退屈まぎれ
戦!そうか、戦が始まったのか!百年前のベラディールが滅んだ戦以来、国同士が公に争うことなどなかったというのに。…懐かしい限り。私はベラディールの生まれなのだ。その戦が始まったとき、私の姉は興味本位で能力を使い、戦の結末を知った。彼女はすぐに寝込んでしまったので、答えを知るのには数日を要した。
目覚めると、開口一番に姉は言った。この国は負ける、と。我が家でも、緋い瞳をしたときの姉の言うことには間違いがないとされていた。だから両親はまだ幼かった私たちを国から逃がすことにしたのである。子どもだけならば情けをくれる者もいるはずだと考えて。それは正しかったとも、間違いだったとも言えるがね。
私たちはどさくさに紛れてルーセチカに入り―後から知った話では、そういう人々は案外多かったようだ―、乞食をしたり、遠い過去の出来事を脚色して話して聞かせることで金を稼いだりと、何とか食いつないでいた。思えば、随分長いこと貧しい生活をしていたわけだが、しかし運命とは怪奇なものよ。そんな私たちが、気付けば城で暮らすようになっていたのだから。
ジョセフ・ロヴェルは医者である。命を扱うことを生業―実際、そこまでの稼ぎにはならないのだが―としている彼が戦地に赴きたいと言い出したところで、大した驚きはない。しかしそれは、主に同行したいという彼の申し出を二つ返事で受け入れる理由にはならなかった。
そもそも、ジリアンはそういうことを決める権利など端から有していない。彼女は考えた。が、考えても仕方がなかった。コスタトによるアーテルニア急襲の話はすでにゾルギックの主要な町には知れ渡っていた。そのことを耳にしてすぐ、ジョーイが屋敷に駆け込んできたのである。
侍女は急襲と襲来の件を走り書きした手紙をルルに託した。昨晩ついに帰って来なかったので、主とその御供たちがどこにいるのかはわからないが、間もなく戻って来るだろうと侍女は直感した。そのことを知っていた、のほうが正しいのかもしれない。ああ、ほら、彼らではないか。
慌ただしく入ってくるなり、セレスティアは侍女の名を呼んだ。そうするまでもなく、ジリアンは玄関に向かうところだった。セレスティアは彼女の姿を見止めると、不思議と幾分か落ち着きを取り戻して言った。
「準備はしてくれた?」
「はい。すぐにでも発動できます。こちらへ」
こんなときでもジリアンは走らない。しかしとにかくせかせかと足を動かしてはいて、それで頭がほとんど揺れないものだから、車輪でもついているかのように見える。その後ろをもどかしそうに歩くセレスティアとオスカーに、駆け足を持て余したテオとリーン、大股で歩くカイ、その三人を追い越そうと走り出したアメラが続いた。
「ジョーイが来てるって?」
と、オスカー。
「はい。紅茶でしたらすでに召し上がりましたが…」
「茶菓子を出さないからだわ」
一同は庭園に出た。そこにはジョーイの姿があり、ちょうど彼らに背を向けて片膝をついていた。物音で彼は振り返る。
「お!お揃いのようだな!」
医者は立ち上がり、素早く脇にどいた。彼が屈んでいたところには、丁寧に組まれた薪があり、その上に両の掌に乗る大きさの緋玉―緋石より純度が高く、緋眼の能力を最大限に模倣することができる優れもの。これ一つで屋敷を買えてしまうほどの高級品である―が置かれている。その緋に負けじとするかのように、薪の中を炎が躍っているのが見える。
「ちゃんと見といたぜ!」
ジョーイに目配せされ、ジリアンは淡白に礼を言った。それを聞いて哄笑するジョーイと目が合うと、オスカーは余所行きの笑顔を取りつけないまま尋ねた。
「ジョーイ、どうしてここにいるの?」
「何だい、旦那。てっきりジル嬢から知らされてるもんだと―」
「そういう意味じゃないことくらい、わかってるでしょ」
と、オスカーは疑り深くも穏やかな眼差しを投げる。ジョーイは思案するように口を閉ざした。何を言うべきか迷ったが、こういうときは簡潔に話をするのが一番だと考えたようである。
「…緋染病のふりをしなきゃいけない人間なんていない。いるとすれば、それは瞳の色で素性がばれちまうような人間くらいだ。違うかな、お嬢さん?」
ジョーイは寝不足のせいで常に顔に張り付いた鈍さを振り払い、緊張した顔つきでセレスティアを見た。予想だにしなかったその言葉に、彼女は言葉を詰まらせた。彼は珍しく穏やかな笑い声を立てた。
「お嬢さん、良いことを教えよう。こいつは医者やってる奴くらいしか知らないことだがな、緋染した瞳ってのは、もっと濁った緋をしているもんなんだ。お前さんのみたいに鮮やかに輝くことはないのさ。だから、一目見たときから俺にはわかってたよ。お前さんは緋染病じゃないってな。それで、王たる瞳の継承者のいないルーセチカ王家の人間なんじゃないか…そう考えたってだけの話よ。
…ま、そういうことだ、旦那。あんたらがルーセチカに行くって俺が見当をつけられたのも、不思議じゃないだろ?―ハハ、なあに、心配しなさんな!誰にも言いやしないさ、俺は!」
ジョーイは満面の笑みを浮かべ、胡麻を擂る商人か何かかのようにセレスティアとオスカーの顔を交互に見た。テオが彼にずかずかと近づいていき、訝るように顔を突き合わせた。
「こいつよお、何か怪しくね?手足縛って置いていこうぜ」
「おいおい、あんちゃん。随分手厳しいじゃないの」
「そらそうだろ。早朝訪問医者野郎なんか信じられっか!」
「お前は深夜帰宅酔いどれ野郎だろう」
と、カイがぽつりと呟いた。テオは何か言い返してやろうとして首を回したが、その試みはセレスティアの短いため息に阻まれた。
「…ここで話をしている場合じゃないわ。さっさと行きましょう」
「そいつはつまり―」
「ええ、好きにして。役には立ってもらうけれどね」
セレスティアはそう言いながら、窺うような目線をオスカーに送った。彼が同意を示すと、彼女はすぐジリアンに頷きかけた。彼女にとって、医者が来るかどうかなど、今はどうでも良かったのだ。
「任せてくんな!命巡るところに医者ありだ」
ジョーイが自信ありげに言うのを横目に、テオは納得できない様子で首を振った。
「おいおい、正気かよ?友達だか何だか知らねえけどさあ」
「アメラ、お前よりこいつのほうがましだと思うぞ」
アメラは彼の足元で生真面目に言った。彼は不満げに―あるいは、冗談であることを確かめようとするように―彼女のほうへ前かがみになった。
「んだと、がきんちょ。こんなどこのどいつかわかんねえ奴…」
テオがしどろもどろに文句を続けようとすると、新しい波紋の予感に疼いている様子のリーンが背後から口を挟んだ。
「ちょっと、いつまでうだうだ言ってんのさ?人数多いほうが楽しそうじゃん!ねっ?ほら、急いだ急いだ!…どうしたら良いのかはわかんないけど」
彼女はテオを焚火のほうに押しやりながら、困ったような笑みを浮かべて侍女のほうを振り返った。一同はジリアンの指示のもと、焚火を囲うようにして立った。ジリアンはどこからか短剣を取り出し、空いているほうの手を緋玉の上にかざした。主のほうを見やると、彼女は小さく頷き返してきた。
ジリアンはそれを合図に、息を吐きだしながら自らの手に短剣を突き刺した。刃先から血が滴り落ち、緋玉の表面をなぞって炎の中へと飛び込んでいった。するとどうだろう、緋玉は奇妙な輝きを放ち出し、直後には辺りは眩い光に包まれていた。
彼らは光の中から床に投げ出された。光を避けようと固く目を閉じていたテオがゆっくりと目を開けると、そこは見覚えのない豪邸のようであった。周りを見回すと、皆尻もちをついて目を瞬かせていた。そして何故か草やら土やらが散乱している。ぼやける視界が元に戻るのを待っていると、不意に背後―いや、どちらかと言うと頭上だろうか―から声が聞こえた。
「思ったより早かったね。どうやら僕が知らない顔も多いみたいだけど」
セレスティアは顔を上げた。
「ロイド様…良かった。不在だったら面倒だと思っていたの」
「再会に相応しく情緒的だね。土産も申し分ないときた」
と、ロイドは床に降り立って落ちている草をつまみ上げた。どうやら、緋玉は周辺のものをそっくり指定の場所に転送するものだったようである。もし屋敷の中で使っていたら、家具ごと移動してきて、ロイドの屋敷を今以上に滅茶苦茶にしていたことだろう。それにしても、青臭くされるのも考え物だが。
皆がようやく立ち上がると、彼は再び宙に浮かんだ。リーンはあからさまにこの少年に興味を示しており、彼を知らないそれ以外の面々は不審がるような眼差しを送っている。が、それを気に留めることもなく、彼はジリアンにいたずらっぽく尋ねた。
「庭で使ったんだね?」
「はい。芝ならまた生えますので」
ロイドは苦笑した。セレスティアが簡潔に面々を紹介すると、彼は軽く頷いた。
「なるほどね」
名前を覚える気はなさそうだ。セレスティアは不本意そうに付け加えた。
「事情はあらかた話してあるわ」
「その事情っていうのが君の兄君のことならまだ良いんだけど、まあ違うんだろうね」
「お兄さんって―」
リーンが口を挟もうとすると、それに被せるようにしてオスカーが話し出した。彼女は黙っているべきだったからである。
「ご無沙汰しております、ロイド様。アーテルニアの状況はどうなっているのですか?」
「うん。芳しくない。国境が突破された時点で僕やウィリアムのところに伝令が来てはいたんだけど、対処する間もなく王都は占拠されてね。国民の避難は間に合わず…まあ要するに、人質がごろごろいるというところかな」
「そんなの、いくら何でも早すぎるわ…」
関所から一番近くにあるのがアーテルニアであるとはいえ、敵がその距離を進軍する間に迎撃準備を整えられないなどということは、通常ではありえないはずであった。まとまった武力を持たない分、非常事態に対応するための布石はできる限り敷いておく。それがルーセチカなのである。そうした手が上手くいかなかったのが今回の場合だった。セレスティアははっとして顔を上げた。
「まさか、攻めてきたのは黒豹族だったの?」
「御明察。ついにコスタト軍に下ることにしたらしい。まったく…人数こそ少ないとはいえ、あの力量じゃ並の人間に勝ち目はない。白狼族の援軍も期待できないし、今回ばかりは骨が折れそうだよ」
ロイドの顔つきは、とても困惑しているようには見えなかった。それに気付いているのかいないのか、オスカーは俯きがちに話を進める。
「では、向こうの要求は?」
「さあね。あれだけ派手なことをしておいて、だんまりを決め込んでいるんだよ。大方、コスタトの本軍を待っているってところだろうけど。何にせよ、今は刺激しないに越したことはない」
「けれど、国民の救出は進めているんでしょう?」
「うん。年寄りと子どもだけね。ジスレーヌ万歳だよ」
「ばれねえの?」
テオがふらりと会話に紛れ込んでくると、ロイドは彼の名前を思い出そうとしてか、その顔をまじまじと眺めた。いや、ひょっとしたら単に彼がコスタト人だったからかもしれない。
「アンドルーが言うには、黒豹族は立っているだけらしい。人質が減ろうが増えようが気付かないだろうってさ」
テオは愚鈍な相槌を打った。
「それで、セレスティア。君の友達は扱いやすいのかな?」
ロイドは尋ねた。つまり、ある程度は恭順で、ある程度は能力を有しているのか、という意味である。
「特に問題ないんじゃないかしら」
セレスティアは意見を求めるようにオスカーに目線を投げた。彼は黙って賛同を示し、その後で付け加えた。
「ジョーイは前線には出ないんじゃないかな」
「俺は戦闘はからきし駄目でな」
ジョーイは遠慮がちに言って肩をすくめた。
「それで良いよ。医者っていうのはそういうものなんだってね。そうだ、君、後で仕事を見せてくれないかな?この国には医者なんていないから、ちょっと興味があるんだ」
「そりゃ構わないが…見てわかるもんでもないぜ、旦那」
「それは残念。まあ、期待してるよ。そのうち怪我人が大勢出ることになるだろうから」
ロイドがそう言ったところで、彼らのいる部屋の扉の下から影が侵入してきた。その影はロイドの後ろで人の形を取り戻した。ウィリアムの従者、イーサンである。彼は自身が訪ねてきた用件を後回しにして言った。
「おかえりなさいませ、セレスティア様。もう戻られていたとは…」
彼女は微笑んで短く返事をした。ロイドが訪問の理由を尋ねると、イーサンは答えた。
「敵軍より、交渉の申し出がありました。ただ…」
ロイドの前で憶測を口にすべきではないと思ったのか、従者は途端に言い淀んだ。少年はその躊躇いを詰るように、若干眉に力を込めた。
「何?」
「…本軍が未だ現れていないことを考慮すると、これは黒豹族の独断によるものである可能性がございます」
「うん、確かに。面白くなってきたね」
ロイドの表情はみるみるうちに明るくなった。それに気付き、セレスティアは呆れたような顔をしている。イーサンが続ける。
「主はロイド様に出向いていただくのが最良だと考えております」
「もちろん。ウィリアムは何を言い出すかわかったものじゃないからね。―じゃ、行ってくるよ」
と、ロイドは早速、懐からアーテルニア行の緋石を取り出した。イーサンは念のため尋ねた。
「御一緒いたしましょうか?」
「いや。アンドルーが見ててくれるだろうから僕は平気だよ。―あ、君たちはウィリアムのところにいて。僕も終わったらそっちに合流する」
セレスティアはふと、ロイドに報告すべきことが山ほどあるということを思い出した。
「ねえ、待って、ロイド様。今回の戦とは別に、話しておかなければならないことがあるのだけれど」
「そういうのはウィリアムに頼むよ」
「…それで後になって、そんなこと聞いてない、なんて言うんでしょう」
セレスティアが咎めるように言うと、ロイドは早くも負けを認めて両手を上げた。彼が我が王女にだけは敵わないことを、私は知っている。
「わかったよ。でも、戦を片付けてからにしてくれるね?」
彼は穏やかに尋ね、セレスティアは従順に頷いた。親子のようだと、私は時々思う。彼女はロイドの娘であり、ウィリアムの娘であり、エイデンの娘ですらあった。だが本当に血のつながっているアルフレッドは、ほとんど父親のようではなかった。彼はどこまでも国王だった。ああ、話が逸れたな。
彼女に頷き返すなり、ロイドは緋石を使った。部屋は光に満たされ、視界が元に戻ったときには彼の姿はどこにもなかった。まるで呼吸をすることすら許されていなかったかのように、リーンは大袈裟に息を吐いた。口を挟もうとする度にカイに制止され、すっかり嫌気が差していたのである。
「もー…言いたいこと言えないのって疲れる!」
「何でお前はいちいち何か言おうとするんだ?アメラを見習え」
「何であんたはいちいち止めてくるわけ?テオを見習ってよ」
二人がくだらない言い争いを始めた横で、アメラは眠たげにセレスティアを見上げた。
「なあ、セレスタ。アメラ、何かよくわかんなかったぞ」
「良いのよ。必要なら後でまた説明するわ。―ウィリアム様はどこにいるの?」
「陛下の元にいらっしゃいます」
イーサンの答えを聞いて、セレスティアはわずかに顔をしかめた。その意味するところは、兄には絶対に会いたくない、といったところだ。見かねたオスカーが言った。
「グレイフォール卿に来てもらうわけにはいかないの?」
「可能でしょう」
「別に良いわ、私。行きましょうよ」
嘘つけ。
「そう言うと思ったけど、ほら、皆で城にぞろぞろ入っていくわけにもいかないでしょ?それに、僕が君だったら絶対に城には行かないよ」
オスカーは微笑し、それが最終決定の印となった。グレイフォールの屋敷に移動する無駄を踏む必要はないと、イーサンは一同にこの場で待つように告げた。家主も文句は言うまい。
ロイドは単身で王都へと入っていった。至るところに黒豹族の青年たちが立っていて、余すことなく彼を警戒していた。彼は両手を上げ、敵意がないことを示した。
「僕はお呼び出しに応じただけだよ」
彼はそのまま当てもなく道を歩いた。そうしていれば、そのうち頭領が顔を出すだろうから。それにしても、町のなんと静かなことだろう!見張られていないようなものであるのにもかかわらず、国民は活動を停止して息を潜めているらしい。黒豹たちも、何も言おうとしない。おそらくロイドは思ったことだろう。彼らは口が利けないのだろうか、と。なおも歩き続けていると、突然彼の目の前に人影が現れた。やはり黒豹族の青年だが、下っ端ではないのは明らかだった。
「交渉したいんだって?」
ロイドが尋ねると、黒豹は怪訝そうに彼を見下ろした。子どもを寄越してきたことを心外に思っているようだ。それに気付いてロイドは言った。
「こう見えて、僕は割と長生きなんだ。ロイド・ミーレット。よろしく。君は?」
「…ミカゲ」
「うん。覚えておこう。じゃあ、早速始めようか?」
2025.2.5




