卿はご存じか
緋眼とは何か?選ばれた者。神から授けられた能力を持つ者。彼らの固有の能力を使うとき瞳が緋色に輝くことからそう呼ばれている。彼らが街にいたとて、その他の人々―いわゆる凡眼―と区別がつくわけではない。
元々は天使だけが持っていた瞳であるが、こうして人間にも力が解放されているのには、これまた天使アストルが一枚嚙んでいるようである。詳しいことはわからない。聖女の書いた手記さえ手に入ればいいのだが。そうそう、緋眼といえばだが、この世には金眼と呼ばれる者もいるのだとか。いわゆる亜人のことで…何、話が長いと?それは失敬。
ヒューから思わぬ情報を得たテオは、おぞましい襤褸宿でその夜をしのぎ、目が覚めるとすぐにグレイフォール卿の屋敷へと赴いた。上手いこと捕まえた馬車に長らく揺られたのち、テオは昼にもならないうちに屋敷に到着した。
朝食も取らずに出てきたものだから、馬車を降りたときに派手に腹が鳴った。テオは困ったように頬を掻いたが、気を取り直して屋敷の扉についた叩き金を鳴らした。しばし間があってから扉が開いた。そこに立っていたのは銀色の髪をした、端正な顔立ちの侍女であった。彼女はテオの頭からつま先までをざっと眺めてから、淡白な口調で言った。
「ようこそおいでくださいました。恐れ入りますが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「名前?俺はテオだ。そんなことよりあんたのご主人様に…」
せかせかと話を進めようとするこの奇妙な客人の言葉を侍女は遮った。彼女がわずかに顔をしかめたのにはテオは気付いていないだろう。
「失礼ですがお客様、私が伺いたいのは家名のほうでございます。それから、本日かのお方には来客のご予定はございません」
「暇ってことか?ちょうどいいや、で…」
「いいえ、お客様。当分の間、事前にお知らせがない限り、かのお方はどなたとも面会なさるつもりはございません。大変申し訳ありませんが、急用でないのでしたらお引き取りくださいませ」
そう言うと、冷ややかなまなざしをした侍女は扉を閉めようとした。テオは慌てて扉をつかむと、体を半ば滑り込ませた。ああ、なんて粗雑な…。
「ちょい待てって。俺が異国人だからってそう冷たくしないでくれ、頼むから」
ひきつった顔で笑うテオを見て、侍女は数回瞬きをした。それから少し首をかしげて言った。
「ああ、外からいらしたのですね。気が付きませんでした。ですが、お客様が異国人であろうとなかろうとお通しすることはできません。私は異国からいらした方に対して差別的に振舞うことはございません。ちょうど、あなたが初対面の人間に対して丁寧に振舞われないのと同じ要領かと存じますが」
「それは悪かった。この通りだ。で、急用だって言ったら通してくれるってことだよな?」
一瞬頭を下げた隙に彼女が明らかな嫌悪の色を表したとは、テオも到底思うまい。
「内容によりますが」
こうした問答がしばらく続くかと思われたそのとき、執事らしき男と、その腕に手をかけ、上品な服を着て、艶やかに亜麻色の髪を輝かせた女性が廊下の先から現れた。彼女はどういうわけか目元に包帯を巻いていた。男は扉に挟まったような姿勢でいるテオを見て、困惑しながら言った。
「ジリアン、その方は?」
ジリアンと呼ばれたその侍女は振り向いて、やれやれとでも言いたげに首を振った。包帯をした女性が口を開いた。
「何かあったの?」
侍女の氷のごとき物言いの真逆を行く、優しい木漏れ陽のような声がテオを安心させたらしい。彼は体のもう半分を押し込んで屋敷に侵入すると、いきなり彼女の手を両手で握って語りかけた。
「聞いてくれ。俺はどうしても、えっと、グレイモン卿に会いたいんだ。あんた、その人の娘か何かだろ?どうにかならないか?」
「その方に触れるな。無礼者め」
ジリアンがそう言い、執事のほうはテオの肩をつかんだ。二人の使用人が怒りを露わにした反面、令嬢は穏やかに微笑んだ。
「二人とも、少し落ち着いて」
その声に二人はやや不服そうに引き下がり、姿勢を正した。彼女はテオに向き直って続けた。
「期待させてしまったようだけれど、私はウィリアム様…グレイフォール卿の娘ではないの。遠い親戚というだけ。それにあの方は今日、本当に誰にも会う気がないみたい。私もさっき渋い顔をされたところよ」
「名前を間違えるような輩には眉をつりあげるでしょうね」
ジリアンがつぶやき、まったくだ、と言うように執事が目を閉じた。そんなことは気にも留めずにテオは粘る。ここまでくると見事なものだ。
「急用なんだ。早くしないと逃げられる」
「逃げられるって、いったい何に?」
「ここじゃ天使なんて言われてる殺し屋に、だ」
そう言うと、三人の顔つきが変わった。しばしの沈黙の後、執事が口を開く。
「リーゼル様…どういたしますか?」
ジリアンが顔を上げ、執事のほうを若干睨んだ。リーゼルは考え込むようにうつむいている。テオは我慢が利かないようで、早口にまくしたてた。
「グレイフォール卿って人が天使のことを何か知っているって情報を仕入れてな。奴には賞金がかかってる。絶対に仕留めてやりたくなるくらいの大金だ」
また沈黙が訪れた。侍女は不機嫌そうに目を伏せており、執事は無表情だったが、足先がせわしなく動いていた。どこぞの令嬢は口元に手を添えながらじっと押し黙っている。さすがのテオもおとなしく彼らの判断を待った。半ば諦念しているようにも見えたが。やがてリーゼルがつぶやくように言った。
「…会わせてみる価値はあるかもしれない」
その言葉にテオは耳を疑った。表情はみるみるうちに明るくなり、今にも踊りだしそうなほど上機嫌になったのが伝わってきた。テオの様子をみてジリアンはうんざりしたような顔をしたが、リーゼルの判断に対しては別段驚いた様子もなさそうであった。執事の顔からはやはり何も読み取れなかったが、落ち着きなくつま先を動かすのはやめていた。
「本当に会わせてくれるのか!?」
「ええ。ウィリアム様次第ではあるけれど」
よしきた!テオはリーゼルの手を再び握り、感謝を伝えているつもりなのか、ぶんぶんと振り回した。背後から殺意に近い何かを感じ取って慌てて手を離したのは良い判断だった。相変わらず微笑をたたえているリーゼルが言った。
「まだ名乗っていなかったわね。私はリーゼル・オーネット。それからこの二人はジリアンとイーサン。彼はウィリアム様の執事よ。ジルは私の付き添いだけれど」
「そっか。俺はテオだ。家名はまあない、かな」
そうわざとらしく言うと、テオはジリアンに目配せした。しかしそうするが早いか、彼女はすでに彼らを先導して広々とした廊下を音もなく歩き始めていた。そのうえほかの二人までもが彼の名前には頷いただけで、ほとんど興味を示すことなく侍女に―やはりリーゼルはイーサンというその執事の腕に手を置いた―続いた。今のところ、テオの愉快な友達というのは酒場ですぐ酔いつぶれてしまうあのヒューとかいう男しかいなかった。
テオは彼らについて階段を上り、右手に進んだ突き当りの一つ手前の部屋に案内された。中には見るからに柔らかい、大きな長椅子が一対向かい合って構えていて、その間に硝子でできた座卓が粛々とたたずんでいた。天井からつるされた枝垂燈は華奢な少女のようで、下品さは微塵も感じられなかった。二人の使用人はめいめいの役割を果たしに部屋を出ていき、残ったリーゼルは長椅子の大きな背もたれに手をかけながら、ゆっくりと腰かけた。
「どうぞ、座って」
言われるがままにテオは彼女の正面に座った。しかし出会ったばかりの二人だ、特別話すこともない。リーゼルは何を考えているのやら、身じろぎもせずに凛と座っているのに対し、テオはあたりをきょろきょろと見回したりいらいらと手足を動かしたりしていた。その落ち着きのなさといえば、軒並み犬のようだ。気まずさに耐えかねて、テオが口を開いた。
「…その目のことは聞かないほうがいいか?」
もっといい話題がありそうなものだが。リーゼルは特に動揺もせず、落ちてきた髪を耳にかけながら答えた。
「緋染病なの。こうでもしないと普通の人は怯えてしまうから」
緋染病というのはご想像の通り緋眼が患う病であり、主に能力の酷使によって発症する。こうなっては最後二度と能力は使えないというのに、ただ瞳だけが染まってしまったかのように緋く輝き続けるという気味の悪い症状が出る。
「そういうことね。じゃ、緋眼なんだな、あんた」
「だった、のほうが正しいかもね」
そう言うと、リーゼルはおかしそうに笑った。病のことなど気にも留めていないらしい。そこに扉を叩く音が聞こえて、ジリアンが紅茶と茶菓子を静かに運んできた。彼女は主人の顔に浮かぶ笑顔の余韻を見とめて少し動きを止めたが、失礼いたします、とただ一言言うと、そのまま出て行ってしまった。またしばらくの沈黙が訪れた。しかし今回はそう長くは続かなかった。再び扉が叩かれて、今度はイーサンが部屋にやってきた。その後ろで、初老の紳士が重々しい雰囲気を放っていた。そう、彼こそがまごうことなきグレイフォール候ウィリアムである。彼はテオのほうに目を向け、自らの顎に触れた。
「ふむ…あなたがテオ殿でいらっしゃいますな」
テオは尻に火が点いたかのように立ち上がった。そしてぎこちない笑顔を浮かべ、ぎこちなく手を差し出した。
「グレイフォール卿だ…ですよね?すんません、忙しいのに」
ウィリアムが軽く手を握り返し、テオはあからさまに安堵した。彼の視界の端でイーサンが恭しく一礼し部屋を去った。屋敷の主はリーゼルの隣に浅く腰かけ、テオにも座るよう促した。話を長くする気はないようだ。リーゼルは微動だにしない。
「さっそく本題に入りましょう。例の殺し屋についてこちらの話を伺いたいということでお間違いありませんな」
「そうだ…です」
さて、相手を敬う魔法はいつまで続くやら。
「では先にあなたが持っている情報をお聞かせ願いましょう」
ウィリアムはじっとテオを見つめている。あの射貫くような目にたじろがない者はいない。テオは突然言葉に詰まり、何を言ったものかと指を足の上で彷徨わせた。おそらく彼はウィリアムのみならず、包帯に妨げられているはずのリーゼルの視線までも感じていたのだろう。彼女はやはり身動きも取らずじっと耳を傾けているだけで、口をはさむ気配はない。ようやくテオはしどろもどろに口を開いた。
「ああ…その…大したことは知らなくて。相手は緋眼で、一つの町にしばらく留まる。獲物は悪人ばかりってことと、あとは…そう、女だっていうのはここに来てから知った。そんくらい、です」
「ふむ…」
再びウィリアムは顎を撫でた。何かを思案するときの癖である。
「やはり、かの殺し屋の手掛かりは少ないようですな。残念ながら我々の持つ情報も大差ありません。一つあるとすれば、その者があまり大柄ではないということ。ある現場の近くの泥に靴の跡が残されていたことがありまして、その大きさから察するに女性であるということも間違いないでしょう」
テオが深く息を吐いて落胆の表情を浮かべる。置物のようだった令嬢は黙ったままゆっくりと首を振り、ウィリアムも無念といった様子で少し眉を下げた。
「お役に立てず申し訳ない。しかし今後も調査は続けていくつもりですので、進展があれば真っ先にお教えいたしましょう。どちらに滞在しておいでですかな?」
「ああ…昨日泊まったのがひどい宿で。これから探すんでどうなるかわかんない感じ…っすかね」
考えるのも嫌だというようにテオは苦笑した。昨晩の隙間風の音を思い出していたに違いない。
「塔の前の広場の辺りにある宿はどうかしら。私も泊ったことがあるけれど、とても素敵なところだったわ」
始終静かにしていたリーゼルが言った。テオは肩をすくめる。
「お嬢様が泊まるような宿は厳しいな。ただでさえ懐が寂しいんだ」
「…それが理由ですかな?」
「ん?」
「失敬。あなたが天使を捕らえようとおっしゃるのは、懸賞金が必要だからかと、そうお尋ねしたかったのです」
「ああ…まあ、極端な話、そうかな」
「では、仮に大金が手に入ったとしたら、あなたはかの者を追うのをやめてしまわれるのか?」
ウィリアムは射貫くような視線をテオに投げかけている。テオは思わず目を逸らし、口ごもりながら答えた。
「いや。金はいくらあってもいいし。諦めんのも悔しいから、いつか追い詰めてやりてえ…です」
ウィリアムはテオの言葉を吟味するようにゆっくりと頷いた。その眼差しが和らぎ、それを見てテオは試されていたのだと考えた。
「…必ずや、かの悪魔を捕らえましょう。ご活躍を期待しておりますぞ、テオ殿」
ウィリアムは声色に幾分かの親しみを込めて言った。固くした姿勢を戻し、テオはわけもなくリーゼルの手元を見つめた。彼女の手はその腿の上にたおやかに鎮座していた。
「約束するよ。あんたをがっかりさせたりしねえって」
断固とした口調でそう言ったテオは目線を上げ、はにかむような奇妙な笑顔をウィリアムに向けた。
「…っと。すんません。失礼っすよね、今の?」
何を今更。
「私に気を遣う必要はございません。―では、本日はこの辺りで失礼を。何かあれば、いつでもお越しくださって結構です」
ウィリアムは立ち上がり、背広を軽く整えた。それを見てテオも慌てて立ち上がり、二人は実に厳かに握手を交わした。リーゼルはまるで二人が立ち上がったことにすら気が付いていないように、じっとして動かない。と思うと、口元だけを動かして言った。
「何かわかったら私にも教えてくださる、ウィリアム様?」
「…お望みならばそういたしましょう。時に、オスカー殿はどちらにおいでですかな?ぜひとも知恵をお借りしたいのですが」
「そのうち帰って来ますわ。そのときにはきっとこちらに立ち寄らせましょう」
会話が途切れ、出口に向かう足を止めてそれを聞いていたテオは再び歩き出し、扉に手を掛けた。すると、リーゼルは今度はテオに声をかけてきた。
「ねえ、テオ。近いうちにぜひ私の屋敷にいらして」
テオは彼女が言い終わらないうちに振り向いた。どことなく嬉しそうな顔をしている。
「そりゃ飯のお誘いか?」
「ええ、そうね」
ウィリアムは眉をひそめたが、口を挟むことはしなかった。リーゼルの物言いに有無を言わさぬ何かがあったからだろう。テオは戸惑って頬を掻いた。
「何でまた…いや、有難いけどさ」
「興味があるの。異国の方なら、私の知らない話も色々知っているんじゃないかと思って」
「なるほどね。わかった。じゃ、明日にでも。―あんたって、リーゼル…何だったっけ?」
明日にでも、というは冗談のつもりだったらしいが、誰も―言った本人でさえも―微笑みすらしなかった。
「オーネット。御者にはそう伝えれば大丈夫よ」
テオはしきりに頷きながら片手でおざなりに挨拶し、もう一方の手で扉を開いた。廊下に待機していたジリアンは、彼のにやけ面に冷や水を浴びせるような一瞥を送った。テオは先ほどリーゼルに対して振った手を再利用し、それに彼女は侍女らしくお辞儀を返した。そして彼が部屋を出るが早いか中に滑り込み、石像のような主の元へ向かった。その様子を振り返って眺めていると、どこからともなくイーサンが現れた。
「お見送りを」
「ああ…そっか。―いつからいたんだ?」
返答なし。執事は黙って廊下を進み始めた。テオは肩をすくめ、彼についていった。それにしても豪華な屋敷だ。先ほどここを通ったときはリーゼルの背中ばかりを見つめていたので、テオは初めて目にするかのように絨毯や窓を観察しながら歩いた。玄関まで辿り着くと、イーサンは誰に対しても決して変わらない態度で、寸分のずれもない美しい一礼を披露した。
「では、お客様。お気をつけてお帰りください」
「おう。またな」
玄関を出たテオは、すらりとした背格好の青年と危うく頭をぶつけそうになった。彼は驚いたような顔をして立っていた。ちょうど叩き金を鳴らそうと手を伸ばしていたところだったらしい。彼は表情を微笑に切り替え、即座に脇に避けた。
「これは失礼。どうぞ、お先に」
「お、悪い。妙な鉢合わせ方もあるもんだな」
「まったくだね」
そう目を細めた彼は好青年と呼ばれる類の男であった。しかし門を過ぎた頃には、青年はテオの頭の中から抹消され、生まれた間はリーゼルが代わりに埋めてしまったようだった。そのことは、この異国の旅人の顔から一目瞭然であった。
2025.1.8