《序章/第4話》 独り暮らし、始めたかったのに。
長過ぎるテーブル、部屋を照らす眩いシャンデリアに、過剰に並んだ瀟洒な椅子の群れ。
シワ一つ見当たらない清潔なテーブルクロスの上にはこれまた高級そうな燭台が幾つも並び、さながら中世ヨーロッパのような雰囲気が漂っている。所謂、ドラマや映画で時折姿を見せる、栄えある貴族がワインなんぞ片手に語らっちゃったりするような装飾過多で豪華な食卓といえばイメージしやすいだろうか。とはいえ、席に着くのは御幸を含めてもたったの四人であり、十席以上も主無しの椅子が並ぶ様はやや滑稽で少々物悲しくさえもある。
「おぉ、やっと来たか。御幸も好きな席に座ると良いぞ。ほれほれ、わらわの隣なんかどうじゃ? ん? んんー?」
テーブルの一番奥、日本のマナーで言うところの上座にあたる席でフランヴェルはナイフを掴んだ右手でばっしんばっしんとテーブルを連打している。あんな見た目の割に礼儀作法はからっきしなのだろうか。御幸の不快度が増加。
「いえ、遠慮しておきます」
そう言って御幸は入り口から最も近い――言い換えればフランヴェルから最も遠い席に座った。動くのも面倒だし、この位置だと蝋燭の陰にフランヴェルの顔が隠れるので多少気が紛れそうだと判断したためである。
「とーおーいー! そこでは積もる話も何も無いじゃろうが! もういい、ならばわらわが直々にそっちに行くぞ!」
「……なら僕は部屋を出て行きます」
「なんでじゃ!? お主、わらわ達と一緒に飯を食うのがそんなに嫌か!?」
「喜んでるように見えるんですか?」
「お、お主なぁ……ッ!」
「あぅ゛……ひぐっ……ま゛、またケンカ…………にゃ、んですか……?」
そうして御幸とフランヴェルの睨み合いに火花が散り始めた時、食事を乗せたワゴンを押しながら現れたマリエルの姿に御幸は口を噤み、フランヴェルは冷や汗を浮かべながら無駄に大きな咳払いで誤魔化した。
「ぉほん、ぐぅぉっほん! ま、まぁ何はともあれ食事じゃ食事! 今日は御幸の歓迎も兼ねて豪勢なモノを用意させたんじゃ」
ワゴンに乗せられた料理をクラリッサがフランヴェルの正面に丁寧に並べていく。その手並みは鮮やかで、ソムリエの資格でも持っているのではないだろうかと御幸は内心で微細ながら感心していた。
「しっ、しし、失礼しまま……あわばば……ッ」
対して、御幸側に料理を運んでくれているのはマリエルなのだが、彼女の身体は常に縦揺れを起こしていて、ひとたび動こうものなら食器は鳴るわスープが跳ねるわと凄まじい光景を繰り広げていた。フォークやナイフの並び方も滅茶苦茶だし、御幸が視線を注ごうものなら料理を持ったまま小ジャンプして皿の上のムニエルらしきものも跳ねる始末。見かねたクラリッサがようやく補助に入り、給仕を終えると彼女たちはフランヴェルの両隣の席に着いた。
「ほれほれ、遠慮せずに食べると良い。たまに味付けが微妙な時もあるが、基本的に二人の作る料理は悪くないぞ」
「……」
言葉の真意はともかくとして、御幸は今一度テーブルに並んだ料理の数々に目を落とす。
鮮やかな模様が施された陶器製の皿に乗っているのは鮭のムニエル。澄んだ琥珀色のスープとその傍らには甘酸っぱい香りが漂う肉と野菜……マリネ、と言うのだったろうか。他、デザートなども含めバリエーション豊かなフルコース。御幸がそれを眺めている間に、フランヴェル達は思い思いに食事を始めていた。
「……ん? どうした御幸? さては嫌いな野菜でもあるのかの? くく、まだまだ子供じゃのう」
「お嬢様、そう言いながら私のお皿にナスとパプリカを寄越すのを止めていただけないでしょうか」
「わらわはいいんじゃい! ほれ、マリエルも食え食え! そんなんだから脂肪ばっか胸に溜まって背が伸びないんじゃぞ」
「せ、背も胸も関係な、ないですぅ……ぅぅ゛」
「……」
御幸の目に、スゥッ、と冷気が帯びていく。
遠い場所で勝手やかましく団欒を繰り広げているのを見せつけられ、御幸は料理への興味など諸々が全て失せ完全に白けていた。
どうして自分がこんな場所に居るのだろう。
どうせなら、コンビニでも探して適当なモノ買って食べて明日の学校に備えた方がよっぽどマシだ。冷めた思考は無意識に捌け口を求め、やがて窓の方へ視線を伸ばし――全ての窓にカーテンが掛かっているのを見て何となくイラッとした。元より短気な性分ではないのだが、不快な状況が続くに続いてたまたまそれが御幸の癪に触ってしまった。何を言うでもなく徐に立ち上がり、窓際へと向かっていく御幸にフランヴェルは小首を傾げる。
「む、どうした? トイレはそっちじゃないのじゃが」
「別に、気分が悪いだけ」
もはや意味を成していない敬語を使うのも忘れ御幸はカーテンの端を掴む。その瞬間、何故かフランヴェルが突然狼狽し叫び声を上げた。
「まっ、待て! 待つのじゃ御幸! 今カーテンを開けるのはマズい! 止めるのじゃ!」
「……」
カーテンを開けることの何が不味いのか、というか他人の言葉にいちいち従っていられるかと御幸は何ら躊躇い無くカーテンを一気に開く。芸術品かのように美しい装飾の施された窓枠の向こうで、蒼白い満月が星々の海に浮かんでいる。それまでの窮屈さや退屈さがうっすらと紛れ、そして遠くから「あちゃー」という無粋な小言が聞こえた。
「御幸、今すぐに閉めるのじゃ! でないとまーた面倒なコトが」
「綺麗な満月ですね、御幸様」
「……ッ、いつの間に」
不意に耳元で甘ったるい囁き声が聞えたかと思えば、今の今までフランヴェルの傍で食事をしていたはずのクラリッサが御幸のほぼ真横で空に浮かぶ満月を見上げていた。彼女のその言葉自体には概ね同意する。だが、煌々と注ぐ月明かりに照らされる彼女の様子が徐々におかしくなっていることに御幸は気付く。
「ふふッ、くくく……ッ」
「……おい、どうした?」
「いえ、私ちょっと……“月”が大好きでして。見ていると、何だか胸の奥から……燃え上がるんですよ」
「は? 何を言っ」
「御幸ぃッ! 今すぐクラリッサから離れるのじゃ――ッ!!」
フランヴェルが席から颯爽と飛び上がる――瞬間、御幸の身体が何者かの手により壁に叩きつけられたかと思うと、目の前にギラギラと双眸を輝かせる見知らぬ女性が顔を近づけてきた。互いの吐息が絡まりそうなほどの至近距離で、彼女は獲物を喰らう狼の如き舌なめずりを一つ。
「……よォ、紹介が遅れたな。俺も“クラリッサ”だ。御幸とか言ってたっけな。挨拶ついでだ、ちょっと付き合え」
頭上で尖った耳がぴこぴこと揺れ動き、そして気が付けば彼女の臀部からはしなやかな尻尾までも現れ、その言動は執事とは思えぬほど粗暴に変わっている。短かったはずの銀髪も足元ほどまでに急激に伸びていて、それまで冷淡だった顔は眼鏡が外れて野性味たっぷりのオンナの表情と化していた。
完全に、別人。
不意に後頭部から窓ガラスが派手に割れる音がしたかと思うと、御幸は彼女に抱えられながら屋根の上へと飛んでいて、そのまま野獣のように豹変したクラリッサに仰向けに押し倒された。
「……お、おい離せって」
「この状況でも平静でいられるその肝っ玉は親父譲りかね……そういうトコ、ますます気に入った。ならちょっとぐらいここで犯したって問題ないよな」
突然ネクタイを外したかと思えば瞬時にシャツのボタンを上から下まで一気に外し、御幸の視界いっぱいに燕尾服の中で熟れ余していた彼女の抜群のプロポーションが露わになる。滑らかな指先が御幸の頬に触れるか触れないか、そのギリギリのタイミング、空に浮かぶ月の中に大きな影が差し込んだ。
「フラァアンヴェルゥッ、ウェィィィィィィイイヴッ!!」
奇妙で、それでいて何故か熱血な叫び声が上がったかと思うと、御幸を抑えつけていたクラリッサの身体が不意にふわりとその場で浮かび上がる。拘束が解かれ、何事かと御幸が身体を起こしたその先には、俄かには信じられない光景が広がっていた。
「も、っももも問題大ありじゃ馬鹿者!? わらわの御幸に何と破廉恥な行為を!? そ、そそッ、それ、それはわらわが今晩辺りにでも密かにじじ、っこうしようとだな……!」
「なん……だ……?」
こつん、と革靴の音を屋根に響かせ着地したフランヴェルの右掌からは不可思議な光が溢れ、同じ色の光がクラリッサの身体を縛り付けている。いや、それだけでも十二分に信じ難いのだが、一番は彼女の背中から生えた漆黒の大翼だった。月明かりに照らされ黒く輝くその翼をはためかせるその様は、もはやコスプレと一言で片付けられるほど陳腐なものでは決してない。
そんな異様な光景を目の当たりにして、しかしクラリッサは何ら反応を見せず執事とは思えない軽口を叩き出し始めた。
「いーじゃないっすかお嬢様。別に減るモンじゃなし、むしろこういう経験は回数を重ねてオトコを磨くってもんでしょう? アタシはそれをちょこーっとお手伝いしてあげようとしただけで」
「破邪の剣があったら今すぐ成敗してやりたいわ、このド変態淫乱人狼執事め!?」
――人、狼?
フランヴェルに全力で罵られたクラリッサだったが、自身を縛っていた光のオーラを自力で無理矢理破いてからフンと鼻を鳴らす。
「失礼な。これは至ってフツーの生殖本能ってヤツですよ。お嬢様だってエロ本読んだり、たまに無性にムラッと来たりするでしょ? 近くに手ごろな男がいて、ムラッと来たらばそりゃもう一発」
「ふっ、ふふ、ふしだらな発言ばっかしおってからに!? つかわらわはエロ本なんぞよ、読ま……ん…………だない! じゃなくて、そもそも御幸は御鷹公認のわらわのモノじゃ! だのに、この主より先に手を出そうなど百年早いわ! というか、貴様のそれは執事としての態度じゃない!?」
「んっふふふ~? だったら自分の手で奪い取っては如何です? “吸血鬼”のフランヴェルちゃん?」
「ぐぎぎぎゅうぬぬぬぬ……!! い、今の状態でそれが簡単に出来ないと知っておるくせに……ッ! 許せんッ!!」
「……何なんだよ、コイツら」
互いに吠え合う二人の異常な姿を目の当たりに、それまで治まりつつあった頭痛がぶり返し、御幸の脳内をグチャグチャに掻き回してくる。
いっそ、全てが夢で落ちてくれればいいのに。
完全に呆れ果て思考する力も気力も失せた御幸を他所に、フランヴェルとクラリッサは平穏な日常をぶち壊すかの如き超次元的な死闘をおっ始める。フランヴェルの指先や手の平から閃光が爆ぜ、クラリッサの拳打からは時折烈火が迸る。轟々と力と力とがぶつかり、白桜邸の屋根の上で徐々にヒートアップしていく。
何もかもを放棄した御幸は空に浮かぶ月を見上げ――世界中の嘆きを濃縮したような溜息を吐いた。
「……シスター、神様って本当にいないんですね」
あまりに馬鹿馬鹿しくなり過ぎて、その日の御幸の意識はそこでプッツリと途切れてしまった。
これにて序章終了。
次回から早速第1章が開始です。
今回のお話はちょっと長めになると思われます……
次回更新は4月17日の22時。
次から隔週(金曜日)更新&22時となりますのでご了承くださいませ。
では、待て次回。