表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アルマジロくん  作者: 魚沢凪帆
42/44

許す勇気

アルマジロくんの広げたバスタオルの中で一時間近く、泣き続けたあたしは、夜には知恵熱が出ていた。

ついでに風邪まで併発したのか、次の日になっても熱は下がらなかった。



「大丈夫か?」


お兄ちゃんが、心配そうな顔であたしの部屋に入ってきた。


「今日、大学はいいの?」


あたしが聞くと、「んなこと、心配するな」と怒ったような顔をした。



「昨日、あいつが来ていたんだよな」


お兄ちゃんは、父のことを“あいつ”と呼ぶ。


「心配かけて、ごめんね。突然でびっくりしちゃっただけなの」

あたしが笑うと、お兄ちゃんは余計に不安そうに顔をしかめた。


「ウサコ、あいつのことを恨んでいるか?」


お兄ちゃんの声がやけに低く聞こえた。

あたしは、質問を飲み込めずにお兄ちゃんを見つめ返した。


「あいつがしてきたこと、許せることじゃねぇ。ウサコは、あいつのことを恨んでいるよな」


質問ではなく、断定の言葉。

あたしはうんともすんとも答えられずに、黙り込んだ。


「俺も、あいつのことを許せない。でも、俺はあいつ以上に自分自身を許せないんだ」


あたしはお兄ちゃんの言葉が理解できなくて、ゆっくりと視線を持ち上げた。

お兄ちゃんはカーペットに視線を落したまま、あたしを見てもくれない。


「どうして、お兄ちゃんが?お兄ちゃんはあたしを助けてくれたじゃない」


14歳の春。

あたしを助けてくれたのは、お兄ちゃんだった。


面倒な過去を持つあたしを受け入れてくれたのは、お兄ちゃんだ。



「俺はウサコが会いに来るまで、一度も、おまえのことを気にかけたことはなかった。妹がいるのは知っていたけれど、会いにいく気もなかったし、どうしているのかも考えたこともなかった」


「当たり前だよ。だって、離れていたんだから」


「当たり前じゃねぇーよ。妹なんだ。おまえは俺の妹だろ?」


お兄ちゃんの目には、かすかに涙が潤んでいるように見える。


「俺はウサコが苦しんでいるとき、守ってやれなかった。守ろうともしなかった。俺は俺が、一番許せない」


「お兄ちゃんが苦しまないで。お兄ちゃんが悪いわけじゃないの」


お兄ちゃんが、あたしにそっと手を伸ばした。

あたしの目の前に右手を広げる。


「俺に触れることができるか?」


「えっ?」


「俺に触れられるか?」


お兄ちゃんの声が、じわじわと身体に広がっていく。


触る?お兄ちゃんを触る?


「俺を許してくれるなら、俺に触れることができるか?」


お兄ちゃんの目がまっすぐにあたしを見つめている。

あたしの体はブルブルと震える。


いつもなら、あたしを追い詰めるようなことを言わないお兄ちゃんが、今は一歩も引かない。


あたしの目の前に手を差し出したまま、身動きをしない。


「ウサコが触るまで、俺は一ミリも動かねぇから。絶対に、動かねぇから」


あたしを安心させるようにゆっくりと、言葉をつむぐお兄ちゃんを呆然と見つめていた。

そろそろと右手を出してみる。


近づけようと持ち上げた手は、やっぱり小刻みに揺れていた。


あたしは、お兄ちゃん恨んだことなんて一度もない。

お兄ちゃんが気に病むことなんて一度もない。


あたしの手が、まさにお兄ちゃんの手に触れようとしたした瞬間、あたしの身体は石のように固まった。


お兄ちゃんは石像のようなあたしを静かに見つめている。


「なぁ」


しばらくして、お兄ちゃんがあたしに呼びかけた。


「たぶん、ウサコは知らねぇと思う。あいつのことを聞くたびに、震えていたウサコに、俺らは必死で何も聞かせないようにしていた。あいつの話で、おまえがさらに脅えることがないように」


お兄ちゃんはそこで、言葉を切った。

息を整えるように深く呼吸をする。


「離婚の本当の原因は、母さんだったんだ」


「えっ?」


「母さん、好きな人がいて、その人と結婚したくてあいつと離婚したんだ。離婚してすぐに、そいつとも別れちゃったらしいけどな」


離婚までして馬鹿だよな、なんてお兄ちゃんはわざとらしく明るく笑う。


「あいつは母さんが別れたいって言葉をそのまま、飲んだらしい。母さんの好きなようにすればいいって。結婚した後、あいつは会社を首になった。リストラされたんだって。たぶん、ウサコへの虐待はその頃からだ」


お兄ちゃんは差し出した手とは反対の手を膝の上で握る。

きつくきつく握っているそれはまるで、ぎりぎりと音が鳴りそうだ。


「再就職だってすぐには決まらない。ようやく決まった職は、今までとはまったく違う業種で、しかも年齢とは反比例するように下っ端。毎日、きつかっただろうな」


あたしは父のことを何も知らなかった。

ずっと、傍にいたのに、父の事情を初めて聞いた。


「俺はな、ウサコにあいつを許せなんて言うつもりはない。どんな理由があったって、あいつのやったことは決して許されない。幼いウサコにあたっていい理由なんてこの世のどこにもない」


「お兄ちゃん」


「だけどさ、大人って厄介だよな。何事も、ただまっすぐではいられねぇの」


ため息交じりの言葉があたしに突き刺さった。

苦しんでいるのは、あたしだけじゃない。


あたしだけが悲劇のヒロインじゃない。


「あいつを許さなくていい。だけど、一歩、進むことはできねぇか? 俺の手を触ることはまだ、できないか?」


「あたし」


あたしの手はまだ、宙で固まっている。

プルプルと震えながら、お兄ちゃんの手まであと一歩の距離で止まってしまっている。



許さなくていいってお兄ちゃんが言ってくれた言葉が、あたしの心を後押しした。

許せ、と言われて「はい」と言える傷なら最初から、こんなに脅えない。

許すとか許さないとか、頭の中で考えて答えが出るものじゃない。


だから、許さなくていい、無理しなくていいって言葉があたしを支えた。



あたしは父を許すんじゃない。

大好きな人に触れたいだけ。


あたしの手はようやく、動き始めた。


お兄ちゃんの温かい手まであと、一歩。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ