《第3章/第1話》 それは急転直下に、颯爽と。
フランヴェルたちが白桜邸を出て行って、それからしばらく。
食事を済ませた御幸は、残っていた料理や食器を給仕室で全て処理して洗い、それから汚れたワイシャツを大浴場に設えてあった洗濯機に突っ込んでシャワーを浴びた。小ざっぱりしてから、誰もいなくなった白桜邸を一人で、無言で、何となしに歩いていた。
「……」
廊下に飾られたアンティーク騎士も、絵画も、観葉植物だろうと電話だろうと何だろうと、今は誰の手も触れず音など微塵も立てやしない。御幸が絨毯を踏みしめる音だけが、とす、とす、とくぐもって響くばかりで、後は外の雨の音と、それに時折混じる雷音だけ。
窓の向こう側には、白桜邸の中庭がうっすらと見える。
大きな噴水や瀟洒なベンチと丁寧に剪定された庭木は、天気が良ければきっと、もっと風情のあるいい絵になるだろうに、今では暗くうっすらと浮かび上がっているように見える所為で不気味な雰囲気だけが漂っている。その所為だろうか、ふと誰かの人影のようなものを見た気がして御幸は思わず足を止め、目を凝らした。
「……出て行く、とか言ってたけど、アイツらは行く宛てあるのか」
とするとなら、今噴水の前を横切ったの影は彼女たちの誰かなのだろうか。……そこまで考えて、背筋に何か冷たい感覚を覚え御幸は振り返る。今、白桜邸には御幸を置いて他に誰もいない。甲冑は静かに佇み、荒々しい雨音は今や白桜邸のBGMと化している。
人の気配なんて、一つもない。
一つも無いはずなのに、御幸は胸の奥底に小さな燻ぶりのようなモノを感じる。
「…………」
早く部屋に戻ろう。
そうやって足を早めた御幸の脳裏には、ある言葉が引っ掛かっていた。
“空き巣”。
二週間ほど前からこの雪霧町を騒がせている連続空き巣事件。相当に強引な手口で家々に侵入し金品を掻っ攫っていくというあのニュースアプリの文章。加えて、フォレスト・テイルでの森尾親子の世間話。
人が入ったからこそ、狙われるかもしれない。
人が暮らしている生活感を察知した空き巣の内の誰かが報せ、計画を実行に移そうとしているのかもしれない。
だが、あくまで、かもしれないというだけの話。
御幸は小さく息を吐くと、軽く首を振ってくだらない雑念を振り払った。テレビや新聞の文面で見る凶悪犯罪というモノほど、案外自分には縁遠いもので考え過ぎても杞憂になるだけなのだ。
自室に戻り、ベッドに倒れ込む。
目を閉じて、息をするだけで勝手に眠りに落ちる。
……そう思っていたのだが、何故か今日に限って眠気が一向に訪れなかった。
「……」
むしゃくしゃする。
自分の胸の中がまだ完全に整理しきれていなくて、それが眠りを邪魔しているのだ。身体を起こし、髪を掻いて、それからしばらく呆然と窓に視線を向ける。この雨降りの中、彼女たちは何処へ行ったのだろうか。変質者として警察の厄介になってたら、ここに連絡が来るのだろうか。関係者でもないのに、身元引受人になったりするのだろうか。御幸の懸念は少々ずれている。
「あー……もうッ」
煮え切らないこの不愉快な感覚に御幸は嫌気が差しベッドから降りて部屋を出る。どうせならミネラルウォーターのペットボトルぐらい持ってくればよかったかと今になって後悔した。給仕室と御幸の部屋とでは階段を一つ挟んで相当な距離がある。苛立ちを全開にして大股で給仕室へと向かって、冷蔵庫の中からお目当てのモノを掴んで一口。キンッと冷えた水が喉から体内へと巡り、体が冷えるといくらか落ち着きを取り戻し溜息を吐く。
「……言い過ぎた、よな」
落ち着きを取り戻し、冷静に考えてみれば御幸の発言は少々度が過ぎていた。一人暮らしをしたい、というのは確かに御幸の本心ではあるが、それはあくまで御幸個人としての希望であり、経緯はどうあれ現状の御幸の立場としては居候だ。不機嫌と咄嗟の勢いが原因とはいえ、居候が元いた住人を追いだしたというこの構図は、流石の御幸とて良心の呵責というものがある。冷たい冷蔵庫に背中を預けながら御幸は目を閉じた。
――ズ……ン。
「……?」
もたれていた冷蔵庫越しに伝わる微かな震動に御幸は目を開き周囲を見回す。今も雨音以外の音は聞こえず、最初は気のせいかと思っていたのだが、
――ズ……ン。
同じような震動音が聞こえ御幸は眉根を寄せる。フランヴェルたちが帰ってきて玄関が閉じる音……にしては、大き過ぎる。地震とも違う。何かが、白桜邸にぶつかっているような、そんな音だ。
微かな胸騒ぎを覚え御幸は給仕室を出ようとした直後、不意に部屋の電灯が一斉に光を失う。
「ッ!? ……停、電?」
小窓から漏れる僅かばかりの夜光だけが給仕室に差し込むがほとんど意味を成さず、御幸はポケットに手を伸ばして――舌打ち。スマートフォンは部屋で充電している。何か代わりの、明かりになるような物を手探りで探す。外へと続いている勝手口の傍の棚で小さな懐中電灯を見つけすぐさま点灯。古めかしい光ではあったが無いよりはマシか。
「ブレーカー、何処だろ……」
大抵の場合は洗面所かキッチンと相場が決まっている。白桜邸もご多聞に漏れず、この給仕室の端に設えてあった。御幸はブレーカーを見上げて――落ちていなかった。無意識のうちに見開いていく御幸の瞳。落ち付けと胸の内に唱えながら御幸は深呼吸をする。
「……電力会社とか、そっちの方でトラブルがあったかもしれない。だから」
ズン……!
突然御幸を襲った横揺れに身体のバランスを崩し尻餅をつく。今までの感じていた震動とは違う、この白桜邸全体をも揺るがすほどの大きな震動。明らかに自然現象のそれと違い、震動は断続的に続いている。
ズン……! ズッ、ズン……ッ!
一際大きな震動が響いたかと思うと、打って変わって雨の音だけが響き始める。
明らかに様子がおかしい。
懐中電灯を握りしめ、御幸は意を決して震動音の聞こえた方向――東棟の方へと向かって歩き出す。給仕室を出、廊下を進み中央ホールの扉を開く。天窓のお陰で幾許かは光があるが心許ない。早鐘を打つ胸を抑えながら一歩、また一歩と歩きドアノブを回す。
東棟、一階。
御幸が使っている部屋のある東棟だが、思えばこのフロアには一度たりとも足を踏み入れていない。基本的な構造はパッと見た限り他と同等だ。懐中電灯の明かりに浮かぶアンティークな飾りつけや絵画なども同じで、間取りも二階のものと類似している。客室、と思しき部屋の扉が幾つもあって、こちらのフロアにはやや規模の大きめの洗面所などがある。こちらも来客用の部屋だろうか。手前から順に部屋を見て回っているが似たような部屋ばかりだ。ホテルの一室のような豪華さはどこも変わらない。部屋を出、さらに奥へ奥へと向かって行って――ふと、頬に微かな冷気を感じ足を止める。
「……風? 何処から…………ッ!」
前方から感じる冷たい水気の混じった風と、目の前にうっすらと差し込む夜光。
弱々しい光に照らされ御幸の目に映る雨粒は、容赦無く白桜邸の廊下に注がれ、そこら一帯がずぶ濡れという有様。
強引に破壊されぽっかりと口を開く外壁。
そして、何者かに踏み荒らされぐしゃぐしゃになった紅色の絨毯。
「……冗談だろ」
何者かが、この白桜邸に侵入している。
鰻食ってきました。
小さい頃は大っ嫌いだったモノが、今では平然と食えるようになっています。
……その逆もまた然り、なんですが(苦笑
今回から第3章スタート。
サブタイの如く、事態は急転直下に変化し、そして颯爽と彼女が登場します。
次回更新は7月24日の22時頃。
では、待て次回。




