不器用な部下のお願い
「先輩って、引っ越しの経験ありますか?」
飯を奢らされた翌日の昼休み。
いつものように社員食堂で相席した須賀さんが言った。
「はい、五回くらい引っ越してますよ」
「メッチャ多いですね。何したんですか?」
その目やめろ。何もしとらんわ。
「色々なところに住みたいので、契約更新の度に引っ越してるだけです」
「うわー、先輩浮気症なんですね。きも」
一瞬イラッとしたが、直ぐにおさまった。
この言葉遣いも、きっと彼女なりのコミュニケーションなのだろう。
「そんな先輩でも大活躍できる話題があるんですけどー、聞きたいですか?」
ダメだ、やっぱ腹立つ。
この声なんなの? そういう技術なの?
だが彼女には常日頃から助けられている。
その恩を返すと思って今回は我慢しよう。
「どうして急に引っ越しを?」
「なんか隣の人に壁ドンドンされてー?」
それお前がうるだいだけじゃね?
「ちょっと怖いかもって……」
「……まあ、あるあるですね」
彼女の態度はいつも通りだが、声色からは微かな恐怖が感じられた。そもそも引っ越しを考える程の壁ドンだ。軽い口調とは裏腹に本気で不安に思っている可能性が高い。
……真面目に考えるか。
俺は少し気持ちを切り替え、質問する。
「予算は?」
「家賃なら十二万円以下で考えてます」
何それ最悪十二万は出せるってこと?
金銭感覚が二十代じゃねぇよこいつ。
「最寄駅の目星は付けてますか?」
「まだですけどー、とりあえず治安を大事にしたいです。先輩、何か治安が分かる裏技とか知らないですか?」
「裏技か……」
多分、経験則を問われているのだろう。
何かがある街はやばいとか、そんな感じ。
「ネットで見てもー、個人の感想ばっかりで全然参考にならないんですよねー」
俺が考えていると、彼女は溜息を吐いて言った。
……珍しく共感できる発言だ。
広告会社は頭が良い。
例えば「閑静で落ち着いた住宅街」には「くたびれたおっさんの住む町」という裏の意味がある。
こういう地域において若い女性は珍しく、常に視線を感じて怖い……なんて話は俺でも耳にしたことがある。
要するに、あらゆる言葉に裏の意味があるという話。俺自身、何度か「あれはそういう意味だったのかよ」と後悔したことがある。
しかしそんな情報ネットには書いてない。
だから彼女も俺などに相談したのだろう。
……どうする?
しばらく考えた後、俺は自分が使っている方法を伝えることにした。
「個人的な意見を言うならば、足で決めるのが一番ですね」
「どういうことですか?」
「あちこち歩いて決めようって話です」
「……なるほどー」
最近の若者は内見せず住居を決めるなんて話を聞いたこともあるが、やはり最高の判断基準は実体験だ。
それを伝えると、彼女はどこか楽しそうな様子で言った。
「先輩、知ってますか?」
「何を?」
「言い出しっぺの法則」
……嫌な予感がする。
「俺に決めろとか言わないですよね?」
「はー? そんなことしても意味ないじゃないですか」
「だよね。あはは」
俺はごまかすようにして笑った。
彼女は何か裏がありそうな笑みを浮かべ、どこか演技っぽい口調で言う。
「先輩のアドバイス通り、歩いてみることにします」
「そうですね。良いと思います」
「でもー、知らない場所を一人で歩くのってー、なんか不安だなー」
やめろ。
「あー、どこかに頼りになる暇な人、いないかなー」
捻り出せ。予定を。断る口実を!
「おやー? こんなところに、三十過ぎて独身で、しかも、これといった趣味の無い人がいるぞー?」
いかんっ、何も出てこない!
「先輩、言い出しっぺの法則、ですよ」
結論だけ言う。
土曜日の予定が、決まった。
こういうの好き!
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