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手すりの次に愛してる

作者: 村崎羯諦

「ごめん、気持ちは変わらない。たっくんのことは別に嫌いじゃないんだけど……やっぱり私は手すりを愛してるの」


 マンションの玄関先。早苗はそう言いながら後ろを振り返った。三階の廊下からは透き通った青空と白い雲が見える。そしてその手前では、廊下の壁の上に設置された手すりが黒のメッキをきらりと光らせていた。


「ふざけるな! 手すりなんかのどこがいいんだよ。そもそも人間じゃないじゃないか!」


 俺が苦し紛れにそう訴えると、早苗は肩をすくめ、大げさなため息を吐いた。


「別に恋愛に資格とかそういうものは必要ないでしょ? それにさ、手すりはたっくんみたいにそうやって大声で怒鳴ることもないし、嫌な顔ひとつせずに私の話を聞いてくれるし、それに何より……一緒にいると守られてるなって感じがするの」


 そう早苗はうっとりとした表情で目の前に設置された手すりに視線を送る。手すりの方はというと、まるでそんなこと気にならないかのように、ただ悠然としていた。その悠然とした態度に、俺は男としての器の違いが見せつけられたような気がして無性に悲しくなる。


「じゃあね、たっくんも新しい彼女を見つけなよ」


 早苗は俺に別れの言葉を告げると、早苗はくるりと俺に背を向け、手すりの方へと近づいていく。そのまま早苗は黒メッキされた手すりに腕を絡ませ、頬をくっつけた。


「あ~、落ち着くわ~」


 早苗はその態勢のまま、エレベータがある方へと廊下を歩いていく。その場に残された俺はただ元カノの背中を見送ることしかできなかった。



****


 俺はグラスを傾け、底に残ったビールを勢いよく喉に流し込む。俺が次のアルコールを注文しようとすると、隣りに座っていた大原からそれくらいにしとけと諭された。


「女ってやつは、馬鹿ばっかりだ。何も喋らない無機物なんかより、俺たちと付き合った方がぜっったいに幸せなはずなのにな。そう思わないか大原?」


 大原は曖昧な返事をしながら、愛想笑いを浮かべる。そういうはっきりとしない態度に俺は腹が立ってしまう。俺が嫌味っぽく、お前も彼女を手すりに寝取られたじゃないかと指摘すると、一瞬で大原の表情が強張った。言い過ぎたと一瞬思ったが、酔いの勢いは止まらず、俺はただ愚痴と嫌味を垂れ流し続けることしかできなかった。


「なあ、たく。彼女を他のやつに取られたなんてよくある話だろ? 俺たちの場合、それが手すりか人間かの違いだけなんだって」

「そういうのを聞きたいわけじゃないんだよ。ただお前は手すりごときに彼女を取られて悔しくないのか?」


 俺は何も言わずに大原をにらみつける。


「そりゃ……悔しくないって言ったら嘘になるけどさ……。実際、最近の若い子はみんな、現実の男より手すりの方に夢中なのは事実だし……」


 大原は続けて何かを言おうとしていたようだったが、その言葉を飲み込み、誤魔化し混じりに目の前のジョッキに口をつけた。俺は大原の態度に苛立ちながら、運ばれてきたビールをぐいっと喉に流し込む。


「俺は馬鹿な女がなんと言おうが、手すりなんか絶対に認めない。絶対にだ」


****


 それから俺は手すりに対する敵意をむき出しにした状態で毎日を過ごした。手すりを見つけるたびに小言を漏らし、それに掴まることなど一切やめた。他の女から反感を買おうと、振られた男の精一杯の虚勢だと後ろ指を差されようと絶対に屈しない。それでも同じく手すりに彼女を寝取られた男には俺の気持ちがきっとわかるはず。そして、そんな境遇にいる数少ない友人の一人である大原から突然呼びだされたのは、俺が早苗に振られてからちょうど一ヶ月たったある晴れた日のことだった。


「悪いな、急に呼び出して」


 待ち合わせ場所に指定されたのは近くにある高台の公園だった。長い階段を息を切らしながら登りきった俺の姿を見つけると、大原はどこか寂しげな表情でそう言った。眼下に街の風景が望める自然公園は、休日ということもあって、家族連れやカップルで賑わっていた。そして、崖に面した公園の端には、あの忌々しい手すりが転落防止のために設置されていた。


 俺たちは整備された歩道を歩きながら会話を交わした。しかし、その間ずっと不吉な予感が俺の胸をかきむしっていた。一体、話ってなんなんだよ。それでも俺は自分から話題を切り出すことができず、ただ大原からの言葉を待ち続けた。


「実はさ、本当に言いにくい話なんだけど……実は俺、仕事をやめて、手すりの仕事を始めようと思ってるんだ」


 大原は俺から顔をそむけ、そうぽつりと言葉を漏らした。俺は反射的に大原の方へと顔を向けた。手すりの仕事を始めるだって? 俺は自分の耳が信じられず、もう一度聞き直す。


「お前が彼女を取られて手すりのことを悪く思ってるって事は知ってる。それでもさ、考えてみろよ。手すりは毎日上司からいびられることはないし、ただそこにいるだけで感謝されるんだ。それに女の子からもモテる。これ以上に素晴らしいことなんてないぜ」


 突然の告白にショックを隠せない俺をよそに、大原は公園の右奥を指差した。そこでは、崖に沿って設置されている手すりが一部分欠けており、近づくなという趣旨の注意書き看板が建てられていた。


「最近さ、非常勤だけど手すりの仕事が見つかったんだ。新しい手すりが設置されるまでの時間だけど、今日からあそこで手すりとして働くことになってるんだ」


 大原はなるべく淡々と、気持ちを込めずに喋ろうとしていた。しかし、その口調の奥に、これから手すりとして働ける大原の秘めた喜びを察せずにはいられなかった。


「人間として……人間としてお前は恥ずかしくないのかよ!」


 大原は疲れたような笑みを浮かべ、肩をすくめた。


「お前もさ、あんまり突っ張りすぎるなよ。お前も嫌いだ嫌いだ言ってるけどさ、本当はちょっと意識しちゃってるんじゃないのか。ほら、大好きの反対は大嫌いじゃなくて、無関心だって言うだろ?」


 大原は腕時計を見て、「仕事の時間だから」とつぶやく。そのまま大原は手すりが欠けている場所へと歩いていき、建てられていた注意看板を引っこ抜いた。それから崖を背にする形で膝立ちになり、両手を横伸ばして左右の手すりを手で掴んだ。そのまま大原は胸を張ると、その姿勢のまま動かなくなった。俺は大原のもとへと駆け寄り、今すぐそんな真似をやめるようにと説得を試みる。しかし、大原は少しだけ迷惑そうな表情を浮かべるだけでつれない返事しか返してくれない。


「仕事中だぞ。話しかけてくるなよ」


 そういうと、大原は下を向き、それ以降俺の問いかけに答えることはなかった。俺は呆然とその場で立ち尽くしていると、若い女性の二人組が近づいてきて、そのうちの一人が大原の左腕に手をかけ、目の前に広がる景色へと身を乗り出した。誰かの安全のために役立っている。うつむいた状態の大原の表情を確認することはできなかったが、きっと大原は満足げな表情を浮かべているであろうことは理解できた。



****



 彼女にも親友にも裏切られた俺は、まるでこの世界でたった一人であるかのような孤独感に襲われた。俺の身体の奥から、得体の知れない寒気がこみ上げてくる。俺はそれを振り払おうとするかのように、ただ全力で公園の出口へと駆け出していく。


 俺の頭の中に様々な手すりのイメージが浮かび上がってくる。マンションの廊下に設置された手すり、橋の高欄、そして手すりとして働く大原。すべてのイメージが鮮やかな色彩を持って俺の頭をめぐる。俺はぎゅっと目を閉じた。それでも俺は手すりのことを考えずにはいられなかった。手すり。手すり。手すり。意識しないようにすればするほど、俺の頭の中の手すりはよりはっきりと、そして強烈な個性をもって浮かび上がってくる。


 しかし、その瞬間だった。踏み出した俺の足が宙を踏み、身体全体がバランスを崩して前にのけぞった。その刹那の瞬間に開いた俺の目に飛び込んできたのは、眼下に開けた町並みと、迫り来る固いコンクリートでできた階段だった。スローモーションのまま身体が前へと倒れ込んでいく中で、走馬灯のように俺がこの公園までやってきた時のことが思い出される。何百段もある階段をひたすら上り、愚痴をつぶやいていたこと。登っている途中、後ろを振り返り、あまりの高さに少しだけぞっとしたこと。ここで転げ落ちたらただじゃ済まないだろうなと笑いながら考えたこと。


 死。俺の頭の中にその単語が思い浮かぶ。しかし、不思議と焦りや恐怖はなかった。自暴自棄になっていた俺は、すべてを受け入れるかのようにもう一度目を閉じた。そして、そのままゆっくりと、俺の身体は前へと倒れこんで……。











 身体全体に振動が走る。しかし、それは固いコンクリートに叩きつけられた時の衝撃ではなかった。俺ははっと目を開ける。目の前には長く続く階段、そして、二段下の階段をしっかりと踏んでいる俺の左足があった。そして、俺はふと左をみる。そこには階段の中央に設置された手すりをしっかりと掴んだ俺の左手があった。


 助かった。下の長く続く階段をもう一度観察し、そのあまりの高さにぞっと震え上がる。俺の心臓はなお激しい高鳴り続けている。俺は腰を抜かし、その場にしゃがみ込む。しかし、左手はなおもあんなに大嫌いだった手すりを掴んでいた。俺はもう一度無意識のうちに掴んだ手すりをみつめる。太陽の光を反射し、銀色に塗られた表面で光沢がきらりと輝いていた。


 心臓の動悸はまだ止まない。呼吸が荒く、身体が熱い。俺はぎゅっと、今度は意識的に手すりを強く握りしめる。俺は手に胸を当て、目を閉じた。そうか、俺はこの手すりに助けられたのか、それもあんなに手すりのことを嫌っていたこの俺を。


 その事実に気がついたその瞬間。俺は、恋に落ちた。

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