賞金狩り
ルーセチカ王国における命の概念はいささか奇妙である。ルーセチカは命の売買が合法化されている唯一の国家だ。勘違いしてほしくないのだが、ここで言う”命の売買”とは人身売買のことを指すわけではない。それは違法である。
命。それは我々人類が天使アストルより授かった、ある種の能力のようなものだ。正式名称は特にない。聖女クレアがその手記に記したように、自らの命を自在に操る力を人々は得たのである。同時に、誰かの命を奪い我がものとする力も。
しかし命の獲得のために人を殺めないといけないのかといわれると、必ずしもそうではない。聖女が言うには、命とは『人々から向けられた情念が変換されて蓄積するもの』なのである。おそらく、尊敬や畏れ、恨み、愛といった心の底から湧き上がるような他者への感情のことを指すのだろう。
つまり、善行かあるいは悪行を積むほど命が満ちていく―悪事を働くほうが効率が良さそうだが―ということだ。命があれば、傷を癒すことも若さを保つこともできてしまう。理屈の上では食事をせずとも生きていけるのだとか。
そういえば、手記には気になる記述があった。『彼は死者を蘇らせることも可能としていました。』もしもそれが本当ならば、聖女よ、一体その力はどこに消えてしまったのか!まあいい。そろそろ本題に戻ろうか?
天使の降臨から数日後、また彼女が現れた。今度は目撃者がいなかったが、現場は彼女の存在をはっきり示していた。その次の日も死人が出た。彼女の行動は無差別のものなのか?否。被害者のことを知っていた人々は口をそろえてこう言ったのだ。奴には困っていたんだ、ここにはめったにいない悪党だったから、と。
噂はあっという間に広がった。あの少女の言ったように、彼女が裁きを与えに来た天使様なのだ、という噂が。茶化してそう言う者もいれば、半ば本気にしている者もいた。そういうわけで、彼女は恐れられる存在というよりもアーテルニアを救いに使わされた存在であるとみなされるようになった。ほんの数日で得体の知れない殺人鬼を信じてしまうのだから、平和に絆されるというのは恐ろしいものだ。
それからというもの、アーテルニアでは時折悪人に裁きが下されるようになった。しかし当然のことながら、彼女がこのまま野放しにされるというわけでもなかった。つい先日の出来事である。ある人物が彼女を求めてルーセチカへとやってきた。
小さな鐘を鳴らしながら酒場の扉が開いた。その音に応えるように店主であるスーの快活な声が響く。数年前に父親から店を継いだ彼女はまだ若かったが、酒場はそれなりに繁盛していた。扉を押し開け入ってきたのは、彼女には見慣れない服装をした青年であった。彼はまっすぐに横木までやってくると、音を立てて席についた。影のように暗い黒髪に、褐色の肌をして、灰色がかった緑の瞳を携えている。店主は尋ねた。
「ご注文は?」
「一番安い酒がいいかな」
どうやら情報収集のために立ち寄っただけらしい。スーは注文通りの酒-値段からわかるように美味しいとは言えない―を出し、微笑んでみせた。
「はい、どうぞ。…あなた、外から来たの?」
「まあな。びびったよ、なかなか入れてもらえなくてさ。さすがは永劫国家だな」
そう言って青年は頭を掻いた。この国では異国人は疎まれはせずとも好まれもしないのだが、下手な作り笑いが逆にスーの心を惹きつけた。店内を見回し、相手をすべき客がいないのを確認してから、スーは珍しい客人に構ってみることにした。
「そうでしょうね。よっぽどの理由がないと入国できないようになっているもの。なんて嘘をついたの?」
「別に嘘はつかなかったけど。賞金首を追ってきただけだからな」
「賞金首ですって?」
スーは目を丸くした。その身に賞金がかけられているとなれば危険人物に決まっている。そういった輩であれば入国時に憲兵が取り押さえるはずだ。なのにこの異国人ときたら、ここにその賞金首がいると言い出したのだ。彼女が驚くのも無理はない。
「おいおい、あんたもその反応かよ?あの憲兵たちもそうだったんだ。このアーテルニアでは珍しい騒ぎになっただろ?」
スーが記憶をたどるように宙で目を泳がせていると、そばに座っていた男が口をはさんできた。
「なあ、あんちゃん。それってもしかして血濡れの天使の話か?」
「天使だ?馬鹿言うなよ、俺が言ってるのは殺し屋のことだ。一撃で頭を砕く殺し屋」
「おうよ、俺もそいつのことを言ってんだ」
そう言うと、男は酒とともに青年の隣にやってきて笑みを浮かべた。噂好きがよくやる笑い方だ。スーが呆れたように言った。
「やだ、例の天使のことだったのね。賞金首なんて言い出すから何事かと思ったわ」
「まったくだな。そうだ、俺はヒュー。あんちゃんは?」
「…テオだ」
そう名乗った青年はその場の誰よりも唖然としていた。憲兵といい、この二人といい、あの殺し屋の存在を知っていながら少しも臆していないのだから。そう、彼らはあの殺し屋を血濡れの天使と呼ぶのだ。血濡れは正しいとしても、天使だなんて馬鹿げている。テオの顔にはそう書いてあった。
「テオね、覚えとくぜ。で、天使に賞金がかかってるって言ったか?」
「ああ。外じゃそれなりに有名な殺し屋だからな。殺し屋っつっても誰から依頼を受けてるのかはわかってない。特徴的なのは一つの国に長く留まることだ。普通はすぐにずらかるんだけど」
「へぇ。じゃああなたは今回も彼女がルーセチカに長居するって踏んでるのね」
「彼女?」
スーの言葉にテオは眉をひそめた。女店主は増えてきた客の相手をするためにせわしなく動き始めており、両手にはすでに信じられないほど料理を載せていた。そして去り際になって早口に言う。
「見た人がいるのよ、天使だって言い出した子が。なんでもすごい美人だったとかで―はいはい、今行くわ!」
スーのいなくなったカウンターを眺めながらテオは考え込んでいた。どうも釈然としないらしい。そんな彼の困惑ぶりをヒューは豪快に笑った。ずいぶん酔いが回ってきているようだ。
「なんだ、知らなかったのか!まあ性別なんざどうだって良いもんな」
「いや、良くないだろ。考えてみろよ。人間の頭を叩き割るなんて常人にはできない。俺はてっきりそいつが大柄な男なんだと思ってたんだ。それが女だったって…」
「常人じゃねえさ。なんせ天使様だからな!」
そう言ってヒューは酒をあおった。テオは呆れたように片手を振り、その手で頭を押さえた。酒を飲もうとしたが、すっかりぬるくなっているとわかって手を引っ込めた。大きなため息。
「何なんだよ、天使って…」
「んあ?天使ったら天使さ。悪党どもを成敗するんだぜ。この国にはいらねえからな」
「どの国にもいらないだろ。ったく、参考になるんだかならないんだか…」
「天使のことを知りたきゃ、グレイフォール卿のとこに行くと良い…何だか知らねえが何か知ってるって…」
ヒューは微睡みながらごにょごにょと言った。ほとんど目は開いてなかった。テオは今度は長いため息をついた。そして金を置いて立ち上がり、聞こえてなさそうなヒューの背中に言った。
「グレイフォール卿か。ありがとな、助かる」
「なあ、テオ…天使様…アーテルニアだけなのかなあ…他の町にも…行くんかな…」
「知らね」
2025.1.8