手を振り払って
私は彼女がかつて暮らしていた塔の中でこうして記録をつけている。より正確を期するならば、彼女が暮らしていた一つ下の、彼女の侍女が使っていた階層である。というのは、彼女が去って以来、彼女の部屋を使っていたのは呪いによって眠り続けていたアルフレッドだったからだが。
この塔は元々、アルフレッドが娘のためだけに建てさせたものだった。彼女の義母にあたる王妃は、当然彼女を良く思っておらず、彼女の存在が公にされることを阻止とは言わないまでも、何とか先延ばしにさせようとしていた。王妃は彼女を虐げることに躍起になっていたと言っても良い。もちろん、黄泉忘れの禁を狙っていたのが理由であろうが。
しかも、アルフレッドが反対できぬように立ちまわるその狡賢さと言ったら!そのせいで彼女は本当の母親のように慕っていたジスレーヌから引き剝がされ、あろうことか城の地下に幽閉―決して大袈裟な表現ではない―されることになったのである。
国王は頭を悩ませた。ロイドの助言を仰ぎ、アルフレッドは彼女を教育を受けさせるという名目で、カルツァ学院の学長エイデンの元に送った。その間にこの塔は建設されたのである。結局、幽閉という点では変わりがなかったと認めざるを得ないが、塔は広く、空気が澄み、当時は王都ではなかったアーテルニアの街並みを見渡すことができた。最も幸福だった数年間を彼女が過ごした塔というわけである。
何故このことを思い出したのかと言えば、今日はやけに塔が揺れるからだった。いつもはそんなことないのだが。
翌朝、クラウスは適当な理由をつけてミロに接触した。例の話をなかったことにするつもりなら、彼がわざわざ皇子に会いに行く理由などなかった。つまり、答えはわかりきっていた。それでもクラウスは、依然として迷いがあるかのような態度でミロの前に立っていた。
「殿下のおっしゃる通りにいたします」
「そうか。二言はないな?」
「はい。これでも、兵士としての誇りはございますから」
答えを躊躇わなかったのは意外であった。ミロは余裕のある笑みを浮かべた。長年の計画が着実に前に進んでいるという実感があった。
「よく言った。―しかし、遅かったな。時間切れになるところだったぞ」
「ああ。それは、昨日は仕事を終えた後、すぐに帰って眠ったからです。悩むより、朝起きたときの直感に任せようと思いまして」
クラウスははにかんだ。馬鹿なことを白状していると思ったに違いない。ミロとしては、それがくだらないかどうかなどどうでも良かった。彼はクラウスの肩に手を置いた。
「お前のそういうところ、嫌いじゃない。―さあ、もう行け。あまり長話をするわけにもいかない」
クラウスは敬礼をして、持ち場に戻ろうとミロに背を向けた。詰所に向かいながら、クラウスはふとウェンディのことを思い出した。このところ叙任式やら何やらで、ザクまで訪ねていく暇がなかった。本当なら昨日会いに行くつもりだったのだが。
「…怒ってないといいけどな」
クラウスは一人そう呟き、最後に彼女に会ったときのことを考えた。彼女の罵詈雑言は、扉越しに彼にも聞こえていた。だからどうということもない。彼は父であるアドン伯に言われた通りにするだけだった。クラウスが彼女に接触したことがアドン伯の生存戦略に過ぎないということを、ウェンディは知らない。
町を美しく改装してまで取り繕う必要なんてないことも。アドン伯の地位を今よりも確固たるものにするためだけに、遅かれ早かれ彼らは婚約するのだから。そもそも、彼女がひねくれた性格をしていることくらい、クラウスはすでに知っていた。耳に届いた醜聞を、アドン伯はそのまま息子に伝えていた。別に、どうでも良かった。
きっと彼女は自分と同じなのだ。可哀想な子孫なのだ。親の地位と財産のおかげで何でもできるはずなのに、どうしてか不自由で、どうしてか不当に扱われているような気がして…寂しい。自分はかなり早い段階でこのやるせなさを自覚していたが、彼女はきっとそうではなかったのだ。だからひねくれている。
そうと知っていれば、彼女を愛することなど造作もないことだ。いつかきっと、いや必ず、彼女と共に本当の自由を手にする。父親の策を逆手に取って。
「明日、徴命令を公布します。ミロ、あなたに任せますよ」
玉座に座るイザベラはそう言って、実の息子に目を注いだ。ミロはいつも彼がそうするように、無表情に母を見つめ返した。自身の子と十分に言葉を交わそうとしないのは、どこの君主も同じらしい。そして彼らはわかり合えないと嘆く。何故か?彼らの先祖が代々そうしてきたからである。それはさておき、ミロは言うべき言葉を吟味してから言った。
「何故そう急いているのですか。戦はまだ先では?」
「あなたの知るところではありません。それよりも、ミロ。あなたは先の大会から、より多くの兵士を選り抜くべきでした。現在の帝国は、兵力が充実しているとは言えません」
イザベラはミロをまっすぐに見下ろし、淡々と言葉を吐いた。彼は反駁した。
「それは、母上が軍を大幅に縮小したからではありませんか!」
彼の大声が響き渡ったが、その場にいた誰も―皇帝イザベラ、神獣化計画を知る書記官たち、そして聖騎士カーラ―微動だにしなかった。イザベラは、わざと間を取ってから口を開いた。
「過ぎたことです。何はともあれ、兵力が足りていないのは事実でしょう。早急に手を打ちなさい」
ぴしゃりと言ってのけると、イザベラは身振りでミロに退出するよう命じた。ミロは悔しそうに床を睨みつけていたが、ゆっくりと頭を下げた後には、また無表情を取り戻していた。彼は玉座の間を出た。早足で私室に戻ろうとしたところに、彼がたった今出てきた扉が開いて閉まった音がした。振り返ると、カーラがもの言いたげに彼のほうを見ていた。
「何だ?」
カーラは敬礼した。
「勝手ながら、先日の大会に出場した中で見込みのあった者については、すべて記録をつけておきました。お役に立てるかと」
「ああ。助かる。持ってきてくれ」
「承知いたしました。お部屋にお届けいたします」
カーラは再び敬礼した。ミロは頷き、私室に引き上げた。椅子に腰を沈め、呟く。
「明日か…」
想定より早かった。のうのうと準備を整えている時間はないらしい。皇帝は一点において正しかった。早急に手を打たねば…。ミロが深く考え込んでいると、カーラが部屋にやって来た。彼女は独特な扉の叩き方をするので、すぐにわかる。秘密の合言葉とか、そういう類のもののつもりなのだろうか?ミロに促されて部屋に入ったカーラは、手にした書類を注意深く彼に差し出した。
「こちらをどうぞ」
「ありがとう。…よくできてるな」
私にはそうは思えないが、書類をめくるミロは満足げだった。
「恐縮です、殿下。しかし、正直に申し上げますと、たったそれだけのことをまとめるのにかなりの時間を割いてしまったのです。私はまだ未熟者でございます」
「仕事が丁寧なのは悪いことではないさ」
カーラは赤面して目を泳がせた。
「ですが聞いた話では、前任は雑務も手際よくこなしていたとか。彼の手解きを受けられたら、どんなに良かったか…」
何とか言葉を繋ぐことに夢中になっているカーラは、ミロが手を止めたことにすぐには気が付かなかった。もちろん彼女には―少なくとも今は―何の悪意もなかったし、別に責めを負うようなことを言ったわけでもなかったが、それはミロの神経を逆撫でするかどうかとは別問題であった。彼はほとんど聞こえないくらいの声量で言った。
「そうか」
「…失礼いたしました。つい長々と―」
「構わない」
ミロはわずかに眉根を寄せた。そして紙束を無造作に机の上に投げようとして思い直し、至って平然として見えるように置いた。しかし、カーラのほうを見ようとはしない。彼女はまずいことを言ったようだと何となく察したらしかった。
「では、私はこれで失礼いたします」
「ああ、ご苦労。―ついでだ、カーラ。曹長をここに呼んでくれ」
「曹長ですか?一体何故…ああ、作業を委任なさるのですね」
カーラは勝手に納得して頷いた。まあ、そう思ってくれるならそれはそれで都合が良い。ミロは諾った。カーラが去ってからしばらく経ち、ミロが三度目に時計を見上げた頃、ようやくクラウスがやって来た。
「テオからです」
入ってくるなり、彼は封の切られた手紙を差し出した。オスカーがテオに宛てて書いたものである。彼はここにたどり着くまでの間に、勝手ながらその手紙に目を通していた。
差出人―オスカーというのは先代聖騎士の名ではなかったか、とクラウスは首を傾げた―が誰であれ、この人物はこの手紙を書いた時点でようやく皇子に手を貸すことを承諾したようである。どうやら自分は皇子に少し騙されていたらしい。しかし、この手で何かを為したいと考えておきながら、どうしてそんな些細な嘘を気にしよう?クラウスは手紙を見なかったことにしたのだった。
ミロはその手紙を受け取り、素早く読み終えた。彼らの協力が得られる…ここまでは計画通りだ。あとは、彼が持ちうる中で最も威力が出るこの武器をどう振るうか、それを決めるだけだった。ただし、今すぐに。
「それで、僕にどのような御用でしょうか?」
ミロが手紙から顔を上げたのを見て、クラウスは尋ねた。
「先ほど母上に呼び出されたところでな。明日、徴命令を出すようにとのことだ。母上はそれを僕に任せたから、やろうと思えば発令を遅らせることもできるが…とにかく時間がない」
「つまり、もう始めるということですか?」
「ああ、そうしよう。良いか、よく聞いてくれ…」
数時間後―
ミロの立てた計画は首尾よく進んでいた。もうじきテオがガラサにいるという仲間を連れてこちらに戻って来るはずだ。いや、もう戻って来て、次の段階に進んでいるかもしれない。何せ、彼らは竜―オスカーというのはやはりあの英雄のことだと皇子が教えてくれた―の背に乗ることができるのだから。クラウスは空を見上げた。そんなわかりやすく飛んでいるはずもないか。
彼は目の前の建物に向き直った。それは浄眼連盟の集会所として使われている聖堂のようなもので、連盟員でなければ入れないという決まりがあった―そうでなくてもあまり人は寄り付かないが―。つまるところ、クラウスはその中に足を踏み入れることは許されない。それは別に良かった。
彼はミロの指示通りに認めた告発文を見直した。連盟はこの内容を信じてくれるだろうか?クラウスはため息のようなものをつくと、紙を横に三つ折りにした状態に戻し、門扉にきつく結わえた。あとは、あの手足を紐で吊られていないとろくに動けやしない上等兵たちが軍議と称した談笑を楽しんでいる間に、下等兵を集めて真実を話すだけだ。
連盟が匿名の密告を相手にしてくれるかどうかは怪しいものだが、兵士たちが自分の言うことを真摯に受け止めてくれるのは間違いない。だから自分は皇子に選ばれたのだ。クラウスはそのことを少し、いやかなり誇りに思っていた。
ひょっとしたら、今回のことが彼を今よりもずっと高いところまで連れて行ってくれるかもしれない。アドン伯など目じゃなくなるかもしれない。自ら策を弄さずとも。もしそうなったときは、ウェンディも一緒だ。そうならなかったときも、決して捨てることはしないだろう。そんなことをしたら可哀想だ。
まあ、クラウスが本当にそのようなことを考えていたと証明することはできないが。他人の心理を解き明かそうとすると、私は途端に饒舌になるらしい。我が王女には、勝手に人の気持ちを代弁するな、と再三言われたものだ。さて、クラウスはせかせかと城へ引き返していった。そしてその中途で見つけてしまった。
「…ウェンディ?」
遠くからでもわかった。彼女は噴水の縁に斜めに座り、物憂げに水面を見下ろしていた。そよ風が彼女の髪と戯れ、つばの広い帽子をずらそうとした。通りがかる者は皆その足を緩め、立ち話をしていた者は皆横目で彼女を窺った。ほとんど絵画のようであった。クラウスは遠くの時計塔を見上げ、迷ってから彼女のもとに歩いて行った。
「やあ、ウェンディ。えっと…ここで何してるの?こっちに来るなんてめったにないよね?」
ウェンディはなおも水面を、もっと言えばそこに映る自分の顔を見つめ続けた。手袋をはめたままの指で顔の輪郭をなぞる。
「どうしてこんなに歪んでいるのかしら…」
「何の話だい?」
「私の顔…」
「波紋のせいだよ。あなたが指で触れるから。―ウェンディ、元気がないみたいだけど…」
ウェンディにはクラウスの言うことなどまるで聞こえていないようである。
「クラウス、どうして会いに来てくれなかったの?」
「それは、ほら、殿下に―」
「あの日は、次の日も必ず会いに来るって約束して帰っていったわ。そうでしょう?」
「…そうだね。ごめんよ、手紙くらい出せば―」
「聞いていたんでしょ、クラウス?」
「え?」
「私があの男に言ったこと、聞こえていたのね」
ウェンディは妙に確信しているような口調で言った。やはり顔を上げようとはしない。クラウスは誤魔化そうとして、やめた。彼にとってはその問題など些事であった。
「うん…まあ。でも僕は別に―」
「だから私を置いていくの?」
「待って。誤解だよ、ウェン―」
「そんなに私は醜いかしら?」
ウェンディは凛とした面持ちで振り返り、初めてクラウスをまっすぐに見据えた。彼は気圧されそうになるのを振り切ろうとするように怒鳴った。
「そんなこと一言も言ってないじゃないか!頼むから、話を聞いてくれよ」
「私を愛している、クラウス?」
彼女は怒声の余韻が消えるまで待ち、呟いた。人々の視線が痛い。彼は落ち着きを取り戻して跪き、彼女の濡れた手を取った。
「…もちろん、愛してるよ。ねえ、聞いてくれ、ウェンディ。僕たち、結婚しよう。僕ならあなたに今までと違う景色を見せてやれる。もう大丈夫…あなたのことなら全部わかってるんだ」
「全部?」
「そうだよ、ウェンディ。もう苦しむ必要なんかない。二人とも幸せになれるから」
「天国で?」
「そう、天国だ。僕たちが向かう先はきっと…」
青年は、脳内にありありと浮かぶ栄光の未来に恍惚としている。天国という言葉の意味の食い違いにも気付かずに。
「嬉しいわ、クラウス」
少女は情熱的な声で言い、冷めた眼差しを青年に向けた。底の見えない愛への執着は、死した心を流れる血と解け合い、そして打ち消し合った。あとには何も残らないと、お前は気付いていたのだろうか?
―その音は、存外静かなものだった。むしろ、行き場をなくした空気が漏れ出る音のほうがうるさかった。それに続くようにして、やかましい悲鳴が辺りを包んだ。彼女の膝の上が生温かく、重くなった。状況処理が追いつかないのか、彼はただ目を見開き、命の灯が吹き消されるがままにしている。その口元が震えながら動いた。その言葉は声にはならずに漂う。いやだ。
「しーっ…」
ウェンディは囁くようにそう言ったが、彼の痙攣する身体は騒がしく、そして鬱陶しかった。醜いとさえ思った。地面に崩れ落ちたクラウスは、何とか生き延びようと傷口に手を伸ばそうとした。ウェンディはつと立ち上がると、その手を足で押さえた。
「駄目よ、クラウス…それ以上の醜態を晒すのはよしてちょうだい。見るに堪えないわ」
手足に力を籠めることは最早叶わず、クラウスは最後の数秒間、将来を誓おうとした少女を霞む目で見つめ続けた。誰も彼らに近寄ることができなかった。それは信じがたく異様な光景で、駆けつけた衛兵さえも、その結末を見守ることを選んだ。
あえて言うならば、世界が違ったのである。彼女にとって、その場はすでに天国のようであったはずだ。隔絶され、彼女がすべてとなった空間というのは。クラウスが動かなくなったのを見送ると、ウェンディは再び水面を見下ろした。
「何てこと…」
彼女の鏡像は、血走った目をして、肩を怒らせ、そして何よりもおぞましいことに、不気味な笑顔を湛えて彼女を見つめ返している。
「あなたが最期に見た私は、こんなにも醜かったのね」
ウェンディは乾いた笑い声を立てた。私はどうしたかったんだったかしら?美しいまま、誰にも邪魔されない世界に行きたかった。私を愛してくれるこの人と。それなのに、この人は醜い私を知ってしまった!
元々知っていたかどうかなんて、どうでも良い。恐ろしいのは、天国でこの人と向き合う私が、きっとこの人が最期に見た通りの私であろうということ、それだけだ。しかしそれも、天国に行く資格が私にあるとすればの話か。
「…あなたに会わずに済むかしら?」
ウェンディは涙を流した。ふと顔を上げると、腰の引けた衛兵が二人、彼女のほうににじり寄ってきていた。逃げねば。彼と引き離されるわけにはいかない。ウェンディは震える手で先が緋色に染まった短剣を自身に向けた。
これから何が起きるかを理解した衛兵たちが、今度こそと言わんばかりに猛然と走り出す。手遅れだと知りながら。ウェンディは微笑みを浮かべ、まるでそれが身体の一部であるかのように、短剣を心臓に突き刺した。
「パパ…」
彼女は掠れる声でそう呟き、短剣を抜いた。彼女の身体は、噴水の縁にもたれかかるような形で崩れ落ちた。苦痛に歪んだ顔は血が流れ出るほどに安らいでいった。そしてウェンディは身勝手に息絶えた。水面に映る彼女の死に顔は可憐を極め、とても心の腐りきった女には見えなかった。これは当然世辞ではないが、彼女はかつてないほど美しかった。まったく、信じがたいことである。
そんなことが起きているとはつゆ知らず、セレスティア一行は竜の背に乗り、雲の上を霞めるようにして飛んでいた。テオが伝令のため駆け込んできてからそれほど時間は経っていなかった。馬を全速力で走らせたとしても、城下からガラサまではかなり時間がかかるのである。
しかし竜なら話は別だ。彼らはすでに目的地付近に到達していた。危なっかしく身を乗り出して辺りを見回していたリーンが、皆に聞こえるくらいの声量で叫んだ。
「わあ!ねえ、海がどうのこうのってあれのこと?水槽みたいになってる!」
「おう、あれだ。あん中に鯨が―」
テオが答えるのを遮ってセレスティアが言った。
「待って。あそこ、人がいるわ」
「そりゃおかしいな。確か、事情を知ってる奴でもあの海岸には立ち入れないって話だったぜ」
突然、オスカーが吠えた。セレスティアにしか伝わらないが、何か言いたいことがあるようだ。
「皇帝とカーラですって?」
彼女が聞き返すと、オスカーは再び短く吠えた。間違いない、とかそんなようなことを言ったらしい。
「…まずいかもしれないわね」
「何で?そのくじらって奴、まだ神獣になってないんだろ?」
「ミロ皇子が聞かされていた計画では、まだだけれど―」
とセレスティアが言いかけたとき、激しい咆哮が辺り一帯を揺さぶった。もちろんそれはオスカーが発したものではない。鯨だ。あの囚われの鯨が、普通ではありえないことに、猛獣の如く吠えているのである。言うまでもなかろう。神獣化が始まっている。いや、あれは最早神獣と呼ばれるべき存在なのかもしれない。変化が早すぎるが。
セレスティアたちにはただ見ていることしかできない。カーラは臆することなく武器を構えている。空気を引き裂くような咆哮が響き渡った。それを合図にするように、聖騎士は海へ突進していった。水に入ってもなお、その動きは陸にいるときと変わらず軽やかだった。イザベラの『水息の緋』の力を宿した緋石を持っているに違いなかった。オスカーは彼女が戦い始めたとわかると、方向転換して城を目指し始めた。リーンが慌てて叫んだ。
「ちょ、騎士様!どこ行くの?あれ、止めないといけないんじゃないの!?」
「いや、もう手遅れだ。力尽くでカーラを止めたとしても、今度はあの化け物に対処しないといけなくなるぞ!」
カイはそう言い、額の汗を拭った。この尋常ならざる状況で、いつものような涼しい顔などできるはずもなかった。
「くそっ!どうなってやがる!」
テオは拳を握りしめた。危うくオスカーの背中を力いっぱい叩くところだった。アメラは黙って海のほうを振り返っている。決まって悲劇を生む神獣がすぐそこにいるというのに、その悲劇を知る自分が何もできないのが悔やまれるのであろう。セレスティアは固い表情で前を見据えている。ジリアンの予言―厳密にはそうではないのだが―に従ったことさえ、彼女には運命だったような気がしてならなかった。
2025.2.3




