寂寞を供に
さて、例の話の続きをしようか。エッタ率いるベラディール・白狼連合軍と対峙し、ルーセチカが劣勢に立たされたあの戦いの最中、アルフレッドは敵兵を文字通りなぎ倒して大胆にもエッタに接近し、告げた。オーウェンはお前を裏切る、と。
そんなことではエッタは攻撃の手を止めてくれない。押し寄せた敵兵をもう一度薙ぎ払うと、アルフレッドはエッタが怯んだ隙を突いて、彼女の目の前一枚の紙を突きつけた。それはロイドがでっち上げた偽の文書で、白狼族の暮らしている土地について某氏の統治権を認める云々ということが書かれていた。エッタが冷静にそれを読んでくれたのは幸いだった。
エッタは繰り返しその文書を読み、首を傾げて考えた。そしてアルフレッドの顔を覗き見た。その面持ちは真剣そのもので、にやけ面のオーウェンよりは信頼できそう―これは後にエッタ本人が語ったことである―だった。白狼族はいとも容易く寝返った。連合軍は解体され、白狼族は恨みを晴らさんと言わんばかりに数分前まで味方であったベラディール兵を一網打尽にした。
後味が悪いという理由で、アルフレッドはベラディールを滅亡させた後、その国土を丸々エッタに与えてしまった。だからこそエッタはアルフレッド―彼女が呼ぶところのアルフ―に絶大な信頼を置いているし、オーウェンを塵以下の存在だったと思っているのだ。かくして、アルフレッドの英雄譚に新たな頁が追加されたわけだが…仕方ない。噓も方便、で手を打とうか。
「あ、見て!セーちゃん帰って来たよ!」
安堵の表情でリーンはセレスティアに手を振った。だが、彼女には見えていないことを思い出し、すぐにやめた。惜しい。ある意味では見えているということを忘れているとは。セレスティアは迷いのない足取りでリーンたちの元へ降りてきた。そこには困憊したリヴァと、その足元にしがみついて根が生えたように動かないアメラもいた。当然、セレスティアの次の言葉はこうだった。
「…何があったの?」
「アメラが意地張ってた訳がわかってさ。何でも、俺を犯人に仕立て上げないとリヴァを殺すって脅されてたんだと」
「リヴァを?それで…」
セレスティアは納得して頷いた。慈愛を込めた眼差しはアメラには届いていないが。カイがアメラを見下ろしながら言う。
「テオが生き残っちまったからには、後はリヴァを守るしか手がないってことらしい。ずっとこの調子だ」
「彼のことも何とかしないといけないわね。―ところで…追いかけっこでもしたの?随分疲れているみたいだけれど」
「ああ、こいつな。騒ぎ疲れただけだ。心配無用ってやつ」
「すみません、情けないところを。少し、動揺してしまって…」
セレスティアは再び頷いた。無理もない、という意味なのだろうが、あの”少し”動揺したリヴァの剣幕を見ていたなら、さすがの彼女も面食らったことであろう。
「やったのはやっぱりベッファだったみたい」
と、リーン。セレスティアは三度頷いた。これはほとんどあしらうようだった。
「そういや、エッタは?話はまとまったのか?」
「エッタはまだ王女と話しているわ。どうなるかはわからないの。私は追い返されてしまったから」
「へえ、こっちの王女様って度胸あんのな」
「そうなのかしら」
冗談だ、とテオが笑みを浮かべ、セレスティアは無関心に首を振った。そして虚空を見つめるリヴァに向き直った。
「リヴァ。疲れているところ悪いのだけれど、頼みがあるの」
「……あ、僕ですか?はい、何でも言ってください。僕にできることなら。…死ぬ前に役に立っておきたいですし」
リヴァは心根の優しい青年だが、今は陰気な諦念に飲み込まれ、アメラがさらにひしと抱きついてくるのも気が付かないふりをしているようだ。セレスティアもまた、彼らの異変がまるでなかったかのように言った。
「サラの遺体をルシア王女のところに持って行きたくて。エッタなら上手くやってくれるはずだから。先に言っておけば良かったわね」
「ああ…お安い御用です。まだ墓を建てていないので、棺をどうぞそのまま。ただ、運ぶのはカイかテオに頼んでください。自分もああなると思うと見てられないので」
彼女は短く了解した。そう、ベッファの仕業と言われれば大体見当がつくだろうが、サラの亡骸はなかなかに惨たらしかった。遺体処理はやはりリヴァの仕事で、その際に彼が胃を空にする羽目に遭ったことは言うまでもない。ああ、アメラがとうとう泣き出したではないか。テオたちが三人がかりでなだめすかしてようやく泣き止んだところだったというのに。
皆リヴァに苦言を呈したかったに違いないが、口を噤む他なかった。ただセレスティアが深々と息を吐きだしただけだった。あまり馬鹿を言わないで。気まずさがその場の空気を満たす前にカイが口を切った。
「俺が運ぼう。棺はどこにあるんだ?」
「墓場の小屋の裏に。案内しますよ」
「待って、二人とも。お願いしておいて何だけれど、やっぱり明日で良いわ。もうじき暗くなるから」
カイはそのとき初めて日が暮れかかっていることに気付いたかのように空を見上げた。
「わかった。なら、明日の朝一番に」
「適当な時間に迎えに行きます。…まだ僕の脚がくっついていたら」
あまりの陰気臭さに、何たることか、私の表情までもが陰りを帯びている。今このときに鏡を見るべきじゃなかったなあ。
「リヴァ、今夜は私のところに居なさい。エッタのところでも良いけれど。一人でいてはいけないわ」
「いえ…良いんです。あなたにもエタにも、迷惑だけはかけたくないので。…何とかなりますよ、多分」
光のない瞳をして、リヴァは無理に笑みを浮かべた。強烈に死を意識していくにつれ、彼は徐々に落ち着きを取り戻していくのであった。すると、セレスティアは珍しく熱のこもった調子で言うのだ。
「私が嫌なの。あなたを一人きりにしたくない。それに、迷惑をかけてしまっているのは私のほうだから。あなたさえ良ければ一緒に居てほしい」
ああ、やっぱり鏡など見るべきではなかった!笑みを浮かべずにはいられない自分を見て誰かへの好意を自覚する瞬間は、何にも劣らず不愉快だ。特にその相手が彼女だったときは。
リヴァは虚ろな顔つきで面々を順番に見つめ、彼らの真剣な眼差しから目を背け、小さく頷き、その必要があると考えたのか、呟くように感謝した。私にも彼のような表情ができたら良かったのに。あなたの優しさに触れたいと、そう言えたなら。
戻って来たエッタは、一同にグゥヴァン・キャミトゥトゥ―白狼族の伝統的な鎮魂の儀式のこと―を執り行うことを宣言した。ルシアには集落まで下りてきてもらい、サラを一時的に蘇らせ、それから儀式を行って死者の安らかな眠りを祈るということらしい。セレスティアは床に直に座ったまま白狼の長を見上げた。
「彼女がそれを承諾したの?」
「けろっとしてな。まったく、何を考えているのやら…」
エッタは辟易して首を振った。セレスティアの隣で伸びをしたテオが疲れを隠さずに言った。
「じゃ、棺を運ぶ手間は省けたわけだな。その…なんちゃらかんちゃらはいつやるんだ?」
「グゥヴァか?明日だ、明日」
皆がきょとんとして顔を上げたが、エッタに自分の判断を疑う様子はない。
「そんな急にできないだろ、エタ」
と、枯れた声でアメラが呟く。彼女もまたセレスティアらと共に一夜を過ごすことにしたのである。エッタは隅のほうでくたびれた様子で座っているリヴァとアメラを一瞥し、数回瞬きをした。
「おぬしら、そこで何をしておる?これから宴でもするのか?」
「どこをどう見たらそうなるのさ…。別に、僕を死なせないようにセレスタが護衛を引き受けてくれたって、それだけのことだよ」
「話が読めぬが…」
「アメラがテオを犯人にしようとしたのは僕を守るためだったんだって。ベッファとかいういかれた奴に脅されて…サラを手にかけたのはそいつなんだけど。それで、そいつはセレスタたちが探してた奴だった。だからもう不思議なことは何にもないよ。あとはそのいかれ野郎が僕を殺しに来るってだけ」
リヴァは卑屈な態度で、早口に捲し立てた。エッタは確認を求めるように一同の顔を見回し、誰もが肯定の意を示したので、彼の話を信じざるを得なかった。それでもまだしっくりきていないようで、彼女はきまり悪そうな顔をして髪を掻き上げ、しばし考え込んだ。
「…それがわかったならば、ルーシャに頼むことはなかったのか」
「どうかな。そうとも限らねえと思うけど」
テオが重い瞼をこじ開けるようにして言うと、エッタは不満げな様子で腰を下ろした。成り行きのあまりの不可解さに、自分だけが蚊帳の外にいると考えたのだろうが、実際のところは彼の発言の意図を理解できた者はいなかった。リーンは訝しげにテオの顔を覗き込んだ。
「寝言、それ?」
「俺を何だと思ってんだ?―違くてさ。考えてみたんだよ、こういう状況で、俺たちを…っつうか、セレスティアを弄んで虚仮にしたかったらどうすれば良いか。…俺だったら、サラを使う。うん、サラに何か言わせると思う」
「おぬし、それはどういうことだ?」
「いやあ、わかんねえけどな。まず前提としてさ―」
と、テオは数え上げるために親指を立てた。
「―相手はセレスティアをおびき寄せたがっている、そうだろ?んで―」
二つ目。人差し指を立てる。
「―サラを殺して、見事俺たちの注意を引いたわけだ。で、これは俺の推測なんだけどさ―」
中指。
「―ベッファは俺たちが見て見ぬ振りをしないと考えた。かつ、ベラディールの王女様のことを知ってた」
テオは自分の三本指を微睡みながら見つめている。催眠術にでもかかっているかのようだ。
「先回りをするためには、相手の行動を予想しないといけないだろ?俺の推測の通りだったとしたら、あいつには予想できたはずだ…」
「―私たちが最終的にルシア王女に行き着くことを」
セレスティアが言葉を継ぎ、そういうこと、とテオは頷いた。リーンは考えるように上を向きながらぶつぶつと呟いた。
「それで、いっちばん嫌味なやり方が、蘇ったサラに何か仕掛けておくこと。…うーん。確かにそれ、すっごいむかつくかも」
「理にかなってるんじゃないか。珍しく」
カイが真顔で言った。
「お前は一言余計なんだよ。何にせよ、あいつの足跡を追いたいなら、サラにも話を聞いたほうが良いってことだ。―あーあ、ねみい。続きは明日にしようぜ」
テオは早くも寝そべって目を閉ざしている。すでに眠りについていたアメラの寝顔を眺めながら、リヴァが口を開いた。
「エタ、本当に明日やるつもり?」
「何だ、不満か?」
「そうじゃなくて。準備が間に合わないでしょ」
「儂の同胞のことだ。どうせ先走って準備を始めておる。あれの時期を早めたところで喜ぶだけよ」
リヴァは肩をすくめた。エッタが自身の寝座―ちなみにそれは集落の隅にある洞窟である―に戻っていき、あとは各々眠りに落ちていった。その天幕は昨晩セレスティア、リーン、カイの三人が寝床にしたのと同じもので、四人以上で寝るのは非常に窮屈であった。
しかし集落には余分な天幕がないし、こんな夜は、誰も草を褥にしたがらなかった。寝そべることのできないリーンとカイは、テオなら外に追い出してもいいのではないかと考えたが、運び出すのが面倒だったのでやめにした。
死の可能性を感じながら眠ることができるほど、リヴァは能天気な男ではない。彼はアメラを起こさないようにそっと立ち上がり、よく考えもせずに外に出ようとした。外では敵が待っているかもしれないというのに。不意に肩に手を置かれ、リヴァは声もなく仰天した。それはセレスティアの青白い手であった。
「驚かせてしまったかしら」
彼女は囁き声で言った。
「あ…セレスタ。起きていたんですか?」
「そんなところよ。―外に出るなら、ついていくわ」
「はあ…すみません」
二人は外に出た。当然のことながら辺りは暗闇に覆われており、見慣れているはずの闇夜は、リヴァに彼を待ち受けている未来の不穏さを想起させた。リヴァがそういった戯言と格闘していると、天幕を出てすぐのところで足を止めたセレスティアがこう声を掛けてきた。
「独りが良かったら、いってらっしゃい。ここでちゃんと見ているから」
そして小さく欠伸をする。
「独りが良いわけじゃないんです。正直、心細いので」
セレスティアはそう、と呟き、リヴァの隣までやってきた。二人はおもむろに歩き、その足元で枯れ葉が小さく呻いた。
「…寝ないで見張っていたとかじゃないですよね?」
「そこまではしていないわ。動く気配がしたから起きただけ。カイは起きていたみたいだけれど」
「カイが?」
「彼、全然寝ないのよね。だから心配することないわ」
リヴァは曖昧に頷いた。セレスティアが何と言おうと、彼は自分が皆に迷惑をかけているのだという思いを拭うことができないでいた。当然だろう。あらゆる出来事が彼女に起因しているということ自体、彼は上手く呑み込めていないのだから。リヴァは何か話していないと落ち着かないのか、再び口を開いた。
「アメラが白状するのも計算のうちだったと思いますか?」
「え?…ああ。おそらくそうでしょうね。どちらにせよ、奴にとっては大した問題じゃないわ」
「何故です?」
「テオが連れていかれさえすれば良かったのよ。そうなれば後はリーンとカイの前に現れて、仕組んだのは自分だと言ってやるだけだもの。アメラがすぐには白状しないということも、奴ならすぐに見抜くことができたでしょうし」
「…あなたを呼び出すことが目的なら、本当に僕を殺すことまではしないかもしれませんよね?」
「さあ。どうかしら」
余計な希望を持たせることは言わない。賢明だといえるだろう。若干明るくなったリヴァの表情はまたしても暗がりに堕ちた。彼はしばらく黙っていた。彼女もそうした。だからリヴァには考える時間があった。そして思考はとある地点で行き詰る。解消せずにはいられない疑問に。
「あの、セレスタ…こんなこと、きっと聞かないほうが良いっていうのは、その、わかってるんですけど」
と、リヴァは歩みを止め、それに釣られるようにしてセレスティアも一歩先で立ち止った。彼女は振り向き、先を促すように小首を傾げた。
「…あなたはどうしてここにいるんですか?あなたは何者で、それで、一体何のために?僕らの身に何が起きているんです?」
彼女は返答に困って沈黙した。風が二人の頬を撫で、それは大地の息吹であったが、ついでと言わんばかりに落ち葉を転がしていく。乾いた音が止み、月光すらも身を隠した閑静の最中に彼らは立っていた。そしてセレスティアは、何てことないかのように目隠しを取ってしまった。
そこにあるのはまだ緋色の瞳で、それらは夜と出会うために生まれてきたと言われても疑わないような、闇を照らす花なのであった。彼女はその瞳でリヴァをじっと見つめた。
「私や、あの子たち、そしてあなたが渦中にあるのは…ただ、私がアルフレッドの娘だからよ」
「アルフレッドって―」
「それ以上のことは何も言えないけれど、すべての原因は私にあるの。…秘密にしておいてね、リヴァ」
そう言って彼女は微笑んだ。紫苑だ。星々でさえ敵わない輝きに、リヴァは言葉を失った。彼女は目を逸らし、独り言のように続ける。
「私が私である以上は、きっとあなたを…あなたの一族を守ってみせる。私はあの人のようにはなれないかもしれないけれど、それでも。―失望なんてさせない」
彼女は遠くを眺めていた。その震える声はいとも容易く静寂に溶けてしまった。そしてセレスティアは視線をリヴァに戻す。緋の瞳を携え、もう一度微笑する。
「そろそろ戻りましょうか。あなたが少しは眠れると良いのだけれど」
セレスティアは踵を返し、天幕のほうへと歩みを進めた。半ば自動的にその背中を追うリヴァは茫然としていたが、同時に安堵していた。英雄の娘ならば、あるいは…。
2025.1.25




