一度もないから。もうわかっているでしょうけれど、お兄様とは腹違いの兄妹なの。
ロイド様が言うには、お父様はベラディールの生き残りだった女性と関係を持ったんですって。それで私が生まれてしまった。お父様は決してふしだらな方ではなかったの。どうして王妃を差し置いてかつての敵国の庶民と関係したのかは、結局わからず仕舞いだった。
私の実の母親に当たるその女性は、王たる証を持つ私のことをしばらく隠して育てていたそうよ。娘として愛してくれていたのかもしれないわね。けれど、もう隠しておけなくなったのか、自分が育てるべきではないと思ったのか、彼女は私を連れてこの国までやってきた。
彼女は、お父様から名前を聞いていたのだと思うけれど、ウィリアム様を呼んでほしいと繰り返し国境にいた警備隊員に頼み込み、彼がようやくやって来ると、私を押し付けるようにして去ってしまったんですって。赤子の正体に気付いたウィリアム様は、王妃のこともあって、私をひとまずジスレーヌに預け、結局、そのまま彼女が私の母親代わりになったの。
お父様は王たる証の継承者が生まれたことを聞いても少しも驚かなかった。そればかりか、王妃に内密で私を育てるように彼らに命じたそうよ。王妃が私の存在を知ったのは、それから十年くらい経ってからだった。彼女は私のことを良くは思わなかった。当然ね。
けれど、何かしら手を打って私を亡き者にするには時間が経ちすぎていたの。だから彼女は私の自由を奪うことを足掛かりにすることにした。私は三年ほどを誰も近寄らない城の地下で暮らすことになった。そうするしかなかった。皆が口を揃えてそう言ったわ。じきにどうでも良くなったけれど。
私がカルツァに行くことになったのは突然のことだった。お父様が私にエイデンの教育を受けさせると言い出して譲らなかったの。王妃は私の存在をエイデン以外に知らせないという条件でそれを承諾した。すでに私を無力化できたと思っていたんじゃないかしらね。
その頃の私には私なりに大切なものがあったから、お父様の勝手な決定にひどく腹を立てたのを覚えているわ。結果的にあの人の判断は正解だった。エイデンに出会っていなければ、私はきっと今以上に落ちぶれていたから。
エイデンは言葉に尽くせないほど素晴らしい人だった。カルツァで暮らし始めた頃は、私は子どもながらにひねくれていて、彼の言うことをろくに聞こうともしなかったのだけれど、それでも彼は根気強く寛大な心で私に向き合ってくれたの。
彼は最終的に、彼がお父様に教えた以上のことを私に教えてくれた。何度でも咲き誇りなさい、と口癖のように言っていたわ。あの頃は詩人めいていてくだらない言葉だと思ったけれど、今ならわかる。あれは、彼の心から直接飛び出したような、彼のまっすぐな思いだったとね。
そこまで言うとセレスティアは、胸いっぱいに息を吸い込み、吐き出した。テオは大人しく聞いていた。居眠りをしなかったのは驚きだ。
「…私がルーセチカに戻る日にエイデンが言ったことが、いつまでも頭から離れないのよ」
テオは続きを促すように彼女を見た。
「彼は、私がお父様を超えることができると言った。あの人にできなかったことがあったら、それは私が成し遂げるのだと。だから私は何かを成すために努力しなければならないと。…単なる激励の言葉だって片付けても良いはずなのに、あの日のエイデンの眼差しがそれを許してくれない気がしてしまうの」
「考えすぎだろ。いつものことだけどさ」
「…そうよね」
セレスティアは自虐するように笑った。テオは立ち上がりがけに彼女の肩を叩いた。
「まあ、何だ。誰かの言葉を大切にするのは悪いことじゃねえけど、それのために力むこたないって話だよ。お前には俺たちがいるだろ?」
セレスティアは呆れたようにテオを見上げた。偶然一緒にいるだけの者から発せられた何かを確かめ合うような言葉は、彼女には馬鹿馬鹿しく聞こえたのだろう。彼は彼女に手を差し伸べ、にやりと笑った。
「血の花、咲かしてやろうぜ!」
「その場合、私が咲き誇るわけにはいかないわね」
彼女が苦笑して立ち上がり、それをテオは満足げに見つめた。ふと二人の目が合い、奇妙な沈黙が流れた。どこか決然とした態度で彼は言った。
「…絶対独りにしねえから」
テオの顔には影がかかり、普段より寂しそうに見えた。それがひどく不気味だった。
アメラは一人、ツキノの元へとやってきた。彼女には興味があった。何故人間であるツキノが黒豹族と行動を共にしているのか、ということに。ツキノは彼女がまっすぐに近づいてくるのに気が付くと、わざわざ屈んで目線を合わせた。
「こんにちは!お姉ちゃんに何かご用かな?」
アメラはむっとして身を引いた。
「なっ…子ども扱いするな!」
「ええ?ごめんなさい…えっと、私はツキノ。あなたは?」
「アメラ」
仏頂面で答えるアメラにツキノは微笑んだ。
「そっか、よろしくね、アメラ!―それで、どうしたの?」
「お前、何で黒豹と一緒にいるんだ?」
「え?何でって言われても…ほら、一族の頭のミカゲって、さっき見たでしょ?あれ、私のお兄ちゃんなの。だから一緒にいるんだよ」
「ふーん…」
アメラは訝るようにツキノを見た。ツキノは相手が不満げなのにも気付かない様子でにこにこと話を振る。
「そういえば、アメラも白狼族なのに人間と一緒にいるよね。それはどうして?」
「アメラはセレスタのこと助けてやらなきゃいけないんだ。だからついてきた」
「セレスタって、あの目隠しの人のこと?」
アメラは黙って頷いた。ツキノはさも興味がありそうに微笑を浮かべている。
「あの人、怖い?」
アメラは首を振ると、穴が開きそうなほどツキノの顔を見つめた。ツキノは困惑して笑顔を強張らせた。
「えっと…何かな?」
「家族だからって、一緒にいられるものなのか?」
ツキノは目を丸くした。
「おかしいことじゃないと思うけどなあ。どうしてそんなこと聞くの?」
「エタは、白狼になったときに家族に逃げられたって言ってた」
「えた?…ああ、エッタ様ね!アメラ、ひょっとしてエッタ様と知り合いなの?」
「うん…」
「わあ、良いなあ!すごい人なんだよね?」
悪気はないようだが、ツキノはあっという間に話題をすり替えてしまった。それがアメラの気に食わなかった。
「そうだけど…もう良い」
「ええ?ちょっと待ってよ、アメラ。もうちょっとお喋りしよ、ね?話逸らしちゃってごめんね」
そう言うと、ツキノは足が疲れたのか、地べたに座って隣に来るようにアメラに手招きした。踵を返しかけた白狼の少女は迷いながら腰を下ろした。
「私が何でお兄ちゃんたちと一緒にいられるのかって話だったよね。何でなんだろう…考えたこともなかった。でも、多分皆が受け入れてくれるからじゃないかな?」
「受け入れるのはいつもニンゲン側だろ」
「大抵はそうだけど、私がいるのは黒豹族の群れだもん。多数派に合わせるものだよ」
「だからアメラたちはニンゲンに嫌われてるのか?」
アメラはふてくされたように指先で土をいじった。
「嫌ってるっていうか…そういうものだって思ってるだけじゃない?」
「どういう意味?」
「私はね、皆、それぞれの常識が崩れるのを怖がってるだけだと思うの。私は生まれたときからお兄ちゃんがいたから、そういうものだって黒豹族の皆のことを受け入れられたけど、普通はそうじゃない。亜人って力も強いし、見た目もちょっと違うでしょ?数も多くないから、珍しいわけだし。
亜人を知らない人たちからしたら、知っている人間と違う人類って結構怖いんじゃないかなって思うんだ。それで怖いものに対しては、怯える人たちと、逆に怯えさせようとする人たちがいるでしょ?行動に移すほうが影響力が強いから、怯えさせるほうがだんだん多数派になっていくの。
そうすると、亜人は怯えさせて追い払いましょう、っていうのが主流になっていく。それが常識みたいな顔をして歩き回って、皆が同じことをし始めるの。そういうものだから、ってね」
ツキノは言い終えると、長広舌を振るってしまったことを恥じ入るようにはにかんだ。アメラはまだ土を触りながら言った。
「そんなの、ずるいと思うぞ」
「そうだよね。でもきっと、時間が解決してくれると思うな」
悪くない思想だが、その結論はいささか残酷な気がする。仕方のないことかもしれない。新しい行動に出ることは時に疎ましく思われるものだ。そして、強者―彼女の言葉を借りるなら多数派だが―が弱者に疎ましく思われるのと、弱者が強者に疎ましく思われるのでは訳が違うのである。
「…だって、そう思ってないと」
そう呟き、ツキノはふと光の宿らない目をして、頭巾についた黒豹の耳の形をした飾りに指で触れた。それは彼女自らが縫い付けたもので、彼女はそれを一族の一員たらしめる証のようなものだと見做しているようだった。アメラは土いじりから顔を上げて彼女を見た。
「私、母さんのこと許せないもん」
「…母さん?」
「私の母さんね、人間だったんだ。黒豹族だった父さんと結婚して、お兄ちゃんと私を産んだの。だけどね、母さん、黒豹族の子が産まれるの、嫌だったんだって。だから人間の私が産まれてからは、母さんはお兄ちゃんのことほっぽり出すようになっちゃったの。私が大きくなってからは、私の見ていないところで時々お兄ちゃんに暴力を振るうようにもなって…」
「母さんなのに?」
アメラは茫然として言った。一族の絆が特に強い白狼族においては、たとえ最も近い血縁関係になくとも、互いを愛し慈しむのが当然のことであった。一族間での虐待などありえず、まして実の親からなどもってのほかなのである。特に、物心つく前に両親を亡くしたアメラにとっては、そうした現実は最も知りたくなかったことであった。ツキノはぼんやりと目の前を見つめ、小さく頷いた。
「そうだよ。おかしいよね、自分で父さんを選んで、自分で産んだのに。亜人で働き口がない父さんは、家から追い出されたくなくて、お兄ちゃんのことを助けてくれなかったの。だから私ね、ずっとお兄ちゃんの傍にいることにしたんだ。そうしたら、母さんも酷いことなんかしなくなると思って。…違ったけどね」
ツキノは膝を抱え、そこに顔を埋めた。馬鹿馬鹿しいまでに痛ましい飾りのついた頭巾がその頭をすっぽりと覆った。彼女はそれ以上家で何があったのかを語ろうとはしなかった。代わりに、彼女は感情を昂らせずに語ることのできる部分を選んだ。
「…そんなとき、近くに黒豹族の小さな集落があることを知ったんだ。それで、お兄ちゃんは私を連れて逃げ出したの。…連れて行ってくれるってわかったとき、嬉しかったな。私は人間だから、お兄ちゃんと暮らしていけないんだと思ってたから」
「…何で母さんのこと、許さなきゃいけないんだ?」
アメラの当然の問いに、ツキノは息を詰まらせたようだった。ただ、その問いに対する答えを知らなかったのかもしれない。家族だから?愛してくれたから?それとも、自分たちも許してもらいたいから?彼女は答えられなかった。
「何となく、そう思うの」
辛うじて彼女は言った。何とも便利な言葉ではないか。
その夜、ルーセチカで何事もなく、不安定な緊張が走り続けた日の夜、カルツァ、続いてゾルギックにて、かつてない騒動が起きた。名君アルフレッドの訃報が届いたのである。特にカルツァでは、学長の座に就いて日の浅い愚かな男によってその事実が不用心に広められ、町が大混乱に覆われることとなった。
一方ゾルギックでは、別の類の混乱が起きていた。かの国ではその知らせは実に厳かに伝え広められたが、町々、とくに王都は、とても眠りに就いているとは言えない騒乱に覆われていた。その最中、依然として皇帝に異議を唱える禍乱を引き起こしていた浄眼連盟の本拠地である聖堂が火事に遭ったのである。
その日は、連盟員が一同に会する集会が夜遅くまで開かれていた。放火だったが、用意周到な犯人は捕まらず、生存者もいなかったと聞く。水を司る皇家が治める国でそんなことが起きるとはなあ!
それらの騒動は翌朝にはルーセチカに伝えられたが、その頃にはこの国でも別の騒ぎが起きていた。早朝、敵軍の偵察を終えてアーテルニアの塔を降りたアンドルーが、片方の足首を剣で留められるようにして塔にぶら下がっているグレイフォール卿ウィリアム・エイムドネアンの遺体を発見したのである。首を掻き斬られた彼の顔は緋色に染まっていた。
2025.2.8




