落ちるが尋常
黄泉忘れの禁。私もその呼称は初めて聞いた。というのは、我が全智の力をもってしてもこの禁忌には触れることができなかったからだ。かつては幾度となく詮索を試みたものだが、その度に猛烈な眩暈―または、もう二度と起き上がれないかもしれないという恐怖―に襲われ、ついに断念したのだった。もし無理に知ろうとしていれば、今頃とっくに緋染して、彼女の軌跡を追うこともできていなかったことだろう。
だから今回は幸運だった。偶然にも禁忌の名を耳にするなんて!だがやはりその実態は知れない。黄泉忘れ…きっと死者蘇生に纏わる何かなのだろう。天使アストルが唯一残さなかった力なのだから、禁忌とされていても不思議ではない。
しかし推察するに留めよう。私のような庶民は、知りすぎてはならない。
「おい、イーサン。どこまで行く気だよ?あんま時間ねえぞ」
「承知しております。ご心配には及びません、こちらが目的地ですから」
イーサンが足を止めたのは、古びた納屋のような建物であった。かつては立派な母屋があったに違いないが、今ではだだっ広い敷地にその瓦礫が散乱しているだけの寂れた空間に唯一建っているのがそれであった。イーサンは荒っぽくその戸を叩いた。中から誰かがしゃがれた声で怒鳴った。
「なんでい、おれぁいねえぞ」
「死にたくなきゃ出てくることだ、ロブ」
イーサンが柄にもなくどすの効いた調子で返すと、今度は物とごみでできた川を大慌てでせっせと渡ってくる音が聞こえてきた。やがて軋みながら戸が開き、異臭が辺りに漂った―のはテオとリーンの顔つきでわかった―。そして中から瘦せこけた髭面の男、ロブが顔を出した。彼はイーサンの顔を見るなり両手を上げてやかましく騒ぎ始めた。
「どっひゃあ!ほんとのほんとにイーサンでねえか!おめえはもう足洗ったんだど思ってたぞ。今度は何盗んで―」
イーサンの後ろに立っていた三人は思わず顔を見合わせた。ただの執事だと思っていたのだから無理もない。その執事は話を遮り、引き続き悪人然とした態度で言った。
「聞け、ロブ。俺は今ターメクレンという奴を探している。どこにいるか知っているな」
「あんの学院の偉い嬢ちゃんだろ?そりゃあ知ってるわあ、有名だかんな」
「彼女の居場所を言え」
ロブは目を泳がせた。指をひっきりなしに動かしている。
「んだけどよお、他人のことに口出ししねえのが―」
「俺は急いでいるんだ、ロブ。わかるな」
イーサンに鋭い目つきで睨まれると、ロブはあっさりと引き下がった。
「あーあ。おめえに言われちゃ敵わねえさ。…ようし、わかった。教えちゃる。その代わり―」
「お前から聞いたってことは誰にも言わない」
「話が早えや。―あの嬢ちゃんはここんとこ、街の右側のほうをうろついてるんだと。何してるかまでは知らねえ」
方位という概念はこの男に存在しないのか。
「右だと?どこから見て?」
「右ったら右でい、あんのブリーダーの奴がいるとこさ」
「知らない名だな。他にはないのか」
イーサンは呆れたように首を振った。が、今回ばかりはさすがのテオでもピンときたらしい。
「待ってくれ。ブリーダーなら知ってるぜ」
イーサンは訝しげに振り向いた。テオが得意満面で後ろにある路地裏を指さしている。
「ほら、俺とセレスティアを買おうとした野郎だよ。こっから遠くなかったはずだ。ぎりぎり道も覚えてる」
「そういうことなら、あなたについていきましょう。―ロブ、助かった」
「おーおー。また来ると良いさ」
それだけ言うと、ロブは早々に戸を閉めた。この間ずっと鼻をつまんでいたリーンは、ようやく手を離して深く息を吸い込んだ。
「もー、臭すぎ!絶対お風呂も入ってないし、掃除もしてない!」
「あまり大声で言うことじゃないぞ」
「うるさいなあ。あんたは良いよね―」
「こんなとこで喧嘩すんなって。早いとことっちめに行こうぜ!」
テオは気合十分といった様子で歩き出したが、それも束の間、背後からの不自然な風に足を止めた。見ると、イーサンが手にした緋石を懐に戻すところであった。
「風…ってことはそれ、セレスティアの?」
「はい。こうしておけばあの方の道標になりますから」
「へえ。そういうもん?」
「どこか遠くから自分の声が聞こえるようなものだそうで」
「そっか。だったらあいつらのためにも急ぐとするか!」
「イーサンだわ」
セレスティアは呟いた。二人は階段を登り切ったところで巡回していた守衛の目をなんとか欺き、傍にあった建物の屋根の上に立っていた。それは良かったものの、そう容易くペネロペに追いつけるはずもなく、打つ手なしという状態にあった。カルツァ中を歩き回って探すとなれば、丸一日で済むかどうかわからないのだ。
空から探そうかなどと言い出したオスカーを説き伏せながら―そんなことをすれば騒ぎになるに決まっている―、セレスティアはまさにイーサンからの便りを待っていたのであった。手をこまねいていたオスカーは安堵の表情を浮かべた。
「ペネロペを見つけたのかな」
「どうかしら、移動しているみたいだけれど。とにかく、彼のところに行ってみましょう」
セレスティアは特別説明も寄越さずにオスカーに緋石を手渡した。何、緋石の登場が多すぎる、と?それくらい便利なのだから仕方ないだろう。それに使っているのは私でなく彼らだ。オスカーが肩を回しながら尋ねた。
「こっちの方角?―距離は?」
「あの小さな煙突のついた赤い屋根を越した辺りね。届く?」
「うん。問題ないよ」
オスカーは緋石を放り投げた。それは彼女の指さした赤い屋根をはるかに飛び越え、地面に落ちて粉砕することで二人を着地点へと誘った。改めて考えても、『統隙の緋』は用途が多い。ジスレーヌが巨額の富を築いたのも納得だ。
さて、二人が降り立った場所というのが、幸運にも―それが幸運だったとは二人はまだ知らないのだが―とある男の目の前だった。見事な調整だったと、オスカーには拍手を送りたいところだが、男はその代わりに耳を塞ぎたくなるほど大きな驚嘆の声を浴びせた。突然人間が現れたのだから仕方ないか。その声に驚いたオスカーは目を丸くして彼の顔を見た。
「…びっくりした、ちょうど人がいるなんて」
「こっちの台詞だ、此畜生!」
「そうだろうね。驚かせてしまって申し訳ないよ」
男は何やら小声で悪態をついている。面と向かって罵声を浴びせる気にはならなかったようだ。セレスティアは首を傾げて彼を見つめていたが、やがてそれが何者であるかに気が付き、片眉を上げて微笑した。
「こんにちは、ブリーダー」
「ああ?誰だ、お前?」
「物忘れが早いのね。それとも、鼠のことなんていちいち覚えていられないのかしら」
やや間があって、ブリーダーは彼女のことを思いだしたように目を見開くと、わずかに後退った。
「お前、あのときの…!―待て、何だその瞳は?いくらカルツァでも、王族を騙るのは重罪だって知らねえのか!?」
今の彼女が与える情報量は、明らかにブリーダーの脳の容量を超えていた。セレスティアは厄介そうに顔をしかめた。
「…別に偽物じゃないわ」
「何を―」
黙ってやり取りを聞いているオスカーは、もちろんすでにブリーダーのことを彼女から聞いていた。その内容を思い出したのか、閃いたように言う。これ以上余計な方向に話が進んでほしくなかったのかもしれない。
「ねえ、ティア。彼ならペネロペがこの辺りに来たかどうか知ってるんじゃない?」
「そうね。―ブリーダー、ペネロペ・ターメクレンを見なかった?」
「ターメクレンだと?…見てねえよ。んなことより―」
「本当でしょうね」
腕を組んだセレスティアに見上げられると、ブリーダーは委縮したのを誤魔化すかのようにがなった。
「うるせえ!大体なあ、人の縄張りに入り込んどいて―」
可哀想に、ブリーダーはこの日言いたいことを言い切れない運命にあったらしい。初めはオスカーに、次はセレスティアに、極めつけには予期せぬ襲撃に阻まれ、ブリーダーは口を噤まざるを得なかった。とはいえ、命が助かったのは幸運だったと言えよう。さらに言えば、セレスティアが傍にいたことが。彼女は襲撃者の突然の訪問を察知し、見事にその奇襲を受け止めてみせた。
「道化師…!」
道化師は張り付けたような笑顔を浮かべながらブリーダーの首を狙っていた。彼女と目が合うと、さらに目尻を下げ、そして消えた。
「おい、何だってんだ!?」
「しっ!いいから、下手に動かないで」
オスカーは神経質に辺りを見回した。ブリーダーの屋敷の前の路地はそれなりの道幅があったが、掃溜めの名に相応しくも殺伐とした雰囲気を醸し出していた。隠れられそうなところは無いに等しい。セレスティアが唐突に後方に棍を振るった。惜しい。道化師には当たらない。
しばらくの間、道化師はそのようにして彼らをからかった。ようやくそのふざけた意図を察すると、彼女は諦念して武器をしまい、じっと待ち構えることにした。するとどこからか、満足げな表情の道化師が現れた。彼はくすくすと笑いながらも恭しく一礼した。
「アタシはベッファ。やっと会えて、嬉しい!」
「…私もようやく黒幕に会えて光栄だわ」
セレスティアに睨みつけられるほどに、ベッファは愉快そうに身体を揺すった。
「そんなに怖い顔しないでほしいなァ。オイラは良いことを教えに来たんだァよ?」
オスカーは金色の瞳を冷ややかに投げかけており、その鋭さといったら今にもこの道化の身体を引き裂かんばかりだった。だが、彼は押し黙っていた。セレスティアも何も言わない。ベッファは勝手に続けた。
「お前たちの後ろにいる奴はァ、ターメクレンの協力者なんだァよ!嘘吐き!嘘吐き!」
ベッファは文字通り腹を抱えて笑っている。オスカーだけが振り向いて、ベッファに向けたのと同じ眼差しをブリーダーに向けた。ブリーダーは慌てて弁明し出した。
「ち、違う!誤解だ!」
「また嘘吐いたんだァね!誤解じゃないよ!今からターメクレンが来るんだァよ!」
「本当かい、ブリーダー?」
オスカーの問いかけに対して、ブリーダーは死にかけの魚の如く口を開閉してみせた。それは何の意味も成さない。セレスティアはそんな彼には一瞥もくれず、ただベッファを見つめている。ある種の好奇の眼差しで。
「ベッファといったわね。あなたの目的は何?」
「アハハ!教えなァい!」
そう言い残し、ベッファは再び消えてしまった。もう姿を現す気はないのだろう。セレスティアはもどかしさに唇を噛みしめ、やがてブリーダーに向き直った。その顔つきが表すところは軽蔑に近かった。
「説明してくれるわね」
ブリーダーは堰を切ったように話し始めた。とあるものを受け渡せと言われたこと、渋ると学院のためだと説得されたこと、ブツについては何も知らないということだけだったが、その淀みようは裏があると疑われても仕方ないほどであった。セレスティアとの交渉があった日の夜の出来事だったとブリーダーは強調した。
話が終わるとセレスティアの瞳は鮮烈に輝き出した。まるで怒りに震えているかのように。ブリーダーは死を覚悟して目を瞑ったが、その予想は外れていた。
「彼女だわ」
ブリーダーが困惑して目を開けたときには、あの凍てついた瞳はすでに他所に向けられていた。その目線の先、体格によっては通ることのできないほど狭い路地裏から、お待ちかねのペネロペがひょっこり顔を出す。
ペネロペの目は取引相手と、その横に立つ最も会いたくなかった二人を捉えた。最早彼女は逃げもせず、走り回ってくたびれたといったような面持ちで三人に近寄ってきた。
「…お早いお着きで」
「話はブリーダーから聞いたわ。ペネロペ、もう諦めて」
「諦める?いいえ、それだけはできません。あなた方がどれだけ邪魔立てしようとも、ね。…ああ、その顔。理解できないのでしょう?構いません。私はなすべきことをするだけ。―さあ。手筈通り、これをあの人に渡しなさい」
ペネロペは平然と例の本を取り出し、ブリーダーに差し出した。ブリーダーはペネロペを、続いてセレスティアを見、後退りしてうなだれた。苛立って距離を詰めようとしたペネロペの前に、オスカーが立ちはだかって言った。
「よくも抜け抜けと。黙って見逃すと思った?」
ペネロペは首を傾げながらオスカーを見上げた。その瞳からは敬愛の念が消え去っている。
「残念です、オスカー様。かつてのあなたは決して挫けぬ意志を持っていた。あなたの中には、確かに”あなた”が存在していた。それなのに今はどうです?こちらの王女様に付き従うだけではありませんか。ああ、本当に残念です。あなたは彼女の付属品に成り下がってしまった!意志を持たないがらくたに!」
かつての聖騎士は答えない。ペネロペは血走った眼で笑みを浮かべている。
「お気付きではないのかもしれませんが、この正義を気取った王女様は、私を殺す気なんてさらさらありませんよ?痛む心があるとでも言うつもりなんでしょうね。あなたのことです。すでに私のことを話してあるのでしょう?それなら、私がどうしてこんなことをしているのかもおわかりのはずです。
…ね?オスカー様、彼女は私を止められないのです。ほら、早くどいてください。あの愚かな学長のようになりたくないのなら」
現にセレスティアは微動だにせず、絵画を眺めるようにペネロペを見つめていた。オスカーは悲しげな表情をしていて、旧友を殺してまで止めようとしているようにはとてもではないが見えない。無抵抗のエイデンを躊躇いもなく殺害したペネロペの気が大きくなるのも、もっともだと思う。
だがそれは大きな過ちであった。ペネロペは知らなかったのだ。オスカーがいかに冷酷であるかを。熱情は時に氷の如く突き刺さるものだ。
「…残念だよ、ペネロペ」
竜の爪が肉体を裂き、貫く。吐血。
「君は間違っている。彼女は正義なんかじゃない。邪道でもない。君を裁くつもりも、君から奪うつもりもなかった。それに―」
裂傷を負った肉体は地面に崩れ落ちる。手のひらが緋く汚れる。血溜まりが世界を彩っている。
「僕には意志がある。彼女の代わりに悪に堕ちるだけのね」
「オ…カー…さ…」
「お別れだね、ペネロペ」
とどめ―首は辛うじて繋がっているが、最早再生は叶わなかった。ペネロペ・ターメクレンはこのようにして旅立った。
セレスティアはペネロペの手から落ちた本を穢れる前に救出した。そしてただ緋き世界を見下ろしている。血に塗れていない手で、オスカーが彼女を抱き寄せている。遅ればせて到着したテオたちは、この恍惚とする光景を目の当たりにすることとなったのであった。
2025.1.16




