目指すは崖上
時に諸君は、人並外れた我が王女の戦闘力について首を傾げたことがあるのではないだろうか。いくら彼女の肉体がこの上ないほど引き締まっていても、あのような芸当―例えば棍一振りで人間の頭を砕くとか―は到底なせるものではない。
では何故、彼女はそれを平気でやってのけるのか。鍵はもちろん彼女の『風斬の緋』にある。そもそも風を操る緋は、ルーセチカ王家に―言い換えると、紫苑の瞳を持って生まれた者に―代々伝わる能力だ。そしてこの風を操る修行として彼らが習得する技こそ、彼女の、いや彼らの強さの秘密なのである。
その技は『纏風』と呼ばれている。文字通り、風を纏う技だ。これを会得することで、放つ一撃に重みを加えたり、見もせずに周囲を窺ったりと、まあ要するに彼女のしていたことの大半に説明がつくというわけだ。
しかし汎用性が高い分、習得には困難を極める。そのため風の緋を持って生まれた者は、物心がついた頃には厳しい鍛錬が始まっているのだとか。彼女の場合はそうではなかったが。鼠闘を懐かしむような王族など、普通ならいないだろう?
ペネロペはほくそ笑んだ。ようやく手に入れた。長かった…。これが、聖女によって禁じられた術の封印を解く鍵の一つ!まさか本だったなんて。まあ、いい。これで私の役目は終わる。さあ、あの人の元に急ごう。あの二人もきっと大した足止めにはならないだろうから。
ペネロペは踵を返し、気が付いた。段々と迫ってくる足音に。ちょうどあの長い階段を駆け下り終わったところか。ご苦労なことだ。残念ながら、出口は一か所しかない。どうやら彼女と鉢合わせるのは避けられないらしい。ほら、来た。扉を勢いよく開け放って―。
「追いついた…!」
「ああ…やっぱり。あなたはここまで追ってくると思っていましたよ、王女様?」
落ち着き払い、大胆にも笑顔を見せたペネロペを、セレスティアは険しい表情で見つめた。
「…知っているなら話は早いわね。その手に持っているものを渡して、即刻立ち去りなさい。それを手にするに相応しい人間なんていないのだから」
「大袈裟ですね。たかが『黄泉忘れの禁』ではありませんか」
「たかが、ですって?あなたは事の重大さがわかっていないのよ、ペネロペ」
セレスティアは怒りに震える拳を握りしめたが、一歩も裏切者に近づこうとはしなかった。エイデンに起こった惨事を思い出してのことだろう。ペネロペが苦り切って吐き捨てるように言う。
「いつの間に私に教えを垂れる立場になったんですか?随分偉くなったものですね」
「…気に障ったなら謝ります。ですが今はそんなことを言っている場合では―」
「ああ、お気遣いは不要ですよ。あなたの慇懃無礼さには虫唾が走るので」
あなたにはそう見えるのか、ペネロペ。愚かな教師もいたものだ。セレスティアは暫し口を噤み、改めて口を開いた。
「そう。―どうして、こんなことを?」
「どうして?さあ、私にもわかりません。もうどうでも良くなってしまいました…」
「自棄になるなんて、あなたらしくもない」
そう呟くように言ったセレスティアの瞳は悲しげにペネロペに向けられている。しかしペネロペはその憐憫を撥ね退けるように、突如として叫んだ。
「私の何を知っていると言うのですか!王女様にはわからないでしょうね!私がどんなに惨めな思いをしてきたかなんて!…そうだ、せっかくだから教えておいてあげましょう。大玉に乗ってしまった…乗るしかなかった人間について。彼らはどうすると思いますか?
―簡単ですよ。落ちないように足掻くだけ!落ちたらいよいよ玩具ですらなくなってしまうから。それでも結局、地面に落っこちるんです。…見捨てられるのが落ちなのよ、私みたいな恵まれない人間はね!わかるわけない、あなたなんかに!」
それはいつか見た自虐に似ていた。案外気が付かないものだ。ひどく遠いところを綽々と歩いているように見える人間が、実は同じような道を歩んでいたなんてことには。
「そうかもしれないわね。私はあなたがどんな境遇で生まれ育ったのかは知らないから。…でも一つだけ確かなことは、それが原因に過ぎず、理由にはならないということよ。あなたがしていることは、決してまかり通らない」
「へえ、そうなんですね。―それで?有難いお説教は済みましたか?残念ですが私、そろそろ失礼しなくては。あの人が待ってる…」
嘲笑気味にそう言ったペネロペは、手にしていた本を左腕でしっかりと抱えた。その言葉にセレスティアははっとして、ついに一歩戸口から踏み出した。
「あの人?道化のこと?」
「あなたに関係あります?」
よもやペネロペ相手に不覚を取るとは!ペネロペはセレスティアの警戒が緩んだ一瞬の隙を突いて何かを宙に投げ出し、その手で目を覆った。突然二人のいた部屋は光に満たされ、というよりは蹂躙され、セレスティアは立ち眩んだ。小賢しき裏切者は、それを横目にその場を走り去った。
さて、その頃にはリーンは床に倒れかけていて、テオも決して断つことのできない肉体を前に消耗しきっていた。カイもまた疲れが出てきているように見える。一人涼しげな様子のオスカーに最後の一撃を喰らい、リーンはとうとう気を失った。随分粘ったほうだ。オスカーは即座に彼女の傷を癒し始めた。
「そっちの二人はいつまでやり合うつもりなの?」
澄ました顔で尋ねる彼に、テオが息も絶え絶えに答える。
「そんなん…俺が聞きたいっつの…」
「…同感だな」
ため息交じりに同調するカイをテオは睨みつけた。
「何だよ、お前が攻撃してこなけりゃ良いだけだろうが!」
「お前こそ、ここを通ろうとしなければ良いんだ」
一足す一が二であるのと同じことだ。カイはそう言いたげな眼差しをしていた。テオは納得がいかないのか、そもそも理解できないのか、助けを求めるようにオスカーを見た。ちょうどリーンの治癒が済んだオスカーは、微笑んで二人に手招きした。
「こっちに来て座ったら?」
二人は暫し目を合わせ、お互いに戦意がほとんど残っていないのを了解すると、大人しく提案に従った。リーンが目を覚ます。
「…あれ?うわ、あたし、気絶したのか。最悪…でも、どこも痛くない。ひょっとして、傷治ってる?あんたがやったの?」
リーンは自分の身体を隅々まで調べると、オスカーのほうに身を乗り出しながら言った。竜が微笑すると、彼女は花が咲いたように顔を輝かせて礼を言った。この無邪気さといい、普段の奔放振りといい、本当に子どものような娘だ。どんな道のりを歩んできたのか気になるところだが。
「なあ、オスカー。様子見に行かなくていいのか?」
テオがセレスティアの向かったほうを顎で示しながら言った。
「ティア?…どうかな。大丈夫だと思うけど」
「ふーん。心配じゃねえの?」
「そりゃ心配だよ。でも僕が余計な手出しすると良い顔しないからさ」
オスカーは表情を曇らせた。確かにセレスティアは何事もできうる限り自力で解決しようとする節がある。頼んでいないことをされると、自身の力量を見くびられている気分になるらしい。そういう点では、彼女もまだ幼いと言えよう。リーンが横から口を挟んだ。
「絶対見に行ったほうがいいよ!あの人、すっごい狡賢そうだったもん。ね、あんたもそう思うでしょ?」
と、リーンはカイを見やった。カイは腕にうっすらと付いたいくつもの切り傷―つまりテオの悪戦苦闘の証―を眺めており、彼らの会話はほとんど聞いていなかったと思われる。頬を膨れさせた相棒に肩を叩かれ、ようやく顔を上げた。そしてまるで部外者であるかのような面持ちで聞き返す。
「だーかーら、あの依頼主!嫌な感じだったよねって」
「…ああ。少なくとも善人じゃないだろうな」
オスカーはますます暗い顔をして俯いた。もう彼が知っているペネロペではないという現実を前に、持ち前の太陽の如き明朗さも今は陰に隠れてしまっている。これでは月も暗闇に堕ちるというものだ。オスカーはしばらく考えた後に、ゆっくりと腰を上げた。
「ちょっと、見てくるよ」
「おう。ここで待ってるぜ」
そう送り出すテオに曖昧に頷き返すと、オスカーは足早に歩きだし、数歩で止まった。何かに意識を集中させている。ティアじゃない。呟いたオスカーははっとして振り向き、叫んだ。
「伏せて!」
猛然と階段を駆け上がってきたペネロペは、再び緋石を投じた。敬愛する聖騎士が少し手前に立っていて、奥に三人座り込んでいるのが見えた。あの二人は思った通り役立たずだったわけだ!オスカーの警告のせいで、誰もまともには閃光を喰らわないだろう。しかしそれでもひるませることくらいはできる。
ペネロペはその隙にオスカーのいないほうへと曲がり、本棚の合間を縫って逃走した。テオもリーンも、間一髪で目くらましを喰らわずに済んだ。カイは何故か平然としている。オスカーは珍しく悪態をついてから、再び声を張り上げた。
「彼女を逃がしちゃ駄目!」
そしてオスカーはたった今ペネロペが登って来た階段を、彼女に負けぬ勢いで降り始めた。テオは慌てて立ち上がり、遠のいていく足音を追って駆け出した。リーンが嬉々として立ち上がり、カイに向かって言った。
「ね、あたしたちも追いかけよう!」
「どうにかして断りたいが、無理なんだろうな」
「わかってるじゃん。ほらほら、早くしないと見失っちゃうでしょ!とりあえず一階まで飛び降りないと」
「ここ、三階だぞ。そんなことしたら床が割れる」
「いいよ。あたしの家じゃないもん」
そう言うと、リーンは躊躇いもなく手摺を乗り越えた。カイは仕方なしにそれに続き、数秒後、凄まじい衝突音が図書館中に響き渡った。ちょうど階段から姿を現したペネロペは思わず飛び上がったが、二人の姿を見つけるが早いか一目散に出口まで走っていき、勢いよく扉を開け放って外へと飛び出した。不自然なほどに慌てている副学長を、外にいた守衛は唖然として眺めた。ペネロペは咄嗟にこう言いつけた。
「侵入者です!彼らを捉えなさい!」
そういうわけで出口前で合流した三人は、警棒を構えた数名の守衛と鉢合わせることになったのである。テオは何故か隣に立っている二人に恐る恐る尋ねた。
「なあ。お前ら、俺に味方してくれるってことで合ってるよな?」
「うん、そのほうが楽しそうだもん!―ほら、カイ!邪魔者なんかぶっ飛ばしちゃえ!」
「…はいはい」
いかにも面倒くさそうに返事をすると、カイは片腕を振り回して易々と敵をなぎ倒した。そして行くぞ、と一言。リーンは興奮した様子でその肩に飛び乗った。テオは腕の一振りの威力に茫然としてなかなか動き出さない。走り出しかけたカイは苛立ったように戻ってきて、テオを抱え、今度こそ走り出した。一日に二度も小脇に挟まれる男がいるとは。
「おい、何すんだよ!自分で走れるって」
「暴れるな。いいから大人しくしてろ」
図書館に続く大通りではもちろんそれなりの人数が行き交っているわけで、この異様な三人組に視線が集まることと言ったらこの上ない。テオは恥やら何やらでぶつくさ文句を言っていたが、諦めて脱力した。カイは人々が飛び退いてできた隙間を抜けて道を下っていく。
「あっ、見つけた!右、右、右!」
カイという名の高台に登っているリーンが人混みの中を指さして叫んだ。その右の通りというのが商店通りに繋がるものだから、どこにも増して混みあっている。ペネロペとて間抜けではないので、人の多いところを抜けようとするのは当然だ。カイは舌打ちして、暫し躊躇してから人の群れに向かって怒鳴った。
「どいてくれ!」
効果は抜群だ。人波が割れ、カイは少なくともペネロペよりは快適に走っていった。が、やはり長年この街で暮らしているペネロペに地の利があったらしい。商店通りまで駆け抜けた三人は、いつの間にか彼女を見失っていた。
「あれ!?おかしいなあ、さっきまで追いつけそうなところにいたのに」
「まじか…あー、何とかして見つけ出さねえと絶対オスカーに怒られる!」
テオは降ろしてもらうと、頭を抱えてそう言った。ペネロペが何を盗み出したかを知らない彼にとっては、文句を言われることのほうが苦痛らしい。カイがテオに尋ねる。
「そういやあの女、何をしでかしたんだ?学院の偉い奴だったはずだが」
「知るか。セレスティアに聞いてくれ」
「えー、知らないんだ。面白くないの」
「言ってる場合かっての。とにかく探すぞ」
「でもどうやって?」
「さあな。何か考えてくれ」
「…少なくとも学院には戻らないだろう。というか、十中八九掃溜めのところに行くはずだ。問題は―」
「それがどこかわからない、か」
一口に掃溜めと言っても、それはあくまで流れ者が集う場所の総称であって、一か所に固まっているわけではない。その上、それぞれが移動、合併、消滅などをしないとも限らない。結果的に、掃溜めの人間ではない者が掃溜めで人探しをするのは困難を極めることになる。伝手がない限りは。
「お困りですか」
「うわっ!…って、イーサンじゃねえか。こんなとこで何してんだ?」
「用が済んだので皆さまを探していたところ、何やら騒がしかったのでもしやと思い。―そちらのお二人は?」
イーサンがリーンたちに目を向ける。見知らぬ人間を明らかに訝っているようだ。リーンは待ってましたと言わんばかりに胸を張った。
「あたしはリーン!こっちのでかいのはカイだよ。その人とはさっき仲良くなったの。名前は知らないけどね」
と、テオを親指で示した。確かに彼らはお互い一度も名乗っていない。イーサンは真偽を確かめるようにテオを見た。テオは肩をすくめた。
「間違ってないぜ。悪い奴らじゃなさそうだから、心配すんな。―あと、俺はテオだ。余裕あるなら覚えといてくれ」
「テオ?わかった、よろしくね!」
リーンが溌溂と言い、カイは頷くだけで済ませた。イーサンはひとまずよそ者のことは後回しにすることにしたようだ。
「…それで、一体何故こんなところで立ち往生しているのですか」
「それがさあ―」
テオが粗削りに事情を説明すると、イーサンは早くも状況を飲み込んだと見える。踵を返しながら言った。
「そういうことでしたら、ついてきてください。私に考えがあります」
「ティア!」
例の隠し部屋にたどり着いたオスカーは、よろめきながら壁に手をついて立っているセレスティアを見つけた。
「…オスカー?私のことより、ペネロペを追わないと…」
「わかってるよ。テオが追ってる。―ティア、座ったほうが良いんじゃない?」
「平気よ。大分眩暈も収まってきたから。…まさかエイデンの緋石を盗んでいたなんてね。油断したわ」
セレスティアは支えようとするオスカーの手を逃れ、戸口の反対側の壁までおぼつかない足取りで移動した。手探りでその壁のあちこちを検める。
「何探してるの?」
「この辺のはずなのよ。―あったわ」
セレスティアは目の前の何もないように見える箇所を強く叩いた。すると、あら不思議。何の変哲もない石壁が音を立てて動き出し、地上へと繋がる階段が現れたではないか。
「…とんでもない仕掛けだね」
「ええ。彼女が知らなかったようで助かったわ。…さあ、遅れた分を取り戻しましょう」
つい先ほどまで立っているのがやっとだったとは思えない機敏さで階段を登り始めたセレスティアを、オスカーは安堵の眼差しで眺め、後に続いた。
2025.1.16




