火を熾す
『直ちに城を明け渡し、コスタト国に下るべし。一刻経過するごとに貴国の民が一人ずつ死んでいくと思え』
コスタト軍からの通達文は極めて端的だった。国王ジェロームは初めにそれを読むと、険しい表情をしてロイドに押し付けた。ロイドは紙を一瞥すると、すぐウィリアムに手渡した。ウィリアムは注意深く文を読み終え、その紙を丁寧に畳んだ。ジェロームは重々しく口を開いた。
「我が国も、舐められたものだ…」
誰のせいだか。
「ルーセチカが軍を持たないからといって、王都を占領しただけでここまでつけ上がるとはね」
ロイドは口の端に笑みを浮かべて言った。町の奪還作戦はすでに始動しており、相手が優位に立っていると思い込んでいる今、成功するのはほとんど確実だった。そのことを知らないジェロームは、肘掛けを拳で叩きながら立ち上がった。
「ええい、忌々しい!私が出よう!この手で奴らを地獄に送ってくれるわ!」
「なりませぬぞ、陛下。それでは敵国の思うつぼでございます」
「心配することないよ。僕らで何とかする。そうだよね、ウィリアム?」
ウィリアムは黙って頷いた。ジェロームはこれ以上ないほど眉間に皺を寄せたが、渋々座り直した。
「…手は打ってあるのだな?」
ロイドは返事をする代わりに強気な笑顔を見せた。言わずもがな、答えはわかり切っていた。
「ならば、行け。奴らにただの一人の命も奪わせるな」
国王は威風堂々と背筋を伸ばし、臣下たちにそう告げた。彼らは恭しく礼をした。
「仰せのままに、陛下」
ヴァレンティノは端から数名の人質を殺す気でいた。コスタト軍―まだ大量の兵士が国境付近に控えていた―の指揮を委ねられた今、祖国の威光を示すには、敵国の民に血を流させるのが手っ取り早かったからだ。だから一刻のうちに降伏を求めるという無理難題な要求を送ってよこしたのである。
しかし予想外だった。かくも早くルーセチカが動くとは!旧王都の方角から、ウィリアムに率いられた小規模の隊列がこちらに向かってきていた。あれでも城内の警備隊を総動員しているのである。ロイドは緋石を使って塔の中に移動しており、カイやアメラ、ジョーイも一緒だった。オスカーもそこにいたが、どうも落ち着かない様子で、今にも窓から飛び出してセレスティアを迎えに行くかのように見えた。
「あんたのような緋眼の存在を敵は知らないのか?」
塔に着いたとき、カイはジスレーヌに言った。彼女はわざとらしく目を丸くしてみせた。
「あら。未亡人のことを一人一人調べていられるほど、コスタトは豊かなんですの?」
実際、ジスレーヌは軍人ではなかったし、アルフレッドのために動いたときの役目も諜報員だったので、他国にその存在を知られる機会がなかったとしてもおかしなことはない。むしろ、彼女の緋石を買い求める自堕落な金持ち連中のほうが余程彼女を良く知っているはずだし、それでも彼女の名や風貌は内密にされているくらいなのである。
さて、ウィリアムが王都の入り口までやってくると、先頭でそれを待ち構えていたヴァレンティノはさらに前に進み出た。
「甲冑もなしに戦に臨むか!我が国の戦士たちを甘く見てもらっては困るな」
「それはこちらとて同じこと」
ウィリアムはおもむろに剣を抜いた。それを合図にするように、彼の後ろの警備隊員たちも武器を構えた。
「お引き取り願いましょう」
「俺の後ろにいる愛すべきルーセチカの民が見えないのか?それとも、城を守れれば満足か!」
ヴァレンティノは挑発的に笑ったが、ウィリアムは眉一つ動かさなかった。
「貴殿の心配には及びませぬ」
「ふん、そうか。―ミカゲ!そいつらは始末しておけ」
ミカゲは用心深く返事をした。完全にヴァレンティノの不意を衝くには、暴れる前にもう少しの辛抱が必要だった。彼は爪を光らせて人質に歩み寄ったが、そんなことをしなくてもヴァレンティノがわざわざ振り向いてくる気配はなかった。ウィリアムは相手から一瞬たりとも目を離さずに細剣を構えた。
「ウィリアム・エイムドネアン」
敵が名乗りを上げたからには、ヴァレンティノも剣を抜かないわけにはいかなくなった。彼はその刃先をウィリアムに向けた。
「…ヴァレンティノ・トキア」
ロイドの指揮が始まったのはこのときだった。彼はまず人質を移動させるようジスレーヌに命じた。彼女はふらりと地上に姿を現すと、国民を連れていく前に緋い瞳を爛々と輝かせて言った。
「さあ、始めますわよ」
彼女は国民と共に消え、その声でヴァレンティノが振り向いたときには、茫然とする兵士たちと戸惑う二匹の黒豹族、そして易々と戒めを解いて立ち上がる三人の人質の姿が彼の目に飛び込んできた。
次の瞬間には、目隠しをした女がどこからか棍を取り出し、信じがたい速さで一番近くにいた兵士の頭を砕いていた。テオが場違いにも賞賛するように口笛を吹いた。兵士の列から情けない悲鳴が上がった。同時に、警備隊にもざわめきが広がった。味方が増えたことに対する喜びよりも、ルーセチカを訪れ、以来消息を絶ったはずの血濡れの天使が目の前にいることに対する驚きが勝ったようである。
その刹那は、まるで時が止まったかのようであった。が、もちろんそんなはずはなく、ウィリアムはすでに攻撃を繰り出していた。その恐るべき一突きを、ヴァレンティノは間一髪かわした。
「余所見とは。私が相手では不満ですかな?」
ヴァレンティノは舌打ちをし、ウィリアムに向き直りながら怒鳴った。
「戦わねえ奴は俺が殺す!」
コスタト兵は鞭で打たれたかのように飛び上がり、慌てて武器を構え直した。そのときには二人目が脳みそを撒き散らしながら地面に伏していたし、奮い立った警備隊たちが雄たけびを上げながら向かってきていた。特等席で乱闘を眺めながら、テオは半ば困惑したように言った。
「よう、リーン。俺たちって素手で戦う予定だったっけか?」
「特に言われてないよ。ま、あたしはそれで良いかな」
そう言い残し、リーンは嬉々として乱闘に加わった。コスタト兵の一人が無造作に角笛を吹いた。東西に散っている兵士たちに対する集合の合図らしい。その音を聞き、ロイドはジスレーヌが戻り次第、カイやアメラを戦場に送り出すことにしたが、その前に念のため尋ねた。
「君は緋眼?」
「いや。だが、俺は死なないらしい」
カイが太々しく思えるほど真剣にそう言ったので、ロイドは怪訝そうな顔をして、真偽を確かめるようにアメラを見た。彼女は周りの大人たちのやり方で肩をすくめた。それを会得するには年若い気がするが。そこへジスレーヌが戻って来たので、ロイドは次なる指令を出した。
「彼らをそれぞれ東西の分隊のところに送ってくれ」
「まだ私をこき使うんですの?お茶の用意もなしに」
汗一つかいていないくせに、ジスレーヌは仰々しく扇で顔を扇いだ。ロイドは興奮と苦笑が入り混じったような顔をした。
「君しかいないんだ、頼むよ。―ねえ、ところで、死なないってことは上から落としても良いってことかな?」
「人道的じゃないところ以外は大丈夫だ」
「まあ、踏みつぶしたほうが早いから。よし、聞いたね、ジスレーヌ?彼のことは上空に放り出してくれ。―アンドルー、彼の援護を頼むよ」
「了解。俺は屋根の上にお願いします」
アンドルーは戦場から目を逸らさずに言った。その目線の先にいるのは、言わずもがな。そんな彼の様子を横目に見ながら、ジスレーヌはまたもむっつりしてため息をついた。
「注文が多いですわね」
「で、もう片方はオスカーと…君は何だったっけ?まあ良いや。そっちの二人に任せるよ」
ロイドはオスカーとアメラに向かって頷いた。オスカーは騎士らしく返事をした。
「アメラ、一人で良いぞ」
「それは僕の道徳心が許さなくてね」
よく言ったものだ。ロイドはいたずらっぽくアメラに目配せし、彼女は怪訝そうに首を傾げた。その会話の後ろで、ジスレーヌは早速時空の狭間に入り口を造った。
「さ、くぐってくださいまし」
カイは文句一つ言わずにそこに飛び込み、ロイドの狙い通り数名の兵士を下敷きにした。彼はその後、やはり傷がつく気配すらない上にアンドルーの援護があったので、拳を振り回しているだけで良かった。アメラは気ままに敵を翻弄し、仕留め損ねた分はオスカーに丸投げした。そのオスカーはただの一人の侵攻も許さなかった。
そういうわけで、中央に援軍が到達することはなかった。いまやテオも敵から奪った武器で戦っていたし、黒豹族も戦闘に参加していたので、圧倒的な人数差があったのにもかかわらず、コスタト軍は劣勢に立たされていた。味方のうち、目立つ怪我をしているのは警備隊の人間だけで、それも大した人数ではなく、ジョーイの出る幕は今のところないようであった。
しかし、このヴァレンティノという男はなかなかの曲者ではないか!余裕こそないにせよ、王国随一の武人であるウィリアム―決して誇張ではない―とほとんど互角にやり合っているとは。とはいえ、セレスティアたちが敵を殲滅させてウィリアムに加勢し始めるのも時間の問題であった。
そしてヴァレンティノはそのことに気付かないほど間抜けではなかった。だから彼は隙を作るべく、大振りの攻撃でウィリアムを怯ませた。
「これで終わりだと思うな!」
彼は緋い瞳をぎらつかせて怒鳴った。戦いの最中に彼が一度も緋の力を使わなかったので、これにはウィリアムも面食らった。ヴァレンティノが足を踏み鳴らすと、たちまち彼の周囲で地割れが起きた。あるところは蹴り上げられたかのように隆起し、あるところは押し潰されたかのように陥没した。
それは波紋のように広がり、近くにあった家屋をも巻き込んだ。塔の前で止まってくれたのは幸いだった。揺れるどころでは済まなかったに違いない。その場にいた者はヴァレンティノを除いて皆体勢が崩れ、戦うどころではなくなった。震える大地の上に堂々と立ちながら彼は言った。
「お前らが化け物揃いだってことはよくわかった。俺も作戦を改めるとしよう!」
ヴァレンティノは不敵な笑みを浮かべると、割れた皿のような地面を器用に駆け抜けて撤退していった。ミカゲが慌てて立ち上がり、その後を追おうとしたが、セレスティアはそれを引き留めた。
「これ以上暴れられたら、町が丸ごとなくなるわ」
彼女は感情のこもらない声で呟き、首を振った。将に置き去りにされた兵士たちは狼狽し、結果最後まで戦い抜こうと武器を握り直した者たちと、諦めて命乞いを始めた者たちに分かれた。後者だけが捕虜になった。
軍の本部まで戻ったヴァレンティノは、裏切りの代償を払わせようとすぐに黒豹族の野営地に兵士を送った。しかしそこはもぬけの殻だったばかりか、一族の監視を任せてあった兵士の遺体が転がっていた、という報告を受けることになっただけであった。彼は悪態をつき、報告に来た兵士を無造作に追い返した。そこへ、背後から不愉快な笑い声が聞こえてくる。振り返ると、そこにはあの道化師がいた。
「何がおかしい、ベフ?」
「ちゃァんと手懐けておかないからこういうことになるんだァよ!」
道化は腹を抱えて笑った。ヴァレンティノは一発殴ってやりたいところをぐっと堪えた。
「黙れ。お前に何がわかる」
「わかんなァい!」
「何でこんな奴をいつまでも置いておくんだ、あいつは…」
ヴァレンティノはそう呟き、小さく舌打ちをした。ふと前方を見やると、亡国ベラディールの王女ルシアがこちらに向かって来ていた。その後ろを白狼族の少女サラが浮かれた足取りで歩いている。
「何か用か?」
「惨敗なさったようだから、お悔やみを」
「くだらない女だ」
サラは踊るように二人の間に割り込んだ。
「ヴァレンティノってば、王女様に対して失礼だね」
「黙れ」
「どうしよっかなあ。だって私、死んでるし。黙らなかったところであんたに殺される心配なんかないんだよ。知ってたあ?」
ヴァレンティノは、にやにやと笑って顔を覗き込んでくるサラを無視した。その場を後にしようと二人に背を向けたとき、ルシアが言った。
「コスタトも堕ちたものね」
「…何とでも言え。祖国が滅んでいては自力で正義を果たすこともできないんだろう」
「正義なんて、どこにもありはしませんわ。それこそ、くだらないと言うべきでしょう」
ヴァレンティノは立ち止まり、薄ら笑いを浮かべるルシアを振り返った。その顔にははっきりとした嫌悪が浮かんでいる。
「何が言いたい?」
「あちこちで騒ぎを起こしてまで、その正義とやらを振りかざすのは感心しませんわ」
「俺たちはこの世界の民を救うためにこうしている」
ルシアは大袈裟な身振りで呆れを露わにした。
「ああ…わけのわからない機械を発明するのは勝手ですが、こんな狂信者たちと結託するなんて!本当に、コスタトにはがっかりいたしましたわ」
「お前も加担している身だということを忘れるなよ」
「あなた方がルーセチカを攻め落とせないと知っていれば、今頃こんなところにはおりませんでした」
きっとして言うルシアの声はわずかに震えていた。
「やめなよ、ルーシャ。こんな堅物、相手にするだけ無駄だって。ほらあ、あっち行こ?」
サラに腕を引かれるまま、ルシアは硬い表情で歩き去った。ヴァレンティノは苛々と葉巻に火を点けると、とある武将を探し始めた。それはマルコという大柄な男で、『巨腕の緋』を宿していた。武器は持たず、その巨大化する腕を振り回して敵を薙ぎ払う戦い方のせいか、力押ししか作戦を知らないようである。国一番と言って差し支えないほどの背があるので、彼はすぐに見つかった。
「マルコ!」
「おう、ヴァレンティノか。兵士を無駄遣いしてくれたんだってな?」
マルコはからかうようにヴァレンティノを小突いた。
「どうせ使えない奴らだっただろうが」
「揃いも揃って凡眼だからな!だが、全滅じゃお前らのとこの医者も持ち腐れじゃねえか」
「元から再利用する気なんてない」
ヴァレンティノに睨みつけられ、マルコは愉快そうに哄笑した。
「で、次はどうする気だ?あんまり失敗ばっかしてると、お前らを依怙贔屓してる陛下も良い顔しないぜ?」
ヴァレンティノはそっぽを向いて長々と煙を吐き出した。
「知るか。まあ、相手の力量はわかったんだ。いくらでもやりようはあるさ」
「俺の出番はいつになるのやら…」
「待たせることにはならない。先に言っておくが、力づくでどうにかなる奴らじゃないからな」
「そういう連中を叩き潰すのが楽しいんだがな」
マルコは今から戦闘に入るかのように肩を回し始めた。ヴァレンティノは鬱陶しそうに彼から一歩離れた。
「そんなことよりも、マルコ。”あれ”を使いたいんだが」
と、彼は意味ありげに相手を見上げた。マルコは一瞬何の話か考え、それから軽く嘲笑した。
「好きにしろ。戦で使わなきゃただの鉄屑だ」
肉弾戦を好む彼は、祖国の数々の発明品に不満を抱いているらしい。ヴァレンティノは短く笑った。
「あっさりしたもんだな。良いのか?なるべく使わないように厳命されてると聞いたが」
「あんな大量に運ばせたんだ。表向きにそう命令しただけだろうさ」
「そうかよ。まあ、お前が良いと言うなら有難く使わせてもらおう。これであの無能どもも多少は役に立つようになるな」
ヴァレンティノは勝気に微笑み、吸い殻を踵で潰した。
ウィリアムとロイドは防衛戦の報告のため、再びジェロームの元にやって来た。アンドルーとジスレーヌも同席するはずだったのだが、結局それは取りやめになった。というのは、ウィリアムが王女の帰還も知らせなければならないと言って聞かなかったからである。王がどんな反応を示すかわからないのだから、彼らが来たがらないのは当然だった。ロイドが簡潔に戦況を報告した。
「そうか…民に大きな被害はなかったのだな」
ジェロームは厳しい表情でゆっくりと吟味するようにそう言った。いくらロイドやウィリアムが優秀だとはいえ、あまりにも戦果が上々すぎた。
「…誰の手を借りた?」
二人は思わず沈黙した。ジェロームは一語一語切るようにして繰り返した。
「誰の、手を、借りた?」
ウィリアムはロイドと目を合わせた。ロイドはぐっと眉を上げた。吉報を知らせる栄誉は譲ってあげよう、などという意味だろう。ウィリアムは不満とは言わないまでも、どこか異議を唱えようとするような目線を彼に送った。
「…妹君が戻られました。お仲間もご一緒でございます。あの方々の協力なくしては、こうも上手く敵軍を押し返せはしなかったかと」
予想に違わね答えにいくらか落胆し、ジェロームは閉口した。二人も、あえて何か言うべきではないと考えてか、どこか耐え忍ぶようにして黙っていた。やがて、王は独り言のように呟いた。
「…達者にしているのか」
「相変わらずだよ。あんなことがあってもなおこの国を見捨てないでくれるお人よしさ」
彼女が戻って来たのがその人の良さ故かと言われると、必ずしもそうではないのだが。彼女は祖国に取り憑かれているだけなのだから。ジェロームが反応しないでいると、ロイドは見られていないのを良いことに、面白がるようにウィリアムに目配せした。よせ、と言いたげにウィリアムは首を振った。ロイドは素早く目線をジェロームに戻し、軽やかに一礼した。
「それじゃあ、陛下。僕らはこれで」
ウィリアムも礼をし、二人は揃って玉座の間を後にした。彼らが出て行く間際に、ジェロームは苦々しく言った。
「国を追われた妹が戦っているというのに、私は何もできないというのか…」
二人は何も言わず、足も止めず去っていった。王は一人拳を固めた。お前にはそれくらいがちょうど良いとも、ジェローム。
2025.2.6




