《序章/第3話》 独り暮らし、始めたかったのに。
もしかして『バンシィ』。
「……違う。『バンシー』……こっちか」
検索エンジンの無駄なおせっかいに小さく愚痴をこぼしながら、御幸は今しがた耳にしたキーワードを叩き込み、そして出てきたウィキペディアなるインターネット版百科事典の該当記事を開いた。自前のウルトラモバイルPCのタッチパッドの上で指を滑らせると画面が切り替わり、白背景に黒いフォントのシンプルなページの右側に黒い外套を羽織った老婆の絵画が表示される。
『バンシー』とは、アイルランドおよびスコットランド地方に伝わる女性の姿を模す妖精のことであり、家人の死を予告する不吉な存在とされている。
特徴はその“泣き声”。
災いをもたらすとされているバンシーの“泣き声”は、人間を含むありとあらゆる動物の叫びや悲鳴をごちゃまぜにしたような凄惨な泣き声とされていて、どんなに深い眠りに落ちている人間でもバンシーの泣き声を聞けばたちまち飛び起きると言われている。なお『バンシー』はケルト語で女性を指す“バン”と妖精を指す“シー”という意味の言葉に由来する。
「……ただ煩いだけだったけど」
今、御幸は白桜邸二階東側の最奥の客室――位置的に言えばフランヴェルの部屋の反対側に位置する場所にいた。あの騒ぎの後クラリッサから部屋の案内を受け、一番端の客室をとりあえずの自室として希望した。部屋には備え付けのクローゼットとベッドと簡素な机が一つ。トイレは近くにあるのだが浴場は西棟一階にあると説明された。最低限の荷物しか用意しなかったため部屋は殺風景なままで、御幸はPCの画面を眺めながら目元を指でほぐす。
「……」
この記事の通りであるならば、フランヴェルの部屋が揺れたのは彼女の泣き声が原因だということになる。一応ニュースやツイッターなどを調べたが、直近に地震が起きたという報道は何一つ無かった。信じ難い話だが、仮にマリエルが本当にバンシーだとしたら、つまり彼女は普通の人間ではないということになる。引っ越し早々、まだ入学前だというのに脈絡の無さ過ぎる珍事に御幸は頭痛を覚える。
……夢、ではないだろうか。
御幸はスマートフォンを取り出そうと――ついさっきフランヴェルに奪われてしまったことを思い出し、デスクトップからスカイプのメニューを開きコールする。
『ハーイ! お引っ越し、オツカレサマ! 早速ホームシックでーすかミユキ?』
「……シスター、神様っているんですか?」
『ホワァイ? そんなモノ居ませんて孤児院で三十五回は言いまセンでしたカ? これ含めたら三十六回目デスよ』
残念ながら、夢ではないらしい。
実の親よりも信頼におけるシスター・アルマがこう言うのだから間違いない。完全に諦めたように御幸は大きな溜息を吐き、それから近況を報告すべく重い口を開いた。
「引っ越しは終わりました……が、これはどういうことなんです? 空き家だと聞いていたのに何故か既に変な連中がのさばってますし、それにこの家の、白桜邸ってまさか」
『オーゥ、シット。すかーり忘れてマシた。そちらの方々はミユキの暮らしをサポートしてくれるお手伝いさんたちデスよー』
「……入学する前、僕は一人暮らしを始めたいと言いましたよね。格安の物件があるとシスター・アルマが勧めてくれたことには感謝しますが……僕は、この家を出て行こうと思います」
『マー、マー。そんなにお急ぎしなくてもオケーじゃないですか。というよりミユキ? 出て行った後のことはどうするおつもりデースか? ロクなマニーもないのにホテル暮らし? それとも、ホームレス? オゥ、いくらなんでもニッポンの高校生がホームレスはジョークでも笑えまセーン』
「そりゃわかってますけど」
シスターの言い分も尤もである。
しかし、御幸としてはあくまで誰にも頼らず生きられる一人暮らしをしたいのだ。不必要な同居人など願い下げだし、お手伝いさんなんぞ言語道断。無意味に広すぎる屋敷というのもやはり性分に合わないし、どうせなら自力でアパートを探すべきだったと今の今になって後悔し始める。
『ソーレーニー? 私ほどとは言いませんがけっこう可愛いガールばっかりじゃないデスか。保護者としてはほんの少しばかりミユキの貞操が心配デースけど……グフフ、私としては女の子に囲まれて困惑するアナタの顔も見てみたいモノですネー?』
「その気はありませんから」
『チッチッチー。ミユキ、男子足るもの据え膳食わねばデッド・オア・アラァイヴデースよ? 私、ここ最近のニッポンのノベルで勉強しましたー。男としてケジメつけないとうっかり世界が滅んじゃったりしマスよ?』
「死活問題にまで転ずるなら尚のこと僕は遠慮します」
『フゥー! 永久凍土みたいにクールなのは相変わらずですねェ。将来が不安なようナ、ある意味楽しみのようナ……?』
ネイティブなんだか被れてるんだか分からないシスターの声だが、少なくとも聞いている間は若干気が紛れる。
御幸は、物心ついた時からオーストラリアにある小さな孤児院で生活していた。
故も何も分からず戸惑っていた当時の御幸を育ててくれたのが、他ならぬスピーカー越しに聞こえる声の主ことシスター・アルマであり、事実上御幸の母と言っても過言ではない存在だ。全幅の信頼、と口に出すのは恥ずかしいが、生みの親よりかはよっぽど信頼できる人間だ。……少し、いや、かなりの変わり者だが。
「……所持金を上手くやりくりして、少なくとも三日はもたせてみせます。シスターのお陰で、多少の荒事にも対応は出来ますし」
『ノンノンノーン、そんなのはダメダメ、駄目よー? そのお家に引っ越した以上、御幸はその家で暮らす義務があるんデスからー、ね?』
「義務なんて何処にも――」
コンコン、コンコン。
言いかけた言葉はノック音に阻まれ御幸は嫌々ながら視線を向ける。返答せず無視しようかと思った矢先、扉の向こうから声が聞こえてきた。
「御幸様、お食事の用意が出来ました。食堂まで私がご案内させていただきます」
ディスプレイ端のデジタル時計はいつの間にか18時16分と表示されている。もうそんな時間になったのかと思いつつ、見知らぬ連中に食事に招かれても御幸に応じる気はさらさら無かった。
「結構です。後でその辺に適当に食べに行きますから」
『……ミユキ、せっかくアナタの為に作ってくれた食事を無駄にする気ですか?』
「…………」
急に飛んできたシスターのマジな声音に御幸は苦虫を噛み潰したような表情になる。
今の声は、少々怒ってる声だ。
シスターを怒らせるのは御幸としても不本意であり、マイクが拾わないような極小さな溜息を吐く。
「分かりました。数日は様子を見ます。それで構いませんね」
『ンー、まぁ及第点としまショー。ではでは、新しい家族との団欒をエンジョイしてきなサーイ』
「……何が家族だ」
スカイプを終了し、PCを閉じると御幸は小さく吐き捨ててから重い腰を上げて扉を開く。廊下で待っていたクラリッサは相変わらずクールな面持ちのままロボットのように精緻なお辞儀をする。御幸よりも数センチ身長が高い所為で嫌でも視線を上げなくてはならない。しかめっ面を浮かべる御幸にクラリッサはあくまで平静に、平坦な声音で告げた。
「食堂は西棟一階の最奥になります。では、参りましょうか」
「……」
御幸は無言と一瞥だけ返し、クラリッサもまた無言で頷くと静かに歩き出した。
本日は都合により予約投稿にて。
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次回更新は4月10日の21時。
では、待て次回。