過去は水底に
セレスティアの部屋の扉を何者かが叩いた。転寝をしていた彼女は気怠そうに起き上がり、扉を開ける。そこに立っていたのはテオだった。妙に顔を赤らめ、どこで手に入れたのか、片手に葡萄酒の瓶を握っている。
「一人で飲んでいたの?何だか顔が火照っているみたいだけれど」
「いや…飲むかなって思って持ってきたんだけどさ、こういう押しかけ方ってなんかこう、気取ってるみたいだろ?急にこっぱずかしくなってきてさ」
「そう。でも、来てくれてよかったわ。一人だと余計なことばかり考えてしまうの。―どうぞ、入って」
セレスティアは一歩下がってテオを迎え入れた。寝そべっていたせいで乱れた髪を手で梳かしながら、彼女は部屋にあった硬そうな椅子に腰かけた。低すぎる机を挟んでもう一脚同じ椅子が置いてある。テオが座るのを待ってセレスティアは言った。
「それで、何を聞きたいの?」
「え?」
「あなたのことだから、何か聞きたいことでもあるのかと思って。違った?」
「違うね。…と言いたいところだけど、図星なんだよな、これが。―じゃあ聞くけどさ…あ、答えたくなかったら無視してくれ」
「言われなくてもそうするわ」
「そりゃよかった。そんじゃ、改めて。まあ、ルーセチカでのことだ。話を聞いてた限りじゃ、あの王子を殺そうとしていたみたいだったけど」
「そうね」
彼女はあっけらかんとして答えた。酒を注ぎながらテオは尋ねる。
「何でそんなことを?ただの復讐か?」
首を振ってから、セレスティアは黙って窓のほうを眺めた。だがこれは無視ではなく、何をどう説明しようかと考えているだけだ。彼女は目線を戻すことなく語り始めた。
「巻き込んでしまったのだから、あなたにも知る権利はあるわね。でも復讐ほど単純な話じゃないの。
…あなたも見たでしょう、あの毒蛇を。あれは兄が母親から受け継いだ力なの。彼の母親、つまり王妃だけれど、彼女はとある目的のために陛下を貶めようとした。凡眼のふりをして陛下に接近し、見事に結婚まで漕ぎつけて、それからはひたすら信用を得るために息を潜めていたの。
でも気付いたのね、陛下を騙しても目的は達成できないということに。あの人はそこまで甘くなかったから。それで王妃は、当時はまだほんの子どもだった私に目を付けた。そして、あの日…彼女は陛下に呪いをかけた。永遠に眠り続ける呪いをね。彼女は眠る陛下を私に見せて、彼女にしかこの呪いは解けないと言い聞かせた。
でも私は彼女の思い通りにはならず、国外へ逃げ出して、陛下の呪いを解く方法を探し回った。ようやく見つけたと思ったら、まさか毒蛇の一族を根絶やしにしなければならないなんてね」
セレスティアは嘲笑するように言った。今彼女は脳裏に毒蛇族の末路を浮かべているに違いない。しかし、彼女が嘲笑ったのは、きっと…。
「王妃は一族の命運をかけてまで目的を果たそうとしたってわけか。じゃあ、あんたがあちこちで殺してたのは毒蛇だったってことか?」
「いいえ。毒蛇族はゾルギックの近くの山奥で、人目につかないように暮らしていたの。その集落を出たのは王妃だけ。それだけは確かよ。私が彼らの他にも人を殺めていた理由は…やっぱり、褒められたものじゃないわね。
単純な話よ。陛下の命を繋がなくてはならなかったの。眠っているだけで瘦せ衰えたりはしない、なんて御伽噺みたいなこと、ありえないでしょう。枯れかけた花に必死になって水をあげて、いつか再び咲き誇るのを心待ちにしていた…それだけ」
確かに”命”さえあれば老いも飢えも怖くないわけだが、実際にそれらを凌ぐとなると、膨大な量の命が必要になる。それを集める意味で、彼女のやっていた殺しはかなり有効な手段だったのだ。テオは一言二言、言葉を飲み込んでから、静かに言った。
「そっか。なんか、空しいっつうか…寂しいよな、それって。―んな顔すんなよ。俺にだってそういう気持ちわかるし。まあ、なんとなくだけど。そういえば、王妃はいつ死んだんだ?」
「呪いをかけた日、私を説得しようとしてすぐ。…理性を失ってあんなことをしてしまうなんて、二度と御免だわ」
実際、王妃の遺体は人かもわからないほどで、私も目を疑った。彼らがいた部屋も滅茶苦茶に荒れていた。ウィリアムやロイドが彼女の持つ力の凄まじさを理解したのはこのときだったはずだ。
「じゃ、王様は王妃が死んだから塔から出て来なくなったわけじゃないってことか。出て来れなくなったから、事実を入れ替えた…」
「そうみたいね。きっと、ウィリアム様の根回しだわ」
テオは深々とため息をつき、ゆっくりと頷いた。
「そういうことか…なら、あんたのことは?その瞳があるのに、存在しないことになってるのって変だよな?」
「それは質問?」
「おう。何でなんだ?」
「…私、そろそろ寝るわ。葡萄酒をありがとう。それから、怒らないであげて。オスカーのことだけれど」
これが無視だ。テオは頷き、大人しく撤退したが、ある程度の疑問は解消できたようだ。さあ、そろそろ後ろを振り返るのはやめにしようか。
翌朝。一行は朝食の席で顔を合わせることとなった。というのは、テオが当たり前のようにセレスティアの隣を確保したからであるが。彼女の正面にはオスカーが座っていて、その隣、つまりテオの正面に、影のように目立たないイーサンがいた。テオがやってきても誰も文句を言うことはなかった。彼らの前に皿を並べた宿屋の料理人が、立ち去る前に口を開いた。
「お客さん、聞いたかい?ルーセチカのアルフレッド王が退位したんだとよ」
セレスティアは密かに唇を噛みしめた。オスカーの顔つきも険しくなったように見える。イーサンに変わりはない。三人が返事をしないので、テオはしどろもどろに言った。
「えっと…そ、そりゃあ知らなかったな!何だ、ほら、もっと長く国を治めるんだと思ってたぜ!」
「俺もそう思ってたんだがねえ。お客さんたち、ルーセチカから来たんだろ?何か知らないのかい?」
「な、何でルーセチカから来たって…?」
「旦那から聞いたんだよ。アーテルニアにいたらしいって」
確かにテオがその単語を口にしていた。客が困っているとわかると、料理人の男は口の端に笑みを漏らしながら言った。
「ま、何も知らないならいいさ。じゃ、食事を楽しんで!」
男が去っていくと、オスカーは紅茶を一口飲んでから呟いた。
「宿を変えたほうが良さそうだ」
「何でだ?お茶が不味いとか?」
「ちょっとは自分で考えなよ」
言葉に棘はあったが、オスカーの表情は穏やかであった。昨日のちょっとした口論を引きずっているわけではない。一行は黙々と食事を進めた。途中でセレスティアが言った。
「部屋に戻っていたら、オスカー?」
彼は紅茶しか口にしていなかった。朝に弱い男で、セレスティアが朝食を取るときは合わせて起きてくるものの、それが済むと長椅子に横になって眠ってしまうのである。つまり、彼女は二度寝をしてきたらどうかと言っているのだ。オスカーはぼんやりと首を振った。
「別に、平気だよ」
「イーサンがいるから。目が覚めていないときのあなたって、話を聞いているのかわからなくて嫌なの」
オスカーは肩をすくめてから席を立った。部屋に引き上げようとした彼はふと足を止め、ゆっくりと振り向いた。その目線はテオを捉えている。
「そうだ。昨日のことは謝るよ。かっとなったりして済まなかった」
「え?ああ。いや、いいよ。つか、俺も悪かった…的な」
オスカーは微笑し、今度こそ部屋に戻っていった。彼が見えなくなったのを確かめると、テオは声を潜めて言った。
「で?この宿屋って何か危ないのか?」
「そうね。おそらく掃溜めと繋がっているから。厄介事に巻き込まれたくなかったら、ここに留まるのは得策じゃないわね」
掃溜め―つまりカルツァに存在する、もう一つの町とでも言うべき、ならず者の世界。学術都市としてのカルツァが白ならば、掃溜めとしてのカルツァは黒だ。それも、どんな色も飲み込んでしまうような漆黒である。
「じゃ、昨日の提案も―」
セレスティアはしっ、と息を漏らすと、机の下で目立たないようにテオの手の甲に触れた。反射的に彼が口を閉じたのと同時に、宿屋の主人が彼らの元にやってきた。
「おやおや、これはこれは。おはようございますう。…それで、例の話、考えていただけましたかねえ?」
と、主にテオのほうを覗き込む。
「どうかな、はは…。ちょっと、ここんとこ立て込んでてさ」
愛想笑いの下手な奴め。
「そうですかあ。ではまた気が変わりましたら、ぜひ!声を掛けてください。…そのときには仕事の内容が変わっているかもしれませんがね」
男はさっさと席を後にした。どうやらすっかり諦めたらしい。執着されないで幸運だったと言うべきだろうが、何分テオは金のためなら何だってやる男であるから、どうということもなく損をした気分を味わったのであった。
その日の昼頃、テオはオスカーの部屋にいた。飲みかけの葡萄酒をそのまま持ってきたせいで、図式は昨夜とほとんど同じだった。その上、オスカーは彼女と同じことを聞いてきた。
「僕から何を聞き出すつもりかな?」
「…なんか、ほんとセレスティアと似てんのな。なんだろ、思考回路っていうの?」
「ということは、ティアにも何か質問しに行ったんだね」
テオはまあな、と肩をすくめた。オスカーは瓶から葡萄酒を注ぎ、一口飲むと、その杯を机の端に押しやった。それから肘をついてテオの目を覗き込むように見つめた。
「じゃあ、三つだけ答えてあげる。何でもいいよ、後ろめたいこともないし」
「三つか…てか、何だよ。美味しくなかったのか?」
「うん。酸化してて美味しいとは言えないかな。―はい、二つ目は?」
「数えんなよ…。まあいいや。じゃ、聞くけど。あんた、何者?」
「ゾルギックの聖騎士」
オスカーは何がおかしいのか、声を立てて笑った。いや、確かにおかしいのだ。聖騎士という称号は誰もが得られるものではないし、彼のように国外でのんびり暮らしている者が聖騎士であるはずもない。しかし念のため記しておくと、彼の言っていることは事実である。十年ほど前は、聖騎士オスカーの名はかなり知れ渡っていたのだ。
「聖騎士だ?…あ、聖騎士オスカー!?お前が?―待て、今のは質問じゃねえぞ」
「そう、僕がそのオスカーだよ。まあ、今はもう聖騎士じゃないんだけどね。死んだと思われて、気付いたら居場所がなくなってたから」
オスカーにとってはなんてことないのだろうか。そう遠い昔のことでもないのだが、彼は子供の頃に集めていた宝物を見つけたかのような面持ちで、笑みさえこぼしている。見ているこっちばかりが切なくなる。テオもかけるに相応しい言葉が見つからず、口を開けたり閉じたりしている。そんなテオの動揺を無視して、オスカーが言った。
「嘘だと思ってるでしょ」
「思ってねえよ。何か、腕っぷし強そうだし。―で、三つ目…」
オスカーは身振りでそれを促した。テオは気まずそうに頬を掻いている。
「その…セレスティアは恋人なのか?」
何故そんなことが気になるのやら。オスカーは笑い出した。答えが決まり切っているということだ。テオはまたかと言わんばかりにうんざりした顔をした。オスカーは悪戯っぽい笑顔のまま言った。
「どっちだと思う?」
「なんでまたそんなこと聞いてくるかな…」
「ちょっとは自分で考えなって」
「恋人なんだろ、どうせ」
「はい、はずれ」
「嘘だね」
「嘘じゃないよ?」
「違ったら何なんだよ、あんたら」
むっとするテオにそう尋ねられると、オスカーは唐突に考え始めた。考えたこともなかったのか。彼らの軌跡を傍観したことのある私もまた、すぐに答えを出すことはできないのだが。やがて、オスカーはこう結論した。
「わからないや。でも恋人ではないよ。ティアはそんな風に思ってないと思う。ただ利害が一致するだけだし」
「ふーん。…わかった、片思いだろ」
「そんな安っぽいものじゃないよ」
「何だよ、それ」
やれやれとテオはそっぽを向いた。だって、とオスカーは付け加えた。
「彼女が死んだら、僕も死んじゃうから」
「…寂しくて?」
テオが真剣な眼差しを向けながらそう言うと、オスカーはむっとした。
「僕のこと何だと思ってるの?」
「言ってみただけだよ。要は俺の想像よりは重い関係ってことだろ?」
「まあ、そんなところかな」
オスカーは目を細めた。突然、窓も開けていないのに部屋にそよ風が吹き込み、二人の髪を揺らした。セレスティアの訪問の合図だ。オスカーが立って行って扉を開けると、ちょうど彼女が取っ手に手を掛けようとしていたところであった。彼女は挨拶代わりに小首を傾げた。テオが椅子から腰を上げながら言った。
「お邪魔にならないように俺は退散するかな」
「別に邪魔じゃないわ。あなたたちこそ何か話していたのでしょう。私、用があって来たわけじゃ―」
「いいのいいの。じゃあな、お二人さん」
テオは気まずそうに出て行ったが、そう思っているのはおそらく彼だけであった。
2025.1.11




