4.夕暮れ
夕日が照らす、赤い街並みの中。
俺と燈は並んで、交差点近くの階段に、腰かけていた。
「……落ち着いた?」
「……ああ。ありがとうな、燈」
「あんまり心配させないでよ? アンタが死にそうになってて、私、本当に焦ったんだから」
「そうだな……ごめん」
ホントよ、と言いながら苦笑する燈。
夕日に映えたその顔は、いつもより、一段と綺麗に見えた。
「なんにせよ、アンタが無事でよかった。その……彼女さんと妹さんのことは……つらいだろうけど、きっとそれが運命だったんだと思うから」
「……」
「だから、元気出して? 自分のせいだって自分を責めても、何も始まらないわよ」
「……そっか」
「うん。そうよ」
燈が、俺を気遣って、当たり障りのないことを言ってくれているのは、分かる。
けれども、なぜだろうか。その響きが、今はとても心地よかった。
すっと立ち上がった燈が、身体の後ろで手を組む。
「……約束は、ちゃんと果たしてもらうから」
「え?」
「約束よ。アンタの行き先に私を連れて行ってくれるっていう、約束」
「ああ……そっか。でもたぶん、来ても面白くないぞ?」
「いいの。私も、アンタの妹さんに一回会ってみたいんだから」
……妹のところだなんて、一言も言ってなかったのにな。
燈には、全部見透かされている。そう思った時、無性に笑いがこみ上げてきた。
そして同時に、俺の心も決まった。
「なあ、燈」
「ん?」
立ち上がった俺が呼びかけると、燈の端整な顔立ちが俺のほうに向けられる。
「実は、さっきの話には……ちょっとだけ、続きがあるんだよ」
「……」
「今、お前に聞いてほしいんだ。頼む」
俺の言葉に、表情を曇らせていた燈だったが、しばし逡巡した後、
「うん……わかった」
対する俺が笑顔で応じ、今まで誰の目にも触れてこなかった『続き』が、語られる。
それは、苦痛や絶望とは対照的な――いわば、未来への希望の告白だった。
「あれから俺はずっと、恋人を作らないようにしてきたんだ」
「……」
「あんなことがあったからな。もう誰にも裏切られたくないって、裏切られるくらいなら誰とも仲良くならないほうが、誰も好きにならないほうがマシだって、そう思ってきた」
「……うん」
「でも、理由はそれだけじゃなかったんだよ。俺のせいで不幸になった人がいるのに、宮川や冬香は俺のせいで不幸になったのに、俺だけが幸せになっていいはずがないんだって、ずっとそう思い込んできたからなんだ」
燈は、何も言わない。
きっと俺の言葉に、何か思うところがあったのだろう。しかし、俺は構わず続ける。
「それでも……冬香も、お前も、俺が幸せになっていいんだって、そう元気づけてくれた」
かなり意訳したけどな、と、我ながら思い、心の内で苦笑する。
そして『続き』は、いよいよ最終局面に差し掛かろうとしていた。
「それに、俺にはもう、それでも抑えきれないほど好きな人がいた」
……もう、分かってもいい頃だろう。
何かを察したらしく、はっとした表情の燈に、俺は、思いをそのままぶつける。
「燈。俺は、それほどまでにお前のことが好きになってたんだよ」
……長い沈黙の時が、訪れた。
彼女は、何を思ったのか、その顔を伏せ。俺は、そんな彼女をしかと見つめ。
肩まで伸ばした明るい茶髪が風になびくと、燈はその顔を伏せたまま、
「……きょ、今日は、もう帰りなさいよ」
「……え?」
「ごめん、すぐにはちょっと、心の準備ができなくて……明日、ちゃんと返事するから」
顔を上げた彼女は、夕日の中でもはっきり分かるほどに、耳まで紅潮させていて。
それでいて、目は決意の光に満ちていた。
「明日の、帰り道。午後五時に、ここで待ってるから」
そう言った彼女の言葉に、裏切られるかもという、疑いの余地なんてなかった。
彼女の身体から放たれる光が青色に変わり、しばしの別れの時が訪れたことを告げる。
蝉時雨はすっかり、蜩の物悲しい声に変わっていた。
*
デジャヴ、というものを感じることは、割と多いほうだった。
学校で、家で、出先で。どこにいても、それは唐突に襲ってきたものだった。
だが、これだけは確信をもって言える。
これほどまでに強烈で――それでいて凄惨なデジャヴは、一度として、なかった。
あるいは、それはもはやデジャヴと呼べるものですらなかったかもしれない。
なぜなら、かつて同じ光景を見たことを、鮮明に覚えていたから。
家の目の前、いつもの横断歩道。いつもなら、彼女が立っているべき場所。
その周りに、なぜか大きな人だかりができていた。
人と人の間を潜り抜けていくと――視界が開け、横断歩道の現状が露になる。
何台もの警察車両。一台の救急車。そして、ぐしゃぐしゃに潰れたダンプカー。
ダンプカーが、ちょうどいつも彼女がいた場所に、突っ込んでいた。
もしあそこにいたのだとしたら、彼女の生存など、もはや望むべくもなかった。
瞬間、頭の中が真っ白になり、乾いた笑いが喉の奥から吐き出される。
「……嘘……だろ……?」
膝からその場に崩れ落ちた俺は、ただ呆然と、その光景を眺める。
いつしか、頬には何条もの、熱い涙が伝っていた。
――また、なのか? 俺はまた、ここで――
大切な人を、失うのか?
そう、奇しくも、冬香が事故に遭ったのもこの場所だった。
地面に手をつき、涙を落とし続ける俺は、心の底から怨嗟を叫ぶ。
しかし、その思いはもう、言葉にすらならない。
「ああ……ぁ……うあああああああああっ!!」
空虚な夕焼け空に、俺の絶叫が響き渡る。
耳を澄ませば、ふと、彼女の声が聞こえてきそうだった。
『元気出して』と、優しく俺のことを励ましてくれそうだった。
……きっと彼女は、待っていたのだろう。事故の瞬間まで、俺のことを。
(……待ってるって、言ってたじゃねえかよ……)
だからこそ、最後の瞬間まで、あの場を動こうとしなかったのだろう。
(なのに……お前がいなきゃ、意味ないじゃねえか……)
本当なら、彼女が――あれだけ待って、この場にいられない彼女が、最も無念であるはずだった。
だけど、今だけは。それを忘れて嘆く俺を、許してほしい。
(なんで、なんで……なんで、いないんだよ……!)
ふと、思い出す。彼女との約束を。
『約束だからね?』
ふと、思い出す。彼女の最後の言葉を。
『ここで待ってるから』
……ふと、思い出す。彼女の無垢な笑顔を。
『……夏樹』
溢れ出す涙を止めることなど、俺にはできるはずもなかった。
午後五時を告げる時報が、鳴る。