《第1章/第8話》 白桜邸と不愉快な他人たち。
「……ったく、無駄に広過ぎるんだよこの屋敷」
ワイシャツの上から第一高校指定の藍色のジャージだけ羽織った御幸は、給仕室を借りて洗い物をしていた。今朝、てんやわんや繰り広げながらマリエルが作ってくれたサンドイッチを入れていた容器を丁寧に洗い、拭いて、それからフタをして一息。手渡すのも面倒なので目に付きやすそうな場所に置いてから御幸は給仕室を出、まっすぐ自室に戻ろうとして――足を止める、
「……」
広過ぎると口では言うものの、実を言ってしまうと孤児院出身の御幸としてはこんな巨大な屋敷そのものが人生の中で初めてで興味が尽きなかった。ホールと廊下とを行き来する道すがらにいくつも見える扉の向こうはどうなっているのか、とか。実は何処かに隠し部屋的なモノがあるのでは、とか。十五も過ぎてるのにあまりに子供じみているので本人としても非常に恥ずかしいのだが。
「……まぁ、何だ。知っておいて損は無い……だろ」
この家の名もあって抵抗感こそ拭えないものの、それを上回る好奇心に揺られ、御幸は自室に戻るまでの経路の中だけと限定してこっそりと探検することに決めた。
最初に目に付いた扉はこの給仕室から食堂と反対方向側にある扉。扉のプレートには『大浴場』とある。念のため、と周囲を見回してから御幸はドアノブを回す。
「……」
いきなり目の前に広々とした大浴場がお出まし……なんてわけがなく、当然のことながら浴場前の脱衣所である。しかし御幸が育った孤児院を基準にしたとしても、その全ての規模が圧倒的過ぎて御幸はしばし言葉を失っていた。脱いだ服を仕舞うための木製の棚が幾重にもそびえ、住人以外の人が使うでもないのにコインロッカー完備。その脇には見慣れない奇妙な色をした栄養ドリンクの自動販売機にマッサージチェア、本格的なサウナまでも奥に設えられている。大浴場というか、完全に一種の健康ランドのような光景だ。個人が所有するにはあまりにも大袈裟すぎる。
「何だ、これ……」
そして正面にある大きな引き戸の向こう側には目測でも五十メートルプール二つ分ほどの、もはや巨大と言って差し支えのない大浴場が広がっている。お湯を注いでいるのがマーライオンだったりシーサーだったりケルベロスだったりと世界観が滅茶苦茶だが、脱衣所の件も含めスケールの大きさは完全に国営レベル。こんなの毎日入るヤツの気も知れないし、これを毎日掃除するであろうクラリッサやマリエルの苦労の底が知れない。……いや、流石に業者を呼んでいるんじゃないか?
「……ふぅ」
後ろ手で大浴場の扉を閉め御幸は静かに息を吐く。
……自分が使う時はシャワーだけでいいや。
気を取り直して御幸は廊下を歩きホールへと抜ける。ホール、と一言で済ませているがここも他に負けないほどに過剰な装飾が施されている。玄関から伸びる真っ赤な絨毯は東西への扉へと優雅に誘うように。廊下のものとは装備の異なる鎧騎士や、芸術性の高そうな絵画、見上げれば暮れなずむ空を映し込む天窓、艶やかに輝くアンティークな電話。本当にここは日本なのだろうかと疑ってしまうほどのオリエンタルな内装。完全に、金持ちが大金をはべらせ出来上がりましたよというのが嫌でも分かる。その金持ちが、自分の父親ではないだろうかという懸念が頭を過ぎる。
「……、」
脳裏にちらつく父親の後ろ姿。
まだ御幸が小さくて孤児院に居た時、たったの一度だけ顔を見せ、たったの一言だけを残し、それから一切の音沙汰を消した。御幸にとってはあまりに一瞬過ぎる父親の記憶。そしてそれは、御幸が父親を――御鷹を今でも憎み続ける唯一の理。
首を振り、頭の中の幻想を振り払うと今まで浮ついていた気分がかき消え、御幸は他の部屋を回ることを止めて大人しく部屋に戻ろうとしたところで――、
「あら、御幸様」
頭の上から声がして軽く見上げてみるとクラリッサとマリエルが並んでこちらを見下ろしている。何とも間の悪いことかと御幸は胸の奥で吐き捨てながら階段を上り二人とすれ違う。
「御幸様、もう少しでお食事ですので」
「……」
「あ、あのぁ……の……」
声を掛けた二人には目もくれず、御幸はいち早く自室へ戻ろうと東棟の扉を開き姿を消す。そんな背中を見送ったクラリッサはふぅと肩をすくめた。
「慣れ、ですか。……まったく、お嬢様は無理難題を仰いますね。明日から少々大変になりそうですよ、マリエル」
「が、頑張り……ま、ます……」
御幸の消えた扉を見つめ、クラリッサとマリエルは小さな決意を胸にした。
これにて、第1章は終了。
ちょっとこのお話だけ短かったんで、今回は特別に二本立てといたしました。
んでもって、次回からは第2章のスタート。
更新は6月5日の22時頃です。
では、待て次回。