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その瞳には、毒がある  作者: 小娘
その娘、逡巡する
36/60

駆け引きは無用

 ミロの衝撃的な訪問の翌日、テオが昼食を用意しているジリアンにちょっかいを出していると、気だるげな足取りのオスカーが姿を見せた。


「よう。今日は早…くはないか。まあ、よく起きたな」


「アメラに叩き起こされてさ。今はティアと格闘してると思う」


と言い切らないうちに、オスカーは大欠伸をした。テオは寝室の様子を思い浮かべてにやりと笑った。


「アメラが勝つほうに銀貨五枚だな」


「いや、ティアだよ。頑固ったらありゃしないんだから」


「ジル、お前は?」


「巻き込まないでください。…セレスティア様は私が何を言っても生活習慣を改めるおつもりはないようですが」


ジリアンはため息交じりに答えた。


「二対一か。これはぜひともアメラに勝ってもらわねえとな」


「アメラが何だ?」


噂をすれば、アメラが厨房の戸口に立っているではないか。一人で。テオは愕然として膝をついた。


「お前っ…!何で一人なんだよ?まさか、負けちまったのか?」


「何だこいつ」


「今、アメラがティアを起こせるかどうかって話をしてたんだよ」


「そんなことか。セレスタならすぐに下りてくるぞ」


「セレスティアを起こしたのか!?」


どうしてそう熱心になれるんだ?アメラが困っているではないか。


「え…うん…」


「っしゃあ!俺の勝ち!おら、金を出しな」


テオは嬉々として立ち上がり、無遠慮に片手を差し出した。


「別に賭けに乗るって言った覚えはないんだけどな」


そう言いながらも、オスカーは銀貨を取り出してテオに渡した。戸棚から皿を取り出したジリアンがオスカーに向かって言う。


「天引きしておいてください」


オスカーは苦笑しながら銀貨を追加で支払った。そうこうしているうちに下りてきたセレスティアが一同の元に顔を出す。


「おはよう。何だか楽しそうね」


「おかげさまで。ちなみに、今日は何で起きてくる気になったんだ?」


「アメラがお昼を一緒に食べたいって言うから。そんなこと言われたら無視できないじゃない」


「僕ら三人のうちの誰かが同じことを言っても起きてくれるの?」


「あなたたちのうちの誰かがそんなことを言うかしら?」


「俺は言うかもしれないぜ」


「料理に夢中で人間には見向きもしないのに?」


テオは降参の印に両手を上げた。会話の合間を縫うようにジリアンが言った。


「昼食の準備にはもうしばらくかかりますが」


「ええ、気にしないで。食事の支度を急かすようなならず者なんていないから」


と、セレスティアは意味ありげにテオを見た。


「べ、別にそんなことしてねえよ…そうだよな、ジル?な?」


ジリアンはその問いかけに答える代わりに鼻で笑った。支度の邪魔になるといけないからと、セレスティアは皆を促して食堂に移動した。定位置に着いたオスカーは思い出したようにテオを見て言った。


「そうだ、ならず者予備軍。潜入はすぐになるだろうから、準備を怠らないようにね」


「あー…まあ、何とかなんだろ。―今俺のこと何て呼んだ?」


セレスティアが払いきれない眠気と戦いながら口を挟む。


「ゾルギック兵の規則は厳しいと聞くわ。あまり腑抜けた態度でいると、想像もつかないようなやり方で更生させられるかもしれないわよ」


「実際、そうだよ。二度と戻ってこなかったのが、何人いたことか…」


「ちょっと潜り込むだけだろ?んな真面目にやらなきゃいけないもんかねえ」


テオは冷やかすように尋ねたが、オスカーは至って真剣だった。彼は少し遠い目をして、かつての記憶を呼び起こしている。


「あの頃は…いや、今もそうかもしれないけど、兵士として皇家に仕えるのは何よりも名誉なことだったんだ。だから皆死ぬ気で闘技大会に挑むし、弛んでる兵士には容赦もしない。まさしく実力至上主義だよ、この国は」


「で、お前もその一人だったってわけだ」


「そういうこと。僕だって色々あったんだ」


オスカーはわずかに表情を曇らせた。田舎者故に騙されて、闘技大会に武器を持たずに参戦したことを言っているのだろうか?彼はすぐに気を取り直して言った。


「とにかくここはそういう国なんだよ、テオ。怠けてばっかりなんだから、少しは鍛錬もしたほうが良い」


「嫌だね。お前らだって怠けてるだろ?」


「あら。ならず者予備軍と同じにしないでほしいわね」


「俺の名前はもうちょっと呼びやすいはずだよな?」


「僕もティアも、鍛錬は欠かしてないよ。何ならジルもだね。だから言い訳にはなってあげられないかな」


「ジルだ?くそ、侍女まで武闘派ときてやがる。…しゃーないか。だったら昼飯まで手合わせと洒落こもうぜ、オスカー」


「そうしようか。手加減はしないよ」


「望むところだ」


二人は颯爽と部屋を出て行き、その後ろを転がるようにアメラが続いた。


「アメラ、審判やる!」


必要か?子どもの考えることはわからない。セレスティアは何をするでもなく、一人その場に留まった。が、オスカーは彼女を放っておこうとはしなかった。彼は扉から顔だけ覗かせて言った。


「ティアもおいでよ」


「勝敗は目に見えているから良いわ」


「そういうことじゃなくて。僕は君も一緒が良いんだ。考え事があるとかなら無理にとは言わないけどさ」


「…わかったわ」


セレスティアは立ち上がり、のんびりとオスカーの元へ歩いて行った。彼は普段のものとはまた違う、どちらかというと緩んだ笑顔で彼女を迎えた。


「嬉しそうね?」


「まあね。それに、ちょっと面白くて」


「私、変なことしたかしら?」


「ううん。だけど、君ってば迎えに来ないと動こうとしないんだから」


「そういう性分なの」


「わかってるよ。君のお守はやりがいがあって良い」


「あなたのお守もなかなかよ。…でも、そうね。私、あなたが迎えに来てくれるの好きよ」


「変なこと言うね?」


「あなたの無事がわかってほっとするの」


お互いの安否はどんなときでもわかっているはずだが、オスカーはそんなことを指摘するほど無粋ではなかった。彼はセレスティアの髪を撫でた。


「君が望むなら、いつでも迎えに行くよ。たまには君が迎えに来てくれたって良いけど」


「私は空を飛べないから嫌」


「言うと思った」


二人は目を合わせ、溢れるに任せて笑った。私は彼女がそんな風に笑うのをこの目で見たことは一度もない。



 ザク侯の屋敷に着くと、リーンはまず手早く外周を回って屋敷の様子を調べた。戻って来た彼女にカイは渋い顔をして言った。


「盗みに入るわけじゃないんだ。忍び込もうとするな」


「あ、つい。そっか、正面から突入したほうが良いよね」


「別に突入もしなくて良いだろう」


カイにそう言われて、リーンは悪戯っぽい笑みを浮かべた。彼らは無駄な装飾の多い敷地―そこはかつてカイが人々への見せしめにされた場所でもある―を横切り、玄関の扉の前に立った。叩き金を鳴らす前に、リーンは棒立ちの相棒に尋ねた。


「緊張してんの?」


「わからない。…そもそも、俺たちはあの女に会わせてもらえるのか?」


「心配後に立たずだよ」


リーンがしたり顔で言った。言葉遊びが好きらしい。遊び心のないカイは真顔でそれに相対した。


「それは当たり前だろう。何が言いたいんだ?」


「心配事なんて後になったらどうでも良くなるじゃん」


「これは真っ当な心配だと思うが」


「うるさい!―ごめんくーださい!」


リーンは叩き金を引っ掴み、せわしなく、だが十分すぎる強さで扉を叩いた。彼女が満足げに腕を組んで待つこと数十秒、侍女らしき女が扉を開けた。侍女は毎日のように繰り返している定型文を口にしようとしてやめた。視線はカイを捉えている。


「あ、ひょっとしてカイのこと覚えてるの?」


リーンが尋ねると、侍女は動揺した様子で訪問者を交互に見やった。最終的に彼女はまたカイの顔を見るに落ち着いた。


「ここで何を…あ、いえ、お嬢様をお呼びして参ります!…じゃなくて、応接間にご案内を…」


「え、いーよ。あたしたち勝手に入ってるから、そのお嬢様を呼んできてほしいな」


「かしこまりました!」


そのようなことを了解して良いはずもなかったが、侍女は逃げるようにその場を後にした。屋敷に足を踏み入れながらリーンは言った。


「変な人だね。あんたも今の人のこと覚えてるの?」


「まあな。俺を怖がってるらしい」


「ははーん。ま、大した驚きでもないね。―で、応接間ってどっち?」


「わかっててああ言ったんじゃないのか?」


「わかってるよ、どうせあんたがね」


カイは大した驚きでもないリーンの返答にため息をついた。大人しく期待に副ってやるのも癪で、彼は相棒を試してみることにした。


「…お前はどっちだと思うんだ?」


「じゃ、右」


カイは左手の扉から玄関の広間を出ると、すぐにある部屋を親指で示した。ほんのりと満悦が窺える。


「あたしの予想が外れてたから何だってのさ?」


「別に何も」


二人は応接間に入り、座ったら最後、そのまま吸い込まれるのではないかと思うほど柔らかい長椅子に並んで腰を沈めた。待たされているうちに、リーンが弾みのついた貧乏ゆすり―そうは呼ばないかもしれない―を始めた。カイは家主の視力を疑ってしまう程度には大きい壁掛け時計を見上げたが、まだ苛立つほどの時間は経過していなかった。


ウェンディが現れるのにはそれからさらに数分を要した。扉を開けた令嬢は、訪問客が期待していた人物と違ったことに落胆し、脱走したはずの玩具がいることに眉を顰め、椅子を破壊しそうな見知らぬ女に軽蔑の視線を送り、彼らを招き入れた侍女に怒りを込めた眼差しを向けた。


「お前、騙したわね!私はクラウスが来たものと思ったのに!」


「騙してないですよお!あの人が戻って来た、と申し上げたじゃないですか…」


「あの人、でこの男だとわかるわけがないじゃない!」


「だだだだって、私はこの人の名前を存じ上げないですし…第一、本日はまだクラウス様がお見えになっていないのに、戻って来ただなんて申し上げるわけないです…」


反論できなかったので、ウェンディは怒りの矛先をカイに向け直した。


「一体何をしに戻って来たの!?パパの宝物をあれだけ盗んで逃げたくせに!私を虚仮にしたいの!?」


「そういうわけじゃ―」


カイが弁明を試みようとしたとき、リーンが弾みをつけた勢いで立ち上がり、間に割って入った。


「待って?今聞き捨てならないこと言ったでしょ」


「お前は誰なの!」


「あたしは大盗賊のリーン。言っとくけど、あんたのパパのお宝を盗んだのはあたしだからね!ついでにカイもいただいていったけど」


リーンは彼女がいつもそうするように、誇らしげに名を名乗った。大盗賊の大はかなり強調されていた。ウェンディは得体の知れない化け物でも見ているかのように唖然としている。


「よくも抜け抜けとそんなことを言えるわね!―ちょっと、お前!衛兵を呼びなさい!」


ウェンディが控えていた侍女に怒鳴ると、リーンは間髪入れずに切り返した。


「無駄だよ、証拠がないもん。そんなことよりさ、カイはあんたに話があんの。そんなぷんすかしてないで座ったら?」


「立場をわきまえなさい!私はザク侯爵の娘なのよ!」


「すごいのはあんたの御先祖様でしょ?」


「お黙り!私はお前たちと話すことなんてないわ!さっさと出て行って!」


ウェンディが足を踏み鳴らしながら叫ぶように言ったちょうどそのとき、玄関の扉を叩く音が聞こえてきた。彼女が待っていたほうの訪問客である。鬼のような形相をしていたウェンディははっとして、可憐な少女の姿が一瞬顔を出した。


「きっとクラウスだわ。―お前、彼を出迎えて。少し引き留めておきなさい」


命令を受けた侍女は慌てふためきながら姿を消した。ウェンディは二人に向き直ると、幾分か冷静さを取り戻した様子で言った。


「もう帰ってちょうだい」


「だから、話があるんだけど?」


「私にはないの!いい加減に―」


ウェンディは取り落としかけた仮面をすんでのところで顔に押し付け直した。というのは、彼女の大切なクラウスが平然と応接間に入って来たからである。彼の後ろで、絶望的な表情をした侍女が文字通り右往左往している。クラウスは別の客人の存在に気付き、やってしまった、と言いたげな顔をした。


「すぐに済む用事だからと思ったんだけど、まさかお客さんが来ていたなんて。ごめんよ、ウェンディ。あなたに会いたいばっかりに、浮かれてこんな真似をするなんて」


侍女のはぐらかし方があまりにも下手だったので、クラウスはウェンディがめかしこむなり何なりしているだけだと思い込んだのである。ウェンディは息を呑むような儚さで微笑んだ。


「やだ、やめてちょうだい、クラウス。謝ったりしないで良いのよ。この…方たちは、ちょうどお帰りになるところなの」


「あたしがいつそんなこと言ったわけ!?」


リーンが猛然と食って掛かる。相当頭に来ているらしい。その形相に気圧されたように、部屋に入りかけていたクラウスは愛想笑いを浮かべながら後退った。


「すまない、邪魔をする気はなかったんだ。―ウェンディ、僕はこれを渡したくて…」


と、彼は統一感のない花束をおずおずと差し出した。通りかかった花屋で、一輪一輪を彼が指定して作ってもらったものだ。ウェンディは目を瞬かせた。


「どんな花が好きなのかわからなかったから、あなたに似合いそうなものを選んでみたんだ。受け取ってくれるかな?」


その不格好な贈り物に対して頭を持ち上げた躊躇いを押し戻し、ウェンディはさも幸福そうな顔をした。


「もちろんよ、クラウス!嬉しいわ!」


「良かった。―えっと、じゃあ僕はこれで」


「えっ?待ってちょうだい。お茶くらい御馳走させてよ」


ウェンディは慌ててクラウスの腕に手を掛けた。彼は困ったように振り返ると、不機嫌そうに彼らを見つめているリーンにちらりと目をやりながら言った。


「ありがとう。でも、今日はやめておくよ。僕はこれから殿下のところに行かなくちゃいけないし。また明日にでも会いに来るよ」


「…わかったわ。明日ね?約束してくれる?」


「もちろん。また明日。…あの、本当にすまなかった。後はどうか心置きなく―いや、それも違うかな…」


クラウスははにかみながら去っていった。後ろ手で扉を閉めたウェンディは、憎悪を煮詰めたかのような目つきでカイを睨んでいる。


「お前たちのせいで帰っちゃったじゃない!どうしてくれるの?」


「明日また来るんじゃないのか?」


カイは膝に手を突きながら立ち上がり、まっすぐにウェンディを見下ろした。彼女はほとんど正気ではなく、ずかずかと彼に歩み寄ると、不躾にも指を突きつけながら怒鳴った。


「そういう問題じゃないわ!お前なんかのせいで、クラウスとの大切な時間が削られてしまったのよ!?そんなことをする権利がお前にあると思ってるの!?私がどれだけ努力したかわかってないから、木偶の坊の分際で私の邪魔をできるんだわ!」


なるほど、滑稽な努力があったものである。


「あんた、それ以上言ったら許さないよ。さっきの猫かぶりも、その女王様気取りも見事なもんだけど、あたしもそろそろ我慢の限界なの。こっちはね、あんたが結局はどうしようもなく無力だってこと、簡単に教えてあげられんだよ」


リーンは目立たないように匕首の柄に指を添えたが、それが抜き取られることはなかった。リーンが予想だにしなかったことに、ウェンディはたった今貰ったばかりの花束を床に打ち当て、近くにあった花瓶をその上へ、とどめを刺すかのように叩き落としたのである。クラウスの花束は、元々花瓶に生けてあった花共々、自らの死に気付かずに陶器の破片の中に横たわっている。


「もう良い!出て行って!ここから出て行け!!」


愛する人からの贈り物に何をしているかにすら理解しないまま、ウェンディは猛獣のように吠えたてた。唖然とし、リーンはすっかり戦意喪失している。だが、カイはそれ以上に茫然としていた。彼は信じがたいものを目にしていた。それは人からの好意を踏みにじる、彼が決してあってはならないと考えている行為だった。愛され慣れた者の末路。心の決壊…。


「ようやくわかった」


彼は独り言のように呟いた。ウェンディは彼の完全な失望には目もくれずに喚きたてている。


「何度も言わせないで!早く出て行きなさいよ!」


「…あんたは人間じゃないんだ」


「もう我慢ならないわ!早く―」


「あんたは!」


その金切り声を止めようと―あるいは、単に高らかに言い渡そうと―して、カイはよく響く低い声で怒鳴った。ウェンディは思わず閉口し、その隙に彼は静かに語り出した。


「…人間じゃない。人の気持ちがわからないのは、あんたが人間じゃないからだ。人の気持ちを無下にできるのは、あんたが人間じゃないからだ。あんたは父親の愛を受けられないことを嘆いておきながら、人から愛されるのを当然だと思ってる。それが不憫の代償だと。だが、誰かの愛を受けるのは当然のことじゃない。あんたのような傲慢で下劣な人間ならなおさらだ。だからあんたはいつまでも醜い」


言葉にするほどに怒りは募り、同時にその空疎さに茫然とさせられるものだ。今のカイはまさにそれで、まるで何かに取り憑かれているかのように、彼の自我は盲目的な意思の中を彷徨っている。ウェンディは彼の聞き捨てならない言葉に食らいついた。


「この私が醜いですって?お前、身体だけでなく目までどうかしてるのね!そもそも、人間じゃないのはお前のほうでしょ!?脱走して少しは知恵をつけてきたようだけど、結局お前は脳足りんのままだというわけだわ!」


ウェンディは何とかして言い負かすことに執心しているようであったが、彼女の怒りの炎はカイの心には決して届かず、むしろそれというのは急激に冷えていくばかりだった。カイは彼女が静かになるのを待ってから続けた。


「…鏡を見てみろ。人間のする顔じゃない。もしも人の気持ちが…俺の気持ちが少しでもわかるなら、あんたはそんな顔をするわけがないんだ。今言ったことだって、言えるはずがない。怒りを表すためだけに、貰った花束を投げ捨てることもできないはずだ。あんたは人間じゃない。どれだけ美しくても、どれだけ着飾っても、どれだけ偽善を繰り返しても、あんたは醜い。だが、俺は…」


カイは唐突に言葉を切った。続きを口にすることは、毒と知って杯を呷るようなものだった。いや、失敬。彼には毒は効かないのだったな。ともあれ、彼にその準備はできていなかった。


「…いや。あんたには何を言っても無駄だよな。その醜さをあんたがいつか思い知ってくれれば良いと、心から思う。―行こう、リーン」


リーンはあえて何も言わないことを選び、令嬢に一瞥すら与えないまま、足早にその場を去るカイに続いた。ウェンディは足元を見下ろし、ただでさえまとまりのなかった花束の成れの果てを視界に捉えた。激動の後の虚無感に覆われた彼女は口元を引き結んで応接間を後にし、自室に戻って手鏡を覗き込んだ。誰もが認める麗人が映っている。安堵した彼女は手鏡を下ろし、何かに動揺してすぐにまた自身の顔を映す。見間違い?安堵に持ち上げられた口の端が、ひどく歪んで見えた気がした。



 オスカーとテオの手合わせは、セレスティアの予想通り、前者の圧勝に終わった。昼食の後、セレスティアは眠気に屈服して自室に引き上げ、アメラは飽きもせず屋敷を駆け回りに行った。テオは紅茶を飲む権利を要求し、その場に留まるようオスカーに仄めかした。


「珍しいね。お金なら貸さないけど」


オスカーは当然のようにそう返事をし、立ち上がりかけていたところを座り直した。


「ありがとう、嬉しいよ、とか何とか言えねえのか、お前は?」


「ありがとう、嬉しいよ」


「けっ、可愛くないねえ。そういうとこがお前の愛すべき欠点だと思うぜ」


テオはやれやれと首を振り、相手が再び戯言を口にする前に片手を上げ、それを制した。


「ま、何だ。たまには胸襟を開いて話そうぜ」


「開くのは僕のほうばっかりになりそうだね」


「俺には話すようなこともねえからな」


「まあ、構わないけど」


オスカーがどうとでも取れる面持ちで答えたとき、ジリアンがやってきて紅茶を置いた。


「ありがとう、ジル。忙しいのに悪いね。後片づけはぜひテオにやらせて」


「格式高い素晴らしい食器揃いでございますのに、わざわざ傷をつけるようなことをなさらなくても良いかと思われますが」


侍女はそれだけ言って下がってしまった。テオはさも可笑しそうな笑みを浮かべた。


「やっぱりあいつはなかなか物がわかってるな。―そう、で、ぜひともお前に聞いてみたいことがあってさ」


「うん?」


「ほら、お前、今じゃセレスティア以外眼中にありません、みたいな顔してるだろ?あいつに出会う前はどうだったのかなって。ほら、聖騎士になった経緯とかさ」


「それに答えるなら、身の上話をしなきゃならないんだけど」


「ぜひに頼む」


オスカーは考え込むように相手の顔を見つめた。隠し立てする理由はないにせよ、わざわざ明け透けに話して聞かせてやる理由もない。彼は、道の端に立っている人々が、何事か噂話―それも彼のことに関する―を囁き合っているのを感じ取ったときのような、言いようのない嫌悪の色をほんの一瞬映した。が、それはいつもの微笑によって覆い隠された。


「…僕は、捨て子だったんだ。生まれて間もない状態でこの屋敷の前に放置されていたのを、義母が見つけてね。彼女は僕を哀れに思って、引き取って育てようと義父に懇願したらしい。義父は渋ったけど、当時はまだ小さかった義姉が僕から離れようとしなかったから、仕方なく僕を養子に迎えることにしたんだって。それを知ったのは、随分後になってからの話だけどね。僕は長いこと、ネッシュ家の一員だと思って生活していたから…」


彼は言葉を切り、退屈してはいないかとテオの表情を窺った。テオは話を続けるよう目で促した。


「屋敷での僕の扱いは、正直言って酷いものだったよ。まともな教育も受けさせてもらえなかったくらいでね。義父は周囲からの醜聞を気にして僕を厄介者にしたし、言い出しっぺの義母までもが、だんだんと周りの目を気にするようになって…この辺りは田舎のほうだから、仕方ないと言えば仕方ないけど。そういうわけで、僕に味方してくれたのは姉だけだった。僕が何かと理由をつけられて部屋に閉じ込められていると、彼女はいつもやってきて、遊んだり、勉強を教えたりしてくれた」


「お前の義理の両親は、いっそのことお前に完全な教育を施せば良かっただろうにな。周りを見返してやるほうがお得だろ」


「仕方ないよ。あの頃は金銭的な余裕がなかったから。僕が聖騎士になってなかったら、とっくに屋敷を引き払わないといけなかったはずだよ」


「世知辛えな。そんで?まさかその両親に貢献してやるために聖騎士になったんじゃないだろ?」


「違うね。姉のためだった。約束したんだ、聖騎士になって、皆を見返してやるんだって。姉さんだけは、僕を信じてくれた。僕が聖騎士になるところを見るのが夢だと言ってくれたから。だから僕は、毎日必死に鍛錬を積んだ。やり方もわからないのに、がむしゃらにね。両親がいよいよ関心をなくして、自由に出歩けるようになってからは、あちこちで喧嘩して回ってたんだ。馬鹿馬鹿しく聞こえるかな」


オスカーは寂しそうに目を細めた。それは出自を理由に小馬鹿にされ続けてきたことに対する、ごく自然な反応、つまり諦念と寛容なのかもしれない。らしくもないことに、テオはにこりともせずに話を聞いていた。むしろ笑ってくれたほうが気が楽だとでも言いたげに、オスカーは小さく笑い声を立てた。


「その頃に、姉さんがある人と引き合わせてくれてね。その人は姉さんと親しくしていたとかで、何だったか、位の高い兵士だったんだ。それで、時間があるときに稽古をつけてもらえるようになって…それがなかったら、兵士にもなれていなかったかもね。うん、あれは僕にとってはとんでもない幸運だった」


「姉ちゃん様様だな。今はどこにいるんだ?」


テオはようやく口の端を上げて笑った。が、それに吸い取られたように、オスカーの面持ちは翳りを帯びた。それを見るだけで、悲劇を察するには十分だった。


「…ずっと前に、この世を去ったよ。事故だった。僕の叙任式を見に来る途中、馬車が横転して…もうすぐ姉さん…リーゼルは結婚するはずだったのにさ」


テオはその名に耳を疑った。それはルーセチカにいた頃のセレスティアの偽名だったはずだ。


「お前、リーゼルって…」


オスカーは神経質に笑った。


「うん。姉さんの名前だったのを、ティアに。わかってるよ。我ながら、女々しくて気色悪い」


「いや、んなこと言ってねえけど…」


わかってるんだ、とオスカーは再び呟いた。その面持ちは、彼の諦念と後悔がすべてそこから始まったことをはっきりと語っていた。テオは気まずそうに目を泳がせた。


「…悪かったな。嫌なこと聞いちまって」


「良いんだ。もう割り切ったことだから」


オスカーは目を逸らし、口をつけていなかった紅茶に手を伸ばした。茶器を持ち上げ、困ったように微笑みながらそれを下ろす。


「参ったなあ、冷めちゃったみたいだ」


「…こんな話のときまで、笑わなくて良いんだぜ」


テオは真面目腐った顔をして言った。それはいくら何でも不似合いだった。見たまえ、オスカーのきょとんとした顔を!


「どうしたの、君らしくもない」


「思うに、お前って…ま、セレスティアもそうなんだけどさ、何でも諦めすぎなんだよ。何でも許すし、感情を思いっきり出すこともないだろ?俺とお前らじゃ生きてる年数が違うんだろうけど、大人びすぎてるっつうかさ。人間って、そんなもんじゃねえと思うぜ。もっと素直で良いと…って、何を言ってんだか」


ふと我に返ったのか、彼は照れ隠しをするように顔の前で手を振った。が、言わんとしたことは余すことなく相手に伝わったようだった。オスカーは普段とどこか違う、寂しさの込められた微笑を見せた。テオが不服そうな顔をして言う。


「何だよ。そんなにおかしいか?」


「違うよ。意外には思ったけどね。…ただ、嬉しくてね。こんな風に自分のことを話せたのは、久しぶりだったから。それに、真面目に聞いてもらえるとも思ってなかったし」


「俺の人物像の悪さって言ったらねえんだから」


「それは日頃の行いのせいだけど。…テオ、良かったら、今からちょっと付き合ってくれないかな」


「また手合わせか?」


オスカーは静かに首を振った。


「姉さんの墓参りに行こうと思ってたんだ。一人だと踏ん切りがつかなくて、なかなか行けなかったんだけど。君さえ良ければ…」


テオは吟味するようにオスカーの顔を眺めた。それから、残っていた紅茶を一気に呷りながら立ち上がった。


「しゃあねえなあ、オスカーちゃんは!」


オスカーは微笑み、テオに倣って冷めてしまった紅茶を呷った。

2025.1.31

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