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殺人の定義  作者: kooo
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夢と現実と拡張現実と

 夢を見ていた。

 夏の夜空に今ではほとんど禁止になっている火薬花火を打ち上げる夢だ。

 そこには幼なじみのあーたん、いーちゃん、ウッチャン、瑛太、そして僕。

 いつでもいつまでも一緒の面子だ。

 もっと夢の続きを見ていたいと思っていたが、そんな僕の頭の中に不快な音が鳴り響く。

 急速にみんなが遠ざかり、僕だけが暗い闇の中で取り残された感覚を味わいながら、重いまぶたを開いた。


 七時にセットしておいたアラームを止め、目を覚ますと夏の夜空に浮かぶ星座ではなく、誰もいない六畳一間の天井が見える。

 ベットから起き上がり、部屋の中を見渡せば、狭い空間の中に配置されたキッチン、クローゼット、ユニットバス、冷蔵庫と卓袱台、これが僕の箱庭だ。

 部屋の真ん中に陣取り、手を伸ばせばすぐそに何でもある空間、これぞ僕にとっては幸せの極地だったが、理解者は少ない。

 食パンにハムとチーズというシンプルな朝食を摂りながら、僕が寝ている間に更新されていたサイトを巡回する。

 首につけっぱなしのQCキューシーはすでに起動しており、僕の網膜へと情報を流し始めていた。

 首輪タイプのQCへと自然に手が動き、それを触りながら、いーちゃんとお揃いのものを買ってもらった幼稚園時代を思い出す。

 はじめてQCを装着した瞬間、自分の視界に被さるように文字が羅列したときは、お互いにアホ面をして「すごいすごい」と連呼していたのが懐かしい。

 ニュースや裏情報サイトを読みふけっているうちに、時の流れは僕の意識からこぼれ落ち、視界に【警告:在宅限界時間五分前】と赤い文字が出現したこによって、外出時間が迫っていることを知らせてくれる。


 紺色の長袖Tシャツに膝下まであるハーフパンツを身につけ、お気に入りのスニーカーを履いて扉を開け放つと、夏の残暑が過ぎ去り、すぐそこまで秋が来ていることを知らせる涼しげな風が入り込む。

 安アパートの二階から、やっぱり安っぽい階段をカンカンと鳴り響かせて降り、門を抜けたすぐ目の前にはシーサイドラインと呼ばれる大きな道路と、その向こうに朝日を反射させ、キラキラと輝く美しい蒼い海原が広がっていた。

 公道にでるとスニーカーの底面に装備されているローラーをQCから操作して颯爽と滑り出す。昔流行ったローラーシューズを起源とする僕の愛靴は、HEELYS最新モデルSONIC2059カスタマイズ。前足部分にボール状のホイールが装備され、縦横自在に動き、電動、自走を可能とするすぐれものだ。さらに僕はそこに独自に開発したアプリを組みこませ、電動時速十キロ制限を余裕で超えるように改造してある。


 自宅から目的地までSONIC2059で十分ほどの距離があり、そこにつくまでに僕の視界には様々なAR(Augmented Reality:拡張現実)広告タグが飛び込んでくる。今年14になる僕の視界には学習塾がどうとか、最新ゲーム情報とかの子供向けで、大人が同じ空間を見ると違う広告が出現し、認証システムもクラックした僕にはどちらの広告タグも見ることができる。大人が見ているタグは七割がエロ系で占められ、通学路がピンク色で占められた時は本気でクラックしたことを後悔した。

 何か面白い物がないかと辺りを見回していた僕の視界片隅に、見知っている白く大きな建物が見えた瞬間、SONICを使っての爽快感は憂鬱感にすり替わりはじめた。

 憂鬱な月曜日の憂鬱な学校生活の始まりだ。


 ネットワークが発展し、コミュニケーションを立体映像でやり取りすることが常識になった現代社会で、自宅就業をする社会人は日本全体の四割を超えたというのに、学校というシステムは未だに情操教育をはぐくむという理由で、僕らに監獄のごとく囲われた閉鎖空間への登校を要求する。

 築五十年目に突入した下多賀中学の門を、あと一分遅ければ遅刻になるギリギリのタイミングで通り抜けると、QCが自動的に学校のサーバーにアクセスし、僕の視界左下に【登校認証】と表示され、すぐに消えていった。


 周りには、僕と同じように遅刻ギリギリの学生達が校門を走り抜け、玄関から各自の教室へと駆け上がっていく。その姿は数十年前まで常備となっていた学生服姿ではなく、形も色も個性を十分に発揮した私服姿だ。全国の公立校で制服制度が廃止され、今や学生服を着ているのは私服を着てくるのが面倒な横着者か、かつては不良、ヤンキー、DQNと呼ばれていた人種くらいだ。

 SONICを履いたまま三階の教室に上がり、中に入ると僕よりも早く来ていたクラスメイト達がこちらへ視線を向けてくる。「おはよう」というお決まりの挨拶もなく、みんなは何も見ていなかったように視線を元に戻して、友人とのおしゃべりに戻っていった。僕も気にすることなく、定位置である最前列窓側の席へ座り、窓から見える海をぼんやりと眺めていた。

 教室は教卓を中心に扇状に展開され、後方にいくほど高く設計され、各自の決まった席などはない。ないが、一年間を通してあちこちに席を移動する人間も少なく、夏休みが終わった今、大半のクラスメイトは固定位置に座るようになっていた。僕が座るここもそれであり、僕以外の誰かが座ったとしても文句を言うことはないが、どんなに遅くきてもこの場所は空いている。


 教師が来る数分間をネットでも見て潰そうかと思ったとき、後方から聞き逃せない会話を耳にした。


「ねぇ聞いた。三年の真島先輩が自殺したんだってぇ」

「え〜!! うそでしょ〜! 真島先輩ってあの?」

「そうそう、あの」

「自殺とかするタイプじゃないけどねぇ。どっちかっていうと、いじめて自殺させる方よねぇ」

「あんたも酷いこと言うよねぇ」

「何か理由とかってあるの?」

「それがね、まったくわからないんですって。まぁあのグループは色々とあったしね」




 ワタシ、マジマヲコロシタワ




 昨日のいーちゃんとの会話が僕の真っ白になった頭に甦る。

 

「何をいってるんだよ、いーちゃん。真島ってあの真島?」

「私たちが言う真島はきっと一人しかいないわ」

「それは本当なの!?」

「本当だとしたらどうする?」

「今から喜びのダンスを踊るかな」

「あはは、おっくんの創作ダンスを久々に見てみたい」

「それで、本当なの?」


 僕は繰り返した。

 別にそれが本当だったからといってどうするつもりもない。それほど僕にとって真島は嫌いな人間の一人だったからだ。


「冗談よ」

「冗談かぁ」

「でも、真島が死んだのは本当」

「本当なの? そんな情報が出回っているの?」

「私見たのよ。真島がビルから飛び降りるところを」

「あの真島が自殺なんてするかな」

「自殺ではないかもね」


 いーちゃんが核心を言わないのも、また珍しかった。普段のいーちゃんはハッキリとものをいう正確で、遠回しや策略、謀略、陰謀、そういったイメージとは正反対の人間だったからだ。


「じゃぁ他殺?」

「他殺でもないわ。勝手にあいつが飛び降りたんですもの。もっとも、あいつは飛び降りるつもりなんて無かったのかも知れないけど」

「それって、変じゃない?」

「変じゃないわよ。おっくんだって昔はよくやってたじゃない。あのイタズラを」

「ああ、あれかぁ」


 いーちゃんが何を言いたいかわかった。なるほど、確かにアレなら真島は勝手に飛び降りたことになるらしい。


「これって殺人になるかしら」

「事故だと思うよ」


 僕はいーちゃんを見つめ、真顔でいった。いーちゃんも僕を見て微笑んでいる。

 それだけで良かった。




「……がみ、……おそがみ……、恐神おそがみ! おい、恐神聞こえてるのか」


 いーちゃんとの回想を男性のダミ声が呼び覚ます。

 目の前によれたエンジ色のジャージを着た中年男性が立っており、周りを見渡せば他のクラスメイトは立ち上がって僕の方へ視線を向けていた。

 いつの間にか来ていた担任に向けて、起立という号令がかかっていたようだ。慌てて立ち上がり「礼」「着席」と日直が答えて席につく。このやり取りは数十年前から続いているらしいが、いい加減このような儀式めいたものは廃絶すべきだと思う。

 朝のホームルームが終わり、担任が教室から出て行くと一限目が始まるまでの雑談があちこちで開始されていた。

 僕は最前列という席でうつむき、窓側へと視線を向ける。口角をつり上げにやけきった表情を誰にも見せず、今にも腹を抱えて笑いたい衝動を抑えつけていた。

 あの真島が死んだ。あの真島が。

 憂鬱な月曜日がこれほど晴れやかに感じたことはない。小躍りの一つでもして、教室中のクラスメイトを唖然とさせてもいいとすら思うほどだ。

 一限から放課後までのいつもの退屈で退廃的な時間は今日の吉報によりあっという間に過ぎ去り、全ての授業が終わる教室を飛び出す。


 お祝いだ。

 今日という記念すべき日に何かお祝いをしよう。

 どうしよう欲しかったあのパーツを思い切って買ってしまうか? それとも「猫屋敷」にでもいってジージから何か怪しげなものを購入するか。

 そうだ!

 いーちゃんが好きなあじろ温泉通り向こうのキルフェ・ホルン季節限定タルトを買って、二人でお祝いをしよう!


 思い立った僕は警察警報をフル範囲にして、電動シューズの時速限界を遙かに超えたスピードで走り出す。

 あじろ温泉通りにあるキルフェ・ホルンはクリームチーズタルトが美味しいと評判になり、東京や他でも多くの支店を出している店舗なのだが、中でも季節限定タルトは筆舌につくしがたい。先月のタルトは、パティシエが配合した絶妙な甘さの密を吸い込んだ、岡山白桃をつかったもので、口に含むたびにみずみずしく感じる果肉の歯ごたえと、噛みしめるたびに鼻をくすぐる甘い香り、数度噛みしめるだけで溶け消えていく食感は絶品だった。

 僕といーちゃんは小さい頃からここのタルトに目がなく、お互いに喧嘩したときなどは、タルトを持って謝りあったものだ。


 山側の学校から伊東線を通り抜け繁華街のあるあじろ温泉通りは、2030年代に起こった熱海一大リゾート開発事業によって、熱海港から網代港までの沿岸沿いの再開発を行い、新旧入り乱れる世界でも有数の温泉街へと生まれ変わった。昔からの老舗旅館もあれば、大きな新造ホテルなどが山側に建ち並び、地中海にあるリゾートの様相を呈しているところもある。「猫屋敷」のジージなどは昔の趣がなくなったと嘆いていたが、再開発による立ち退きに強固に反対した古い建物が七割をしめるここは、映画のロケにもよく使われるほど「昭和」という時代を残した通りなのだそうだ。


 網代駅から港までの五百メートルほどしかない温泉通りは、旅館、ブランドショップ、土産屋、飲み屋、食堂が入り乱れ、裏通りには違法カジノ、娼館、キャバクラが乱舞し、昼と夜の顔がはっきりとわかれる混沌とした町だ。

 人混みをさすがに四十キロで駆け抜けるわけもいかず、自動走行に頼りながらキルフェ・ホルンまでノロノロとした走りで向かい、いーちゃんにタルトは何がいいかとメールをだしておく。すぐに返信があり、「おっくんにおまかせ」という内容を確認した僕は、混雑する店内で二つほどタルトを買って出ると、そのまま帰宅せずに裏通りへと足を向けた。子供が出入りするような店などひとつもないが、今から向かう「猫屋敷」は店の雰囲気が大好きで、大人の目を逃れてはここの店に入り浸り、店主のジージと遅くまで話し込んでいたもんだ。

 メイン通りを一本裏に入っただけで人通りはぐっと少なくなり、観光客よりも黒服を着た怪しい雰囲気をまとう男たちが目につく。見知った道をSONICで走り抜けると、裏通りハズレに古く黒焦げた色の木造建築が見えてきた。薄暗い店内の引き戸を開け、中に入ると獣くさいにおいと積み上がった怪しい道具が僕を出迎えてくれる。

 2059年とは思えない店内は、床は土むき出しの土間で、奥に一段高くなった畳敷きの座敷が控え、手前には脱いだ履き物が置いてある。高い天井からぶら下がった頼りない明かりの電灯が古い時計やら人形などを照らし出し、何も知らない人が入ると必ず顔をしかめて何も見なかったように引き戸を閉めていく。

 

「ジージいないのぉ〜?」


 誰もいないと思わせる店内に向けて声をかけてみると返答は、


「にゃぁ〜」


 という甲高い猫の鳴き声だった。ジージと呼ばれる店主が猫の鳴き声をしたのではなく、この店内のどこかにいる猫が返事をしてくれたのだ。「猫屋敷」と呼ばれるほど屋敷内には複数の猫が飼われているのだが、全体で何匹いるかを把握しているものは店主たるジージを含めて誰もいない。僕も実際にここで見たことがあるのは数匹しかおらず、今返事をくれたのは白地に黒ブチのニャンスケだろう。

 目をこらせば部屋の奥で複数の光る目がこちらを見つめていることに気がついたが、彼らは電灯の下に現れることはなかった。


「なんじゃぁ、坊主かぁ」


 屋敷の奥からまだ頭髪が残る白髪頭に、どこか薄汚れたつぎはぎだらけの古着をだらしなくきた老人が歩み寄ってくる。老人はその手に黒猫を抱え、億劫そうな歩みでこちらに近づき僕に声をかけてきた。


「久々じゃのぉ」

「何ぼけてるんだよ、つい先週もきたじゃんか」

「そうじゃったかのぉ。どうも最近物覚えが悪くてのぉ」

「まだ呆けるには早いでしょ。ところでさ、何か出物はない? 今日はすごく気分がいいんだ。高くても買っていくよ」

「何かええことでもあったか」

「まぁね」


 同級生には見せたことのない笑顔をジージに向けると、彼は皺だらけの手を僕の頭にのせ、髪の毛をぐちゃぐちゃになるくらいかき回す。昔からのやりとりだが、僕はこのいじられ方が大好きだった。


「出物のぉ。あると言えばあるぞ。デッカー・フィールドのライブラリ集じゃ」

「うそ!!!」


 思わず店内に響き渡るほどの大声を出し、ジージの懐で寝ていた黒猫のクロが飛び起きてこちらへ顔を向ける。店内の猫も驚いたのかあちこちで動き回っている音がした。


「あの天才プログラマーのライブラリ? もう他界して彼のサーバーがどこにあるかもわからないって言われてるのに。見つかったの?」

じゃの道はへびじゃ。詮索はなし。真偽でいうならわしの保証付き。値段は坊主じゃからのぉ特別にまけて二百万じゃ」


 ジージがいう二百万とは、大昔のご老人が「はい、おつり百万円」などと幼い子供と百円のやり取りをしていた、たわいない冗談ではなく、本当に中学生に対して二百万を要求しているのだ。しかも特別にまけてというのも嘘ではない。

 三菱製の旧式スーパーコンピューターの出物があり、一目惚れした僕はいくらと聞いたところ「まけて百万円」と返された。これに悩んでる隙に、ネットを通じて同じ品の値段を問われたジージは「一千万」と答えたのだ。即決した相手は一千万をネットバンクの即金で支払い、スパコンは相手のものになった。一瞬の迷いで目の前から油揚げがかっさわれた僕の肩にジージが手をかけると、


「もう一台あるぞい。まけて三十万にしちゃるぞ」


 とのたまい、僕も即決でジージに三十万を支払った。しかし、一千万のものを三十万で売るのはどうしてだと聞いた僕に対してジージは「気分」と一言だけいい、それ以外は重い口を開くことはなかった。


「デッカー・フィールドマニアな僕としてはこれ以上ないよ! 買う!」

「毎度。坊主は景気がええのぉ。おまけにイタマカとチョロQラジコンをつけちゃろう」

「チョロQってなに?」

「わしの子供時代に流行ったおもちゃじゃ」

「へー、それはまた古そうだね。でも僕はおもちゃであまり遊ばないよ?」

「何事も使い方次第じゃて。おもちゃも、QCも、イタマカも」

「ふ〜ん。まぁくれる物はもらう主義なんだ。ありがたくもらっていくよ!」


 ジージが差し出す右手に左手を重ねると視界に【トレード】のマークと金額が表示され、【はい】を選択すると支払いが完了する。「毎度ありぃ」と間延びした声が目の前から聞こえ、ジージからダウンローダーが送信されてきた。早速それをつかいライブラリーを僕のQCに落とし込む。今晩はこれをいじり倒して寝られそうにない。

 本当はこのあとジージからお茶菓子をもらいながら一時間くらい話し込むのだが、いーちゃんが待っているからと声をかけて店を出ることにした。


「ニャンスケまたな」


 入り口に陣取っていた人なつっこい猫に一声かけて走り出すと、すでに辺りは夕闇に閉ざされ、薄暗い街灯に照らされた裏通りにも背広をきたサラリーマンや浴衣を着込んだ人たちで賑わいつつある。

 人混みを通り抜け、もう少しでメインストリートに到達しようとしたところで、僕の視界に警告が表示された。


 【注意:前方 対人2】


 自分にしか聞こえない警告音と視覚警告文により、急制動をかけ立ち止まる。

 行く手をふさぐ二人組は、大きく胸元を開けた学生服に身を包み、威嚇するように大声でわめき散らしてきた。


「おい! 恐神おそがみ! てめぇ、真島さんの件で何か心当たりがあるだろうがコラァ」


 二人のうちの一番左側、ちょっと小太りで背の低いバカっぽい男が、僕に乱暴な口をたたく。こいつ、どこかでみたような……。


「ええと、突然僕を呼び捨てにする君はだれ?」

「て、てめぇ。バカにしてるのか!」

「ぷっ! 水迫みずさこって同じクラスの奴にも覚えられないほど影薄いの?」

「るせぇ。あんまり学校いってねーんだよ。殺すぞコラァ」

「まぁまぁ水迫ちゃん。せっかく恐神を発見したんだからよぉ、聞きたい事を聞き出しちゃおうぜ。じゃないと俺らが南風原はえばるさんにぶっ殺されちまう」


 南風原の名前が出た瞬間に水迫は真っ赤だった顔を一瞬で青ざめさせ、隣の男に向かって口をパクパクとさせるだけの鯉人間と化す。水迫を小馬鹿にしたように語りかけた長身の男は、何気に僕へと近づき、ヘラヘラとした態度を崩さず、軽く右手で拳を作ると、


 【警告:物理反応 左側頭部打撃】


 警告音と共に僕の視界に赤い線が側頭部へとつづく曲線を描きだし、その線をなぞるように長身男の右フックが僕に襲いかかる。QCで常時動いている対物アプリが警告を瞬時に読み取り、SONICのローラーを制御して僕を後方へと下がらせた瞬間、相手の拳は眼前を通り過ぎていった。


「へぇ。これ避けるんだ。何かむかつくな、お前」

「知らない人間に道をふさがれたり、突然殴りかかられる覚えはないんだけど」

「お前マジで言ってるわけ?」

「何が?」


 質問に対して質問で返した僕が悪かったのだろうか、今まで温厚そうにしていたバカ二号がこめかみに青筋を立てながら襲いかかってきた。


「なめてるじゃねぇぞ、クソが!」


 またも対物警報がなり、今度は赤い線が相手の脚から僕のお腹めがけて描かれる。前蹴りを放つ動作は大ざっぱで、警報がなくても避けられそうだ。自分の足でその蹴りを避けようとしたとき、また警報が発せられる。


 【緊急:物理反応 左頭部打撃】


 視界に緑の線が伸びてくるのとSONICが急稼働したのは同時だった。足の動きだけは追いつかないと判断した僕はとっさに身をかがめ、長身男の影から放たれた不意打ちに対処する。前から蹴りが、左から頭を打ち抜くような右ストレートが髪の毛をかすめて空を切る。

 

「なんだそらぁ。水迫さぁ、不意打ちして躱されるってどうよ」

「ああ、宗村むねむらのふざけた前蹴りが無ければ当たってたんだよ」


 僕に襲いかかってきた二人は、対峙してお互いに恫喝しあっていた。


 2030年代から爆発的に普及したブレインハッキングコンピューターのQCは、人間の網膜をモニター代わりに、脳への補助PCとして立ち位置を確立し、その普及によって一年間の交通事故件数が過去最高の百人十万件を突破していた日本において、対物接触防止アプリが普及すると事故件数は年間数千件にまで縮小された。

 この対物アプリは周りのQCと連動した動きをしており、今の僕のように警告をはっすることによって、物理接触を防いでくれる。彼らも当然この事を知っているはずだが、僕のようにアプリを改造して喧嘩の道具として使えることまでは知らないようだ。


 お互いの胸ぐらをつかみ合っていた二人組のうち宗村と呼ばれた男が、水迫を突き飛ばすと僕に向き直って言い放つ。


「恐神、てめぇマジで真島さんの一件に絡んでねぇんだろうな」

「さっきから言ってることがよくわからないけど、僕は関わった覚えはないよ」

「嘘つくんじゃねーぞ! にやけたテメェを何度も見たって奴がいるんだよ!」


 水迫がわめき立てるが、僕の耳にはあいつの声が全てブヒブヒと変換されてしまう。あいつは今日から子豚くんと呼ぼう。


「もう行くよ」

「シカトしてるんじゃねーぞ!」


 自分の恫喝が僕に無視され、怒り狂った子豚が突進をしかけてくる。何度も避けているのにまだ気がつかないのか。あきれた僕はこれ以上彼らに関わるのをやめることにし、踵を返して裏通りを走り出す。


「待てやぁ!」


 お決まりとも言うべき台詞を放つと彼らも走り出し、僕との鬼ごっこが開始された。裏通りを熟知しているのはお互い様らしく、人混みの多くなった通りでの鬼ごっこはつかず離れずとなり、面倒になった僕は店のゴミなどが出される人通りのない裏路地の角を曲がるとイタマカのひとつを壁に貼り付け、そのまま通りの影に隠れ彼らが曲がってきたことを確認する。

 いたずらマーカー、通称イタマカ。QCを常備発動させている現代日本では、ARによって各所にあるエアタグやマーカーにより、視界に情報が投げ込まれてくる。何もない空間に看板をおくことや、メインストリートから離れた自分の店への誘導をすることも可能だ。そのマーカーシステムを利用していたらずをしかけるのが、このイタマカだ。小学生の頃、相手の肩に蛙マーカーを置いて、びっくりさせたり、通路に壁が表示されるようなマーカーを貼り付け迷路のようにしてしまったり。しょせんはAR状のものでしかなく、相手がQCや拡張現実機能をカットしてしまえば、何も効果はない。だが、あのバカ組は見事にひっかかってくれたようだ。


「ああ!? なんだ行き止まりだぞ」

「はぁ? 俺のナビじゃここに通りがあるぞ」

「こっから行き止まりがみえるじゃねーか。お前のナビ古いんじゃねーの?」

「クラウドになってる情報に古いとか新しいとかねーだろ。だから、てめぇはおつむがよえぇて言われるんだよ」

「宗村よぉ、てめぇ俺のことなめてんのか」

「るせぇ!」


 通りの向こうで喧嘩をはじめる二人に対して、本物の怖さをもった男が近づき二人をぶん殴って「ガキがいつまでも騒いでるんじゃねぇ、うせろ」とすごみをきかせると水迫も宗村も慌てて走り逃げていった。

 馬鹿なやつらだ。視界に表示したナビゲーションで二人の光点が消えるのを待って物陰から立ち上がると、青年とも中年とも取れる男が通路を塞ぐように立ち、壁を手でなぞりながら、僕がつけたイタマカをはがす。


「いたずらマーカーか。なつかしいなぁ。俺の時代もよくこれで遊んでいたよ。マーカーで路地に迷路つくってさ、店のところに壁を表示するマーカーつけてたら、店の親父にぶん殴られたよ」

「あんたは……」

「おひさしぶりですね、恐神さん」

「年下に“さん”づけなんてやめなよ、柿崎刑事。僕に何か用? ちょっと急ぐんだけどさ」

「ええ、私もそうしたいところなんですが、君に聞きたい事がありまして。真島宏明くんのことについてなんです」


 柿崎は、億劫そうに懐から警察手帳を取り出し開くと、そのタグから情報を読み取った僕の視界に、


【静岡県警 熱海地区 刑事部 捜査課 柿崎敏夫】


 と表示される。


「恐神さん。ちょっと署までご同行願えますか」


 柿崎は慇懃な態度で僕に言い放った。

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