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その瞳には、毒がある  作者: 小娘
その娘、逡巡する
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お前を満たす死

 リーンとカイが何をしているのかというと、いつものような悪事を働いているわけではなかった。彼らは思い出を訪ねることに決めたのだった。しかしそれは恋情に満ちたものではなかったし、時を経ても空想的脚色は加えられていなかった。それは言うなれば二人の始まりで、またはカイの人生の始まりであった。―少し、昔話をしようか。不幸かつ不可解にも、孤独を愛す他なくなった男の話を。



 時は百年ほど遡る。彼はベラディールの隅にあった、寂れた農村の生まれだった。中でも彼の家は貧しかった。父親の顔は知らない。母親の瑞々しい顔も知らない。女手一つで彼を育てていた彼の母親は、彼が物心ついたときにはすでにひどくやつれていたのだ。隣人たちは噂した。あの家は長くは持たないだろう、と。


しかし、そういった悪意なき誹りに反して、彼とその母親はその後十年、細々と、だが幸せな生活を送った。それは、生まれて数年で彼が青年のような体格を手にしたおかげだった。誰にもその急成長の理由はわからなかった。


だが、誰が気にしただろう?幸福な隣人が増えること以上に良いことなどないではないか?彼は勉強も、遊びもしないで働いた。そもそも、働くための道具―それもいつ壊れるかわからないようなもの―しかなかった。彼の夢は、母の心からの笑顔を見ることだった。ついに叶わなかったが。



 母親との平穏な日々を破壊したのは彼自身だった。ある日のこと、彼がいつものように母親を手伝って仕事をしていると、彼らの掘っ立て小屋に訪問客が現れた。定期的に近くの町からやってきて、村中の収穫物を買い取るだけの男だった。


普段と違ったのは、その男が仕事を教えるために息子―見た目や立ち振る舞いからして十四、五歳だろう―を連れ立って来たことだった。少しばかり裕福な家で甘やかされて育った子どもが、貧相な家に住むくたびれた人々を初めて目にしたとき、起こり得ることはただ一つと言っても過言ではなかろう。その子どもは彼らの暮らしぶりを、そしてあろうことか彼の母親を小馬鹿にしてしまった。


彼はそれが許せなかった。穏やかな日々を過ごしてきた彼が、初めて怒りを覚えた瞬間だった。彼はその衝動に抵抗することすら知らず、拳を大きく振りかぶって少年の顔を殴った。奇妙だったのは、頬に直撃したその一撃が、少年の顔を文字通り滅茶苦茶にしてしまったことだった。とても人間業とは思えない有様だった。


彼は知らなかったのだ。自分の身体が他の人間とどこか異なるということを。



 この出来事は、言うまでもなく少年の父親を激怒させた。あくる日、男は町の自警団を連れて戻ってくると、彼を町にできたばかりの矯正院に連行した。母親から、とんでもないことをしでかしたのだと懇々と教えられたので、彼は町の連中に大人しく従った。


矯正院では、誰も彼に近寄ろうとしなかった。事件の話は十分すぎるほど噂されていたからだ。彼は数年をそこで過ごした。その間、一人で仕事をしている母親をひたすらに想った。何よりも、初めて自分のせいで母を泣かせてしまったことが悔やまれた。彼は小さな窓の傍から外を眺め、ほとんど動かなかった。食事すらいらないことに気付くのに、長くはかからなかった。



 事件の呪縛からようやく解放される日が来た。彼は馬車というものを知らなかったし、もちろん金だって持っていなかったので、村までのそれなりに長い道のりをその足で辿った。何年もの間じっとしていたせいで身体はなまっていて、何度も座って休憩しなければならなかった。それでも彼はその日のうちに帰るべき―そして二度と戻ってくることのない―家に到着した。


退院の日を知らされていた母親は日がな一日彼の帰りを待っていた。そして親子は感動の再会を果たした。彼は年老いて以前よりもさらにくたびれた母の姿を見て驚いた。彼は人間が命を消費しないことには老いていってしまうのだということを思い出すと同時に、自分が何もしていなくても老けないのはどうしたことかと、初めて首を傾げることとなった。


しかし、そんなことはどうだって良かった。彼は弱々しく両手を広げて待っている母親を固く、それは固く抱擁した。再会と別離がこうも重なり合うことがあるだろうか?彼のすべてだった母親は襤褸切れのように、ほとんど音もなく床に崩れ落ちた。何故母が立ってこちらに笑顔を向けていないのか、彼はすぐには理解できなかった。それでも彼の本能は、ここにいてはいけないという警告を発し続けた。彼は逃げた。



 それからは、果てしない孤独に苛まれる日々であった。誰にも近づいてはならないと、彼は自身に厳命した。これ以上、うっかり傷つけるなんてことがあってはならないと感じていた。できることなら餓死したかったが、それは叶わないとわかっていた。


できることは何でも試したつもりだ。処刑人に首を斬ってくれと頼んだり―そのときは刃が先に折れた―、縄で首を絞めたり―そのときは縄が先に擦り切れた―、猛毒を口にしたり―そのときは毒が先に尽きた―…それらのうちの何一つとして彼を苦しめたものはなかった。


彼はまだ見ぬ必殺の業を求めて国を出た。余談だが、ルーセチカとベラディールの戦争が始まったのは、彼が国を出てすぐのことだった。彼はカルツァを素通りしてゾルギック領に入り、ザクという町に行き着いた。そしてそこで三度目の過ちを犯すことになった。



 彼はザクを彷徨い歩いた。そこは大して目を引くものもない町で、唯一目に留まるとすれば、ザク侯の豪華絢爛な屋敷くらいだった。本来なら、縁も所縁もなかったはずの屋敷だ。彼の負うこととなった三つ目の罪は、先行した二つに比べれば随分可愛いもので、むしろ罪と呼ぶのは大袈裟なほどであった。


彼はただ、傍に寄って来た鼠を撫でただけだった。そしてうっかり―うっかり!―その鼠の首を折ってしまった。彼は依然として生き物の扱いを心得ていなかったのだ。不運だったのは、その様子をザク侯の一人娘に見られてしまったことだ。


彼女は名をウェンディといい、その美しさと可憐さですれ違うほとんどすべての人を振り向かせてしまうような娘だった。しかし、誰がどこで配分を間違えたのやら、彼女は大層醜悪な心の持ち主だった。彼女は鼠という、彼女の知り得る中で最も醜い生き物を溺愛していた。あらゆるものの醜さを糧に自身の美貌が際立つ。彼女はそう考えていたのである。


彼の手の下に転がる鼠の死体を発見すると、ウェンディは足でももがれたかのような悲鳴を上げた。私の鼠ちゃん!二人の周囲にはあっという間に人だかりができ、彼はいとも容易く非難の的となった。またとんでもないことをしてしまったのだと考えないわけにはいかなかった。


彼は許しを請うた。許してもらえるのなら、どんな犠牲でも払う、と。彼に払わせることができるかどうかは別問題だが。彼の言葉を聞いた途端、彼女はぴたりと泣き止んだ。



 ウェンディは町中の人々を集め、縄につないだ彼を見世物にすることにした。このような恥辱を受けたのは彼が初めてではなく、町人たちはこれから何が起きるかを正確に知っていた。だからほとんどが興奮状態で、あまり気乗りしない様子なのはごく少数だった。


ウェンディはまずコスタトの旅商人から買った鞭を取り出した。歓声が上がった。彼女はうっとりとした表情で鞭を振り上げ、彼の生身の背中を打った。彼は悲鳴を上げることはおろか、反応一つ示さなかった。群衆がどよめき、彼女は向きになって繰り返し鞭を振るった。無駄だった。彼女は気に入りの鞭を投げ捨てた。


気を取り直して、ウェンディは使用人に言いつけて火を持って来させた。歓声は先ほどよりも小さかった。彼女は今に見てろと言わんばかりに彼を睨みつけると、彼の服の腰の辺りに火を点けた。いつもなら罪人が火を消そうと慌てふためくところで、その滑稽さが彼女を喜ばせていた。


しかし、これも不発に終わった。彼は身体に火が点いているということにすら気が付かなかったのである。気味悪がって、観客は一人また一人と減っていった。ついに怒ったウェンディは、彼の縄をきつく締め直させてから屋敷に戻ってしまった。



 数日経ってもなお、彼は平然として縄に繋がれていた。ウェンディも、彼を自分の玩具にはできないということを認めないわけにはいかなかった。彼女は彼の元へ降りて行き、どこへなりとも行ってしまえ、と彼の縄を解いた。すると彼は安堵したように言うのだ。許してくれるのか?


冗談で言っているわけではないとわかると、彼女は笑みを隠さずにはいられなくなった。さては、この男は自分の異常さもまともに理解できない、ただの脳足りんなのか!ウェンディは姫を守る鉄壁の騎士として彼を飼うことにした。御伽噺に出てくるような白馬の王子様というわけにはいかなかったが、数年来の夢が叶って彼女は満悦したようだった。


それからは、ひたすら彼女にこき使われる日々が始まった。何か嫌がる素振りを見せると、彼女は繰り返し同じことをして楽しもうとするので、彼はとうとう感情を表に出さなくなってしまった。



 何十年と月日は流れたが、ウェンディは一向に彼を許してはくれなかった。彼は心底彼女を嫌っていたものの、許されないままで良いと感じていた。この屋敷に囚われている以上、後悔するようなことなど起きやしないのだから。


彼にとっての唯一の懸念事項であったザク侯は滅多に帰って来ず、また帰ってきても実の娘とその妙な木偶の坊には見向きもしなかった。そのおかげで、この場所は彼にとって―どんなに不愉快でも―安全だったのである。


そんな生活を突如閃光が照らした。お待ちかね、我らが大盗賊の登場である。大盗賊といっても当時の彼女はまだ駆け出しで、あちこちで今以上の騒ぎを起こしては何とか逃げおおせる毎日を送っていた。ザク侯の屋敷にやって来た日も、彼女は見つかってでも金品を盗み出してやろうと意気込んでいた。


その日、彼はというと、主人の機嫌を損ねて地下に押し込められていた。彼が薄暗い中に並ぶ葡萄酒を違いも分からずに眺めていると、背後で素っ頓狂な声が響いた。振り返ると、赤毛の年若い少女が困惑したように彼を見ていた。地下で何もしないで座っている男がいるのは計算外だったのだろう。彼女は言った――。



「何、あんた。使用人…じゃないよね?」


彼は何も答えなかった。彼女は左右に目線を走らせた。


「ま、どーでも良いけど。ね、地下に隠し部屋があるっぽいんだけど、知らない?…何とか言ったら?喋れないわけ?」


「…お前は誰だ」


「あたし?リーン。これから超すごい大盗賊になる予定のね。握手しとく?」


「しない。何か盗みに来たのか?」


「それ、聞く意味ある?盗賊なんだってば、あたし」


気取った様子で彼女は言った。彼はとりあえず立ち上がった。ひょっとしたら彼女を止めなくてはならないのかもしれない、と思ったのである。彼女はそれを見て後退った。


「何?窃盗駄目絶対、とか言っちゃう感じ?言っとくけど、あたし結構強いよ。止めようとするんだったら、痛い目見てもらうけど!」


と、彼がまだ立ち上がっただけであるのにもかかわらず、彼女は瞳を緋くした。そしてその能力で彼の背後に回り込もうとした…のだが、上手くいかなかった。障害物があると位置の反転が妨害されてしまうということを、当時の彼女はほとんど毎回忘れてしまっていたのである。


そういうわけで、彼女は見事葡萄酒の陳列された棚に激突した。衝撃で何本かの瓶が床に落ち、けたたましい音を立てて割れた。そのよく響き渡ること!上から慌ただしい足音が聞こえてきて、彼女はとっさに身を隠した。降りてきたのはあの癇に障る娘だった。娘は粉々になった瓶の破片と酒の海に目を見開いた。


「何の音かと思えば!全部パパのものなのに!お前、なんてことをしてくれたの!?…何よ、その目は?復讐のつもり!?信じられない、こんなこと…お前、自分で片付けるのね!それから、あとひと月は出て来ないで!顔も見たくないわ!」


娘はひとしきり喚きたてると、足音を立てながら階段を登って去っていった。物陰から出てきた盗賊は、唖然として言った。


「感じ悪ぅ。あんた、ひょっとしてあの子のせいでここにいたわけ?」


「よくあることだ」


「かわいそ。ていうか、何であたしのこと告げ口しなかったの?してれば刑期延長免れたでしょ」


「…俺もあの女の顔は見たくない」


彼が俯くと、彼女は面白い冗談でも聞いたかのようににやりと笑った。


「ははーん。あの子、とことん嫌な性格してるって感じだ。―ねえ、今行って殺してきてあげようか?」


と、彼女は彼の顔を覗き込む。殺す、という言葉が彼に深々と突き刺さり、彼はそれを弾き返す他なかった。


「馬鹿を言うな!駄目に決まってるだろう?」


「うわっ、びっくりした!急に大声出さないでよね。上に響くよ?」


「…とにかく、そんなことはするな。勝手に仕事して、さっさと失せてくれ」


「ま、良いけど」


彼女は不満げに呟くと、壁を叩いたり、棚を引っ張ったりして隠し部屋を探し始めた。彼はその在り処を知っていたが、じっと座って無関心を装った。しばらく探しても部屋は見つからず、彼女には苛立ちが募るばかりであった。


彼女の内に秘められた血濡れた純真は、彼女を脅迫という手段へ駆り立てた。彼女は今度こそ周囲に注意を払ってから距離を詰め、彼の肩に使い慣れた匕首を突き刺そうとした。刃が欠け、床を滑った。彼は落胆した表情でその欠片を見つめた。彼女は目を見開き、左手でそっと彼の肩に触れた。何の変哲もない肩であるように思われた。


「あんた、人間じゃないの…?」


「…わからない」


「わからないって…おかしいよ、こんなの。緋眼じゃなさそうだし」


「おかしいことくらいわかる。俺は、こんな身体のせいで…」


彼はそう言って俯いた。考えないようにしていた過去が溢れ返り、心を蹂躙し、瞳から出て行こうとした。彼は堪えた。彼を支配する痛みは決して流れ行かず、また仮に跡形もなく消えてくれたとしても、代わりに彼の心に留まってくれるものなどありはしないということを、これ以上なく理解しているつもりでいたからであった。隠し部屋どころではなくなってしまった彼女は、彼と少し距離を置いたところに座った。


「何があったのか、話してよ」


「関係ないだろう」


「話すまで出て行ってやんないからね!気になって不眠症になっちゃうもん」


彼女は使い物にならなくなってしまった匕首を残念そうに眺めていた。これまで彼の過去を尋ねてきた者がいなかったからか、彼には黙秘を貫くことが難しかった。彼は降り始めた雨のように、少しずつ過去の出来事を話していった。話し終えた頃には、彼は抵抗をすっかりやめていた。彼女は変わらず失われた刃の先端を、そうしていれば元通りになるかのように見つめていた。彼女は武器を収めると、彼に向き直ってその具現化した孤独を優しく拭った。


「ね、あたしと行こうよ」


彼は虚ろな瞳を彼女に向けた。


「どこに?」


「どこへでも!いつまでもこんなとこいちゃ駄目だよ!」


「だが、俺は…」


「大丈夫だよ、あたしが一緒なんだから!何度でも間違えて、何度でもやり直そう!こんなとこであんな子に縛られてても、何も変わらないままだもん。力加減なんて、覚えちゃえば良い話だし!ね、一緒に行こう?」


「…やり直しなんて効かないだろう」


「え!?効く、効く!めっちゃ効くって!―あんたさ、その、お母さんのことは後悔してもしきれないんだろうけど。でもね、良いこと教えたげる。後悔は抱えるものじゃなくて引きずっていくものなんだよ。抱えまくったら前見えなくなっちゃうでしょ?だからね、足に括って引きずってくんだよ。その重みだけは忘れないようにね」


「歩けないくらい溜まったらどうするんだ」


「…まあそのときはその辺に捨てる」


多少強引ではあるが、彼女の後悔の理論はまったく的外れというわけではなさそうだ。それでも彼は躊躇いを見せていた。


「何故俺のために?」


「さあね。何でも良いじゃん?で、来るの、来ないの?」


「…隠し部屋の場所を教えてほしいだけじゃないだろうな?」


「隠し部屋…?ああ!そうだ、あたし、お宝をいただきに来たんだった。えっと、まあ、知ってるんならあやかりたいかな」


財宝のことを思い出して目を輝かせ出した彼女を見て、彼は腹を決めた。もう一度だけ、人間らしく生きようとしてみても良いかもしれない。彼は立ち上がると、隅にあった樽の蓋を軽く―それでもなかなかの音が鳴ったが―叩いた。すると何もない壁が動き出し、宝の山が眠る部屋への入り口が現れた。


二人は両手に持てるだけの金品を抱え、地下室を飛び出し、土産と言わんばかりに屋敷の壁に大穴を開けて逃走した。彼らはしばらく走り続け、人目につかないところで足を止めた。彼女が適当なところからくすねてきた袋に戦利品を詰め込むのを手伝いながら彼は言った。


「お宝で前が見えなくなるのは良いのか?」


「良いでしょ!これが幸せってもん!―そうだ。あんた、あたしの名前覚えてる?」


「リーンだろう」


「何だ、ちゃんと聞いてたんだね。で、あんたは?」


自分の名を口にするのはいつ振りのことだろう?母親が唯一遺してくれたものでもある名前は、長い間日の目を見ていなかったのにもかかわらず、彼の中で少しも色褪せていなかった。


「…カイ」


「カイね!よーし、これから頼むよ、相棒!」


そう言って、リーンは無邪気に笑った。カイの顔に笑みらしきものが浮かんだのも、随分久しいことだった。



「あんた、あれから案外ノリノリで盗みの手伝いしてくれたよね」


「それは語弊があるんじゃないか?」


「そう?ま、どちらにせよ、あたしについてきて良かったでしょ?」


「…ああ。感謝してる」


「感謝してる、だって!そういう淡白なとこ、変わんないよね」


「染みついてるんだ。…そう言うお前は少し変わったな」


「ええ?どこがさ」


「あのときは倫理観に欠けてただろう。正直、イカれてるのかと思ったくらいだ」


「しょーがない、しょーがない。ほんの子どもだったんだから。―あ。ザクの町、見えてきたんじゃない?」

2025.1.30

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