1.出会い
学校というものは大概ブラックである、というのが今の見解だ。
一日あたり六時間にも及ぶ授業。二時間ほどの部活。煩わしい人間関係のせいで精神は張り詰めっぱなしな上に、家に帰ってなお宿題に時間を取られたのではたまったものじゃない。
もちろん、こんなもの本物のブラック企業で働く方々からしてみれば生ぬるいものだろうが、たかが高校生にこれはちょっとばかり酷ではないだろうか。
……前置きはさておき。そんなこんなで俺は今、疲労困憊で立ち尽くしている。
信号待ちだ。
この数分でさえ学生にとっては貴重だというのに、まったくなんという仕打ちだろうか。
「……ねえ」
今みたいな状態で数分も待たされたら眠くなるに決まっている。ほら、
「ちょっと、アンタ」
現に今も、こうして次第に意識が、
「ねえ、そこのアンタ! ほら、アンタだって!」
遠のいていき……俺は、微睡みのごとくゆったりとした境地へ、
「アンタよ、アンタ! ちょっと聞いてる!?」
……なんだようるさいな。
夢の中でまで誰かに起こされる筋合いなんてないじゃないか。少し頭にきた俺は、どうせ夢の中だからと思い、叫ぶ。
「ああもう、うるさい! 俺にはちゃんと夏樹って名前があるんだからアンタアンタ言わずに……って、あれ?」
どこだ、ここ。……ああ、家の前の横断歩道か。
叫んでみたら、そこは現実だった。そして……すぐ側に、ぎょっとした表情の少女。
「……え、えっ? な、なによいきなり」
「ああ、いや、ごめん。そんなつもりじゃ」
「……わかったわよ、名前で呼べばいいんでしょ? バカ夏樹」
「おい初対面でバカはないだろ貴様」
ふてくされたような表情で、腕を組みぷいっとそっぽを向く少女。
……それにしても、この子は本当に何者なのだろうか。
寝ている赤の他人をたたき起こしてまでバカ呼ばわりするなんて、まったく親の顔が見てみたい。
「……ほら、バカ夏樹」
「なんだよ」
「……青になってるわよ、信号」
「――え」
見れば、少女の全身が青く、鮮やかな光を放っていた。
闇の中、幻想的に光りながら佇む彼女は、さながら精霊のようだった。
そこで、俺はようやく思い出した。
(そうだ……この子は、人型信号機だ)
つい先日、N社製の最先端アンドロイド、『人型信号機』が導入されると、ニュースで報道されていた。そして、その設置が決まった自治体の一つがこの町だ、とも。
なんでも、徘徊による事故の減少や日常的なコミュニケーションによる認知症防止など、少子高齢化社会の行く末を見据えての事業らしいが、詳しいことはよく分からない。
それにしても、仮にもコミュニケーション用アンドロイドならもっと穏和な性格でもよさそうなものだが、どうやらこの子の性格には少々難がありそうだ。
バグなのだろうか。
(ただ、まあ……性格こそアレだが、容姿だけなら可愛いんだよなあ)
控えめに言って、彼女は、ものすごく可愛い。
アンドロイドだということを隠せば、若干幼さの残る容姿ではあるものの、ミスコンで優勝することだって夢じゃないと思う。確かにこれだけ可愛ければ、多少性格がキツくても毎日話したくなるかもしれない。結局、いつの時代も可愛さは正義ということか。
グッジョブ、N社。褒めて遣わす。
「……な、何よニヤニヤして。早く渡らないと赤になるわよ?」
気づけば、彼女の身体から放たれる青い光はすでに点滅を始めていた。
これはいけない、早く渡らなくては。もうほとんど忘れかけていたが、学生の時間は貴重なのだから。
「おお、そうだった。ありがとな!」
「う、うん……」
俺が手を振りながら駆け出すと、彼女のほうも小さく手を振っているのが見えた。
これから始まるであろう彼女との日々に思いを馳せながら、俺は駆ける。
……俺の去った後、人気のなくなった横断歩道で、ぽつり、彼女が呟く。
「……変な奴……」
悪いが、お前には言われたくない。
*
翌朝、少し余裕をもって家を出た俺は、軽い足取りで通学路を歩く。
理由は一つ、例の人型信号機に会うためだ。
家のすぐ目の前にある横断歩道。それを渡った先に、彼女は退屈そうに立ち尽くしていた。
俺は彼女に向って軽く手を挙げ、
「よ、おはよう」
「ああ、うん……何よアンタ、毎日ここに来るつもり? 暇なの?」
「いや、ここ通学路だし」
「えっ!? ……あ、そ、そうよね。じゃあ仕方ないわね」
一度驚くと、何やら焦り始める少女。心なしか顔が赤い。
と、ここで俺はある素晴らしい結論に思い至った。
昨日、性格に難ありと評価した、この子。……彼女は、ツンデレなのではないか、と。
少しからかってやろうと思い、俺はニヤニヤしながら畳み掛ける。
「お、お? なんだよ嬉しいのか?」
「う、うるさいっ! そんなわけないでしょ!」
「でもなんか顔が赤いぞ?」
「えっ!? あ、こ、これは……し、信号機だからよ、信号機だから!」
……従来型のほうの信号機は悠々と青い光を放っているのに、か。ほほう。
まあ、もう恥ずかしさのあまり少し泣きそうになっていることだし、今日のところはこのあたりでやめておこう。これ以上いじめたらさすがにちょっと可哀想だ。
昨日の借りは大分返してやったからな。
まだ赤みの残る顔で睨んでくる彼女に対し、
「ところで、昨日から気になってたんだけど」
「……なに?」
「お前の名前、なんて言うんだ?」
……率直に言って、特段、おかしなことを言ったつもりはない。
だが、この反応は何だろう。彼女は俺の言葉に心底驚き、呆れたような顔をしてみせた。
「は、はぁ!? 名前なんてあるわけないでしょ! アンタただの信号機に名前付けてる人見たことあるわけ!?」
「いや普通にあるぞ? 例えばそっちの奴がジョニーでこっちがメリー」
「……」
「……冗談だからな?」
無言で引くのはやめてもらえると精神的には助かる。
そんなやり取りはさておき、
「しかしまあ、名前もないのは不便だろ。なんなら俺が付けてやろうか?」
「え、ちょっ……アンタさっきの話もう忘れたの!? ただの信号機に名前なんて」
「あのな……こう言っちゃなんだが、従来型の信号機はただの機械だ。その点、お前はちゃんと感情もあれば思考だってできる。本質はどうであれ、生命活動をしている俺たちと何ら変わらない……少なくとも俺から見れば、一人の女の子だ」
「……」
「だからさ……もっと自分に自信持てよ。な?」
「……うん」
以外にも彼女がしおらしい反応を見せたことで、少し気恥ずかしくなる。
そのことを隠すように、俺は、
「……あー、えっと、どんな名前がいいかな」
「あ、あんまり恥ずかしいのはナシね? キラキラネームみたいな……」
「うーん、そうだな、せっかくなら信号機に由来したものがいいか……交通渋滞……予告灯……信号無視……」
「……いきなり変な方向に行ってる気がするのは私だけ?」
「お、これにするか」
「今の流れからしてものすごく突飛な名前が出てきそうなんだけど!」
む、失礼な。
そこまで言われたら黙っていられない。見せてやろう、俺のネーミングセンスを!
「『燈』、なんてどうだ? ほら、信号機って光るからさ」
「……あか、り……?」
「ふっ、どうだ。俺のこの類い稀なるセンスの前に言葉も出なく――」
その刹那、俺は見た。
彼女の透き通った双眸から、大粒の雫が零れ落ちていくのを。
「えっ!? あ、悪い、まさかそんなに嫌だとは思わなくて、その」
「ううん、違う、違うの……」
「で、でも……それなら、どうして泣いたりなんか……」
「私……今まで、人間みたいに接してもらえたことすら、ほとんどなくて……ひどい時は話しかけても無視されるし、呼ばれる時だっていつも『信号機』、『信号機』って……だから、嬉しくて」
「……まあ、その……なんだ、気に入ったならよかったよ」
……少しだけ、納得がいった。
彼女が今まで、どうしてあんなに自分と人間の線引きを主張していたのか。あんなふうに接されていた彼女のことだ、きっとそこには想像を絶する苦痛や、寂しさがあったのだろう。
それなのに俺は、そんなこと知りもしないくせに、『自信を持て』なんて言ったのだ。
そんな自分自身のデリカシーのなさも、痛いほど、理解させられた。
……でも。それでも。
見ているこっちがつらくなるような、無垢な笑顔を少女は見せる。
「……うん! 私、本当に嬉しい……!」
そんな彼女が、いたたまれなくて。
俺は、逃げるしかなかった。
「……あ、俺、もう行かなきゃ! じゃあな!」
「え? あ、ちょっと待っ……」
彼女の制止にも応じることなく、俺は見慣れた通学路をひた走る。
頭の中では、彼女への様々な思いが、処理能力を超えて交錯し続けていた。
ぴたり、と。家から数百メートルほど離れた交差点で、立ち止まる。
彼女の姿は、もう見えない。
(……あんな顔、されたら……揺らいじまうだろ……!)
頭を抱えてうつむいた俺の声なき慟哭は、きっと誰にも届かない。
――同じ頃、彼女のほうは。
相も変わらずあの横断歩道で、少し紅潮させた頬のまま、呟く。
「……ありがと、夏樹」