2.優しさ
七月上旬。灼熱の太陽が、アスファルトと人とを等しく焼く、夏。
降り注ぐ熱気をものともせず、涼しげに彼女は立っていた。
「おはよう、燈。今日も暑いな……お前はいいよな、涼しそうで」
「あ、うん、おはよう……何言ってるのよ、私が一番暑いに決まってるじゃない。日中何時間ここに立ってると思ってるのよ」
「え、そうなのか? アンドロイドは熱感覚ないとかじゃなくて?」
「そんなわけないでしょ。機械は熱に弱いんだから」
燈と知り合ってから、およそ二カ月。
彼女とは毎日学校の行き帰りに話す程度だが、会う頻度が頻度なせいか、以前と比べるとかなり親密になっている気がする。たぶん、そこらの女子高生同士よりかははるかに仲がいい。……なんて言ったら偏見だとか言われそうだ。
俺が彼女に名前を付けてあげたのは色々と功を奏したようで、あれを機会に燈は道行く様々な人と話をするようになった。なんでも最近では、俺が付けた名前のことを自慢げに語っているらしい。そんなに嬉しかったのか。
「それにしても、夏樹。アンタ、妙に嬉しそうじゃない」
「お、分かるか?」
……ふっふっふ。何を隠そう、俺たちを待っているのは学生にとっての一大イベント、
「夏休みが、明日からなんだよ!」
「あっ……」
ニコニコする俺とは対照的に、燈はなぜかうつむいてしまう。
どうしたのだろうか。
「……ん? どうした、熱中症か?」
「違うわよ! ……まあ、その、よかったじゃない。しばらく会えなくなるけど、せいぜい楽しんできなさいよ」
「……しばらく会えなくなる? 何言ってるんだ?」
「えっ? だってアンタ、そのことを言いに来たんじゃ……」
一転、きょとんとした表情になる燈。
もしかするとこいつ、俺と会えなくなるからあんなに寂しそうにしてたのか。可愛いやつめ。
「いや俺は、せっかく夏休みに入るんだし、お前ともっと話せたらなって思ってるんだぞ?」
「あ……そ、そうなんだ。ふーん」
「……嬉しそうで何より」
「い、いいでしょ別に! 私だって一人だと寂しいのよ!」
……たまにこうやって素直になるのは卑怯だと思う。
俺が少しばかり高鳴る胸をなんとか抑えようとしていると、
「……アンタは、夏休みの予定とか、ないの?」
「え? だから、俺はお前と話を」
「それ以外に」
「んー、そうだな……一つ、あるにはある」
「……どんな?」
「それはちょっとな。……あ、何なら燈も来るか?」
俺がニヤニヤしながらからかうと、燈はふてくされた調子で、
「……行けないって、知ってるくせに」
「あはは、悪い悪い。まあ、いつかは連れて行ってやるって」
「……ホントに?」
「ああ、本当だ」
「約束だからね? 絶対、忘れたりしないでよ?」
「忘れないって。……お、もうこんな時間か。じゃあな、行ってくる」
「うん」
燈に別れを告げ、青空の下、灼けた道路を学校へと駆け出す。
……空があまりに青く綺麗で、少し、憎らしくなった。
*
『……アンタなんて、嫌いよ』
そう宣告された記憶が、脳裏に、鮮明に蘇る。
……やめろ。頼むから、もう、やめてくれ。
『……ごめんね、私のせいで』
今度は、また違う声。
違う。お前が悪いんじゃない。だから謝るな。
『わ、私は悪くないわよ! 全部、アンタの所為じゃない!』
そんなわけないだろ! ……そんなわけないだろ……お前のせいで、こんな――
『もう、いいんだよ? 私のために』
やめてくれ。そんな優しさを向けないでくれ。
全部、俺が悪いのに――お前は、何も悪くなんてないのに。
ああ、そうだ。本当は、ずっと前から分かっていたんだ。
俺さえ、いなければよかったんじゃないか。
俺のせいなんだ、全部、俺のせいなんだ――そうやって自分を責める声は、いつしか、先刻の二人のものとなっていく。
『――アンタの所為で』
『――あなたのせいで』
ああ、俺はいったい、
どこに、救いを求めればいいんだ。
『……バカ夏樹』
最後の瞬間、唯一、暖かさをもって俺の心に届いた声――その声に、聞き覚えなんてなかった。
*
夏休み、初日。
最初からいきなり用事があると言ったら、
『何も最初の日からどこか行くことないじゃない……』
と残念そうな顔をされたが、こればっかりは仕方ないと割り切ってほしい。
夏の陽射しを浴びて白く輝く建物に足を踏み入れると、涼しい風を感じるのと同時に消毒液のような臭いが鼻についた。
リンゴやメロンなどの果物を詰め合わせた包みを抱え、白衣をまとった人々に会釈をしながら階段を上り、目的の部屋を目指す。
二〇七号室。扉を軽くノックすると、元気のいい返答が聞こえた。
……鈴を転がすような、可愛らしい声。この声を聞くたび、胸が締め付けられる思いがする。
「……冬香、入るぞ」
「あっ、お兄ちゃん! おはよー」
俺に向かって、気丈にもにっこり笑って見せた少女。
彼女が、俺の妹――冬香である。
「元気にしてたか?最近はどうだ、調子は」
「うん、だいぶ調子よくなったよ! 今ならもしかしたら歩けるかも、なんて」
「……」
リンゴの皮を剥く手が、ぴたりと止まる。
冬香は、半年前、交通事故に遭った。そしてそれ以来、下半身不随になっている。
成績の面でも、部活動でも大きな期待を寄せられていただけに、その精神的苦痛には筆舌に尽くしがたいものがあっただろう。
「……お兄ちゃん?」
硬直していた俺を心配し、冬香が顔を覗き込んできた。
慌てて俺は笑顔を返し、またリンゴの皮を剥く作業に戻る。
ただでさえつらい思いをさせているのだ、これ以上冬香に心配をかけるわけにはいかない。
乗り出していた身を元に戻した冬香は、俺に向かって寂しげに微笑むと、
「……ねえ、お兄ちゃん」
「……ああ」
「まだ……恋人、作りたくない?」
返答の代わりに、剥き終わったリンゴの一片を、冬香の口元まで運ぶ。
冬香が小さな口でリンゴを食べている様子は、どこか小動物のようで愛らしかった。
その間に、いたって静かな口調で、問う。
「……どうして、そんなこと聞くんだ?」
「んっ……だって、お兄ちゃん……その、遥さんのこと、気にしてるんでしょ? それに、たぶんだけど……私にも負い目を感じて、遠慮してるんだと思う」
「……」
なんで、と言いたかった俺の心を読むかのように、冬香は続ける。
「わかるよ、そのくらい。だって、兄妹だもん」
「……そんなこと」
「ねえ、お兄ちゃん。私はもう気にしてないよ? 遥さんのこと。だから……その、お兄ちゃんもつらかったのはわかるけど……新しい人、探したら?」
少し泣きそうになりながらも、何度か逡巡した後、この言葉を、冬香は口にした。
「もう……いいんだよ? 私のために、お兄ちゃんがつらい思いをしなくても」
刹那、涙が溢れ出してきた。どうにも、抑えようがなかった。
リンゴの皿を持った手の上に、無数の涙が零れ落ちる。
「ごめん……ごめんな、冬香……全部、全部俺のせいなのに……!」
「ううん、お兄ちゃんが謝ることじゃないよ……誰も、悪くなんかない」
「でも……! 俺は、お前をこんなひどい目に合わせた、」
続く言葉に入る名は、果たして、誰のものか。
それを口にするのに、迷いなんて、必要なかった。
「遥も、俺自身も……許せないんだよ……!」
……ふと気づけば、俺を包む、柔らかな温もりがあった。
見れば、冬香がその華奢な腕でもって、俺のことを、そっと抱きしめている。
心地いい彼女の温もりの中で、俺は、子供のように泣いた。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「……ああ……」
すっかり泣き疲れた頃、俺の耳元で、冬香がそっと囁いた。
「……私からの、お願い……聞いてくれる?」
「……ああ、分かったよ」
大体、どんな言葉が続くか、予想はついていた。
それは本来、俺が決して受容してはならない言葉だったはずなのだ。――それでも俺は、彼女の優しさに、甘えるしかなかった。
「……許して、あげて? 遥さんのことも……お兄ちゃん自身のことも」
自分の情けなさに、思わず、また涙が零れそうになる。
窓の外では、けたたましいほどの蝉時雨が、降り注いでいた。
*
……何のために、俺は生きてきたのだろう。
信じていた人からは裏切られ、大切な人も奪い去られ。
『……アンタなんて、嫌いよ』
『もう、いいんだよ? 私のために』
そして――自分が守ると決めた人にさえ、あんな顔をさせてしまった。
『許して、あげて?』
俺の生きてきた意味は、果たして、どこにあったのだろう。
気づけば、目の前には見慣れた横断歩道。信号は赤く光り、左側からは大型のトラックが走ってきているのが見える。
――もう、いいんじゃないか。
そんな文言が脳裏をよぎった瞬間、
特に何の考えもなく俺は足を踏み出し、
左からは猛スピードで巨大なトラックが、
……視界が、暗転する。