第一章 今日で終わり
ガバッ。
文江は悪夢を見て飛び起きた。
手錠をかけられ、両腕にブラウスをかぶせられ、護送車に向かう。
報道陣のフラッシュまたフラッシュの波。マイクを持って容赦なく迫ってくるリポーター達。
両腕をひっつかまえて乱暴に足を運ばせるいかつい顔の刑事達。
両手にも全身にも冷や汗をかいていた。文江は深呼吸をして高鳴る鼓動を治めると、ゆっくと昨日の出来事に思いをはせた。
「ここは、私の部屋のベッドよね。」ふと壁の時計に目をやった。
「いっけない、遅刻だ!」文江は、あわてて飛び起きると、洗面台に向かった。じっくりと鏡を眺めている余裕はなかったが、鏡に映った自分の顔から、別のものが覗いているような悪寒を感じた。
駅までの通勤路に割と狭い交差点がある。
交通量はそう多くないのだが、よく事故の起こる交差点である。
文江は少し気になったが、時間が無い。左上のミラーに慎重に目をやると車のきていない事を確認して、一気に交差点を走り抜けた。
イライラしながらホームに入ってくる電車を待っていると何だかどこからか人の視線を感じたような気がした。見上げるとホームの天井から下がっているミラーにはまさにホームに入ろうとしている電車の影が映っていた。
「なんで、寝坊しちゃったんだろう。今日は大事な日なのに、こんなに慌てなきゃなんないなんて。いやんなっちゃう。」
文江の出勤時間は一般のサラリーマンの通常の出勤時間帯とはわざと少しずらしてあるので、予定どうり電車はそんなに混んではいない。
そうは言っても普段は座れる事はめったにない。今日は珍しく座れたので、朝方あわてて化粧もそこそこに出てきたのを思い出した。
コンパクトを取り出すと、入念に化粧を直しはじめた。いつも、それほど化粧にこだわる方ではなかったが、今日は何か違和感のようなものを感じた。鏡に映った自分の姿の後ろに何か居るような気がする。妙に気になって鏡を右や左に傾けて覗き込んでいると、正面に座っているオバさんがじっとこちらを見つめていた。
文江は、ばつが悪くなってあわててコンパクトを閉じた。
電車が到着ホームにとまると、文江は急いで階段を駆け降りた。
時計を見ると、慌てていたわりには少し余裕のある時間だった。朝食もとらずに急いで出てきたので、お腹がすいていることに思い当たった。
(ゆっくり食べている時間はないわよね。)文江はあたりを見回すと、いつも通勤中によく利用している近くのコンビニエンスストアが目にとまった。
サンドイッチやおにぎりを物色していると、背後にまた視線を感じた。ゆっくりと振り返ると、店の奥に設置してある監視ミラーを通して、カウンターに立っている若い男性店員がわざと目をそらしたような素知らぬ顔でキョロキョロしていた。
(ちょっと自意識過剰かな~。)文江はまた深呼吸した。
何気なく片目でミラーを眺めていると、店員が視線をそらすようにしてカウンターの隅に姿を消した。
「ここで、二・三個バッグに入れてもわかんないわよね~。」文江はクスッと思いだし笑いをした。
(大金を手に入れたのに、こんなとこで万引きしてつかまったら、ばっかみたい。)
おにぎりとサンドウィッチを買い物篭に入れると、レジに向かった。
出掛けに、出口のドアの真上に不釣り合いに大きな鏡が掲げてある事に気付いた。
(あんな鏡あったっけね?しかも、店員から見えないじゃない。)
「えー、今日でやめるってー?」
「はい」
「困るなー、急に言われても。代わりが見つかるまでは残ってよー」
「でも、次の予定が入ってるんです~。」
「あっそ。」
あっけない店長の返事に、文江は少しがっかりした。
勤務状態もあまりよくないし、このご時勢では代わりのバイトの応募などいくらでも居るのだろう。
店長にとっては、やめてもらってせいせいしていたのかもしれない。
そんなこと、気付きもしない文江は、がっかりした気持ち引きずりながら店を出た。
急に閑な時間が有り余るほど手に入っても何をしていいか戸惑うものだ。
文江は、何者かに引き込まれるように電車に乗ると、六本木に向かっていた。