ルーセチカ
ルーセチカ王国の都、アーテルニア。王の住まう塔が中央に高くそびえたち、厳重な警備のもと栄える町を見下ろしている。未来永劫決して廃れることはないだろうといわれていることから、永劫都市と呼ばれるようになった。最近では国自体を指して永劫国家ともてはやす者もいるのだとか。
あながち間違いではない。国王アルフレッドは計り知れないほどの叡智と武力を備えた「傑王」と呼ばれており、国土は広く豊かで、大抵の国民は裕福なのである。どうして滅びゆくこの国を想像できようか?
幸福を求め、顔を輝かせた多くの異国人たちがアーテルニアへとやってきては、入国許可を得られずに表情に影を落として故郷へと帰っていく。国民はまるで外に世界など存在しないかのように暮らしている。
長年住み着いていながら、私はここが本当に妙な場所だと思えてならない。単調で、単調で、単調。変化がないことに安心しきって、ゆっくりと―本当にゆっくりと―年老いていく。平和とはこんなものなのか?
しかし私の人生が退屈なのはこの町のせいではないのだろう。喪失感が心を蝕んでいるだけなのだから。いや、私の話はどうだっていい。私がこのように語り始めたのには理由がある。
というのも、この退屈な世界に、何やら奇妙な風が吹き始めているようなのである。今は木の葉を揺らす程度でしかなくとも、やがて竜巻にだってなりうる風。それに私は身を委ねることにした。かつて私を変えたあの嵐に思いを馳せながら。それは少し前のこと…。
「悪いな、嬢ちゃん」
そう言って男はためらいもなく少女を打った。短い悲鳴をあげて少女が倒れこむ。その頬に伝う涙が月明かりに照らされるのを眺めながら、男は一人語り続ける。
「ここじゃ命がすべてだ。そうだろ?命さえあればいくらでも金が入ってくる。金があれば自由が手に入る。ここまで命に左右される国はほかにねえよ。まさに天国だ。だがな、命ってのは保存がきかねえ。だからこうして調達しなきゃならねえんだ。わかるだろ?」
「私がいなくなったら、きっと誰かが…」
男は大袈裟に笑った。暗い路地裏にわずかにその声が響いた。
「身寄りがなけりゃろくな知り合いもいねえお前を誰が探すってんだ?お前は生きてるだけだ…そんなん、命がもったいないだろ?なあ?だから俺が有効活用してやるんだ。まったく良い商売だぜ!アーテルニアには平和に絶望して煙みてえに消えちまいそうな奴がごまんといるんだからな!そういう連中を殺って売りさばくだけで俺は永遠のような時を生きることができる!」
再び男がやかましく笑った。あたりはしんとしていた。そこは街の東部の多くの店が立ち並ぶ通りで、西部の住宅街からは離れていた。おまけに泥棒などするものはいないと、皆施錠だけして自宅まで帰ってしまうのだ。おかげで昼間は大勢が行き来するというのに、月が出るころには誰もいやしないのである。つまり少女を助けてくれる人などいない。―はずだった。
「素敵ね」
いつのまにそこに立っていたのだろう?男の背後でポツリと呟いたその声の主は頭巾を目深に被っていた。その華奢な手で棍を包むように握っている。男は驚いて振り向き、ありがちな台詞を吐いた。
「だ、誰だ、てめえは!?」
「さあ。教えてほしいくらいだけれど」
そう言って彼女は少し顔を上げた。月を背に、頭巾から瞳が緋く覗いた。それを見て男はさらにたじろいだ。
「緋眼…!」
緋き瞳は持つ者の証だ。持たざる者からしてみれば、その輝きは不気味以外の何ものでもないのだろう。そんな反応など見飽きたかのように彼女は鼻を鳴らした。そして楽しげに、あるいは悲しげに見える笑顔を作って言った。
「さよなら。…貰っていくわね」
それからは一瞬の出来事だった。武器を構えたかと思うと、彼女は相手に逃げる隙も与えずにその頭を叩き割った。その体のどこからそんな力が出てきたのかは想像もつかない。確かなことは、彼女がいとも容易く男の脳をぶちまけ、その返り血を浴びながらも凛と澄ましているということだけだ。ずっとみじろぎもせずにいた少女はへたり込んだまま、絞り出すように言った。
「…天使様みたい」
彼女は少女に一瞥を与えると、何も言わずにその場を去った。闇夜に、いや、月光に溶けるように。
あくる日、少女は数少ない知人に"天使"の話をして回ったが、当然のことながら誰にもまともに取り合ってもらえなかった。私が名も知らぬその少女はどうやら厚く天使を信仰していたようで、昨夜の救世主をそれに見立てることにしたらしい。
少女の話を聞いた人々は皆、死神の間違いじゃないかと笑った。あの凄惨な現場のことを知らない者はいなかったので、そう思うのももっともだった。しかしそう言われる度に少女は答えた。
「そんなことないの。すごく綺麗だったんだから」
2025.1.7