《第1章/第1話》 白桜邸と不愉快な他人たち。
昨晩、屋根の上にいたはずの自分がどうしてベッドの上にいるのか――。
という瑣末な感慨は目を覚ましてから二秒後には切り捨て、御幸はキャリーケースに手を伸ばし真新しい制服に着替え始める。
窓の向こうからうっすらと白い光が滲み、本日の朝を告げる刻――午前6時32分。
御幸は基本的に早起きで、それまで過ごしていた孤児院でも誰よりも先に朝を迎え独りで食事をとるのが慣例となっていた。ここに来てもその習慣はぶれず、早々に身支度を済ませた御幸は通学鞄を手に部屋を出る。
「……」
シン……、と静まり返る白桜邸の廊下。
四月とはいえ朝の冷え込みは冬のそれと違わず、壁に掛かっている豪華な絵画やアンティークはまるで凍り付いているかのように佇んでいる。御幸はそれを横目に流してからホールに向かって歩いていく。流石に出かけるには早過ぎる気がしないでもないが、ここでボーっとしてるよりかは遥かにマシだろう。きっちり敷き詰められた絨毯を踏みしめながら正面玄関に手を伸ばしたところで、
……きゅ。
と、小さく腹の虫が鳴く。
そういえば、昨晩は結局食事に一切手を付けていなかったことを思い出す。コンビニにでも寄り道して時間つぶしがてら軽く食べるか――と、背後に微かな視線を感じドアノブを回す手を止める。
……っう、うぅ……っぇぐ……ぃっぐ…………
聞く人が聞けば心霊現象と叫ぶこと間違いなしの少女がすすり泣くような、というか泣き声。御幸が身体を半分ほど回して後ろを覗いてみると、西棟に続く扉の隙間からマリエルが覗いているのが見えた。振り返った御幸と視線が合った瞬間バタリと扉を閉め、たかと思えば数センチほど開いてまたこちらの様子を窺っている。
……鬱陶しい。
「……なんですか?」
「ひぎゅッ!? わば、あわわばば……!!」
御幸が声を掛けると、マリエルは泣きべそをかきながらドアを開けたり閉めたりを繰り返す。ドアの開閉音と彼女のすすり泣きとが混ざって大変不愉快なハーモニーを奏でながら、御幸のイライラ度が徐々に増加していく。
無視して行こう。
そしてドアを半分ほど開けたところで御幸の背中にマリエルのすすり泣きがチクチクと突き刺さり、振り返れば目だけをドアの隙間から覗かせている。
背中を向ける、すすり泣かれる。
振り返る、鬱陶しい視線だけが注がれる。
どないせっちゅーに。
「何なんだよ、本当に。用があるなら言えって」
「ひぎゅッ、はぅぇ゛ぇ゛え゛……」
……拙い。
昨日からの出来事が仮に夢であったとしても『バンシー』である彼女を泣かせるのは非常によろしくない。
朝っぱらから重苦しい溜息を吐き捨て、御幸は開きかけたドアを閉め、改めてマリエルの方へ向き直る。一応、片膝をついて目線の高さだけは合わせておく。
「……僕に、何か用か?」
なるべく声音を和らげ(あくまで御幸の基準で)マリエルに語りかけると、彼女はドアから姿を見せぬまま蚊の鳴くような細い声で返した。
「…………ぉ、ぉ、はよぅ……ざぃ、ます」
「あぁ、おはよう。……それだけなら僕はもう行くぞ」
「あ゛ぇッ、びう゛ぅ゛……」
「埒が明かない……」
そしてまた、くぅ、と控えめな腹の虫の主張。
別に急ぐほどの時間でもないのだが、空腹とイライラの相乗効果の所為か早く出ていきたいという欲求が募っていく。
その時、ようやっとマリエルから言葉が飛んできた。
「ごひゅじん、様……あ、っの……ぉ、ぉなか……空ぃひ、て……ます……よね?」
「……」
空腹なのは事実だし、それを満たしたいがために早く出ていきたいのだが、ここで「要らない」と四字で返したならばもれなく『バンシー』の泣き声が上がるだろう。今のところ彼女以外起きていないようだし、あの執事やらフランヴェルやらを起こして余計な騒ぎにするのもそれはそれで不本意だ。
不承不承、と顔に出しながら御幸は小さく頷いた。
「昨日、結局何も食べてないからな」
「でで、っでしたりゃ、の、あの……ご、っごご用意しまひゅ……う゛ぅ゛……こ、こちぃ……らへ……」
か細過ぎる声はドアが閉まる音にかき消され、そして再び冷たい静寂に包み込まれる。観念した御幸はマリエルが消えた西棟への扉へと向かっていった。
廊下の意匠は東棟とさして変わりない。豪奢な額縁に収まった絵画が等間隔で並んでいたり、角には観葉植物であったり古ぼけた鎧騎士が並んでいたりしている。少々広過ぎる感があるような廊下に踏み込むと、再び視線を感じ足を止める。
「……」
マリエルが、甲冑の陰からこちらを見つめている。
うるうると、涙をたっぷり溜めてますよと激しい自己主張をする真っ赤な瞳に見つめられながら歩みを進めると、それに合わせてマリエルも台所を騒がすアレのような高速移動をして今度は観葉植物の傍に身を隠し顔だけこちらを向ける。敢えて言及せず進んでいくとマリエルもそれに合わせてカサカサと進んでいき、やがて昨日の食堂とは別の部屋に入っていった。プレートには『給仕室』とある。
念のため、と御幸はノックする。物凄く小さな声で「どうぞ」と聞こえた。……ような気がする。
中は給仕室の通り――キッチンだった。
蛍光灯の白い明かりに照らされた調理器具の類は新品同然に光り輝き、何だか調理するのがもったいないという本末転倒な感想を抱かせる。シェフが数人は並んで作業出来るようなテーブルに、思わず見上げてしまうほどの巨大な銀色の冷蔵庫など、一見すると何処ぞの高級ホテルのような調理場だが料理に関して縁の無い御幸からしてみればどうでもいい。そんな見事な調理場の端っこで、件のマリエルは御幸から極力遠ざかろうとしながらあっちへ行ったりこっちへ行ったりしている。手にしているのは野菜だったりパンだったり卵だったり。抱えているモノで凡その料理の見当は付いた。
「サンドイッチ……ね」
朝食としてはベターなモノだし、作るのだってよほど不器用な人間でもない限りさほど手間がかからない。御幸はそのままドアに寄りかかって調理の一部始終を時間つぶしのつもりで見守ることにした。
材料を揃え終えたマリエルはエプロンをきゅっと締め、テーブルの下から恐らく彼女専用であろう踏み台を取り出し作業に取り掛かる。手を洗い、食パンを切り分け、卵はフライパンの上であっという間にオムレツに生まれ変わる。レタスやトマトに包丁を入れる手際は流石メイドといったところか一切の淀みがない。実に手際は良いのだが、その作業の傍らでチラチラチラチラチラチラと涙目で視線を注がれると見ているこちら側としては非常に落ち着かない。よそ見して手を切ったりでもしたらどうするつもりだろうか。
「……ヒぃッ!」
時々、何もしてないのに悲鳴が上がるし。
仕方なく、御幸は特にアテもなく視線を彷徨わせる。調理器具、大きなオーブン、ピザ用と思しき窯、和洋中様々な趣向の食器群。御幸が来る以前は彼女たちだけが住んでいたらしいが、それにしたってちょっと過剰なほどの物量。時折来客でもあるのだろうか。意味も無い思考に耽っていると、調理場の方から小さな声が聞こえた。
「あぅ……ぅぅ゛……」
振り返ってみると、マリエルが半開きの冷蔵庫を見上げて泣きべそをかいている。それの何処に泣く要素があるのかと半目になって見てみると、彼女の小さな腕がふりふりと空を泳いでいる。よーく見てみると、彼女の視線の先には可愛らしい牛のイラストがプリントされた箱があった。パンに塗るためのマーガリン、もしくはバターだろう。踏み台を以てしてもなお数センチほど足りず、ジャンプしようと足を曲げるも、落ちたら痛いだろうなぁという恐怖の所為なのか跳ばず、ただ踏み台の上で屈伸運動を繰り返してるだけにしか見えない。「うぅ……ん」とか「……ぇいッ」とか気合いを入れても届かないものは届かない。それを延々繰り返しているうち、不意に棚の中の食器や調理器具の類がカチカチと小さく震え音を立て始める。この感覚はつい昨日味わったばかり。
「ぃっぐ……ぇぐ…………う、う゛ぁ゛」
「…………ほら、コレだろ」
泣かれては堪らないのでと、御幸は冷蔵庫の中のマーガリンを掴みマリエルにそっぽを向きながら差し出す。目的のモノを手に入れたのだから万事解決――かと思っていたのだが、当のマリエルの第一声は、
「…………ぴ」
「……ぴ?」
「ぴィっ、ぎに゛ゃ゛ぁ゛ぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!??」
耳の鼓膜をつんざくほどの悲鳴だった。
鼓膜が破れたんじゃないかと思うほどビリビリする耳元を抑える傍らでマリエルは物凄い速度で御幸から遠ざかり、やがては外に続いているであろう勝手口から飛び出してしまう始末。そしてその数十秒後に戸の方から半身だけ覗かせながら何度も何度も頭を下げていた。なお、バターの箱はしっかりと抱えている。
「ごっごご、ごめな、ごべんな゛さい゛ごめん゛なさい゛ごめ゛んなさ゛いごめ゛んな゛さいごめ」
「……」
溜息さえ吐き出すことを忘れ、御幸は疲弊し切った顔で立ち上がり出入り口の方へと向かっていく。
「あ、あの……ま゛ま゛ま゛、ま゛っでぐだじ」
「……それが出来たらドアをノックして。その後少ししてから取りに行くから」
それだけ言い残すと御幸は給仕室から出てそのままドアにもたれ掛かる。
引っ越し早々面倒に巻き込まれ過ぎて無駄に疲れている。今日は高校の初日だというのに前途多難過ぎて眩暈がしてきた。ドア越しに聞こえてくる恐ろしいまでに控えめな調理音を聞きながら、御幸はマリエルの作業が終わるのを待つ。遅刻を懸念したが早朝ということに加え、ここから歩いて十分ともかからない距離だという事を思い出して杞憂と知る。
……体感で三分ほど経過した頃か。
御幸の背中に小さなノック音が響く。しばらくしてから受け取ろうとしたところで扉が、キィ、と音を立てて半分だけ開く。何事かと視線だけ動かしてみると、ふるふると震えるチェック柄の包みが現れた。
「……で、ででっきま゛じ……だっだだ」
「あぁ、ありが……」
受け取ろうと手を伸ばしたその先、まるでヤドカリのように大きな鍋をすっぽりと被る彼女の姿があった。御幸が包みを受け取ると見るや彼女は鍋に入ったままカサカサとあらぬ方向に進み、テーブルや棚に何度となくぶつかりながら勝手口の向こう側へと行ってしまった。あまりの奇行に呆気に取られていた御幸は一瞬包みを落としそうになって我に帰る。
「……」
世の中は広い、そういうヤツもいる。
適当に思考を切り上げてから御幸はようやく白桜邸を出て、歩きながら出来たてのサンドイッチを一つ頬張る。
「……不味くは、ないけど」
かなり、しょっぱかった。
今日から第1章が始動。
相も変わらず作業は順調です。
小ネタ的なモノはまた1章が終わるころにでも書くかも。
次回更新は4月24日の22時。
では、待て次回。