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その瞳には、毒がある  作者: 小娘
その娘、逡巡する
35/60

割り切れない人生

 アルフレッドが認められてきたのはその実力のおかげであるが、もう一つ彼を真の王者たらしめたものがある。それは『アルフレッドの律』と呼ばれる、すでに浸透していた暗黙の了解を彼が成文化しただけの代物である。だけ、と言ったのは私の悔し紛れなので無視してくれたまえ。


アルフレッドの律には、いつか紹介しただろうか、動植物に命を与えてはならない、という文言も残されている。面白いのは、規則として定められることで、諸々の過ちを犯す者が格段に減ったことである。実際は何の効力もないのに!



 またもジョーイとオスカーの対談は割愛して、次に映すはその日の昼過ぎ、二度寝を決め込んでようやく起きてきたオスカーによる情報共有の場面だ。部屋に入ってくるなり、彼は前置きもせずに口を切った。


「ミロ様が言うには、陛下はコスタトへの対抗手段として新たに亜人を生み出そうとしてるらしい」


そう言いながら、彼は平然として椅子に腰かけた。それがあまりに突飛な内容だったので、一同は思わず閉口した。神獣を降臨させることはアルフレッドが示した禁忌の一つだというのに、それを国家を率いる立場にある者が破ろうとしているとは。初めに反応を示したのはテオだった。彼は昼食を終えた後からずっと、落ち着かない様子で椅子を前後に揺らし続けていた。


「んなこと言ったって、目玉焼き作るみたいにはいかねえだろ?」


「そうね。簡単にできることじゃないし、それ以上に危険が伴うわ」


と、セレスティアはオスカーを見た。目が合うと、オスカーは肩をすくめたが、彼女はそうしなかった。テオがぼやく。


「目玉焼きは油跳ねたりしないもんな」


「何なの?」


セレスティアが小躍りする鶏でも見ているかのような目を向けてきたので、テオは椅子を動かすのをやめた。


「別に」


「…とにかく、あの御方はすでに神獣を降臨させる準備を進めているんだ。近いうちに、国中で徴命するって」


「随分大がかりね。何割取るのかしら」


「多くても一割だと思う。国民の反感を買うわけにもいかないだろうし」


「うえぇ…それって俺たちも対象なんかな?そうなら、絶対ちょろまかしてやるけど」


「そう上手くいくかしらね。―ねえ、仮に神獣が降臨したとして、陛下は一体誰にその力を手に入れさせるおつもりなの?」


「聖騎士カーラだってさ。大した驚きでもないけど」


オスカーは、ゾルギックのやり口は大体そうだとでも言いたげな顔をした。彼が神獣と対峙したのも、当然皇帝の指示があってこそであった。こうなってくると、皇帝より槍を賜った者の運命というものを考えずにはいられないらしい。そんな彼の憂鬱を知っていたからか、セレスティアは静かに彼から目を背けた。


「そう。彼女、耐えられるのかしら」


「さあね。…駄目だな、イライラしてきた」


と、オスカーは天井を仰ぐ。穏やかとは言えない彼の様子を面白がるようにテオは言った。


「寝不足か?」


「違う、寝すぎ」


小難しい話に飽き飽きしていたアメラが横―というか足元―から口を挟んだ。オスカーは椅子にもたれた姿勢で不服そうに答えた。


「どっちも違うよ」


「そうかよ。―んで、どうやって皇帝陛下を止めるつもりなんだ?直談判か?」


「最悪の場合はそうなると思っていたけれど、もうそういう手段は使えないわね」


「何でだよ?」


「陛下はアルフレッドの律を破ろうとしていらっしゃるのよ。つまり、あの御方はお父様から最早何の影響も受けないということ。あの人に従うということは、今この国ではどんな意味も成さないの。そこに私が現れたところで、状況は一つも変わりはしないわ。それなら、慎重に動いたほうが良いでしょう」


セレスティアが悲観的には見えない表情で応酬したが、テオにとってその考え方はあまりに慎重で、とても合点がいったとは言えなかった。彼と同じ思考回路を持つ者は、今この屋敷にはいなかった。オスカーが座り直しながら言った。


「幸い、ミロ様は僕たちの味方だ。内部の事情を知っている殿下がいれば、遅れを取ることにはならないんじゃないかな」


「いやいやいや、待てよ、お二人さん。どう考えても回りくどいぜ?とりあえず、皇帝に会ってみれば良いじゃねえか。案外素直かもしれねえし」


痺れを切らして、テオは無謀にも反駁を試みた。セレスティアからは何も返って来なかったが、オスカーからは呆れを煮詰めたかのような眼差しと、冷静な反論が返って来た。


「そう言うけどね。上手くいかなかったとき、動きにくくなるのは僕らなんだよ。何かしら騒ぎを起こしてコスタトに事情が知れたら、事態は悪化の一途を辿ることになるだろうし。そもそも、僕やティアじゃ謁見すらできるかわからない。それに―」


「あー!わかった、わかった!どうせ俺は無鉄砲で考えなしで向こう見ずのちゃらんぽらんだよ!」


テオは顔の前で片手を振り回しながら叫んだ。セレスティアが少し間を置いてから呟く。


「全部同じ意味ね」


「そこまで言ってはないのにね」


オスカーが意地悪い笑みをかすかに浮かべて彼女に目配せすると、彼女も思わず表情を和らげた。テオは大きな素振りで肘を突き、彼らを交互に見やりながら不平を漏らした。


「言っては、って何だよ。ちゃんと否定しろっての」


「何だ。自覚あるんだと思ったんだけど、そういうわけじゃないんだね」


「ないせいしないと自分を見失うって、エタが言ってたぞ」


「白狼族ってそんな頭脳派だったっけか?―畜生、俺の話はもう良いだろ。会議はこれで終わりか?」


「オスカーの気が済んだなら、そうね」


セレスティアとテオに見つめられ、オスカーは曖昧に頷いた。いかにも何か言いたげに。顔色を窺うことをしない男、テオは音を立てて椅子を引くと、早々にその場を離れようとした。


「じゃ、解散な。俺、出かけてくるわ」


「…いや、待って、テオ」


やはりオスカーは彼を呼び止めた。扉の取っ手にすでに手を掛けていたテオは、脱出失敗とでも言うような面持ちで振り返る。


「何だよ。お前、今日は女々しいな」


「それは悪かったね。ちょっと気になることがあってさ」


どうして初めからそう言わないんだ?テオが仕方なしに席に戻ってくるのを待ってオスカーは再び話し始めた。


「不確かな情報だから言うべきか迷ってたんだけど。ジョーイが気になることを言ってたんだ」


「え、あの変な奴?」


テオが怪訝そうな顔をするのを見て、オスカーは瞬時に彼の頭に浮かんだ疑惑を理解した。


「ああ、別に彼がこっちの事情を知ってるわけじゃないよ。ジョーイには別件で頼んであることがあって、その…まあ、研究かな。そのことで今朝報告に来てくれてね。そのときに言ってたんだよ。定期的な命の投与は生体に予測不可能な身体的異常を引き起こす可能性がある、って」


「けんきゅう?」


アメラがセレスティアの膝によじ登りながら不思議そうに繰り返した。オスカーは軽く頷いた。


「ジョーイは僕からの頼み事の一環で、ある…実験体に一定間隔を開けて一定の量の命を与えているんだ。そこで、彼は実験体の異常な強靭化を観測した。それが二日前の出来事みたいだね。そこで、ジョーイはその反応が一時的なものかどうかを検証することにしたんだ。それで今朝、最初の反応から丸二日経ったわけだけど、その間も強靭化が見られ続けた。もう少し経過を見ないと何とも言えないけど、ひょっとすると、命の投与をきっかけとしてその反応が恒常的に出るようになってしまったのかもしれない、っていうのがジョーイの推測なんだよ」


「あー…それで?」


テオの目線はこの時点で宙を彷徨っていた。わからないならそう言うが良い。…なんて、私が思ったところでどうということはないけれども。オスカーは促されるままに続けた。


「僕が知る限り、神獣を故意に降臨させようとした者はこれまで誰一人としていないんだ。どの神獣も、過ちの積み重なりから制御が効かなくなって生まれてしまった。でも今回は違う。陛下はきっと緻密に計画を練って何かしらの動物に命を与え、神獣化させようとなさるだろう。だけど、それが厄災の種になるかもしれない…ジョーイの推測が正しいならね」


「要するに、計画的に神獣を降臨させようとすれば、異常な強靭化か、あるいはそれと似たような反応を持つ個体が生まれてしまう可能性がある、ということね」


「神獣って、ただでさえ強いんだよな?…え、やばくね?」


「そうだよ。推測の域を出ないとはいえ、ね」


「杞憂であることを祈りましょう」


セレスティアが呟くように言い、会話は途切れた。余計な重苦しさを帯びた空気に耐え兼ね、テオは勢いよく立ち上がった。


「よし、今度こそ出かけてくるわ。おっと、何も言うなよ、セレスティア。ちゃんと日付が変わる前に帰って来っから。な?」


セレスティアはテオのほうを見てすらいなかった。彼女はおもむろに彼に目を向け、怪訝そうな顔をした。


「別に好きにしたら良いじゃない」


「心配してくれたって良いのに」


テオがへらへらと笑いながら戸口に向かうと、セレスティアの膝の上で大人しくしていたアメラは弾かれたように頭を持ち上げて叫んだ。


「アメラも一緒に行く!」


彼女は床に下りてテオのほうへと歩いて行った。テオは腰を折り、人差し指を立ててアメラと対峙した。


「ああ?駄目だね。がきんちょが行くとこじゃねえからな。つか、そもそもそんな耳と尻尾ぶら下げて出歩こうとすんな」


アメラは不満げにセレスティアを顧みたが、彼女がテオに異議を唱える気配はなかった。彼女は幼い子どもの期待するような眼差しを否定する他ない心苦しさを隠そうとはしていなかった。アメラは無駄と承知しているのやらいないのやら、最後の一押しを繰り出すことにした。


「なあ、セレスタ。アメラも外出たい!おとなと一緒だったら良いだろ?」


セレスティアはかすかに首を振ったように見えた。余計な慈愛だ。横からオスカーが優しく諭すように言った。


「今日はやめておいたら?天気、悪くなりそうだよ。それに、君もお酒を飲むような年齢じゃないでしょ?」


アメラが耳を垂らしたのを見て、セレスティアは何か言おうと口を開いた。しかしすぐに思い直して言葉を飲み込み、代わりにため息をついた。他人を自己に重ねるべからず。ロイドの教えだったか?テオがおざなりな別れの挨拶と共に部屋を出て行くと、アメラは幾分調子を取り戻したかのような様子で、もう両手で数えきれないほどやっているはずの屋敷の探検を始めた。


「アメラなら、耳も尻尾もそのうち隠せるようになるんじゃないかな」


オスカーが特別慰めにはならないことを言っている。セレスティアはその場しのぎの微笑みを浮かべて相槌を打った。彼女が椅子から立ち上がり、ぼんやりと廊下に出て行くと、ちょうどこれから外に行くらしいジリアンが歩いてくるところであった。


「お買い物?」


「はい。すぐに戻って参りますが」


「ああ、良いのよ。何か頼みがあるわけじゃ…」


と言いかけたところで、セレスティアは何か考え事を始めた。よくあることだから、ジリアンは主人の思考が落ち着くまで黙って待機した。考えがまとまった彼女はやけに嬉しそうだった。


「やっぱり、一つ頼まれてくれるかしら?」



 数年ぶりに訪れたザクでは、かつての陰気さは見る影もなくなっていた。整備された舗道、旅人を迎え入れるように並んだ木々、私を見よと言わんばかりに隙あらば顔を覗かせる花々。カイは目を丸くし、思わず呟いた。


「綺麗になったものだな…」


「ね!前はまさしく薄汚い町!って感じだったのに」


「そういうことを大声で言うな。否定はしないが…。―それにしても、一体どういう風の吹き回しだろうな。俺がここにいた頃は、こんな風になる気配すらなかった」


彼がある種の感慨深さを覚えながら辺りを眺めていると、風に運ばれて紙屑がちょうどそこにいた町人の足元に落ちたのが見えた。カイが驚いたことに、その町人はわざわざ紙屑を拾い上げ、近くのごみ箱―これもかつてのザクは存在しなかったもの―に捨てに行った。彼は付け加えた。


「ごみは拾うものじゃなくて捨てるものだったしな」


「だろうね。…うーん、あたしはあんたほどここのこと知らないけど、やっぱり変な感じするなあ。あんなに汚かったのに、たった数年でこんなことになる?裕福な町でもないし。そうだ、ちょっと聞いてみようよ。―ねー、そこのおじさん!」


と、リーンは相棒の返事を待たずに先ほどの町人のほうへ駆けて行ってしまった。


「やあ、旅の方ですか?ようこそ、ザクの町に!」


「愛想まで良くなってる。―あのさ、あたしたち五年とかそれくらいぶりにここに来たんだけど、ここって何かもっと、ほら…鼠が這い回ってそうな感じじゃなかったっけ?」


何も濁せていないぞ、リーン。カイが後ろから弁明を試みる。


「すまない、こいつに悪意はないんだ」


「いえいえ、構いませんよ。そちらのお嬢さんのおっしゃる通りでしたからね。ここがこうして綺麗になったのもほんの数か月前の出来事でして…何もかもザク侯のお嬢様のおかげですよ」


リーンは眉をひそめた。カイも似たような表情をして、リーンと錯乱しているようには見えない町人の会話を見守った。


「ザク侯の?それって、見た目と性格に天地くらい差がある子のこと?」


「ウェンディ様はお美しいのはもちろんのこと、心までも清らかな方ですが…」


町人はいささか気を悪くしたような顔で答えた。参った、聞き覚えのある名前だ。リーンはカイのほうを振り返る。


「そんな名前じゃなかった?」


「ああ。ウェンディで間違いない」


三人の間に気まずい沈黙が流れた。困惑した眼差しを向けてくる町人に、リーンは慌てて告げた。


「あー…あたしたち、人違いしてるみたい!うん!ごめんね、おじさん!教えてくれてありがとう、あはは…」


二人はそそくさとその場を離れた。歩きながら、リーンは難しい顔をして疑問を口にした。


「どうなってんの?あの子、絶対町のためにお金使うような子じゃないよね?」


「むしろ、汚ければ汚いほど良いと思ってたくらいだったはずだが」


「うーん…まあ、本人に聞けばいっか!」


「正気か?」


「何さ。元々会いに行くつもりだったんでしょ?」


「いや、そういうわけじゃ―」


カイが口ごもると、リーンは大袈裟に驚いて口元を両手で覆った。


「嘘!わざわざこんなとこまで来ておいて、会わないとかある?何しに来たの?」


「…何だろうな」


「あんたっていっつも細かいことばっか考えてるくせに、自分のことになるとぼやっとしてんだよね。いーよ、何しに来たのかリーン様が教えたげる」


リーンは立ち止まり、胸を張って堂々と宣言した。


「ずばり、過去の清算だよ!ウェンディに思いの丈をぶちまけて、すっきりして、ぜーんぶ忘れるの!知ってるんだからね。あんたが昔のこといつまでも引きずってることくらい」


胡散臭い押し売りに遭ったかのような顔で相棒を見つめたカイは、彼女の言うことを適当にあしらおうとして言った。


「引きずれって言ったのはお前じゃなかったか?」


「そういう意味じゃないし、邪魔になったら捨てろって言ったもんね!ばーか!…揚げ足なんか取ってもあたしの提案はかわせないよ」


再び歩き始めながらカイはため息をつく。


「別に俺はあの女に言いたいことなんかない」


「またそんなこと言っちゃってさ。何でも良いんだよ、引っかかってるものを言葉にするだけ。実際、何かしらあるからうじうじしてんでしょ?」


カイは何も言わなかった。彼の中で、母親のことは幾分か整理がついていた。二度と同じ過ちを繰り返さないことこそ、母親の亡骸を置いて去った彼ができる最良の供養であった。そしてそれはリーンのおかげもあって上手くいっていた。余禄として、リーンもまた、邪魔者を殺すという選択肢を選ぶ回数が減りつつあった。


しかし、カイはザクでの日々だけは依然として消化できないでいた。何が閊えているのかははっきりとはわからないが、あの過去を封じ込め、捨て去る―ちょうど彼が母親にしたように―ための鍵を持ち合わせていないのは確かであった。リーンの言う通り、ウェンディに会って話をするべきなのだろうか?


「あたしが一緒なんだから、何も心配しなくて良いって。ね、あのお屋敷に行ってみようよ」


「…わかった」


カイが頷くと、リーンは跳ねるような足取りで道を急ぎ、歩調を変えないでついてくる相棒に文句を言った。わざわざ戻ってきて彼の腕を引っ張り始めた彼女の表情は、普段以上に眩かった。



 テオは例の身勝手な宣言はどこへやら、しっかり日付が変わってから帰って来た。前後不覚に陥っていなかっただけましである。彼は、何かしら頼み事をしようとしたのか、ジリアンが使っている小部屋に足を運んだ。部屋を覗くと、彼女はちょうど廊下に出ようとしていたところだった。彼女はテオを見てわずかにだが顔をしかめた。


「よく伺いも立てずに人の部屋に入って来れますね」


「いやあ、良いかなーって思ってさ…良くないよな!わかった、俺が悪かったよ!ちょ、痛い痛い…」


ジリアンはどうしようもない無作法者の手をつねるのをやめてやり、良い気味だと言わんばかりに頬を緩めた。すぐにおなじみの真一文字を取り戻すと、彼女はテオの様子を検めた。テオはまんざらでもなさそうだ。


「俺ってそんなに男前?」


「何と答えれば傷つけずに済むでしょうか?」


「今ので十分刺さったよ。で、何なんだ?そんな睨まなくても、今日はそこまで飲んでねえぞ」


「そのようですね。一緒にいらしてください」


ジリアンはそれだけ言ってテオの横をすり抜けた。四の五の言うのは無駄だとわかっているので、テオは早足で彼女に追いついた。


「セレスティアの部屋なら案内がなくてもわかるけど」


「私も別件で参上しなければならないので」


「ふーん。その布か?」


ジリアンは諾ったが、面倒なので説明は省いた。オスカーの部屋の前に着くと、彼女は手本でも見せるかのように丁寧に扉を叩いた。セレスティアが答え、ジリアンが扉を開けた。テオが入室を躊躇ったのは、椅子に見知らぬ人物が腰かけていたからであった。どうやら幻覚ではないようだが。ジリアンは手に持っていた布をセレスティアに渡した。


「頼まれていたものです」


「あら、早いのね。ありがとう。先に休んでいて」


「はい。失礼いたします」


侍女は慇懃に一礼して退出した。戸口ですれ違う間、彼女は早く入れと言いたげにテオを見続けた。テオとしては、あの男は誰かと尋ねたかったのだろうが、そんな間もなくジリアンは去ってしまった。テオは部屋に入り、―いつもならしないことだが―扉を閉めた。


「やあ。君がテオだね?」


青年はわざわざ立ち上がってから言った。


「そうだけど…どちらさん?」


そう尋ねてから、テオは相手が瞳に銀蘭を宿していることに気が付いた。そうか、これがオスカーの話していた皇子か!馬鹿な質問をして、さすがのテオもたじろいだ。


「あー…すんません。俺はテオで、あんたは皇子様っすよね…」


「変わった自己紹介だな。君の言う通り、僕はゾルギックの皇子、ミロだ。気軽に接してくれ」


「そう言われてもな…ちなみに、どういう状況?」


彼はセレスティアやオスカーにそう尋ねたつもりだったのだろうが、引き続きミロが答える。


「万が一城の者に聞き耳を立てられていたら困る話をしたくてね」


「僕に無茶をおっしゃったわけです」


オスカーは強いて微笑んだが、不安の色を覆い隠すことはできなかった。ミロはかつての臣下の表情を読み取れなかったふりをして応酬した。


「悪かったよ。―さて、僕もあまり長居はできないんだ、単刀直入に言おう」


そう言いながら、彼はじっくりと思案するような間を取った。その銀蘭は床を捉えて離さず、まるでそれが揺らぎ一つしないせいで、いかなる音を立てることも許されないかのような、そんな沈黙が走った。この期に及んで彼は考えていた、計画に添い遂げる仲間に彼らを選んで良いのか、と。やがて彼は深く息を吸い、話し始める合図を出した。


「…僕は母上を皇帝の座から引きずり降ろそうと考えている」


「罰!」


丸罰問題ではない。


「ちょっと黙ってて、テオ。―殿下、どうか冗談だとおっしゃってください」


「こんな退屈な冗談のためにここに来たと思っているのか?」


ミロは毅然として言った。最早迷いはなかった。オスカーは面と向かって非難できないので、ただゆっくりと首を振った。セレスティアが途方に暮れたように口を挟んだ。


「そうであってほしいわね。一体どういうことなの?いくらなんでも性急すぎるわ」


「僕にとってはそうじゃない。ずっと前から考えていたことだ。…お前がいた頃から」


と、ミロはオスカーを見やった。かつての忠臣は言葉を失い、ただ皇子を見返すしかなかった。彼は誰に促されるでもなく続けた。


「僕は、母上のやり方は間違っていると思っている。自分の利益ばかりが先行して、民を苦しめてばかりだ。今度出る徴命令が良い例だろう?見返りはおろか、説明一つ寄越さないつもりだ。軍事を疎かにしたのはあの人自身だというのに、軍が頼りないからと神獣に縋る?馬鹿げていると思わないか?」


「陛下にも陛下なりのお考えがあるのでは?」


「そうだろうな。だが母上は何も語らなかった。息子である僕にさえな。何をするにも母上の一存がすべてなんだ…良い加減、民衆も気付き始める頃合いだ。今のゾルギックは独裁国家の他の何ものでもないと。これ以上の勝手を許すわけにはいかない」


他の二人が返答に困って閉口しているので、発言権を得たものとテオは口を開く。


「それ、謀反ってことだろ?俺たちだけでできんの?」


「実はもう一人、当てがある。彼が母上を良く思っていないのは確かなんだ」


驚くのも煩わしそうに、セレスティアはミロの発した単語を繰り返した。


「一人ですって?」


「案ずる必要はない。彼が味方についてくれれば、軍隊が手に入るようなものだからな。文字通りの意味で」


「何者なんですか?」


「数年前に曹長になったクラウスという男だ。アドン伯を覚えているか?彼の子息なんだが」


「はい。クラウスのことも覚えていますよ。僕がゾルギックを…ゾルギックにいた頃の新兵でしたから。…随分早い昇進ですね」


「父親が父親だからな。とはいえ、実力は頭一つ抜けているよ。人望も厚い。彼の説得があれば、下等兵の大部分を味方につけることができるだろう。母上の政策を疑問に思っている者も多いだろうから」


ミロはそう信じて疑っていないようだが、確かめてみたことはないようだ。


「へー、良いじゃん。何とかして仲間に引き入れたいところだな」


テオが能天気に相槌を打つのを、セレスティアは冷静に押し止めた。


「待って。まだやるとは言ってないわ。ミロ皇子、本気でそんなことをするつもりなの?」


謀反に縁がある我が王女!皇子は決然とした態度で答える。


「もちろんだ。だが、君に無理強いするつもりはない。嫌だというのなら、今の話は忘れてくれ。…まあ、君たちの助力がなければ成し得ないことだろうけど」


「…わからないわ。少し考えさせて」


「ああ。―そろそろ、戻ろう。誰かが僕の不在に気付きでもしたら困る」


来たときよりも幾分か表情の暗くなったミロは、オスカーに頷きかけて窓辺に寄った。そしてふと、振り返る。その目線の先にいるのはテオだった。


「君、近衛兵になる気はあるかな」


「給料良いのか?」


お前という奴は、ずっと金のことを考えているのか。


「そこそこだよ。だけど、そういうことじゃないんだ。毎度オスカーに忍び込んでもらうのも悪い気がしてね。城内で楽に接触できるとしたら、やはり近衛兵だろう」


「テオを?どうかしらね」


「何だよ、セレスティア。俺の実力なら知ってんだろ」


「ええ。けれど、そういうことじゃないわ」


テオはまたそれか、と言いたげな顔をした。セレスティアはどこか厳しい顔つきをしていた。


「…心配しすぎだよ、ティア」


オスカーがなだめるように言うと、彼女はごくわずかに眉間に皺を寄せた。あなたがそんなことを言うなんて。だが、彼女はすぐに自身の考えを捨ててしまった。


「良いわ。テオにも働いてもらわないと困るものね」

2025.1.31

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