5.信号機
どれほどの月日が、経っただろう。
秋もすっかり深まり、ところによってはもう冬を迎えようとしている。
つい最近までは、『「人型信号機」の破壊は殺人罪になるのか』という裁判についてのニュースが報道されていたが、今はそれもほとんど見かけなくなった。確か最高裁は、『器物損壊罪』という判決を下していたと思う。訴訟を起こしていたのが地域の高齢者団体だっただけに、この社会の皮肉さを感じる。
代わりに目に入るようになったのは、『人型信号機』回収のニュース。
なんでも、AIにとあるバグが見つかったらしく、旧型はN社が回収し、新たに新型を設置するらしい。
燈なんかは真っ先にリコールの対象になるだろうな、なんてことを考え、一人で苦笑する。
家の前、毎日見かける横断歩道。
そこに人影はもう、ない――はずだった。しかし、
(……? もう新型が設置されたのか?)
確かに、そこには人型信号機らしき人影があった。その証拠に、全身が赤い光を放っている。
そして信号機に近づいていくにつれ、その容貌が露になっていき、
「……っ!?」
「わっ!?」
思わず、俺は彼女に駆け寄り、そして抱き着いていた。
そう、彼女の容姿は寸分違わず、燈のそれだったのである。
「……燈……どこ行ってたんだよ、お前は……!」
「え、あっ、え、えっと……」
しかし、様子がおかしい。彼女は何やら困惑した様子で、
「えっと、そ、その……どちら様、でしょうか……?」
「……え?」
その言葉を聞くと同時に、俺はある可能性に思い至る。
燈の身体ではあるものの、それは再利用したというだけであって――記憶は、上書きされたのではないか、と。
俺は彼女からすっと離れると、空を仰ぎ、乾いた笑いを零す。
「そっかぁー……」
「え、えっと……ま、前の方の、お友達……ですか?」
『前の方』と言うあたり、俺の予想は当たっていたらしい。
俺は、空を仰いだまま、懐かしむように、
「ああ……知ってるか? お前の前の奴。『燈』って言うんだけどさ、こいつがまた強気な奴でな、初対面で『バカ』とか言ってくるんだよ」
「燈さん、ですか?」
「そうそう、その名前。俺が付けたんだけど……普段は強気なくせに、俺が名前付けてあげたら、泣いて喜んでたんだよ。可愛い奴だよな」
「ふふ……そうですね、可愛らしいです」
「でさ、最後もまた会うって約束してたのに……どこか、行っちゃってな」
「……どこに行かれたんですか?」
「……さあ、どこだろうな」
俺の言葉に何かを感じ取ったらしい彼女は、はっとした表情になり、口をつぐむ。
やがて彼女も、俺に倣い、高い空を見上げた。
佇む二人の間を、秋の涼しい風が通り抜けた。
ふとした瞬間に、あっ、という声を上げた信号機の少女は、
「青になりましたよ――『バカ夏樹』さん」
俺の名を呼ぶ声が、完全に、記憶と重なる。
「……え?」
「ふふっ……まったく、鈍いんだから」
「お、お前……燈、なのか? 本当に?」
「疲れるのよ? 自分の性格に合わない演技するのって」
「……どう、して? だって、お前はあの日――」
こっちを向いた少女の屈託のない笑顔は、まさしく、燈のそれであった。
きっと、彼女の身体を借りても、他の人間には――この笑顔は、作れない。
「私、回収されたのよ。N社に」
「……回収?」
「そう。でも結局、これは手が付けられないって、そのまま返されてね。まあ、おかげで事故には遭わなくて済んだのよ」
「……なんで?」
「バグがあった、っていう話は知ってるでしょ? そのせいで、私」
続く言葉は、なんとなく予想がついた。きっと、
「アンタのこと、好きになっちゃったみたい」
……アンドロイドにとって、『恋愛感情』とは確かに、バグでしかない。
人間との間に子孫を残せない以上、恋愛などにうつつを抜かしていてもまったくの無意味なのである。
でも、今回だけは。このバグのおかげで、俺は彼女と、結ばれることができた。
「それで……それで、ね」
しばしの後、燈は唐突に、それでいて恥ずかしそうに、こう切り出した。
「その……私、新型の子が来るから……もう、お役御免だって……」
「え……? そ、それはつまり」
「……」
ほんのり頬を紅潮させ、燈がうつむき気味に目をそらす。
これはつまり、アレだろうか。
「要は、行くあてがないから俺の家に住まわせてほしいとか、そういう……」
「…………そういうことよ」
「なるほど、じゃあ同棲生活か」
「い、言うなバカぁっ!」
そうは言いつつも耳まで真っ赤に染めているあたり、やはり意識しているところはあるのだろう。
まったく、可愛いやつめ。
「そ、それで結局……どうなの?」
両手の指を突き合わせながら、若干上目遣いに尋ねてくる燈。
俺がわざと腕を組んで、うーん、と悩むようなしぐさを見せると、その表情がさらに不安げなものになる。
もうだいぶ泣きそうになった声で、燈は、
「……だ、だめ?」
「いや全然。というか別に悩んでいたわけでもないからな、今の」
「え……な、なによもうっ! 変に心配させるな!」
「いやー、つい。悪い悪い」
「……それじゃあ……いいの?」
さて、そろそろ素直に答えてあげるとしようか。
俺の返答は、もちろん、
「ああ。おかえり、燈」
季節外れの蝉が、鳴いた気がした。
二人の夏が、ようやく、終わる。