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その瞳には、毒がある  作者: 小娘
その娘、暗躍する
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溺れる者は

カルツァ学院学長、エイデン・ミガニカ。彼はここ二百年の間ずっと学長の座に就いている。しかし彼が引退しようとしないとか、そういうわけではない。ただ、彼に勝る人物がカルツァに現れないというだけのことである。


長いこと金眼の研究に没頭しており、金眼について下手なことを言おうものなら、彼の書き溜めた研究報告の写しを丸ごと押し付けられかねない。その上、考えだしたら止まらない性質で、平気で丸三日ほど研究室に引きこもることもある。


面倒と言われれば面倒な人物ではあるが、やはりその知識量には感嘆せずにはいられない。金眼のみならず、緋眼研究も彼の庭で、さらに聖女クレアと天使アストルの生きた時代―一般に創世期と呼ばれている―についても精通している。


彼は幸運にも、聖女と共に旅をしたと言われる人物、エドガールの子孫であったため、彼の残した記録を頼りに創世期の多くの謎を解き明かしたのである。しかしきっと彼も、クレアの手記を喉から手が出るほど欲していることだろう。


エドガールと言えば、アストルから光を操る力を賜ったとされている―『光を求めんとすれば、カルツァに教えを請え』と言われる所以である―が、子孫のエイデンも『光包の緋』という能力を持っている。実践には不向きだが、彼は幼少期その力を夜な夜な読書をするのに使っていたようだ。



 夕方、二人は学院に赴いた。もちろんテオには黙って。わざわざ伝える義理はない。念のため、イーサンには彼の見張りを頼んであった。さて、彼らが当然の如く学院に入れるかというと、そういうわけではなかった。


「ミガニカ先生にはどなたも面会することができません」


二人の身分を知る者はいないし、言ってみたところで信じてはもらえまい。だからセレスティアは守衛の女性にこう伝えた。


「セレスティアという人が来ている、と伝えていただけないでしょうか」


守衛は困ったような顔をしてオスカーのほうを見た。彼はとびきりの笑顔を返した。守衛はますます困惑した。躊躇ってから―実際はすでに腹を決めていたに違いない―、彼女は学長にその旨を伝えに行った。駆け足で戻って来た彼女は丁寧に一礼した。


「先ほどは大変失礼いたしました。学長室にご案内いたします」


目的の部屋に着くと、守衛は再び礼儀正しく一礼し、立ち去った。


「学長は相変わらずの出不精みたいだね」


オスカーは扉を見つめた。それは簡素そのもの―言い換えればぼろぼろ―である上に、位置からして、明らかにその部屋が小さいことを示していた。


「きっとそのせいで、ここだけ部屋の改築ができていないんだわ」


セレスティアはそう言いながら扉を叩いた。返事はなかった。二人は目を見合わせてからほぼ同時に肩をすくめ、扉を開けた。エイデンは机の前に座っていて、何やら熱心に書き込んでいた。オスカーは咳払いをした。しかし彼には届かなかった。セレスティアは一般的な声量で彼を呼んだ。しかし彼には届かなかった。セレスティアはついに机の前まで行き、少し屈んで言った。


「ミガニカ先生!」


ようやくエイデンは顔を上げた。


「久しいですね、セレスティア」


彼女は包帯を取り去った。そこには、郷愁のような何かに煌めく紫苑の瞳があった。


「ええ…本当に」


「ふむ。立ち方が当時とまるで変わっていませんね。それにその髪。珍しい色ではないとはいえ、一目であなただとわかる。不思議なものですね。ああ、エイデンで構いませんよ。当時のように。かつても今も、僕は大した人間じゃありませんからね。


それで、隣にいるのが聖騎士のオスカーでしたね。一度お会いしたと記憶しています。懐かしい限りです。ああ、言わずともわかりますよ。竜殺しの英雄、といったところでしょうか。まさかあの後に別の人物が聖騎士の称号を賜るとは思いませんでした。


まったく、これだから無知は困ります。あの竜は明らかに蜥蜴からの派生で、つまり何者か、大方子どもでしょうが、それが禁忌を破ったために誕生したわけです。したがってもしあの竜を打倒したならば、それは畢竟、竜の力を受けた金眼の降誕を意味するのですが、連中は人間が金眼として生まれ変わる際に仮死状態に陥るということを知らなかったのですね。


そして君が竜と相打ったと思い込み、早々に君を天へと送ろうとした…嘆かわしいことです」


エイデンはようやく言葉を切った。そして改めて、セレスティアとオスカーを頭からつま先まで観察した。彼の新緑の瞳―よくある瞳の色だが、エドガールの子孫であることを二重に裏付けるものだ―にほんの一時だけ親愛の色が浮かんだ気がする。エイデンは目を閉じてゆっくりと首を回した。


「それで、一体何の用で…ああ、ひょっとして、事件の詳細を聞きに来られたのですか?」


エイデンは次に目頭を揉んだ。彼は疲れていなくてもこういう仕草をする。セレスティアは迷いを隠すことなく、オスカーとエイデンを交互に見た。オスカーが代わりに口を開いた。


「おっしゃる通りです、学長。あなたなら何があったかよくご存知でしょう」


「待って。無理強いする気はないの。私たちが口を挟むことではないのかもしれないし」


慌ててそう付け足したセレスティアを、エイデンは呆気にとられた表情で見た。何の冗談だ、と顔に書いてある。


「むしろ、あなた方が口を挟むべきことだと思いますよ。何しろ、『黄泉忘れの禁』に関することですからね」


二人は驚愕して目を瞬かせた。彼らが何か言う前にエイデンは付け足した。


「僕は冗談を言う性質じゃありませんよ」


「…そうよね、わかってるわ」


「正直、お手上げでね。ちょうどアルフレッドに連絡しようと思っていたところです。―ああ、彼が退位したというのは本当なんですか?」


セレスティアは目を泳がせた。オスカーのほうをちらりと見やる。彼は彼で、途方に暮れたような顔を彼女に向けた。その様はまるで、花瓶を割ってしまったことを白状するのを押し付け合う子どものように見えた。彼女は少しの間上手く声が出なかったようだったが、やがて意を決したように頭を振った。


「オスカー。彼と二人きりで話したいのだけれど」


彼女が困ったように首を傾げて言うと、オスカーはいつも通りに微笑した。


「…そう言うと思った。じゃあ、また後で」


エイデンは興味深そうに去り行くオスカーの背中を見送った。


「彼はいつもああなのですか?」


「何のこと?」


「オスカーです。いつもあのように謙虚なのかと思いましてね」


「そうでもないわ。彼は謙虚なんじゃなくて、何事にもあまり興味がないだけなの」


「おや、そうでしたか。…仲睦まじいようで」


エイデンはこの日初めて笑顔を見せた。笑顔といってもわずかに口角が上がったくらいで、見間違いかと思う程度のものだ。それでも彼は、かつての孤独な少女を想って笑みを浮かべたのである。セレスティアも一瞬表情を和らげた。


「…大した仲じゃないわ。―本題に戻りましょう。その、陛下のことなのだけれど」


「ああ、そうでしたね。アルフレッドはどうしていますか?」


セレスティアは俯いて考えた。どう伝えれば一番衝撃が少ないかを。しかしすぐに、どんな表現を用いたところで事実は変わらないと思い直す。彼女はそういう性格だ。だから彼女は顔を上げ、なるべく決然とした態度で告げた。


「陛下は亡くなったわ、エイデン」


「…今、何と?亡くなったですって?」


エイデンは愕然として消え入るような声で問いかけた。セレスティアは簡潔に事の顛末を語った。呪いのことから、ジェロームの愚行までを。


その間、エイデンは一言も言葉を発さなかった。話を聞いているのかいないのか、しきりに机を指で叩き、視線を彷徨わせ、立ち上がろうとして止めるのを三回はやった。


彼女が話し終わっても、エイデンはしばらく黙りこくっていた。やがてたった今目覚めたかのような緩慢な動きで腰を上げると、彼女の横を通り過ぎながら言った。


「外の空気を吸いに行きませんか。ここでは、あまりに息苦しい」



 さて、学長室を出たオスカーはまっすぐに宿に戻ろうとした。が、曲がり廊下で偶然とある人物に遭遇した。


「…聖騎士様?」


そう唖然として呟いたのは、副学長ペネロペ・ターメクレンであった。彼女はオスカーとそれなりの付き合いがあった人物だが、彼が聖騎士の座から引きずり降ろされて―大袈裟な言い回しとも言えない―以来、すっかり親交は途絶えてしまっていた。その頃彼は死人も同然だったのだから、それも仕方のないことであるが。


オスカーはペネロペには気付かれないが、私には気付かれるくらいわずかに苦々しい表情を浮かべた。それも一瞬の出来事で、彼はすぐに答えた。


「ペネロペ。久しぶりだね」


「わ、私てっきり、あなたはもう…」


ペネロペは言葉に詰まって俯いた。オスカーはゆっくりと首を振って微笑んだ。


「この通り、生きてるよ。心配かけてたならごめんね」


「いえ、そんな…ご無事でなによりです、聖騎士様。―それよりも、どうしてこちらに?」


「ちょっと立ち寄るだけのつもりだったんだ。でも、学院で色々あったって聞いたから」


ペネロペの顔つきは陰りを帯びた。エイデンはお手上げだと評したが、どうやら彼女にとってもそれは同じらしい。廊下で立ち話を続けるのもどうかと思い、ペネロペはオスカーを彼女の研究室に招いた。こんな状況でなければ断っていただろうに、オスカーは大人しくそれに応じた。部屋に入るなりオスカーは尋ねた。


「それで、一体何が起きたの?」


ペネロペは考えをまとめるために押し黙った。いや、躊躇っていたのかもしれない。聖騎士であったとはいえ、彼はもう部外者の枠組みに入る存在なのだから。結局、彼女は語り始めた。そうするのが妥当だと判断したのだろう。


「実は、私たちにもよく状況が把握できていないのです。事件が起きたのは今朝未明で、見回りの守衛がとある教員の遺体を発見しました。守衛は聞くもおぞましい悲鳴を聞きつけたそうです。その教員…ピットというのですが、彼はひどく凄惨な最期を迎えました。現場を見れば、拷問を受けたのは明らかです。両腕を繰り返し切断した痕がありました。出血量も通常ではありえないほどで」


古くからある、”命”を消費する拷問法だ。効率は良いかもしれないが、費用対効果が低い。相当な金持ちならぬ命持ちでないとできない手法である。


「ひどいな…」


「ええ、まったくです。…注目すべき問題は、拷問の目的です。そしてそれも明白だと言えます。我々カルツァが管理を任されている『黄泉忘れの禁』…その鍵を握っていたのが彼でした」


「君や学長ではなかったの?だって、それは…」


オスカーは意外そうに片眉を上げた。


「ええ、わかっております。とにかく、私や学長の管轄はまた別のものなのです。もちろん、ピットもそれと知って管理していたわけではありませんでした。そもそも、一般には知られていないものですから」


ペネロペがわかるだろうと言いたげに目を上げたので、オスカーは同意を示した。


「不可解なのは、ピットの遺体を発見した守衛の発言です。彼は言いました。扉を開けたとき、その部屋には確かに道化のような恰好をした人物がいた、と。さらに、その道化らしき人物が煙のように消えてしまった、と…」


彼女のため息が宙を彷徨う。理解しがたい証言だ。オスカーは眉をひそめるに留めた。


「それは、何とも言えないな。―大図書館を閉鎖したのは、例のものがそこにあるから?」


「はい。公式には非常に貴重な蔵書が盗難されたということになっていますが…大多数の人は信じていないでしょうね」


おっしゃる通り。掃溜めで出回った噂は簡単にカルツァの民衆の耳にも届く。事実上、白の割合はかなり少なく―ほとんど皆無―、灰色が大部分を占めているというわけだ。


「それはやっぱり無くなってたのかい?」


「いえ、幸いにも無事でした。現在も守衛を増やして警備に当たらせています。―ですが、道化の目的が別にある可能性も否めません」


「というと?」


「実は、ピットが裏で掃溜めと繋がっていたことが、以前からわかっていたのです。証拠も挙がっていて、解雇を考えていたところでした。ですから、掃溜めでの揉め事が原因だったのかもしれない、と思いまして」


オスカーはろくに返事もせずに考えを巡らせている。二人はしばらくの間、時が止まったかのように動かないでいた。やがてオスカーの意識は思考の波から抜け出した。


「…事情はわかった。僕はそろそろ行くよ。ありがとう、ペネロペ」


彼は挨拶代わりのつもりか、首を軽く傾けた。そしてはにかむような表情を浮かべたペネロペを尻目に、扉に向かった。オスカーが扉を開ける前に、ペネロペは彼を呼び止めた。


「もし手を貸してくださるのなら、どうか掃溜めに探りを入れてください。学院の人間は警戒されてしまって、あちらのことはわからず仕舞いなのです」


オスカーはそうするとは言わなかったが、その場しのぎの微笑みを返した。ペネロペは凝り固まった表情筋をなんとかほぐそうとしたが、うまくいかなかった。その代わり彼女は誠意を示そうと、彼が部屋を出て行く間ずっと頭を下げ続けた。



 他方イーサンは、セレスティアの言いつけ通りにテオを観察していた。それはイーサンにはうってつけの仕事であった。彼は影の住人なのだ。


比喩でもなんでもない。彼の能力は『影身の緋』。能力は言わずもがな。かつてはその緋を生かしてかなり名の知れた盗賊として豪遊、とはいかないまでも、なかなか良い暮らしをしていた。まあ、過去の話は良かろう。とにかくイーサンにとって尾行はお手の物だった。


しかし何と言うか、テオの生活振りはなかなか…面白かった。持ち前の不器用が故に表れる愛嬌、あのある種の才能で、彼は空腹と退屈を見事に凌いでいた。なけなしの金はセレスティアとオスカーに捧げられた葡萄酒に費やされ、テオはまもなく一文無しというところまで来ていたのだ。


疑う必要もない。イーサンは戻って来たセレスティアにそう報告した。その時点では彼女はほとんど興味を示さなかったが、オスカーからペネロペの仮説を聞くなり、どこか嬉々としてこう言った。


「良いことを考えたわ」


そして彼女はオスカーと共にテオの元へ向かった。テオが扉を開けると、セレスティアは唐突に尋ねた。


「鼠闘を知っているわね?」


「そりゃあな。―まさか、金がないなら出ろって言いに来たとか?確かに儲かるもんな、あれ」


と、テオは頭を掻きながらぼやいた。身振りで二人に入るように促す。扉枠をくぐりながら、オスカーはさも意外そうに―実際は意外だとは思っていないのだろうが―言った。


「出たことあるの?」


「一回だけ。ひもじくて死ぬよりましだと思ってさ。聞いてた話ほど酷いとこじゃなかったぜ」


「経験済みなら心配いらないわね」


テオは後ろ手で扉を閉めたセレスティアをまじまじと見つめた。


「何の心配?」


「出るの。私とあなたで、鼠闘に」

2025.1.12

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