笑い泣き
野本水穂20歳。旅行の準備はいつもギリギリにならないと始められないんだよなと情けない気持ちで、せっせとキャリーケースに服を詰め込んだ。あれもこれもと思うままに荷物を入れているとあっという間にキャリーケースは一杯になってしまった。一泊二日の旅行にこの荷物はないなと苦笑いし、パンパンに詰まったキャリーケースを眺めた。
水穂と竜也の二人だけの旅行、初めての旅行、不安はあるが、パンパンに詰まったキャリーケースは楽しいことが詰まった、素敵な旅行を予感させた。
「明日も朝早いし、早く寝よっと。」イベントの前日はいつも寝付けない自分に言い聞かせるように呟いて、ベッドに潜りこんだ。
温泉宿、おいしいご飯、綺麗な桜、色々と妄想していると、案の定寝付けなかった。しかし、短い睡眠時間に関わらず、翌朝は思いの外早く目覚めることが出来た。素早く着替えを済ませ、待ち合わせをしている駅前へ向かった。大学の春休みを使った旅行の為、世間的には普通の平日だ。通勤、通学に向かう人々を眺めながら竜也を待った。
「あれ、絶対先に着いたと思ったのに。」驚いた顔をして竜也が近づいてきた。
「おはよ。何だか早起きしちゃってさ。」朝の挨拶を済ませると、互いの荷物への駄目出しが始まった。
「どんだけ荷物持ってきたんだよ。多すぎだろ。」竜也が突っ込むと、水穂も負けじと反論する。
「そっちこそ荷物少なすぎでしょ。旅慣れてると荷物は多くなるのよ。経験がものをいう世界なのよ。」
「むむ。何かあった時はそのキャリーケースに助けてもらうよ。」
「なんでも入ってるから、困ったときはドラえもんばりの働きをするわよ。」
初めての旅行による互いの緊張をほぐす様に冗談を言いながら、レンタカーショップに向かった。
付き合い始めて3ヶ月。アルバイト先やデートで毎日のように顔を合わせて、お互いの事が分かってきたように思うが、まだどこか遠慮があるように水穂は思っていた。今まで一度も喧嘩をした事がないのも気になっている。先ほどのやり取りにしても、「旅行には少ない荷物がいいんだ」と突っ張ってくれても良かったのにと思いながら、いつもニコニコとした笑顔が絶えない竜也の横顔を見つめていた。
レンタカーショップに着くと、竜也は馴れた様子で手続きを済ませ、キーを受け取った。
「それじゃ、行きますか」竜也は荷物を積み、エンジンをかけながら言った。
「出発、しんこー」水穂の明るい声とともに車はレンタカーショップを飛び出した。
二人が向かうのは伊豆。春には少し早い三月だが、伊豆では河津桜が見ものな季節だ。高速道路を使えば2時間程で着くが、2人ともペーパードライバーの為、下道をのんびりと進んだ。車内では水穂のiPodから二人のお気に入りの音楽が流れていた。
二人だけの始めての旅行という事もあり、竜也はいつも以上にテンションが高く、ドライブ中ひたすら喋っていた。水穂は適当に流したり、相槌を打ったり、突っ込んだりと何だかんだで竜也との旅行を楽しんでいた。
途中コンビニでおにぎりを買って車内で食べた。水穂は梅とツナマヨ、竜也は鮭とおかかとエビマヨ。おにぎりを頬張りながらこれからの旅程を話し合った。
「桜は明日にして今日は黒船がやって来た下田に行こうか。」竜也の提案に水穂は了承した。
「おっけい。じゃあはるばる船に揺られて日本までやってきたペリーの雄姿を見に行こう。」
「よっしゃ。いざ、開国の旅へ。」そう言うと竜也はエンジンを入れ、車を走らせた。
開国の旅か。二人にとって今回の旅がお互いの心を開く旅になればいいなと水穂は思った。いつも明るく楽しそうにしているのに、たまに竜也が何を考えているのか分からなくなる。アルバイト先のファミレスで同じ時期に働き始め、何となく仲良くなって、何となく付き合い始めた。竜也のことは好きか嫌いか問われると、多分好きなんだと思う。
でも同じバイトの女の子と仲良く話をしている姿を見ても、嫉妬心は湧かない。誰とでも明るく、仲良く振舞えるところが竜也のいい所なんだと思う。でも竜也の本音はどこにあるのか、明るい笑顔の奥で何を考えているのか、たまに分からなくなる。変な所で遠慮をして、本心を隠すところがある。運転をする竜也の横顔を見ながら、今回の旅行でこの微妙な距離感を縮められたらいいなと思っていた。
「とうちゃーく。あぁ腰が痛い。」竜也は腰をさすりながら車を降りた。
「結構かかったね。」水穂が携帯電話で時間を確認すると2時を回ったところだった。
「さくっと港を回って、旅館に行こうか。」
「そうだね。」二人はガイドブックを見ながら下田の町並みを散策した。
ペリーロードと呼ばれる石造りの古風な町並みをゆったりと二人並んで歩を進めた。天気について、町並みについて、旅館の夕食について話をしながらペリー像を目指した。
「お、見えてきた、ペリー。」竜也が前方を指差しながら叫んだ。
「ペリー、会いたかったよー。あ、でも思ったより小さい。」水穂も前方にあるペリーの胸像に気づいた。
近くにいた観光客にカメラを預け、二人で記念撮影をした。写真を撮ってくれた方にお礼をしていると、竜也がペリー像の後ろに回って、私が来るのを伺っていた。
「なにやってんの。竜也。」とペリー像に向かって尋ねた。
「水穂殿、開国せよ。我らペリー軍団の軍門に下りたまえ。」
たまに、突然コントを始める竜也に対して『またか』と思いながら水穂は答えた。
「いやじゃ。」
「うっ、まぁそんな事言わず、せっかく遠路はるばる来たんだから。・・・ちょっとでいいから。」
「はいはい。交渉決裂。私たちがいつまでもペリーを占領しているわけにはいかないんだから、早く行こう。」
「そんなぁ。」渋々とペリー像の前に出てきた竜也の手を引いてその場を離れた。
ペリー像の前でのやりとりを引きずっている竜也は「開国失敗。駄目でした大統領。」と空に向かって独り言を呟いていた。
ふと我に返った竜也は携帯電話を見て「もうこんな時間か。チェックインしに行こうか。」と言った。二人は来た道とは別の道で、急ぎながらも景色を楽しみながら駐車場へ向かった。
下田から旅館までは30分程度の道のりだった。チェックインを済ませ、二人はロビーでウェルカムティーに舌鼓を打った。
「移動してペリー見てきただけなのに、疲れたね。」ロビーのソファに座り、落ち着いた瞬間どっと疲れが出てきた水穂は独り言のように呟いた。独り言のように呟いたが、竜也の返事を待っていた。しかし、一向に返事が来ないので竜也の方を見ると湯飲みを真剣な表情で見つめている竜也の姿があった。
「なに見てんの?」
「茶柱。」
意外な返事に驚き、竜也の湯飲みを見ると確かに茶柱が立っていた。しかも二本も立っていた。
「茶柱が二本もたつとは、これは二人にとって何か良いことが起こる前触れかもしれない。」竜也は頬を上げ、不適に笑った。
「へぇ。珍しい。」
「ちょっと水穂、もっと『わぁすごい』みたいなリアクション無いの?楽しんでいこうぜ。」
いたずらっぽい竜也の顔にむっとしながらも水穂は答えた。
「・・・わぁ、すごい!茶柱が二本も立つなんて、今まで生きてきた中で一度も見たことないよ!人生の全ての運を使い果たしたと言っても過言ではないわね。」
「そんなぁ。運使い果たしたとか勘弁してよ。」
竜也の悲痛な叫びを聞き流しながら、水穂は二本寄り添うように立つ茶柱を見つめ、二人に何か良い事があれば良いなとも思っていた。
二人は荷物を抱え、部屋へ移動した。建物自体は洋風だったが、部屋の中は和室だった。二人は歓声を上げながら部屋の中に入った。
「やっぱり和室は落ち着くね。あぁほんと日本人で良かった。」水穂は部屋の中を物色しながら言った。
「和室はいいねぇ。開国なんてしないで良かったのさ。ニッポン万歳。」窓の外を眺めながら竜也は言った。下田での出来事を根に持っている竜也を「まだ言ってんの」と軽くいなしながら、水穂はお茶菓子に手を伸ばした。
お茶菓子とお茶で一服した二人はお風呂へ向かった。時刻はすでに5時半だった。
「6時には部屋に食事が用意されるらしいから、30分くらいでぱっと入ろうか。」普段は1時間くらいお風呂に入る水穂は竜也の提案に不満だったが、空腹に負けて「りょーかい。」と言ってお風呂の用意を始めた。
大浴場には大きな浴槽とジャグジーが付いた少し小さな浴槽、そして露天風呂があった。夕飯まで時間が無かった為、露天風呂だけ入ることにした。30分の入浴はあっという間だった。後でゆっくり入ってやると心に決め、水穂は大浴場を後にした。
お風呂を出ると約束どおり竜也はロビーで待っていた。
「お待たせ。」携帯をいじっている竜也に声をかけた。
30分で入ろうと言っておきながら「おう、早かったじゃん。もういいの?」なんて言っている竜也にイラっとしながらも、お腹がすいたので部屋に戻ることにした。
部屋には既に料理が用意されていた。すき焼きに刺身に天ぷらと思いのほか豪華な料理が並んでいた。これは高いだろうにと思い、自分がまだお金を払っていないことに気づいた。
「そういえば、今回の旅行のお金っていくら?」
「レンタカーのお金もあるし、帰ってから計算するよ。まぁ今日はお金のことは気にしないでパーッとやろうよ。」
水穂は竜也の言葉に甘えてお金のことは忘れる事にした。
「かんぱーい。」二人はグラスを鳴らし、食事を始めた。
この天ぷらがうまい。いや、この刺身がうまい。と互いに食べている料理の美味しさを主張しながら、二人は箸を進めた。お腹がすいていた二人は一気に料理を平らげていった。
残すはゼリーのみというところで水穂はふと気になったことを竜也に聞いた。
「竜也は伊豆に来たことあるの?」
「俺静岡出身だから伊豆には何度か来たことあるよ。いい所でしょ。」既にご飯を平らげ、ビールを飲みながら竜也は言った。
「いい所だよねぇ。なんか落ち着くっていうか。明日の桜も楽しみだわ。」静岡出身とは初耳だなと思ったが、細かいことは気にせず、明日の旅程を相談することにした。
「明日は9時に出発して桜を見て、お昼にウナギを食べて帰るって事でオッケイ?」
「うん、いいよ。しかし、花より団子とは水穂の為の言葉だね。」
「せっかく静岡きたんだからウナギ食べたいじゃん。」口を尖らせながら水穂は言った。「とにかく明日は9時出発だから寝坊しないでね。」
「りょーかい。朝は強いから。」今までアルバイトに遅刻したことも無かったので、水穂は竜也の言葉を信じることにした。
「ごはんも食べたし、もうひとっ風呂浴びてこようかな。」といいながら水穂はお風呂の準備を始めた。
「俺はビール飲んだし、やめとくわ。」竜也は乾杯の時からビールを飲んでおり、既に缶ビール2本分飲んでいる。
「分かった。じゃあ言ってくるね。1時間くらい入ってくるから。」
竜也はつまみのスルメイカを頬張り、テレビを見ながら、「ほいほい。」と気のない返事をした。
せっかく温泉に来たんだから、テレビなんか見てないでもっと温泉を堪能すればいいのにと思いつつ、水穂は大浴場へ向かった。
大学の春休みを使っての旅行の為、世間一般では普通の平日という事もあり、宿泊客は多くなかった。大浴場にはおばさんグループと家族連れの2組しかいなかった。露天風呂は水穂一人の貸しきり状態だった。露天風呂からは月がきれいに見えた。ぼーっと夜空を眺めながら、水穂はこの伊豆旅行について、竜也について考えていた。
竜也と一緒にいるのは楽しいし、この旅行も来て良かったと思っている。でも『一般的な大学生カップルが仲良さそうに楽しそうに旅行をするイメージ』を具現化したような、そんなリアルなようでリアルじゃない普通の旅行だなと思っていた。水穂としてはせっかくの旅行なのだから二人だけの特別な思い出を作る、そんな旅行にしたいなと思っていた。
「竜也はどう思っているんだろ。よく分かんないや。」満月を眺めながら一人呟いた。
お風呂から上がったら、あまり飲めないけど晩酌に付き合ってあげるかなと考えていた。
気付いたら一時間位時間は経っていた。あまり待たせるのは悪いなと思い、急いで部屋に戻ることにした。
部屋に戻ると布団が敷いてあったが、布団は隅の方に置かれ、部屋の真ん中にテーブルが置かれていた。テーブルの上にはビールの空き缶と一升瓶、おつまみがいくつか置いてあった。どうやら竜也はビール350ml2本と一升瓶4分の1程度を飲んだらしい。竜也はグラスに入れた日本酒を飲みながら、赤ら顔でテレビを眺めていた。
「ごめん。遅くなって。」平謝りをしながら部屋に入っていったが、竜也の目が座ってるのが気になり、「大丈夫?飲みすぎじゃない?」と声をかけた。
「まだまだ飲めるよ。とりあえず水穂も座って一緒に飲もうよ。」竜也はどこかよそよそしい、緊張した声で言った。
テーブルの前に座った水穂を確認した竜也は、思いがけない質問を投げかけてきた。「水穂。俺のこと好き?」
突然の投げかけと質問の内容に水穂はどきりとしたが、すぐに答えた。
「もちろん。・・・好きじゃなかったら一緒に旅行に来ないよ。」
「一緒に旅行に来たからって好きってわけにはならないよ。そもそも俺のどこが好きなの?」
普段はお酒を飲んでも絡んでくる事なんてなかった為、竜也の質問に戸惑ったが、少し考えて答えた。
「私が好きなのは竜也の明るいところかな。嫌な事があっても竜也と話をするだけで元気になれるし、バイトでも竜也がホールに出るとお店の雰囲気が明るくなるっていうかな。なんていうか周りを元気に出来る竜也の明るさは私にはない凄い・・・尊敬するところだよ。」
何だか支離滅裂な答えになってしまったなと思いつつ、竜也の顔を見ると納得していなそうなむっつりした顔で日本酒が入ったグラスを見つめていた。
竜也はグラスに手を伸ばし、中に入っていたお酒を一気に飲み干した。そして水穂に言い放った。
「水穂は本当の俺を知らない。それに、俺も水穂の事を全然知らない。何となく付き合い始めて、何となく3ヶ月も付き合ってるけど、お互いの事を全然知らないよ。水穂はいつも距離を作って、全然本心を喋ってくれていないんじゃないかって思う。こんなんじゃ本当に俺のこと好きなのって思っちゃうよ。」
水穂は二人の間の微妙な距離感を感じていた。竜也も同じように感じていた事に驚いたが、反面少し嬉しかった。でもそれ以上に竜也の言葉が水穂の気持ちを揺さぶった。二人の間の距離感を作っているのはもしかして自分ではという疑念が胸をよぎり、ざわざわした気持ちが胸の鼓動を早めた。
水穂が黙っているとばつが悪くなった竜也が口を開いた。
「いや、ごめん。水穂の事を責めてるわけじゃないんだ。それに、俺も水穂の事が好きだから、この旅行でもっとお互いの事を知りたいなと思ってさ。」そう言うと竜也はバッグからノートを取り出し、2枚破いた。1枚とボールペンを水穂に渡した。
「ジャジャーン。」
「何これ?」
「何の変哲もないペンとノートだよ。これを使ってさ、改めて自己紹介しようよ。とりあえず出身地でも家族構成でも欲しいドラえもんの道具でも何でもいいから箇条書きで書いてさ。そんでお互い見せ合って、質問してさ。そしたらもっと互いのことが分かると思うんだ。」
竜也の急な提案に驚いたが、なかなかおもしろいアイデアだなと思った。
急に思いついたにしては用意が良いので、旅行前から考えていたのだろうと水穂は思った。水穂は竜也がこの旅行のことを『開国の旅』と言っていたのを思い出し、竜也は最初からこの旅行で二人の距離を縮めたいと考えていたのではと思った。
竜也の気持ちを感じとった水穂は 「おもしろそう。やろうやろう。」と竜也の提案に飛びついた。
「じゃあ、制限時間は10分ね。・・・スタート。」そう言うと竜也は携帯電話のストップウォッチ機能を使って時間を計り始めた。
水穂は無心でノートに自分を形作るキーワードを書き綴った。名前、生年月日、星座、血液型、出身地、現住所、大学、家族構成、将来の夢、中学・高校時代の部活、好きな歌手、好きな映画、欲しいドラえもんの道具・・・。この内、竜也が知っている事はどれだけあるだろうと思ったが、ほとんど知らないことに気付いた。血液型の時点で知っているかどうか怪しかった。そう考えると竜也のアイデアはなかなか良いアイデアだなと思った。こういったアイデアを考えるというのも今までの竜也のイメージにはないなと思っていた。自分自身、竜也の事を全然知らないなと感じていた。
そう考えながら竜也の顔をじろじろと見ていると、視線に気付かれ「もう書き終わったの?」と聞かれた。
「まだまだ書くよ。時間はまだあるよね?」と取り繕った。
「あと3分てところだね。」竜也の返事に「おっけい。」と返し、水穂はノートの切れ端に目線を戻した。
まだまだ書くと言ったものの、中々思いつかなかった。しかし、黙々とペンを走らせる竜也を見て、焦った水穂は思いついた言葉を書き足していった。
「はい。タイムアップ。ちゃんと書けた?」ストップウォッチを止めて竜也が聞いてきた。
「うん。ばっちり。」
「じゃあ、交換しようか。」
二人は互いに書いた自己紹介ノートを交換した。
竜也が書いたノートには綺麗に整った小さな文字が並んでいた。竜也の字を見たのは初めてだったが、思いのほか綺麗な字だった。しばし竜也の字を眺めた後、上から順に読み進めた。一番上にはフルネームで竜也の名前が書かれていた。名前くらい知ってるわと思いながら読み進めると、やはり血液型すら竜也の事を知らないことに気づいた。
「へぇ、AB型なんだ。」ぼそりと水穂は言った。
「そうだよ。分からなかったしょ。」竜也はにかっと笑って答えた。「水穂はO型かー。・・・っぽいね。」
O型っぽいとはどういう事か、しばし考えたが、褒め言葉だと思うことにした。
「ていうか竜也、あんた一個上なの?」ノートの生年月日を見て驚いて水穂は聞いた。
「あ、ごめん。言ってなかったけど、一浪してるんだわ。」竜也は少しすまなそうな顔で答えた。
一浪してどんな大学に入ったのか気になった水穂は大学名を見てさらに驚いた。
「竜也早稲田行ってるんだ。」
「あ、ごめん。言ってなかったけど、早稲田大学生なんだわ。」今度は少し勝ち誇ったような顔で答えた。
「そうなんだ。普段はおちゃらけて周りを楽しませるか、ホットココアにふわっと生クリームをトッピングするか、どんなに雨が強くても自転車でバイトにくるくらいしか特技がないと思っていたけど、頭いいんじゃん?」勝ち誇った顔にいらっと来た水穂は毒を吐いた。
「そんなぁ。ひどい。」竜也は肩を落とした。
しかしすぐにグラスの日本酒をぐいっと飲み干すと、「ここからはマジトークだからね。おふざけ禁止だよ。」と言い、水穂が書いたメモを食い入るように読み始めた。
今まで竜也がふざけた事を言ったりやったりして、それを水穂が適当にあしらうという微妙な距離感だった。竜也がふざけて、それに乗ってあげることはいままでほとんど無かったなと思っていた。二人の間の距離感を作っていたのは水穂だったのかもしれないと感じていた。そしてその距離感を近づけようと竜也は頑張ってくれている。竜也の言うマジトークに付き合ってあげようと思っていた。
「ふむ。一人っ子なんだね。」竜也は顎を人差し指で掻きながら言った。竜也の言葉に水穂はどきりとした。
「うん。一人っ子だよ。」そう答えた瞬間、水穂は本当の事を言わなかった事を後悔した。
水穂には昔兄がいた。水穂が中学生の時に死んでしまい、以降は確かに一人っ子だった。竜也は水穂に向き合ってくれようとしているからこそ、兄の事を言おうと思ったが、中々言葉が出てこなかった。兄の死をまだ乗り越えられていない事を感じた。躊躇している内に、竜也は次のキーワードに目を向けていた。
「タイムマシーンか。分かるわ。」水穂が書いたドラえもんの道具で何が欲しいかという問いに対する回答だった。
「タイムマシーンがあったら未来と過去どっちに行きたい?」竜也が投げかけた質問は誰もが一度は考えたことがあるようなありふれた質問のはずだった。でもその言葉は兄の事を思い出していた水穂の心に強く突き刺さった。
『もう一度会いたい。』『死んでしまうのを止めたい。』そんな言葉が水穂の頭の中に浮かんだ。しかし、浮かんだ言葉は口からは発せられず、行き場を失った言葉と感情は涙として水穂の体から吐き出された。
突然の涙に竜也はかなり動揺していた。
「えっ、ど。どうしたの。タイムマシーンなんて出来っこないよって?なんとかなるなる。逆に俺が作ってやるよ。・・・っていうかあれだよ。・・・そうそう、俺がドラえもんになるよ。俺がドラえもんだ。そうです、私がドラえもんです!どうしたんだい、水穂ちゃん。ジャイアンに重い一発入れられたかい?」
「・・・」
「・・・うーん。困ったなぁ。とっておきの秘密道具を出してあげよう。えーと。」竜也はバッグの中をごそごそと探った。
「おっ、あった。じゃじゃーん。ペリー。」と言いながら竜也はどこで買ってきたのか、ペリーの顔が印刷されたTシャツを取り出した。
「水穂さぁん。ナカナイデ。ドントクライ。イマミズホサン、どんと暗いですよ。なんちゃって。」
「・・・」
「ナキヤンデクダサイヨ。カイコクシテクダサイヨー!。」竜也は半ば自棄になり叫んだ。
「ごめん、ごめん。急に泣き出して。」水穂は半笑いで顔を上げた。
「あ、良かった。泣き止んだ。・・・ほんと良かったー。どうしたのさ、急に泣き出して。」
「タイムマシーンでさ。変えたい過去があるんだ。私が過去に行っても、変えられないかもしれないけど。」水穂はゆっくりと話し始めた。
「そこに家族構成を書いてるけど、父と母との3人家族で、私は一人っ子なんだ。でも元々お兄ちゃんが居たんだ。私が中学生の時に死んじゃったんだけど。小さいころからお兄ちゃんの事が好きで、いつも一緒に遊んでた。でもお互い中学校とか高校に通うようになってから一緒に遊んだりする事がなくなって、だんだん話をする事がなくなってきたんだ。そしたら、急に自殺しちゃってさ。一生話をする事は出来なくなっちゃった。タイムマシーンがあるなら、もう一度お兄ちゃんに会いたいな。それで何が何でも自殺を止めたい。」
そう言うと水穂はゆっくりと深呼吸をして、お茶を一口飲んだ。竜也は何も言わず、水穂の事を見つめていた。
「大学に入って今まで色んな友達に会ってきたけど、お兄ちゃんの事を話したのは竜也が初めてだよ。別に隠してたわけではないんだけどね。何年もたってるのに自分の中でしっかりと受け止められてないんだね。」
「そういう話は誰にでも簡単に言う話ではないし、俺は今水穂が正直に言ってくれた事がすごい嬉しいし。でもこれですっきりしたしょ?」
「そうだね。すっきりした。ありがとう。」
兄を失った事で水穂の心の中には大きな穴がぽっかり空いてしまっていた。時間の経過と共にその穴も埋まってきていた。東京の大学に通い、友達が出来、彼氏が出来、充実した生活を送ることで、心に開いた穴は埋まっていると思っていた。しかし、今日改めて自分は兄の死を乗り越えられていない事に気付いた。竜也にも今まで言えなかった。竜也にも自分の心の中に、心に空いた穴に、近づけようとして来なかった。それが今までの距離感を作っていたのかもしれないと思っていた。
竜也はお調子者で、明るくて、それでいてそれなりに顔もかっこいい。軽いところがあるから、付き合ってもすぐ浮気してしまうのではないかと思っていた。
しかし、竜也の明るさは人を楽しませる力があり、それは竜也のやさしさがあるからこその事だと思う。竜也の軽さは人の気持ちを軽くさせるもので、気持ちを決め切れない人に手をさしのべ、新しい世界を見せてくれる先導力なのかもしれないと思っていた。
今回の旅行で竜也を見る目が変わったなと思っていた。それはもちろんいい意味で。
そんな事を考えていると竜也が「もう大丈夫?もう寝るかい?」と聞いてきた。
「んーや。まだまだ夜は長いよ。続き始めよう。」水穂は二人で過ごすこの時間を大切にしたいと思った。
「分かった。今日はとことんマジトークだね。」そう言うと竜也はノートに目を落とした。
「ふーん。好きな食べ物スペアリブって、随分良いもの食べてるのね。」水穂は皮肉を込めて言った。
「いやいや、スペアリブくらい食べるでしょ。」
「食べたことはあるけど、2、3回あるかないかってくらいよ。」
「そうなんだ。でも美味しいしょ。」
「ん。まぁね。」
「水穂の好きな食べ物は?」
いざ聞かれるとなかなか思いつかないものだなと思いながら水穂は「カレーライス」と答えた。
「カレーライスかぁ。美味しいよね。」
「あんた、馬鹿にしたでしょ。どうせ私はスペアリブなんて上等なものは食べられませんよ。カレーライスの女とでも呼べばいいわよ。」
「そんなぁ。馬鹿にしてないよ。それじゃあ、今度おいしいスペアリブ食べに行こうか。」
「ほんと?絶対だよ。約束ね。」
「うん。美味しい店知ってるから紹介するよ。」
本当に2、3回しかスペアリブを食べたことが無かった水穂は昔食べたスペアリブの味を思い出し、唾を飲み込んだ。しばし、肉汁したたるスペアリブを想像し、物思いに耽った。
「ところで水穂の事をカレーライスの女とは呼ばないけど、なんて呼んでほしい?あだ名とかある?」
「水穂って呼ばれることが一番多いし、しっくりくるかな。ていうか、あだ名を聞いてきたのは自分の事をあだ名で呼んでほしいからでしょ?」
竜也が書いたノートの一番最後には『プリーズコールミータッチャン』と書いていた。書いている事に気付いてはいたが、触れないようにしていた。
「うん。たっちゃんって呼んでよ。」ここ一番の爽やかなどや顔で竜也は言った。
「んー。明日気が向いたら言ってあげるよ。」
「えー。そんなぁ。じゃあ明日楽しみにしてるよ。」
その後も夜遅くまで「自己紹介」は続いた。お互いの今までの人生を価値観を心の中を伝えあった。2ヶ月も付き合ってきたのに、お互い知らない事だらけだった。しかし、血液型や通っている大学を知る事よりも、もっと大事なことを知る事が出来たと水穂は感じていた。
翌日は河津桜を見に行く予定だったので、お互い早起きをした。「おはよ。」と短いやりとりだったが、少し気恥ずかしくも二人の距離が近づいているのを感じていた。
朝風呂を済ませ、朝食を済ませ、二人は車に乗り込んだ。
「出発しんこー。今日は私がナビをしてあげるよ、たっ・・・つや。」
「今たっちゃんって呼ぼうとしただろ。」
「違うよ。噛んだだけですー。」
「むむむ。実は心の中ではたっちゃんって呼んでるくせに。」
「はいはい。しゅっぱーつ。」
竜也は不貞腐れながらも車のエンジンをかけた。
水穂自身、本当にたっちゃんと呼びそうになり焦った。別に呼んでも良いのだが、何となくシチュエーションを大事にしたいと思い、暫くは竜也と呼ぶ事にしようと思っていた。
車は水穂のナビのおかげか予定よりも早く着いた。駐車場に車を停め、外に出ると思わず水穂は声を上げた。
「わぁ、綺麗。すっごいピンク。」
「なぁ綺麗だろ。でも水穂、君のほうがもっと綺麗だよ。」両手の親指と人差し指を合わせ、”手製”のファインダー越しに竜也が言った。
「はぁ・・・?ってなにこれ、キモイ。」水穂は竜也が着ているTシャツを指差し、言った。
竜也はペリーのTシャツを着ていた。
「あんた、どんだけペリー好きなのよ。」
「やっと気づいてくれた。朝からずっと突っ込みを待ってたんだよ。まぁ、今回の旅はペリーあっての開国の旅でもあるからさ、今日は桜を見せてあげようと思って。」
「ちょっと。一緒に歩かないでよ。」
「そんなー。3人仲良く桜を見ようよ。」
二人は濃い桃色の桜の花が舞う土手沿いの道を手を繋ぎ、並んで歩いた。二人で写真を撮り、足湯に入り、出店でつまみ食いをし、二人だけの大切な思い出を作るようにゆっくりと時間をかけて桜を眺めた。
桜をたっぷり満喫したところで竜也が「見せたいものがあるんだ」と言った。竜也に手を引かれ、桜が満開のエリアから離れ、人気もまばらな道を進んだ。
「どこに行くの?」
「ふふ。いいところ。」
竜也の不適な笑みに不安を覚えながらも、竜也の目指す目的地を目指した。
「着いた。どう、すごいでしょ。」
竜也に連れられたいい所、そこは一面の菜の花畑だった。
「うわ、きれい。」黄色い菜の花が敷き詰められた道を歩きながら水穂は歓声を上げた。
菜の花畑の奥へ進むと、そこは見渡す限り菜の花しかない風景だった。一面の黄色い花畑の中に立ち、水穂はまるで菜の花畑に吸い込まれるような錯覚を覚えた。
眩しいくらいの鮮やかな無数の黄色が目の前に広がっていた。むっとする独特の菜の花の匂いが鼻をついた。風で揺れる菜の花が擦れる音が聞こえた。様々な方法で水穂の感覚に入り込む菜の花の存在感に圧倒された。その強烈な美しさはうねりとなり、水穂の心を揺さぶり、菜の花の中に引きずりこもうとした。水穂は瞬間恐怖を覚え、必死で抗おうとし、そこで左手に竜也の手の温もりがあるのを感じた。
はっと顔を上げると、いつもと変わらぬ竜也の笑顔があった。
「どしたの?何か恐い顔してるけど。」
「別に。・・・大丈夫。」
美しい景色の中にいると、自然と同化するように我を忘れてぼーっとしてしまう事がある。子供の頃はよくぼーっとして、自然の雄大さに対して自分は何てちっぽけな存在なんだと子供にしては随分とセンチメンタルな理由で泣きじゃくり、親を困らせた事があった。
そんな時、ライダーポーズで颯爽と現れ、水穂をとにかく泣き止むまで励まし続け、元気付けてくれたのが兄だった。
水穂にとってヒーローだった兄の代わりに、今竜也が隣にいるんだと思うと水穂は嬉しさと安心感を覚えた。
昨夜の事もあり、自分の事をよく分かってくれていて、理解しようとしてくれている竜也の存在は水穂にとって、とても大きな存在になりつつあった。
水穂は竜也の右手を少し強く握った。竜也も水穂の左手を握り返した。
「ねえ、竜也。」
「うん?」
「ありがとう。」
二人はしばし見つめあい、そして抱き合った。
水穂は竜也のほっぺたにびたっとほっぺたをくっつけて言った。
「ねえ、たっちゃん。」
「お、たっちゃんて呼んでくれた。」
「・・・たっちゃん。好きよ。」
「俺も好きだよ。みっちゃん。」
「みっちゃんは無いなl。」
「そんなぁ。みっちゃん、たっちゃんでいこうよ。」
竜也の言葉に笑いながらも、水穂の頬からは涙が一筋流れた。悲しいわけでも辛いわけでもなく、ただ自分にとって大切な人と同じ楽しい時間を空間を共有できる事が嬉しくて、涙を流した。
しばらく抱き合った後、竜也がぼそりと言った。
「ペリーが、息が苦しいってさ。」
「はは、ごめん。ペリー。」二人は体を離した。
「ねぇ、みっちゃん。」
「・・・」
「・・・ねぇ、水穂。」
「なに?」
「キスしよっか。」
「いいよ。」
そう言うと水穂は竜也の胸で神妙な顔つきをしているペリーのおでこに口付けをした。
「そんなぁ。ペリーじゃなくってさー。二人の愛の口付けを・・・」
「はいはい、また今度ね。」
そう言って水穂は菜の花畑の道を駆け出した。
「お、競争だな。捕まえたらキスできるんだな。」竜也も水穂を追って走り出した。
二人は菜の花畑を手を繋ぎ、時に笑い、時にどつき、時に見つめあいながら進んでいった。