許す勇気
アルマジロくんの広げたバスタオルの中で一時間近く、泣き続けたあたしは、夜には知恵熱が出ていた。
ついでに風邪まで併発したのか、次の日になっても熱は下がらなかった。
「大丈夫か?」
お兄ちゃんが、心配そうな顔であたしの部屋に入ってきた。
「今日、大学はいいの?」
あたしが聞くと、「んなこと、心配するな」と怒ったような顔をした。
「昨日、あいつが来ていたんだよな」
お兄ちゃんは、父のことを“あいつ”と呼ぶ。
「心配かけて、ごめんね。突然でびっくりしちゃっただけなの」
あたしが笑うと、お兄ちゃんは余計に不安そうに顔をしかめた。
「ウサコ、あいつのことを恨んでいるか?」
お兄ちゃんの声がやけに低く聞こえた。
あたしは、質問を飲み込めずにお兄ちゃんを見つめ返した。
「あいつがしてきたこと、許せることじゃねぇ。ウサコは、あいつのことを恨んでいるよな」
質問ではなく、断定の言葉。
あたしはうんともすんとも答えられずに、黙り込んだ。
「俺も、あいつのことを許せない。でも、俺はあいつ以上に自分自身を許せないんだ」
あたしはお兄ちゃんの言葉が理解できなくて、ゆっくりと視線を持ち上げた。
お兄ちゃんはカーペットに視線を落したまま、あたしを見てもくれない。
「どうして、お兄ちゃんが?お兄ちゃんはあたしを助けてくれたじゃない」
14歳の春。
あたしを助けてくれたのは、お兄ちゃんだった。
面倒な過去を持つあたしを受け入れてくれたのは、お兄ちゃんだ。
「俺はウサコが会いに来るまで、一度も、おまえのことを気にかけたことはなかった。妹がいるのは知っていたけれど、会いにいく気もなかったし、どうしているのかも考えたこともなかった」
「当たり前だよ。だって、離れていたんだから」
「当たり前じゃねぇーよ。妹なんだ。おまえは俺の妹だろ?」
お兄ちゃんの目には、かすかに涙が潤んでいるように見える。
「俺はウサコが苦しんでいるとき、守ってやれなかった。守ろうともしなかった。俺は俺が、一番許せない」
「お兄ちゃんが苦しまないで。お兄ちゃんが悪いわけじゃないの」
お兄ちゃんが、あたしにそっと手を伸ばした。
あたしの目の前に右手を広げる。
「俺に触れることができるか?」
「えっ?」
「俺に触れられるか?」
お兄ちゃんの声が、じわじわと身体に広がっていく。
触る?お兄ちゃんを触る?
「俺を許してくれるなら、俺に触れることができるか?」
お兄ちゃんの目がまっすぐにあたしを見つめている。
あたしの体はブルブルと震える。
いつもなら、あたしを追い詰めるようなことを言わないお兄ちゃんが、今は一歩も引かない。
あたしの目の前に手を差し出したまま、身動きをしない。
「ウサコが触るまで、俺は一ミリも動かねぇから。絶対に、動かねぇから」
あたしを安心させるようにゆっくりと、言葉をつむぐお兄ちゃんを呆然と見つめていた。
そろそろと右手を出してみる。
近づけようと持ち上げた手は、やっぱり小刻みに揺れていた。
あたしは、お兄ちゃん恨んだことなんて一度もない。
お兄ちゃんが気に病むことなんて一度もない。
あたしの手が、まさにお兄ちゃんの手に触れようとしたした瞬間、あたしの身体は石のように固まった。
お兄ちゃんは石像のようなあたしを静かに見つめている。
「なぁ」
しばらくして、お兄ちゃんがあたしに呼びかけた。
「たぶん、ウサコは知らねぇと思う。あいつのことを聞くたびに、震えていたウサコに、俺らは必死で何も聞かせないようにしていた。あいつの話で、おまえがさらに脅えることがないように」
お兄ちゃんはそこで、言葉を切った。
息を整えるように深く呼吸をする。
「離婚の本当の原因は、母さんだったんだ」
「えっ?」
「母さん、好きな人がいて、その人と結婚したくてあいつと離婚したんだ。離婚してすぐに、そいつとも別れちゃったらしいけどな」
離婚までして馬鹿だよな、なんてお兄ちゃんはわざとらしく明るく笑う。
「あいつは母さんが別れたいって言葉をそのまま、飲んだらしい。母さんの好きなようにすればいいって。結婚した後、あいつは会社を首になった。リストラされたんだって。たぶん、ウサコへの虐待はその頃からだ」
お兄ちゃんは差し出した手とは反対の手を膝の上で握る。
きつくきつく握っているそれはまるで、ぎりぎりと音が鳴りそうだ。
「再就職だってすぐには決まらない。ようやく決まった職は、今までとはまったく違う業種で、しかも年齢とは反比例するように下っ端。毎日、きつかっただろうな」
あたしは父のことを何も知らなかった。
ずっと、傍にいたのに、父の事情を初めて聞いた。
「俺はな、ウサコにあいつを許せなんて言うつもりはない。どんな理由があったって、あいつのやったことは決して許されない。幼いウサコにあたっていい理由なんてこの世のどこにもない」
「お兄ちゃん」
「だけどさ、大人って厄介だよな。何事も、ただまっすぐではいられねぇの」
ため息交じりの言葉があたしに突き刺さった。
苦しんでいるのは、あたしだけじゃない。
あたしだけが悲劇のヒロインじゃない。
「あいつを許さなくていい。だけど、一歩、進むことはできねぇか? 俺の手を触ることはまだ、できないか?」
「あたし」
あたしの手はまだ、宙で固まっている。
プルプルと震えながら、お兄ちゃんの手まであと一歩の距離で止まってしまっている。
許さなくていいってお兄ちゃんが言ってくれた言葉が、あたしの心を後押しした。
許せ、と言われて「はい」と言える傷なら最初から、こんなに脅えない。
許すとか許さないとか、頭の中で考えて答えが出るものじゃない。
だから、許さなくていい、無理しなくていいって言葉があたしを支えた。
あたしは父を許すんじゃない。
大好きな人に触れたいだけ。
あたしの手はようやく、動き始めた。
お兄ちゃんの温かい手まであと、一歩。




