3.過去
――永劫にも近い時間が、経った気がする。
轟音が過ぎ去り、後には静謐さだけが残った。
……それと、少女のかすかな呟き。
「……なに……考えてるのよ……」
その言葉が脳裏に届いた頃には、俺は、甘く柔らかい感触に、包まれていた。
ぎゅっと俺の背中を抱き締める、華奢な腕。震えながらも必死に俺を押しとどめようとする、小さな肩。顔のすぐ近くで風になびく、鮮やかな茶髪。
そして――顔を上げた少女の目に溜められた、溢れんばかりの涙。
「ねえ……アンタわかってる……? アンタ、今、死ぬところだったのよ……?」
「……」
「何とか言いなさいよ!!」
少女――燈が、それまでとは打って変わって、強く、叫んだ。
「アンタ、言ってたじゃない……夏休みに入ったら、私ともっと話するんだって……いつかは、アンタの行くところに連れて行ってくれるって……なのに、何もしないまま死ぬつもり!? そんなの、私が絶対に許さないっ!!」
少女の――燈の、涙交じりの訴え。
それすら響かないほど――いや、むしろ響いてしまうほど、俺の心は空虚だった。
微動だにしない俺を見かねてか、取り留めなく涙を流しながら、燈は懇願する。
「……ねえ……お願いだから……戻って、来てよ……」
……その言葉は、俺の心に届いたのか、否か。
ともあれ俺は、気づけばこんなことを口にしていた。
「……燈」
「……なに……?」
涙に濡れた燈の頬が、夕日を浴びてきらきらと光る。
普段の強気な彼女とは対照的に、弱々しい態度を見せる燈。そんな彼女にこの話を聞かせるのは、酷というものかもしれなかった。
それでも。
「少し……昔話を、聞いてくれないか」
それは俺の、苦痛と絶望の告白だった。
◇
『す、好きです、付き合ってください!』
すべての発端は、この一言だった。
俺の目の前に立っている、彼女――宮川遥は、正真正銘の、才媛である。
誰の目にも愛らしく映る容姿、群を抜いて秀でた成績や運動神経、さらには家事まですべてそつなくこなせるだけの才能を持ちながら、常に謙虚で友好的な姿勢を崩さない。
彼女が、クラス――もっと言えば、学年の男子の憧れとなるのも、無理な話ではなかった。
そんな彼女を好きになってしまった男子の、決死の告白である。
当然、玉砕は覚悟していた。しかし彼女は、
『うん……わかった、いいよ』
笑顔で、そう返答してくれたのである。少し、頬を紅潮させながら。
夢ではないかと、思った。このまま死んでしまうのではないかとも、思った。
……これから先、幸せに満ちた日々が訪れるものだと、信じていた。
しかし、現実はそこまで甘くはなかったのである。むしろ、それは非情でさえあった。
『遥、その、よかったら一緒に』
『あ、ごめん私用事あるから』
『……』
俺が何か話しかけても、いつも、こんな調子だ。
それでも反応を返してくれるうちはまだよく、ひどい時は何度呼びかけても無視される。
さらには、
『名前で呼ばないで。恥ずかしいから』
『そんなになれなれしくしないでよ。変な噂が立ったら困るでしょ?』
こんなことを言われる始末である。
何のための恋人なんだ、と思ったこともあった。恋人になってから、以前より距離を感じるようになったと思ったこともあった。しかし、それでも俺は、
『ああ、分かったよ。ごめん』
……健気にも、こんなことを言ったものである。
あの時の、彼女の申し訳なさそうな――それでいて、どこか哀れむような表情を、忘れはしない。
だが、これだけならまだよかった。
いくら恋人らしくないとはいえ、このくらいなら、ほかのカップルにもしばしばあることだと聞いていたから。
それだけに、この言葉を聞いた時には、衝撃が走った。
『ねえ、知ってる? 遥ちゃん、別に君のこと好きじゃないんだって』
『それどころか、ずっとまとわりつかれて迷惑だって言ってたよ』
数人の女子が、クスクス笑いながら、こんなことを言ってきたのだ。
……きっと、俺はここで、恋人として否定しなければならなかったのだと思う。
だが、日頃から遥のあの言動を見ていた俺には――どうにも、それが否定できなかった。
そして俺は、その日の帰り道、珍しく一緒に歩いていた遥に、言ってしまったのだ。
『宮川……』
『うん?』
『宮川って、本当は……俺のこと、好きでもないんじゃないか?』
言った途端、たちまち、遥の表情が曇る。
『……誰が言ったの? そんなこと』
『……いや、その』
『……クラスの女子?』
俺は、何も言えない。もしかして、自分はとんでもなくひどいことを言ってしまったのではないかと、そう思い始めていたからだ。
何も言わない俺を見てか、遥の表情が、泣きそうなものに変わっていく。
そこまで来て、ようやく、先の俺の予感は確信に変わった。
――そうだ。あんなもの、所詮はただの噂じゃないか。なのに俺は……
慌てて、謝って撤回しようかと思ったが、もう遅かった。
泣き出すかに見えた遥は、しかし、そうではなく、
『……バレちゃったら、しょうがないか』
…………え?
『そうよ、別に私は、最初からアンタのことなんて好きでもなんでもなかった』
嘘だ、そんなの、
『目的? 特にはないけど……まあ、遊びかな。あとは、寄り付く男子も少しくらい遠ざけられたらいいかなって』
……あんまりじゃないか、だって、俺はこんなに、
『アンタみたいなのと付き合ってあげてたんだから、ありがたく思いなさいよ』
……。
そして、最後に彼女は、こう言い放ったのだ。
『アンタなんて、嫌いよ』
遥のこの言葉が、鋭利な刃物のように、俺の心を抉る。
……最初から、分かっていたはずだった。
彼女のような高嶺の花が、俺のような奴に手の届く存在であるはずがない。……そう、ちゃんと理解していたはずだった。
――だけど俺は、途方もない悲しみと、怒りとに呑まれていた。
それはどちらも、きっと等しく、信じていた人に裏切られたことによるもので。
俺に、そこから立ち直れなんて、到底無理な話だった。
家に帰った俺は、抜け殻のごとく何もできず、ただ、布団に籠って泣いていた。
そんな不甲斐ない俺を、気遣ってくれる優しい妹がいた。
『……お兄ちゃん、大丈夫?』
『……』
『どうしたの? 何があったの?』
『……』
『……そっか。ごめんね、それならもう聞かないよ』
……俺なんかには勿体ないほど、出来た妹だと思う。
だが、皮肉にも俺は、そんな妹の優しさにも気づけないほど、滅入っていた。
『夏樹、お米切れちゃってるから、買ってきてくれない?』
『あっ、お母さん、お兄ちゃん忙しいみたいだから私が行くよ』
……本当に、まったく思い出すたびに泣けてくるほどの優しさだった。
そんな彼女の優しさに、すっかり甘えきった俺は、
『行ってきまーす』
これが、彼女の健康な姿を見る最後の機会になるなんて、思いもしなかった。
*
雪が、降っていた。
一面の銀世界に、車輪の跡――そして、血塗られた、雪。
俺が着いた頃には、冬香の姿はすでになく、
代わりに、遥が立っていた。
警察が現場検証をする傍らで、俺は、ゆっくりと彼女に近づく。
青ざめた顔で、信じられないといったふうに立ち尽くす遥に、
『……宮川……まさか、お前が……?』
『……ちがう……こんなの、違う、違う……ちがうっ!』
『何が違うんだよ!!』
俺が叫ぶと、遥は力なく地面に崩れ落ち、弱々しく、うわ言のように呟いた。
『だって、あの子……いきなり、こっちによろけてきて……止まれなくて……』
事故現場を見てみると、倒れた自転車と音楽プレイヤー……そして、大きな米の袋。
刹那、俺は察した。
恐らくこれは、音楽を聴きながら走っていた遥の不注意と、滑りやすい地面、そして重い米の袋に足がふらついた冬香の不運とが重なって起きた、不幸な事故だったのだろう。
なら、彼女の不運を引き起こしたのは誰か? ――俺じゃないか。
『……俺の、せいなのか……?』
『……え?』
『俺のせいで、俺が買い出しに行かなかったから、あいつは……』
俺がそう口走った瞬間、
ここぞとばかりに遥が叫び、俺を責め立てる。
『そ、そうよ! アンタあの子のお兄さんなんでしょ、なんで止めなかったのよ!』
『アンタがちゃんと止めてれば、もしかしたらあの子だって!』
『というか、あの子じゃなくてアンタが行けばよかったんじゃないの!?』
『そうじゃなくても、お兄さんとしてアンタが付き添ってあげるべきだったのに!』
『私は悪くないわよ! 全部、アンタの所為じゃない!!』
今にも俺につかみかかりそうな勢いの遥を見てか、現場検証を終えた警官が細身な彼女の体躯を羽交い絞めにする。
身体の自由を奪われながらも、彼女は、怨嗟を叫び続けた。
『許さない、絶対に許さない……っ! 私は、私は……アンタに何もかも、人生までめちゃくちゃにされて……っ!!』
判断なんて、要らなかった。
気づいた時にはもう、俺の手は、小気味いい音ともに、彼女の頬を叩いていて。
『……あ……あっ、う、ううっ……』
遥の双眸に溜まっていた涙が、溢れ出してきた。
『ごめんなさい……えぐっ、ごめんなさい……っ……』
誰かに向けて――恐らくは冬香に――謝りながら泣きじゃくるばかりの遥。
その姿を見れば、今なら、何かを思ったかもしれない。
しかし、もうすっかり壊れていた俺は、こんなことを思ったものだ。
ああ、俺が好きになった女は、――こんなにも醜かったのか、と。
◇
「……これが、俺のすべてだよ」
「……」
「はは、笑えるだろ? こんな人間のクズが、今もこうやってのうのうと生きてる」
「……」
「こんな奴、早く死んだほうがいいに決まってるのにな」
「……」
「……なあ、何とか言ってくれよ、燈……」
「夏樹」
それまで、ずっと黙って俺の話を聞いていた燈が、口を開いた。
彼女が、俺の目をしかと見つめたまま、近づいてくる。
――叩かれる、ものだと思っていた。でも、そうしてくれれば、救われるとも思っていた。
しかし、現実のそれは俺が思っていたよりずっと優しくて、柔らかくて。
「……もう、大丈夫よ」
何より、暖かかった。
俺を抱き締める燈の香りを、感触を、温もりを……優しさを、全身で感じる。
途端、なぜか涙がこらえきれなくなって。
俺は初めて、彼女の前で泣いた。