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怪社外伝・『人化かし』

作者: 灯宮義流

本作品は、『怪社〜怪社員入社編』の特別編『妖仙狐の人化かし』を一部修正して公開したものです。現在公開されている『怪社』と一部設定の不一致がある可能性がありますが、ご了承ください。


 冷たい雨が降っていた。町を歩く人の足音も、どこかそれを鬱陶しく思うように、あちこちでぶっきらぼうにコツコツと鳴っていた。

 気温がおかげでドッと下がる中、コートを深く着込む人間も、あちらこちら見受けられる。

 ところが、そんな中において、一際目立つ者が一人いた。この雨の中、傘も差さずに帽子を目深に被っているだけの、長身で奇妙な男だ。

 怪しいのはそれだけではない。手袋をつけて、ズボンも足先までキッチリと身体を覆っている。それは普通と言えば普通かもしれないが、どこか自分を隠そうとした着こなしをしているようにも見える。

 そんな男が信号機に差し掛かったところで、ふと横断歩道の真ん中に人が立っているのに気づいた。その人は、腰が直角に曲がっているのがよく目立つ、禿頭の男、すなわち、老人だった。

 老人は、右へ左へとキョロキョロ首を動かしながら、何かを探していた。よく見ると、地べたに眼鏡が落ちているのが見えた。探しているのは恐らくそれだろう。

 ようやく本人もそれを見つけるが、オドオドした手先は、なかなか眼鏡を掴むことが出来ないでいた。

 気づけば、青だった信号機も、ゆっくりと赤に変わろうとしていた。すると、先ほどの怪しいコートの男は、タッと駆け出した。

「おじいさん。大丈夫ですか?」

「ああ? どなたですかな?」

「どこにでもいるような、お人好しの男です」

「良い所に、眼鏡が落ちてしまって、でも腰が悪くて取れないんです。拾ってくれませんか」

「喜んで」

 コートの男は、地面に落ちた眼鏡を素早く拾い上げると、老人に自らかけてあげた。そしてすぐに老人を抱え上げ、横断歩道から立ち去った。

 老人は、瞬きする間もなく移り変わった出来事に驚き、目をパチクリさせる。

「アンタ足がずいぶん速いですなあ。『すぷりんたー』とかいう奴ですか?」

「いえいえ。こういうのは生まれつきなんですよ」

「違うんですか。勿体無いよそれは……。才能があるのにそれを発揮出来ないっていうのは、勿体無いよ」

 何か思うところがあるのか、老人はしみじみとつぶやいた。コートの男はそれに対して、特に動じなかった。

 それから老人は、コートの男に別れを告げると、また腰を直角に曲げて、ゆっくりゆっくり、一歩一歩、歩き始めた。

 そんな彼を見送っていると、後ろから男はポンポンと肩を叩かれた。気づいて振り返ると、肩を叩いたのは少年だということがわかった。

 少年は、至って感情のない表情と、心の篭ってない瞳孔を持つ、どこか不思議な印象を相手に押し付けてくるような人物だった。

 コートの男と同じく、傘を差していないうえに、コートも着ていないのが、特に不気味だった。

「お待たせしました。目立ちますねその格好」

「何なら帽子を取って歩きましょうか」

「さっきのお爺さんがショック死しますよ」

「見てたんなら私より前に助けてくださいよ。同じ『人間さん』でしょう」

「ならどうして助けたんですか? 見ていて不思議でしたよ。いきなり走り出して助けるんですから」

「理由なんてありませんよ。万物の本能です」

 コートの男は、少年にそう一言告げた。少年は少し首をかしげた。

「老いた犬を見て、愛おしさや、長生きさせたいという気持ちを人間が抱くのと同じです。誰でも弱者を労わりたくなるものなんです」

「あなたはお爺さんより年を重ねてる方ではありませんか。それに、無く子も黙る『大妖怪』さんですよ」

 少年が、奇妙な名前を呼んだ。男の名前であろうか? それにしては随分不自然な名前であった。

 何かの芸名なのであれば、こういった名前もさほど不自然はない。しかし、彼の雰囲気からは、そういった芸をする者の風格が見受けられなかった。

「今はこの通り、妖力の半分以上を封じられてしまった、タダの狐妖怪です」

「そういえばそんな話を銭鼬さんから聞きました」

 コートの男は、自分のことを狐妖怪と呼んだ。それに対して、少年は何の動揺も見せなかった。彼等にとって、それは『常識』的な話だったのだ。

 奇怪な会話は、なおも続く。


「それでも妖力は結構使えるじゃないですか。どうしてわざわざそんな薄気味の悪い格好で町を歩いて、不審者になる必要があるんですか?」

「さっき言ったように、私は妖力を封じられた時に、いくつかの術も封じられたんですよ。だから狐や狸が一般的に使えて当然であるはずの変化術も、今や使えなくなってしまってね」

「なるほど」

「だからこういう雨の日でもないと、人間世界に遊びに出ることも出来ないんですよ、戒十さん」

「不便ですね」

「別にそうは思いませんね。あ、人間の作る美味しいものがあんまり食べられなくなったのは残念かもしれないですけれどね」

「妖怪も、結構美食家なんですね。銭鼬さんもそんなこと言ってましたよ」

「彼の場合は、半分が生身の鼬だから、余計にそうなんですよ」

 そんな人知では幻か、作り話か、戯言にしか聞こえない会話をしながら歩いていく二人だったが、そんな二人の歩く先に、人が二人ほど見えてきた。

 一人は、腰を直角に曲げた禿頭の男、すなわちさっきの老人だった。なにやら首を必死にあげて、相手と会話している。

 話している相手の方は、彼とは違って胸を張り、堂々とした男であった。年齢はわからないが、かなり若いということだけはわかる。

 全身から漲っている、野生の獣のような威圧感は、老人を軽々しく圧倒していた。彼が少し突き飛ばしてみれば、老人はあっけなく歩道に吹き飛ばされるであろう。

 腰が曲がっているうえに引けていてる老人は、何か困ったように首を振ったり、手を横に振って何かを拒否していた。

 それを見た奇怪な二人は、怪訝な顔をするどころか、興味を持った野次馬なような顔を見合わせて、前の二人に近づいていく。すると、徐々に会話が聞こえてきた。

「散歩しにきただけだから、あんまりお金はないんですよ」

「俺もサイフ落としちゃって、家に帰れないんだよね〜。この間もガキ数人が俺一人をリンチにしやがってさ、それでお金盗られちゃって……あー、思い出しただけでムカツクわ〜」

「……あの」

「ねえお爺さん。俺って可哀想でしょう?」

「え? はあ、そう思いますけど」

「もう大晦日も近いし、お年玉って時期じゃない。だから少しでいいから恵まれない俺にお年玉頂戴よ」

「そんなこといきなり言われましても……」

「あー、わかったわかった。年金が最近いろいろ問題になってるのもわかるよ。俺こう見えてもニュース見る方だから」

 自分を指差しながら、若い男はニカッと笑う。対して老人の表情は、どんどん曇っていく。

「でも俺の場合は元が無いのよ。仕事もこの間理不尽な店長のおかげでクビになっちゃって、お給料を引き落とそうにもサイフがないからさ。通帳も使わないと思って遠い実家にあるんだよ」

「そ、それは大変ですねぇ……」

 じれったくなってきたのか、主張はどんどん無茶苦茶な方向に向かっていった。

「本当俺恵まれてないんですよ。だからお爺さん。未来ある若者のために、一つご寄付を!」

 老人に負けじと腰を直角に曲げて、若い男は図々しく手を差し出してきた。

 早く出さないと打ち殺すぞとでも手に書いてあったのか、老人の顔はどんどん青ざめていった。

 一通りを見ていた戒十という名の少年と、妖仙狐という自称狐妖怪は、ニカッと笑った。

「面白い光景ですね」

「そうですね。今は追い剥ぎの仕方も随分変わったものです。それともあれは物乞いですか?」

「いいえ。さて、どうします?」

「どうします? でしたら、戒十さんが決めてください、どんなのがお望みですか?」

「希望を言っていいんですか?」

「私のような弱小妖怪に出来るようなことであれば、なんでもどうぞ」

「そうですねえ。せっかくの機会ですから……」

 戒十はそう言われて、少し俯いて考え込んだ。妖仙狐は、それを楽しそうに眺めた。

 結構考えていたように見えたが、さほど時間のかからないうちに、彼は申し出に対する答えを出した。

「狐らしい化かしを、見てみたいです」

「ほう……」

 妖仙狐の気が変わった。今まで感じられた低姿勢な感覚は失せ、どこか堂々としたものになる。

 そして、目深に被った帽子の中から、何か細長く光るものが見えたかと思うと、懐から何かを取り出し始めた。

 コートの懐から出てきたものは、ヒラヒラした紙切れだった。さらに彼は、戒十の足元にたまたまあった、どこにでも落ちているものを拾わせる。

「さて。せっかく久々の人間世界ですから、私にとってもあなたにとっても面白い物を、見せてあげましょう」

 妖仙狐は、クククと笑いながらそんなことを言った。


「もし……そこの方」

「あん?」

 若い男が、突然苛立った声をあげた。さっきまでの敬語的な口調は、一瞬で吹き飛んでいた。

「怪しいものではありません。ただ、失礼ながらこれまでのお話、立ち聞きさせていただきました」

「へえ、それじゃあ邪魔しに来たってわけか」

 眉間にシワを寄せながら、男が手をポキポキと鳴らしはじめた。

 それを見た妖仙狐は、慌てて手をヒラヒラと振りながら、否定した。

「滅相も無い。お金にお困りとのお話でしたので」

 そう言うと妖仙狐は、ポケットから何か分厚い紙の束を取り出した。

 最初は何なのかよくわからなかったが、よく見るとそれはとんでもないものだった。

「ひ、ひひひひひ百万?!」

「私実は、そんなに後が長くないんですよ。そこで恵まれない方にこうしてお金を渡しているんです」

「これ、本当にくれるのかよ?」

「そうでなければ、こんな話は致しませんって。はい、どうぞ」

 妖仙狐は、何の躊躇いも無く、その百万円の札束を若い男に渡した。

 渡された男は、しばらく放心していたが、すぐに自分に起こった出来事を理解して、歓喜し始めた。

 まるで下手をすると、追い詰められて怒りのあまり狂ってしまった男のようにも見える。

「ありがとよ! すげえ! これが百万円かよ! やったぁーーーっ! あはははははは!」

 男は歓喜の声をあげ続けながら、老人のことなどすっかり別れて、そのままどこかへといってしまった。

 行ってしまった後、老人はどこか申し訳なさそうに妖仙狐の元に顔を向けた。

「あんな大金渡してしまって、アンタ本当に死にかけだったのかい?」

「いいえ。私にとってあんなものは屁でもないですよ」

 そう言いながら、妖仙狐は帽子をゆっくりととった。とった帽子の中からは、髪の毛にしては異常な量をした金色の毛が出てきた。

 さらに、耳らしき部分は天へと突き出し、口はやけに横に伸びて長く、鼻もその伸びた先にあった。

 彼の顔は、この世に存在する生き物で例えるのであれば、正しく『狐』の顔をしていた。

 それを見た老人は当然のようにたまげたが、突然傘を投げ捨て、雨で濡れているのにも関わらず、コンクリートの地面に跪いて、土下座をした。

「き、狐の神様! 神様がお助けくださったんですね! はあ〜……ありがたやありがたや……」

 そして、本当に神様を崇めるように、手をすり合わせて拝み始めた。

 雨に濡れながらも、なお拝み続ける老人を見下ろしながら、妖仙狐は、後ろでニカニカと眺めていた戒十に話しかける。

「では、見に行きますよ」

「楽しみですね」

 二人はそう言って、不敵に笑いあった。

 しばらくして老人が顔を上げた頃、もう目の前に狐の顔をした男と、奇妙な少年はいなくなっていた。

 目をしばらく擦り続けた老人は、その後通りかかった警察官によって交番に保護されていった。


「百万かあ、百万だよ〜、ははははは!」

 飛び跳ねてクルックルッとフィギュアスケートのように回るほど歓喜していた若い男は、百万円を両手に持ったままどこかへと向かっていた。

 とりあえず、先んじて彼は酒をたくさん買い込みたかった。彼はとてつもない酒好きだったのだ。

「あれ? 酒屋への道はこっちだったと思うんだが」

 ポケットに百万円の束を突っ込みながら、彼は今行こうとしていた所に自分が着いていないことに気づいた。

 金に気をとられすぎて道を間違えたのだろうと思って、彼は引き返そうとした。

 ところが、背後に今まで通ってきたらしい道はなかった。浮かれすぎて本当に知らない道に入ってしまったのか。

 自分が本当にヤバイ所に来てしまったと気づいた彼は、少し冷静になって、今まで来た道を探そうと、辺りを徘徊し始めた。

 しかし、いくら道を変えてみても、一向に今まで来た道が見えてこない。それどころか、引き返そうとするとまた見覚えのない道になっていた。

「俺、もう酒飲んでいたっけ」

 彼はそんなことを本気で考え始めた。しかし、やっぱりそんな記憶は無い。意識もハッキリとしている。

 だとすると、自分は一体どこに迷い込んでしまったのだろうか? それからもあらゆるところを彷徨ってみたが、全く知ってる道には出られなかった。

 流石に恐ろしくなった彼は、どこか高いところに昇って道を確かめようと考え付いた。目についた高いビルへと上り、その窓からここがどこかを見てみようと考えたのだ。

 急いで階段を上がっていくと、ふいに途中で足が止まった。階段の途中に古めかしい扉があったかと思うと、そこに店があったのだ。

 そこは、どこか渋い雰囲気を漂わせたバーだった。人を惹きつける魅力を持ったその店に、男はなんとなく足が進んだ。

 しかし今は真昼間だ。店など本当に開いているのだろうか? そんなことを不安がったが、駄目元で入ってみようと彼はそのまま扉を開けた。

「いらっしゃいませ……」

 店はやっていた。彼は驚いたが、同時に大層喜んだ。

 嬉々として椅子に座った彼は、すっかり自分がこのビルに入り込んだ目的を、一瞬忘れていた。

 ふいに、店主の姿を彼は見てみた。しかし、照明が暗いせいで、顔がどんな形をしているかまではわからなかった。

「どうしました。こんな昼間に」

 突然店主が話しかけてきた。ビックリして身体を一瞬震わせた彼だったが、極めて冷静沈着を気取ってそれに言葉を返す。

「道に迷っちゃってさあ。でもこんな所にバーなんてあったんだね。知らない所だけど」

「おかげでお客があんまり来ないんですよ……こんなところに作って失敗しました」

 気さくに話しかける店主に対して、彼は過剰とも言える笑い声で話しに対する対応を返した。

 何せ百万円持っている男だ。さほど大したことが無いことですら、今の彼にとっては大声で笑えるようなことだった。

「さて、何に致しましょう」

「そうだねえ。オススメはなんかある?」

「赤ワインなんていかがでしょう。うちのは美味しいって評判ですよ」

「ワインか、大人の風格があっていいねえ。それに決めた!」

「ありがとうございます」

 店主は、ワインを入れるためのグラスを手際よく用意した。その手際の良さに、男は自分がリッチになった気分になって、また気分を良くした。

 そして店主は、次にワインの瓶を取るかと、突然自分の身体をグラグラと揺らし始めた。男はそれを不自然に思ったが、舞い上がっていた彼にはそれもまた面白かった。

 少しの沈黙の後、店主はワインを静かに注いだ。その様子を男はニコニコしながらじっくり眺めようと、グラスと店主に目を向けた。

「本当に自慢なんですよ、このワイン」

「あっ……あっ……」

 男の笑顔が一瞬にして消えた。そして、口をパクパクさせながら、店主を指差した。

 店主は、別段何か起こったようでもなくそれに答えた。

「どうかしましたか?」

「だ、だだだだだってアンタ……く、くくくくく」

「何がおかしいんですか」

 少し不機嫌そうながらも、気さくに答える店主だったが、男の調子は戻らなかった。

「アンタ……アンタ」

「はい」

「く、首がねえじゃんかよお!」

 彼の言うとおり、店主に首はなかった。

 そして、その店主はその欠けている首の真ん中にポッカリ空いた漆黒色の穴から、静かにワインを注いでいた。

 首から注がれたワインは、正に鮮やかな真紅色をして、とても綺麗だった……。

「わあああああああ!」

 男は、椅子を倒して、扉を蹴破って外に出た。店は彼の暴走によって、一瞬で汚されてしまった。

 そんな失礼な男を、店主はカウンターから必死に呼び止めるが、彼はさっさといってしまった。

「お客さーん。お勘定がまだですよー」

 また自分一人だけになった店の中で、店主は寂しげにつぶやいた。


「こんな薄気味悪いところなんて、さっさと抜け出てやる! ちくしょう、なんだって言うんだよ!」

 男はまたビルを駆け上がっていった。今度は余裕が全く無かった。

 ゼエゼエ言いながら屋上へと駆け上がる男だったが、一向に屋上の階は見えてこなかった。

 とうとう疲れてバテてしまった男は、途中の踊り場で息を一度整えることにした。

 そして、少し自分でも落ち着いたかと思うと、ふいに窓があることに気づいた。

 冷静さを欠いて窓のことを見逃していたとは自分も情けないと思いながら、彼は外の風景を見た。

「…………」

 男はまた絶句した。この状況を見れば、どんな人間とてこうなるだろう。

 外の風景を見てみると、そこは自分が今まで生きてきた世界ではなかった。

 空は赤く、大地は荒れ果て、川らしきところにはマグマが流れている。そんな光景を、彼は昔映画で見たことがあった。

 ここはすなわち……。

「地獄……なのか?」

 窓に貼りついて、彼はしばらくその光景をずっと見ていた。あまりにも唐突すぎて、言葉が出なかった。

 だが、ふいに彼は下のほうから熱気がくるのを感じた。それも尋常ではない暑さだった。

 あまりにも暑いので、窓から目を逸らして、下を見てみると、またそこには信じられないものが自分に迫っていた。

 彼を暑さで苦しめていたのは、まるで火山から噴火したかのような、マグマだった。

 瞬時にここにいては危ないと判断した彼は、今度は死ぬ気で走り始めた。さっきとは比べ物にならない速さだった。

 もはや驚きの言葉すらでなかった。あり得ないことの連続で、言葉の出しようも無かったのである。

 まるでその光景は、さながら溶岩との鬼ごっこのようであった。正に彼は、地獄の鬼のようなものによって、こうして追われている。

 そして、もう走れないかもしれないというところで、彼は屋上の扉を見つけた。そして、まるで肉にでも飛びついたように、ドアノブを捻って扉を開け放った。

 意外にも簡単に開いたので彼は肩透かしを食らったようになったが、すぐに逃げ場はないかと辺りを見渡した。

 まず、下を見下ろしてみるとさっきまで自分がいたはずの地上には、このビル以外の建物はなくなっていた。

 というより、あがってきた階数が階数だけに、下に何があるかよく見えなかったのである。

 それを確認したかと思うと、後ろから溶岩が噴出してきた。男は腰を抜かしたような体勢になりながら、何も無いビルの端っこへと後ずさっていく。

「何なんだよ……これ」

「自分でおっしゃっていたじゃないですか」

 ヒッ! という情けない声をあげてから、男は後ろを振り返った。そこには、宮司の格好をした狐が、浮き上がってこっちを見ていた。

 その隣には、人間もいた。ただし、この世のものとは思えないほど、この地獄においても冷たい感情を感じるほど、冷血な雰囲気を漂わせた。

 すなわち、妖仙狐と、戒十少年だった。

「地獄、ですよ」

「お前か! こんなところに連れてきたのは、お前なんだな!」

「何を言ってるんですか。あなたはご自分でこの地獄に入ったんですよ」

「何だと? 誰が好き好んでこんなところに来るかよ!」

「そうでしょうか?」

 妖仙狐は、彼に背中を向けて、手を後ろに組んで、静かに語り始めた。

「地獄に行きたくない人は、例え偽善であっても、偽りの心であっても……人間にとって一般的な善の行動を取ります。そして閻魔大王様も、それを認めて少しは地獄での刑期を軽減してくれます」

「なんだと?」

「あなたは、自分の行動を省みてください。閻魔様に頼んで資料を頂きましたが、さっきの追い剥ぎ以外にも随分と悪いことしてるみたいですね〜」

「黙れ!」

「無銭飲食、万引き、スリ、詐欺……わあ、殺人未遂もあるんですね」

「うるさい、俺をここから帰せ!」

「そんなこと言われましても、あなたは持ってるじゃないですか。それを」

 と、妖仙狐は彼のポケットを指差した。百万円の入っているポケットだ。彼はポケットから百万円の束を取り出した。やはり何の変哲もない札束だ。れ

「ほら、その束の真ん中、引っ張り出してごらんなさい」

 言われるがままに、彼は束を崩して扇形にして、真ん中から紙を一枚取り出してみた。

『地獄行き希望券』

「あっ……なんだこれは……」

「あなたがそれを貰ってくださったおかげで、私は地獄に行かなくて済みましたよ。本当に感謝します」

「ふ、ふざけるな! 熱っ!」

 気づけば、彼の足元には、もう溶岩が差し迫っていた。

 急いで逃げようとする彼だったが、後ろには大地は無かった。思わず足を滑らせた彼は、ビルの淵につかまった。

 しかし、溶岩は容赦なく彼の手を焼こうと、じわりじわりと迫ってきた。

「さて、いよいよ地獄に『落ちる』時が来たようです。それでは、お達者で」

 そう言うと、彼が瞬きした隙に、二人は瞬時に消えてしまった。

 居なくなった途端、急に態度を変えて助けてくれ! と叫んだが、もう遅かった。

 彼の手を、溶岩が焼いたその時……彼の身体は、一気に下へと落下して言った。

 落ちた男の断末魔は、まるで地獄全土に響き渡るように、けたたましく、あちらこちらに反響した……。


「お兄さん、お兄さん」

「……あ」

「気がついた。何やってんだよアンタ」

「えっ?」

「自殺したかったのか、酔っ払ってたのか知らないけどね。だからって何でトラックの荷台になんで乗っかってくるんだよ」

 虚ろな目で、彼は辺りを見渡した。曇った空と冷たい雨が自分を包んでいることに、数秒経ってから気づいた。

 ここは紛れも無く、自分が今まで生きてきた世界だった。ただ、自分の住んでいる土地では無かったが。

 もしかして、今までのことは全て、夢だったのだろうか?

「ほら、さっさと降りてくれ。あーあ、商品が目茶目茶だよ。弁償だなこれは」

「あ、ああ……」

 彼は自分の手を見た。溶岩で焼けたはずの手は、焼けてはいなかった。ただ少し、荷台を触ったせいか、埃にまみれて薄汚れていた。

 そして彼は弁償しろと言われて、ふいに百万円のことを思い出した。ポケットをすぐに彼は探ってみた。

 カサッという音がした。一瞬怯みながらも、彼はそれをすぐに取り出した。

 ポケットから出てきたものは、ただの木の葉と、一枚の何か漢字が一文字書かれた紙切れだった。

「夢じゃない……これは……」

 彼はようやく気づいた、あの狐に化かされたのだと……。

 手に持っていた木の葉と紙が、バラバラッと落ちる。

「うわあああああああ! わああああああああ!」

「おいおいちょっと、弁償しろって弁償だよ!」

 叫びながら当てもなく走り去っていく彼を、トラックの運転手はどこまでも追いかけ続けた。

 男の手より落ちて、木の葉の真ん中に自然と落下した紙は、役目を終えたかのように、静かに燃えた。 

 そして、木の葉以外には、紙の燃えカスすらも、残らなかった。


「全く、妖仙狐さんもお遊びが過ぎますなあ」

「すいませんね、マスター」

「店はちょっと壊されるし、おまけに話に聞いてると、私は溶岩の海に巻き込まれてしまったそうじゃないですか」

「まあまあそう怒らずに」

「怒りはしてません。常連様ですからね」

 そう言うと、首の無いマスターは、首からまたワインを注いだ。

 ワインを手に取る妖仙狐の横で、戒十はしれっとした顔をしてそれを眺めた。

「戒十さんも、せっかくだから何か飲む?」

「未成年です」

「ああ、そうでしたね」

「水はないんですか?」

「ありますよ。フツーの水がね」

 といって、戒十には普通の水が手渡された。それを彼は、一気にゴクッと飲み干した。

「でも、面白かったですよ」

「化かしとは、こういうものです。私が山篭りしていた頃は、数え切れないほどの人間の驚く顔を見てきました。あれは堪らないですよ」

「本当に、良いものを見せていただきました」

「そうですか、満足頂けましたか」

 妖仙狐は、彼の感想にニコッと笑い、手を差し出した。

 それを見た戒十は、無表情のまま首をかしげる。

「なんです? これは」

「御代、いただきます」

「魂一つ?」

「勿論」

「明日銭鼬さんとお仕事する予定なので、その報酬が入ったらということで」

「つまりは……?」

「ツケで」

「仕方ありませんね」

 諦めた妖仙狐は、手を元に戻すと、またワインをそっと飲み始めた。

「そういえば、あの人はどこ行ったんでしょうね」

「確か青森って書いてありましたねぇ。トラックに」

「お金も無いのに、帰ってくるまでどれだけかかるんでしょうか」

 戒十は、そういって手の平で革製の値が張りそうなサイフを弄んだ。

「私は人間界にそれほど詳しくないので、詳しくはわからないですね」

「帰ってから、暇つぶしに計算でもしてみましょうか? 歩いてここまで帰ってくるまでの時間を」

 そんなことを語り合いながら、妖怪達の夜は更けていく。

 戒十は、それからもずっと水だけを飲み続けていた。

「やっばり、普通の水が一番ですね」

妖仙狐というキャラクターが個人的には好きで、主軸に何か書けないかと、当時学校で一時間半ほど一心に書いた作品です。今見ると本当にゲゲゲの鬼太郎における「幽霊電車」と「地獄流し」の融合だなあ、としか思えないのが、いかに当時鬼太郎に感化されていたかがわかります。今でも鬼太郎にはかなり影響を受けていますが。

あんまり怖くないと思うのですが、一応ジャンルはホラーにしておきます。ファンタジーのほうがやっぱり合っているかもしれませんが。

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