殿下、風の音の鳴るほうへ
命を扱う『医者』という職業は言わずもがな儲からないもので、滅多にお目にかかることができない。しかし、将来的になくてはならない技術を生み出すのは彼らだろうと、私は確信している。
医者が行うのは主に命の実験で、彼らは考えなしに命を消費するのが当たり前だと思っている人々に、新たな可能性を示すことを目的としているようだ。無機物に命を与えても何も起こらないと思われていたのに対し、無機物に与えられた命はそこから少量ずつ流れ出ていくのだということを発見したのも、変人と笑われた一人の医者だった。
生命に関してあり得なかったことを実現させ、かつ使い手を選ばないという点で、命の応用はもっと認められるべきではなかろうか?
数日後。悪天候の中、しばらくぶりに着飾ったセレスティアはゾルギック城の門をくぐった。動きにくいからと、彼女は流行りの裾がやけにふわふわとしている夜会服をすべて却下した。ジリアンは、さすがと言うべきか、大勢の貴婦人たちの中でも浮かず、かつ主人が妥協して着てくれる夜会服を用意していてくれていた。
さらにこの侍女は、主人の絹のような髪を丁寧に結い、人形のような顔を美しく化粧した。どこでそんな技術を身に着けたのやら!とにかく、この日の我が王女は輪をかけて雅であった。仮面をつけてしまうのが惜しいほどだ。隣を歩くオスカーは、普段と変わらず憎たらしい…ほど完成されていた。屋敷を出る前、セレスティアは彼に言った。
「やっぱり、城内にはあなたを覚えている人もいるんじゃないかしら」
「うーん…仮面を少しもずらさないようにしないと。幽霊騒ぎになるといけないからね」
「そういう問題なの?」
ネッシュ家の屋敷は、厳密には随分前からリーゼル・オーネットの屋敷になっていた。存在しないオーネット嬢がゾルギックの貴族として認められているのは、オーネットという姓を持つ司法官の血縁ということになっているためだ。何を材料にしたのかは知らないが、彼らはその司法官の合意を穏便に得ることに成功したのだった。
そして今、彼らはその特権を惜しみなく使い、ゾルギック城で年に数回行われる仮面舞踏会―武闘会のほうが気が楽よね、とセレスティアは言った―に潜入しようとしていた。ゾルギックと聞くと、お堅い武装国家の印象が強いのだが、まあだからこそ顔の見えない息抜きが必要なのだろう。現皇帝たるイザベラが城内での開催を許すほど、ゾルギックの貴族にとっては重要な行事なのだとか。セレスティアとオスカーがその舞踏会に参加しようとしているのは、決して息抜きのためではないがね。
平民が見たら驚愕してひっくり返ってしまいそうなくらいには広い舞踏室に着くと、耳を喜ばす管弦楽が静寂の入り込む隙を与えまいと奮闘していて、雑踏と談笑が辛うじて居場所を確保していた。この日のオスカーの任務は踊ることだけで、彼が名前と顔を失っている間に、セレスティアは城内を忍び歩くことになっていた。細かいことは追々説明するとしよう。
舞踏会がいよいよ盛り上がり始めた頃、彼女は声もかけずにオスカーの元を離れ、人々の目に不自然に映らないような足取りで舞踏室の扉を目指した。何人かの男たちが彼女を誘おうとしたが、ひたすら聞こえていない振りをして通り過ぎた。出入り口に立っていた衛兵に微笑みかけると、彼は快く扉を開けてくれた。一体どこへ行くのだろうとその衛兵が思ったときには、セレスティアは赤い靴の呪いから解放されていた。端から履くつもりはなかったが。
彼女は城内を歩いているのが至極当然であるかのように、厳然と階段を目指そうとしたが、いくら何でもそれで衛兵の目を誤魔化せるはずがなかった。仕方がないので、彼女は適当なところに身を隠してから風を使いに出し、蝋燭の火を一つ一つ吹き消すことにした。舞踏室を除いて、城内は暗闇に包まれ、衛兵が何事かと早足で歩き回る音が聞こえた。舞踏会が終わる頃には良い時間になっているだろうから、わざわざすべての枝垂燈に火を灯し直すことはしないだろう。
セレスティアは十分に目が慣れるのを待って動き出した。元々かくれんぼうが得意な彼女だから、この暗さの中で誰にも見つからないように移動するのは何てことはなかった。ふと、花瓶に薔薇が生けてあるのが目に入った。彼女はそれを一輪拝借した。
階段を登り、廊下を進み、時には手頃な部屋に隠れ…などということを繰り返し、セレスティアは目的の部屋がある廊下に出た。その部屋の前には燭台を手にした衛兵が立っていた。すんなり入れたら良かったのに。彼女は短く息を吐くと、また物陰に隠れた。
そして先ほどくすねておいた薔薇の花びらを一枚ずつ丁寧にむしった。想定より綺麗にはできなかった。とにかく、彼女はその花びらを舞わせ、衛兵の注意を引きつけた。狙い通り、その衛兵は不自然な動きをする花びらに気を取られ、のろのろとその後を追っていった。彼が床に散りばめられた花びらを眺めている間にセレスティアは背後を通り過ぎ、躊躇いもなく部屋に侵入した。
できるだけ静かに扉を閉めてから振り返ると、蝋燭の薄明かりの中に一人、唖然として彼女を見つめる青年の姿があった。彼は何を勘違いしているのやら、開口一番こう言った。
「随分熱心な女性がいたものだな…」
その口調は決して軽蔑的ではなく、むしろ感心しているようであった。すぐさま水の刃を向けられなかったのは幸運だった。セレスティアは笑いそうになったのを堪えながら淑やかに膝を折って一礼した。
「御機嫌麗しゅう、殿下」
皇子ミロはその銀蘭の瞳に困惑の色を映しながらも礼を返した。
「やあ、初めまして…で合ってると良いが。それで、君は一体?」
「信じていただけないかもしれませんが―」
と、セレスティアは仮面を外し、瞳の色を戻した。
「私、こういう者でございますわ」
そしてミロの反応を窺おうと閉口した。彼は目を見開き、おお、と小さく歓声を上げた。珍しい反応だ。それでも信じがたいものを目にしていることには変わりないようで、ミロは恐る恐る彼女に近づき、鑑定士か何かのようにじっくりと紫苑を覗き込んだ。
それが疑う余地もなく―本来、疑おうにも疑えないはずのものなのだが―本物だとわかると、ミロは何か言おうとして口を開いた。が、そのとき扉を叩く音が部屋に小さく響いた。先ほどの衛兵だ。
「殿下!」
「これはいけないな。すまない、少しの間そこに隠れていてくれ」
ミロは囁きながら寝台の傍にある帳を指さした。帳を引いてセレスティアが身を隠すと、ミロは衛兵に応えてやった。
「燭台騒ぎの次は何だ?」
「ああ…いえ、ただ何か異常がないかと思い…その、話し声が聞こえたような…」
衛兵は持ち場を少しでも離れたことを知られたくないようで、歯切れ悪く言った。皇子は食傷気味に告げた。
「さっきから僕の部屋には何も異常はない。困ったことがあったら呼ぶといつも言っているだろう?わかったら僕のことは放っておいてくれるかな」
ゾルギック王家の銀蘭は、見る者に少なからず冷徹な印象を与える。それで睨みつけられたら堪ったものではない。
「し、失礼いたしました、殿下!」
衛兵はすくみ上がって叫ぶように言うと、いそいそと部屋を出て行った。ミロはこれで良しと息を吐き、寝台のほうに歩み寄って帳を覗き込んだ。
「お待たせして申し訳ない、王女殿下」
セレスティアは黙って首を振った。
「それにしても驚いたな。ルーセチカに王女がいるなんて今まで一度も…。ジェロームが玉座に着いたから、てっきり―」
「ミロ皇子。あまり時間がございません。舞踏会が終わる前に戻らなければ」
「そうか、すまない。無理やり消灯してまで僕に会いに来た理由を聞こうじゃないか?」
「大した話ではありません。ただ、今後そこの窓を叩く音が聞こえたら、鍵を開けてほしいのです」
と、セレスティアは部屋の一番大きな窓を見やった。ミロは怪訝そうな顔をして顎に手を添えた。
「それだけを頼みに?」
「秘密裏にあなたにお会いするにはそうする他ありません。可能でございますか」
「もちろんだよ。だけど、外からこの窓まで登ってくるのは難しいんじゃないかな。壁登りは得意かい?」
彼女は今度は笑みを堪えなかった。
「人並ですわ。けれど、問題ないかと。こちらに参上するのは私ではありませんので」
「あなたでないなら、あまり部屋に上げたくないんだけどな。狼藉を働かれても困る」
ミロは安らかな表情から一変して顔に影を落とした。母親ですら部屋に入れたがらないのだから、当然の反応だ。話に聞いていた通りで、セレスティアは動揺しないで済んだ。
「前任の聖騎士を覚えておいでですか?」
「オスカーだろう。忘れるはずもないよ。彼のような心の清い人は滅多にいない。何故そんなことを聞くんだ?」
セレスティアはその質問には答えずに微笑んだ。ミロは眉をひそめたが、それ以上は追究しなかった。彼がありえないことを考え付いた自分に呆れている間に、彼女は例の窓辺まで行って鍵を開けていた。
「そろそろ失礼いたします。―ここから降りられるかしら」
彼女が呟いたのを聞くと、ミロは気を利かせて能力を発動させた。彼の瞳が緋く輝き、花瓶から水が躍り出た。セレスティアは思わず息を呑んだ。それは彼女の目の前を通り過ぎて窓を抜けた。これが噂に聞く『統水の緋』か。見事なものだ。セレスティアが感嘆の声を漏らすと、ミロはそれに乾いた笑いを返した。
「下に水を張るよ。服は濡れてしまうかもしれないけど、着地に心配がいらなくなるからね」
「いえ、どうかお構いなく。自力で何とかいたしますわ」
「そうか。そうだった、君には風が…それじゃあ、気を付―じゃないや。忘れちゃいけない、僕はあなたの名前を知らないんだった」
「セレスティアと申します。無礼をお許しください、名乗りもしないでいたなんて」
「いや、構わない。それよりも、同じ人間同士だということを忘れないでくれ。僕にへりくだる必要などないよ、セレスティア王女」
「…あなたがそう言うなら。けれど、それで言ったら私を王女と呼ぶ必要はないわ。私はそう呼ばれるべきではないから」
「それは良いことを聞いたな。僕は行儀良くするのがどうも苦手でね」
そう言って、ミロは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「じゃあ、また、セレスティア。―また会うことがあるんだろうね?」
「ええ、きっと。おやすみなさい、ミロ皇子」
ミロは王族であるということを忘れさせてくれない彼女を咎めようとしたが、これ以上引き留めるのも迷惑だろうと口を閉ざした。セレスティアは露台から飛び降りると、地面に風を叩きつけながら着地した。おかげで翌朝、城で雇われている庭師は、いつこんな窪みができたのかと首を傾げなければならなくなった。
「やあ、ティア。どうやら上手くいったみたいだね」
屋敷に戻って来たオスカーは、セレスティアの顔を見るなりそう言った。セレスティアは読んでいた本から顔を上げた。
「ええ。彼、案外あっさりした方ね。―ねえ、リーン、まさか舞踏会に忍び込んでいたわけじゃないわよね」
オスカーの隣には普段着のリーンが立っていた。オスカーと共に帰宅したリーンは、セレスティアの部屋に上がっていく彼にそのままついてきたのだった。
「え、あたしが?違うよ!まあ、舞踏会で何かしら…こう…いただきしちゃおうかなー、みたいなのは思ったけど?いや、でも実際やってないから!こんな格好だし。違くて、あたしはその辺ぶらついてただけ。そしたら騎士様が女の人たちに詰め寄られてたからさ」
「もう少しで仮面を剥ぎ取られるところだったよ。リーンには一つ借りができたね」
「…待っていたら良かったかしら」
「嫉妬しちゃって」
リーンはセレスティアの顔を覗き込みながらにやにやと笑った。セレスティアは口を引き結んで片眉をくいと上げた。
「もー、冗談だって!そんなことよりさ、皇子様の部屋!どうだった?金銀財宝って感じ!?」
「まさか。宝物庫じゃないのよ」
「なーんだ。残念」
「仮に皇子の部屋に財宝があったとしても、とても盗み出せないんじゃないかな」
「何さ。騎士様、あたしの腕前を知らないでしょ」
「それはそうだけど。でも、賭けてもいいよ。イーサンだってあの部屋を出られないはずだからね」
「ほんとに言ってる?あのお城の兵士ってそんなに優秀なんだ?」
「それも否定はできないけど、飛び抜けてるのはどちらかというと皇子のほうでね。侵入者を捉えるなんてお茶の子さいさいだよ」
リーンが納得していなさそうな顔つきで呻きながら部屋を出て行くと、オスカーは黙ってセレスティアの隣に腰かけた。しばらくして彼女は口を開いた。
「皇子とは長かったの?随分あなたを尊敬しているみたいだったけれど」
「ミロ皇子が?そんな素振り、見せたこともなかったけどな。あまり長い間彼に仕えていたわけじゃないし」
「そうよね。けれど、あなたが姿を見せたらきっと喜ぶわ」
「本当かい?それは嬉しいな」
オスカーは気の抜けた笑顔で言った。彼にとっての栄光の日々はあまりにも短く、その分いつ思い出しても眩すぎるものなのだろう。オスカーにあってセレスティアにない―と彼女自身が考えている―ものはそういった思い出だった。懐かしむべき記憶を丸ごと捨ててしまうなんて、どうしてできようか?まだ、彼女の中にもきっと…期待するだけ無駄か。セレスティアはすぐに話題を変えた。
「久しぶりの舞踏会はどうだったの?」
「どうっていうこともないかな。前と変わらない―ああ、でも…」
オスカーは表情を曇らせ、続きを言うのを躊躇った。セレスティアは彼をじっと見つめた。言いかけたからには、最後まで言ってくれないかしら?
「大したことじゃないんだけどね。ただ、今の聖騎士を見たってだけで」
「良い気がしないのは確かね。愚痴の一つや二つこぼしたって罰は当たらないわよ」
「うーん、愚痴っていうかなあ。陛下がお見えになったときに、護衛に立っているのが見えただけだし。本当に、それだけで…」
その歯切れの悪さからして、未練があるのは確かだ。
「どう思ったの?」
「僕だってまだそこに立てるのにな、って。別にもう良いけど。小耳に挟んだ話じゃ、彼女のほうが僕より優秀らしいし」
オスカーは珍しく卑屈な物言いをした。セレスティアは心苦しさを誤魔化そうとしてか、膝の上に置いていた本に視線を落とした。
「そんなこと、比べようがないでしょう」
「まあね。とにかく、もう良いんだ。僕は君を守っていられるほうが幸せだよ」
「その言葉、お互い惨めになるだけじゃないかしら?」
「本心なのに。君は主君として最高だからね」
「誉め言葉だと良いけれど」
「ひねくれ者め」
そう言って半ば吹き出すように笑ったオスカーは、すでに陽光の如き輝きを取り戻していた。セレスティアは顔を上げて彼の笑顔を見つめると、安堵して再び文字を追い始めた。
翌日の夜、オスカーはミロの私室を窓の外から訪ねることにした。衛兵に目撃される危険を冒さないために、十分暗くなるまでセレスティアと星を数えた。月を覆った雲を見上げながら、セレスティアはぽつりと呟いた。
「あなたに渡したいものがあるの」
「一大事だな。まだ花束を売ってくれる店が開いてると良いけど」
「何も言わずに受け取ってくれるなら、花束は免除するわ」
そう言ってセレスティアは万年筆を取り出した。オーウェンの遺した、例のものだ。それとは気付かず、オスカーは不思議そうに彼女からの贈り物を受け取り、しげしげと眺めた。人に贈るにしては古びすぎている。ようやくそれの正体に気付き、彼は万年筆越しにセレスティアを見た。
「…ティア?」
「テオの行きつけの酒場の前に、それは素敵な花屋があるんですって」
花に埋もれてるみてえな建物があったから覗いてみたら花屋だったんだぜ、というのが正確なテオの言葉だった。馬鹿にも程があると教えてやりたい。
「ティア、どういうつもり?これは…これは僕が持っていて良いものじゃないよ」
「わかっているわ。けれど、私も持っていたくないの。…不安なのよ。私一人が…私に何かあったら、お終いでしょう」
「…君からは奪えやしないよ」
「お願い、オスカー。これまでずっと、ありえないと思っていたことばかり起きているじゃない。まるで悪夢みたいにね。私はもう自分のことさえ信じられないけれど、あなただけは信じられるわ。他でもないあなたなら、きっとこれを守り通してくれると。―いえ、ごめんなさい。迷惑よね?」
誰かに頼ることを諦念して微笑んだセレスティアは、突然ひどく遠くに立っているかのように思われた。彼女が私たちを置いて去っていったあの日と同じ感覚がした。
オスカーにとっては、初めて彼女と出会った日のそれだったに違いなかった。また遠ざかるのを、彼女の庇護下から離れてしまうのを恐れて、オスカーは万年筆を取り戻そうと手を伸ばした彼女を制した。
その万年筆は、何というわけもなく取っておいた義父の葉巻入れに仕舞い、鍵をかけた。屋敷にいる誰も葉巻は吸わないからね。オスカーはそうおどけてみせると、箱を寝台の横の抽斗に入れた。君もこの部屋をあまり出ないことだし。鍵は、彼が肌身離さず持ち歩いている統隙の緋石の中に隠した。武器を出すときに落としたりしてね。
セレスティアは微笑すら嫌味になると考えているのか、それともひたすらに困惑しているのか、にこやかに戻って来る彼をただ見守っていた。もう行こうかな。彼女に何かを言う隙を与えずに、オスカーは部屋を出て行った。
2025.1.29




