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その瞳には、毒がある  作者: 小娘
その娘、暗躍する
20/60

足取りは重く

「で、その本が盗まれちゃいけなかった何かってことね」


セレスティアから事の経緯を聞いたテオは特別驚いた様子もなく言った。一行はひとまずブリーダーの屋敷に退散した。あの場面を見せつけられては、ブリーダーも反抗できなかったのだ。セレスティアはどこか浮かない顔をして、曖昧に諾った。オスカーは話が途切れたとわかると、テオに向かって言った。


「その二人はどうして一緒に?」


「ん?ああ、こいつらは…何でだっけ?」


「楽しそうだからついてきちゃった。だめだった?」


リーンは屈託のない笑顔で答えたが、オスカーの表情は好ましく思っていないことを仄めかしていた。それを察すると、リーンは言い訳がましく言った。


「でも、テオが味方について欲しそうにしてたんだもん!文句あるならテオに言ってよね」


「おいおい…」


「文句はないよ。…ただ、君たちをどうすべきかなって」


「何それ?報酬ならいらないけど」


眉をひそめたリーンを庇うようにして、カイが間に割って入った。口元を固く引き結んだカイに、オスカーは優しくはない眼差しを投げかけた。


「君はわかってるみたいだね」


「…ルーセチカに王女がいるとは聞いたことがない。何か訳があるんだろうが、とにかく俺たちは見ちゃいけないものを見ちまった。違うか?」


「そういうこと。―まあ、今すぐにどうこうするつもりはないけどね」


緊張が解けたのはカイだけではなかった。ブリーダー、そしてテオも、今彼らが置かれている状況―存在してはならない王女と同じ部屋にいるという状況―を真剣に検討せずにはいられなかった。オスカーが皆まで言わずとも、確かな圧力が部屋に充満した。女性陣には響かなかったようだが。


「ねえ、そんなことよりさあ、セーちゃん。これからどうするの?」


と、リーンはセレスティアの顔を覗き込んだ。…セーちゃん?


「…?ごめんなさい。聞いていなかったわ、リーン。どうかした?」


「だから、セーちゃんたちはこれからどうするのかなって。何か、変な奴に逃げられちゃったんでしょ?」


聞き間違いではなさそうだ。


「…ええ、そうね。あの道化師…何が目的かはわからないけれど、どうにかして止めなくては」


「でも、僕たちには手掛かりがないに等しい」


オスカーが肩をすくめた。誰も異議を挟もうとはせず、しばしの沈黙が流れた。ブリーダーが居心地が悪そうに出て行った。リーンが欠伸をした。そしてテオが頭を掻いたところで、セレスティアは呟くように言った。


「…一つ、確信していることがあるの」


皆が顔を上げて彼女を見た。その彼女は床の一点を見つめている。


「あの道化師―ベッファは、どういうわけか、私に見つかろうとしている」


「どういうことだよ?」


「ルーセチカでのことも、ここでのことも、出来すぎているのよ。私たちは巧みに誘導されていた。奴はわざと目立ったことをして私の注意を引き、急かし、手を出させた…」


「考えすぎだろ。向こうにはそんなことする理由がないしな」


テオはどこか嘲笑を込めた物言いをして首を振った。が、セレスティアはそれを半ば無視した。


「ええ、問題は動機ね。何故敵をわざわざおびき寄せようとするのか。そして何故あれを奪おうとしたのか。―言っておくけれど、考えすぎということはないわ。さっきも言ったでしょう、確信していると」


「ベッファはティアを見て、会えて嬉しいと言った。何故かはわからないけど、ティアのことを知っていたのは確かだよ。きっと、随分前からね」


オスカーがしかつめらしく言うと、テオは口をへの字に曲げ、まだ合点のいかぬ様子で頷いた。


「ふーん。なるほどね。―で、どうするよ?」


「さあ。今できるのは地道に敵の正体を探るくらいね。何にせよ、奴はきっとまた騒ぎを起こすはず。後手に回るのは承知で、乗せられるしかないかもしれないわね」


セレスティアはうんざりしたように首を振ると、部屋の隅で壁にもたれ、煙管に火を灯した。彼女が吐き出した煙は、不自然な経路を辿って開いた窓に到着し、そこから外に踊り出して空へと吸い込まれていった。そんなことができてしまうとは、羨ましい。ふとカイがリーンの腕を掴んで言った。


「俺たちはここで失礼する」


ずっと時機を見計らっていたに違いない。これ以上巻き込まれたら堪ったものじゃないというわけだ。そういうことを言い出すには絶好の雰囲気であった。が、そんなカイの意志も、リーンの意志には敵わない。波が岩に衝突したときのことを想像していただきたい。


「ちょっと、何言ってんの!失礼するわけないでしょーが」


「お前こそ何を言ってるんだ。俺たちはもう関係ないだろ?」


「ある!なくてもあるんだからね!」


「はあ…すまない、こいつの言っていることは無視して―」


リーンは強めにカイの足を踏みつけた。


「もう、あんたは黙ってて!―ね、セーちゃん。あたしにも手伝わせて!絶対、絶対役に立つから!」


「でも―」


セレスティアは目を瞬かせて反駁しようとしたが、リーンは勢いづいて彼女を遮った。


「お願い!他のどんなことよりも断然わくわくするの!このままじゃこっちが気になって、何してても楽しくなくなっちゃう」


リーンはセレスティアの脚に縋りついた。断られたら断られたで、このことはすぐ忘れてしまうくせに。セレスティアは困惑してリーンを見つめ、ゆっくりと煙を吐き出した。そのまま煙管を投げるようにしてどこかへしまってしまった。


「ねえ、リーン。この件はあなたが思っているほど単純なものではないのよ。相手は手段を選ばないでしょうし、裏でどんな陰謀が仕組まれているのかわからない。私は、できるだけ他の人を巻き込みたくないの」


「じゃあセーちゃんはあたしの人生が楽しくなくなっても良いの!?」


また大袈裟なことを言う。


「そうじゃないけれど…」


「なら、あたしにも手伝わせて!絶対、絶対役に立つから!」


その台詞を繰り返すつもりか?簡単には折れてくれそうにないとわかると、セレスティアはどう説得したものかと考え込み出した。テオが横から小声で口を挟んだ。


「おい、リーン。セーちゃんならそれで押し通せるかもしれないけど、オスカーはそうはいかないと思うぜ」


「何でよ。オスカーってセーちゃんの言いなりなんじゃないの?」


ふと冷静な顔つきになって、リーンはテオに囁くようにして尋ねた。彼は愉快そうな笑みを噛み殺していた。


「どうも違うらしいんだ、これが。オスカー様は怖いぞ」


当のオスカーは何とも言えぬ表情で彼らを眺めていたが、ようやく口を挟んだ。


「全部聞こえてるよ。…まあ、そうだね。僕は認めるつもりはないかな」


「そんなこと言わないでよお!じゃあ、どうやってお願いすれば聞いてくれるの?」


リーンは今度はオスカーの脚にしがみつかんばかりであった。オスカーは一歩退いて、子どもをあやすようにして彼女に答えた。


「どうやっても、駄目」


オスカーは腹立たしいほど完璧な微笑みを浮かべている。リーンは悔しそうに拳を握りしめた。黙って立っていたカイが静かに言った。


「ほら見ろ。もう行こう、リーン」


「やだ」


「もう良いだろ」


「良くない」


セレスティアとオスカーは怪訝そうに顔を見合わせた。テオはじっとリーンの横顔を見つめている。おや、イーサンはどこにいるのだろう?身動き一つ取っていないのか、そもそも屋敷にいないのか。リーンは皆の困惑をよそに続けた。


「だってさ、カイ。あんた、今度こそ死ねるかもしれないんだよ?」


カイの瞳がわずかに揺らいだ。彼はすぐにうつむいた。セレスティアは眉をひそめて尋ねた。


「リーン、どういうこと?」


リーンは立ち上がり、やけに時間を掛けて服の皺を伸ばした。そして誰の顔を見たものかと面々を見回し、最終的にセレスティアを見つめるに落ち着いた。


「…カイはね、何て言うかな、人とちょっと違うんだよね。病気なのかどうかもわかんないんだけど、とにかく…えっと、異常って感じ?ほら、あんたはカイと戦ったからわかるよね?」


と、リーンは視線をテオに移した。


「全力で斬りつけてもほとんど傷がつかなかった…」


「そ。身体が鋼鉄みたいに硬いのに、見た目も動き方もあたしたちと変わらない。からくり人形みたいなもんかな。そのせいでカイは死にたくても死ねないんだ。毒も効かないし、心臓を突こうとしてもできないし、首を吊ったって無駄。元から酸素なんかいらなかったりしてね。…あたし、カイの正しい殺し方を見つけるために旅してるんだ。もちろんお宝を盗み出したりするついでだけどね。あたしが滅茶苦茶やってれば、何かの拍子でカイが死ねるかもしれないでしょ?」


「リーン…」


「いいじゃん、カイ。あたしたちだってセーちゃんの秘密知っちゃったわけだし。これで相殺」


「つまり君は、僕たちに同行すれば目的を果たせると踏んでいるんだね」


「そういうこと。イカれた奴らとドンパチやるなんてうってつけだもん。ま、あたしがぞくぞくしたいっていうのも否定はしないけど。―どう?ちょっとは手を組む気になった?」


リーンは洗いざらい話しておきながら、半ば諦念したような面持ちでセレスティアに目を合わせた。しかしリーンの取った手段は最適解と言えよう。我が王女に弱さがあるとすれば、それは自分ではどうしようもないことに悩まされる人々に対する、この上ない同情心であるからだ。


セレスティアは答えを求めるようにオスカーを見たが、彼は彼女の気質を知ってか、意見を押し通すようなことはしなかった。思うところはあったに違いないが。


「どうするかは君に任せるよ」


「…少し考えさせて」


そこへ、どこに行っていたのやら家主が戻って来た。彼は部屋に入ってくるなり不機嫌そうに言った。


「お前ら、今日はこの屋敷から出て行くんじゃねえぞ」


「は?何で?」


舌打ち。ブリーダーはテオ、リーン、カイをそれぞれ指さしながら怒鳴った。


「何で、だと?お前らが町を駆け回ってたのを見た連中もいるんだぞ!ターメクレンの奴を殺ったのがお前らだと思ってやがる奴らまでいる始末だ!」


「なーに怒ってんの?ほとんど間違ってないじゃん」


ため息。


「…良いか、よく聞け。一連の事件は黒豹とか、その辺のトチ狂った亜人の仕業になる。ミガニカを殺ったのはターメクレンつったが、それもひっくるめて全部別の犯人をでっち上げるつもりだ。だからお前らはとりあえずここで大人しくしてろ」


「ブリーダー、どうしてそんなことを?」


「あいつの企みは明るみに出ちゃならねえ、それだけだ。副学長が裏切ったと知れれば、学院は簡単に崩壊する。何だか知らねえが、存在を知られたらまずいブツもあるんだろ?…俺にできるのは矛先を逸らすことぐらいだからな。―言っておくが、お前らのためじゃねえぞ。自分の居場所を守るためだ」


ブリーダーは大きな咳払いをした。ベッファの攻撃から守ってもらったことへの恩返しの意味も込めた判断だったのだろうが、なんとまあ、不器用な男だ。


「それでも礼を言わなくてはならないわね。感謝するわ、ブリーダー」


まっすぐに目を見据えてそう言うセレスティアを、ブリーダーは言ってろ、とか何とか口の中で呟いてあしらった。こういうわけで、彼らはブリーダーの屋敷にて一夜を過ごすことになったのだった。



 あくる日の朝―というかほとんど昼―のこと、大きく欠伸をしながら昨日いた部屋に入って来たテオは、一人窓辺に立つセレスティアに気付いた。


「よう。何してんだ?」


「あら、おはよう、テオ。何ってほどのことでもないわ。そろそろ手紙が来るんじゃないかと思って」


「手紙?誰から?」


「ジルよ。ルーセチカでの件が落ち着いたら、近況を報告するように言ってあるの」


「ああ、あの侍女の。…でもさ、向こうはあんたの居場所なんかわかんないだろ」


「ええ、彼女はわからないでしょうね」


セレスティアの言葉にテオは疑問を持ったような素振りを見せたが、追究はしなかった。私が彼をそういう男なのだと認識し始めたのはこの辺りからだ。


「そういえばさ、俺ってあんたらのお仲間には入れてもらえんの?」


テオは窓の外に目を走らせながらそれとなく尋ねたつもりだったのだろうが、その声の調子や表情に期待と憂虞が入り混じっているのは瞭然であった。セレスティアはそっけなく答えた。


「手を切るということで話はまとまったはずでしょう」


「それはそれだろ。何なら俺、もう仲間になったつもりだったんだけど」


「早とちりだったわね」


「今日はやけに冷たいな」


「そうでもないわ」


お手上げだと言わんばかりに上を向くと、テオは諦めて部屋を出て行こうとした。セレスティアは振り向くことなくそれを引き留めた。


「ねえ、どうして私たちと一緒に来たがるの?」


「さあ、何でかなあ」


「とぼけるだけならもう行って良いわよ」


「わかった、わかった。―その、何だ、言いづらいんだけど」


テオはわざとらしく頬を掻いて、長すぎるほどの間を取った。彼女は顔だけをテオのほうに向け、急かすような眼差しを送った。テオはようやく観念し、おずおずと言った。


「リーゼルにもう一回会いたいから…?」


「はあ?」


これは希少価値が高い。彼女は滅多にこういう風には聞き返さないし、今のように大袈裟に眉を持ち上げてみせる顔なんかは、最近ではほとんどお目にかかれない。


「いや、待ってくれ。ふざけてるわけじゃないって」


「どうかしらね」


セレスティアはふいと窓に向き直ってしまった。するとテオは何を思ったのか、ずかずかと歩み寄って彼女の肩を引き、そのまま強引に自分のほうを向かせた。そして逃がすまいとするかのように、両肩をしっかりと掴んだ。彼女にそんなことをした人間は未だかつていないというのに。見るがいい、彼女の唖然とした顔を。


「俺は真剣だぜ、セレスティア」


「…そう。それはわかったから、良ければ離してくれないかしら?」


「駄目だね。このまま聞いてもらおうか。いいか?俺はな、あんときのお前がお前じゃないとは思えねえんだよ!お前はオスカーの真似とか言ってはぐらかしたけどな。で、お前が誰にも感謝されないのに必死で戦ってることを俺は知ってる。お前の優しさも、強さも…あと多分弱さも、ある程度は理解してるつもりだ。助けたくないわけないだろ?俺は見たいんだよ、お前が心置きなく笑って暮らしてるところを…。俺の気持ちがわからないとは言わせねえぞ」


テオは返事を期待して口を閉ざしたが、こういうのは順調にいかないのが常である。誰か、いや何かが窓を叩いた。見ると、晴れ渡る空の如き青の翼を折りたたんだ、鷹と孔雀を足して二で割ったような姿の鳥がすぐそこに止まっているではないか。それに気を取られたテオの手を軽く振り払うと、セレスティアは窓を開けてその鳥を迎え入れた。


「良い子ね、ルル」


彼女はその鳥、ルルを優しく撫でた。ルルはクルクルと喉を鳴らして応えた。


「緑碧鳥じゃねえか!さっすが王女様!」


緑碧鳥というのは言うまでもなくその羽毛の色から名前を取っているのだが、兎にも角にも珍しい種類の鳥なのである。どれくらい珍しいかというと、彼女が先ほど発した「はあ?」くらいの代物だ。わからない?それは想像力が足りない証だ。


緑碧鳥は伝書を担うことが多い。というのは、一度でも相手を目の前にしたことがあれば、その人がどんな辺境の地にいても見つけ出すことができるからである。鼻が利きすぎるほど利くのだと言われている。また、顔や名前といった情報を覚えることができるほど賢いとも。そういうわけで、緑碧鳥は気が滅入るほど高値で取引されるのだ。


「ジルが飼っているのよ。偶然見つけたから彼女にあげたの」


「まじかよ、もったいねえの」


「私は手紙を書く習慣がなかったから」


相手がいなかったの間違いだ。


「そういう問題かよ。…ま、いいや。ジリアンは何て?」


促されるまでもなく、セレスティアは手紙を読み始めていた。読み進めるにつれ、彼女の表情は険しくなっていった。手紙を畳むと、彼女は小さくため息をついてから言った。


「…オスカーはどこかしら?」


「あいつなら、さっきは俺たちが泊まった部屋にいたけど」


オスカー、テオ、カイは昨晩三人で寝るには少々窮屈な部屋に放り込まれた。ちなみにリーンとセレスティアは、二人で寝るなら多少のゆとりがある部屋に案内された。セレスティアは他に何も言わずにオスカーの元へ向かった。テオもついていった。扉を開けると、オスカーはイーサンと何か話しているところであった。


「ティア。どうしたの?」


「これを。―イーサン、調べはついた?」


セレスティアは手紙をオスカーに差し出しながら、イーサンを見た。この従順な執事は答える前にテオを一瞥し、私でなければ気が付かないような躊躇いを見せ、彼女が特に気にしていないのを見て取り、やっと報告を始めた。


「ペネロペ・ターメクレンの兄であるリオン・ターメクレンは、未知の病のために学院の研究の一端を担う病院に入院していたのですが、昨日、白昼堂々姿を消してしまったとのことでした。どういうわけか、彼の姿を見た者は一人としていません。院内ではその時間帯に多くの人が行き交っていたはずであるのにもかかわらず。それから彼の病室のくず入れからはこのようなものが」


と、イーサンは丸められた紙をセレスティアに手渡した。おわかりのように、ペネロペが兄に宛てて書いた手紙である。内容は省略。


「これは…」


「我々がこれまでに得た事実に照らして推察するに、ペネロペ・ターメクレンは実の兄と例の道化が仕掛けた罠にまんまと嵌ったのではないかと」


「…ええ、そうね。そうでなければリオンが姿を消した理由の説明がつかない」


「さらわれて別の場所で消されたとかは?」


よく状況を理解していない様子のテオが口を挟んだ。


「ありえない。彼は自分一人では一歩も歩けなかったはずだし、大の男を抱えるなりおぶるなりして誰にも見つかることなく立ち去るなんてできやしないよ」


と、ジリアンからの便りを読み終えたオスカー。彼はセレスティアに目配せした。これは悪い兆候だね、だろうか。


「ねえ、テオ。悪いけれど、ブリーダーに手頃な紙がないか聞いてきてもらえないかしら。返事を書かないと」


テオは愛想のいい返事をする代わりに肩をすくめた。厄介払いなら慣れてるさ。



 テオがブリーダーの書斎―と呼ぶべきかは定かではない―に行ってみると、中からリーンの喧しい声が聞こえてきた。


「出て行くなって言ったのはそっちでしょ!こっちは自分で調達できないからお腹ペコペコだってのに、何でお肉のひとかけらも分けてくれないの!?」


「人の食糧庫に盗みに入る奴があるか!泥棒猫に分けてやる飯なんざねえ!」


「もうよせ、リーン。お前が悪い」


「何、あんたまで!」


「飯がなくても腹くらい満たせるだろ?」


「そりゃそうだけど、そんなもったいない使い方したくないでしょ!」


命さえ消費すれば、理屈の上では食事を取らなくても生きていけるという話はしたことがあっただろうか?とにかく、彼らはそのことを言っている。テオは扉からそっと顔を覗かせた。


「あのー…」


味方についてくれそうな人物が現れたことで、リーンの目はここが勝機と言わんばかりに輝いた。


「あっ、テオ!ね、あんたもお腹すいてるよね?」


「いや、別に」


これは予想外だ。


「ええ!?何で?」


「さっき地下室物色したからな」


悪びれもせずに答えたテオに、ブリーダーは怒鳴るほかなかった。が、その辺りは省略してよかろう。早く本題に入りたまえ。


「この糞がき共が…」


「だー、もう、悪かったって。あとで弁償するからさ。んなことより、紙とかないか?セレスティアが手紙書こうとしてんだけど」


「紙だ?んなもん、ケツ拭く用のしかねえよ」


「うわあ。あんたってほんっと最低」


「てめえは黙ってやがれ」


こいつは参った、とテオが両手をだらりと下げると、廊下からイーサンが顔を出して言った。


「私が買って参ります」


「お!さすが。もうちょっとましな登場ができるようになったら満点だな」


テオの冷やかしを聞き流し、イーサンは影に消えた。



 さて、私にはセレスティアとオスカーの内緒話を盗み聞きする―権利はなくとも―力があるので、存分に振るわせていただこう。ジリアンからの手紙の内容はごく簡単なものであった。


すなわち、ジェローム現国王が軍を編成していること、そしてウィリアムやロイドの進言を一切聞き入れようとしないことである。後者はさておいても、前者の何が問題なのかと思う者もいるだろうが、まあ大したことではない。


かつてルーセチカは隣国ベラディールを滅亡に追いやってすぐ、軍を持たない国に生まれ変わったのである。他国との国交を絶ったのも同時期のことであり、つまりアルフレッド前国王は戦争や交易といった外部との関わりを遮断することで、自身の国を守ることにしたというわけだ。


ルーセチカが軍を持つようになるということは、戦争する気があるというように取ることができるし、たとえジェロームにその気がなかったとしても、他国はそう良い方向には捉えてはくれまい。そのようなことをセレスティアたちは危惧しているのである。


「やっぱり、お兄様は誰かに操られているんじゃないかしら」


「うん。何とかして彼の暴走を止める手立てを考えないと」


「敵を知らないうちはどうにもならないわね…」


厳かな沈黙が走った。テオがまだこの場にいたら背筋を伸ばしていたに違いない。そうして二人揃って考え込んだ後、セレスティアは小さな声で考えを口にした。まるでこれから言うことをすでに後悔しているかのように。


「ねえ、オスカー。こんな言い方はしたくないけれど…彼らはきっと良い手駒になるわよね」


「彼らでなくても、手駒にできるものはあるはずだ」


「一体どこに?カルツァには軍事力はないし、私たちがゾルギックに及ぼせる影響なんてたかが知れているわ。コスタトなんてもっての外よ」


「エッタなら君の意のままでしょ?」


「そうかもしれないけれど、はっきり言って、彼らにはルーセチカを敵に回せるほどの戦闘力はないわ。白狼の歴史は長すぎる。彼らの力はとっくに弱まってしまったのよ。あなただってそんなことくらい知っているでしょう?」


オスカーは否定せずに肩をすくめた。そして独り言のように呟く。


「覆すことができるとすれば、緋眼だけ、か」


「そうよ。まとまった軍隊である必要はないわ。リーンは確実だし、カイとテオは正直よくわからないけれど、使えないわけじゃない。向こうから望んでくれているのなら、私は喜んで利用する。相手の狙いは黄泉忘れの禁…迎え撃つ準備をするだけの時間は稼げるはず」


オスカーは反駁を諦め、表情を固くして頷いた。これでいいのかどうかは二人にはわかるはずもなかった。


まだ見ぬ敵はどれほど大きいのだろう?どれほどの人が彼らに味方してくれるのだろう?カルツァでの一件のように、彼らはほとんど誰も覗き込まない暗闇の中で、守るべきもののためにもがき続けることになるのだろうか?


そもそも”守るべきもの“にどれほど価値があるのか?何故彼らはすべてをかなぐり捨てて平凡に溶け込むことができないのだろう?誰にも頼まれていないし、誰からも感謝されないことを彼らはやり遂げなくてはならないのだ!


ああ、数奇で、甘美で、退屈で、秀麗で、苛虐で、絶頂の我が王女の運命に、どうか幸福と破滅が待っていますように!…などと言おうものなら、彼女はきっと私を睨みつけ、愚かだと切り捨てただろうなあ。残念ながら、彼女はもう私の前に現れてはくれないだろうけれども。

2025.1.19

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