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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。

十月の銀杏

作者: トミヤマ
掲載日:2026/02/18

一.


 「どっちも好きなの」

 絵美里はそう言って、視線をテーブルに落とした。


 午後一時のカフェは静かだった。客は私と絵美里だけで、スピーカーからジャズが低く流れている。窓の外では、銀杏並木が十月の風に揺れていた。葉はまだ緑を残しながらも、縁のほうからじわじわと黄色に染まり始めていた。ちょうど今の私みたいだと、場違いなことを思った。


 テーブルの上には、手つかずのカフェラテが二つ並んでいる。白い陶器のカップに、バリスタが丁寧に描いたのだろう、小さなハートの模様が浮かんでいた。なんて皮肉だろう、と私は思いながら、自分の手をじっと見つめた。指先が微かに震えているのに気づいて、膝の上でそっと握り込んだ。香ばしいコーヒーの匂いが鼻をくすぐる。いつもなら好きな匂いなのに、今日は胸のどこかを刺激して、かえって苦しかった。


 向かいに座る絵美里は、長い睫毛を伏せていた。形のいい唇が何かを言いかけては閉じられる。いつもなら他愛もない話を止めどなく続けるくせに、今日は口が重かった。私が話を切り出すまで、二人とも何も言えなかった。テーブルを流れる陽射しが、ゆっくりと角度を変えていく。その動きを眺めながら、時間がここだけ妙に遅れているように感じた。


 私たちがここのカフェに来るのは、二度目だった。はじめて来た時は、偶然入ったのだったか、絵美里が調べてきたのだったか、もう覚えていない。ただ、その時も今日と同じ窓際の席に座って、絵美里が「ここ好き、静かで」と言ったことだけ、妙に覚えている。あの言葉と同じ場所で、今こんな話をしているというのも、うまくできた話だと思った。


 彼女が泣き始めたのは、私が「別れよう」と言った後だった。ぽたり、と雫がテーブルを濡らした。私は慌てた。泣かせるつもりはなかった──正確には、こんな泣き方をさせるつもりはなかった、と言うべきか。絵美里が泣く時というのは、決まって映画のエンディングだとか、雨に濡れた野良猫を見た時だとか、そういう場面に限られていた。自分のことで、こんなふうに泣くような人ではなかった。


 私の方から話を切り出したのには、みっともない計算があった。先手を打ったつもりだった。先に終わらせてしまえば、捨てられる痛みよりは幾らかましだろう、という。


 先週の金曜日のことだ。仕事帰りに駅の改札を抜けようとした時、人混みの向こうに絵美里の姿を見つけた。珍しいこともあるものだと思いながら声をかけようとして、止まった。


 隣に、男がいた。


 背の高い、整った顔立ちの男だった。スーツをきちんと着こなして、絵美里と何か話しながら笑っていた。絵美里も笑っていた。私が三年間で一度も見たことのない、満面の笑みで。二人は自然な動作で腕を絡め、まるで長年のカップルのように人混みをすり抜けていった。私は改札の前で人の流れを遮っていることにも気づかず、ただそこに立ち尽くした。


 三年間、私はあんな顔を一度も引き出したことがなかっただろうか。そんな思いが頭を掠めて、余計に動けなくなった。背中や肩に見知らぬ人々がぶつかっていくが、痛みも感じなかった。ようやく我に返って脇に避けた時には、もう二人の姿はどこにもなかった。


 その夜は眠れなかった。布団の中で天井を見つめながら、さっきの光景が何度も頭の中で再生された。絵美里の笑顔。腕を絡める自然な動作。私には一度もあんなふうに笑いかけてくれなかっただろうか、いや、そんなことはない。それでも、あの笑顔は何かが違った。私に向けるそれとは、種類の違う笑いだった。そのことが、なぜか一番こたえた。


 ──絵美里は、「どちらでもいい」人だ。


 付き合い始めた当初から、それは知っていた。過去の恋愛相手が男だったり女だったりすることも。彼女は隠そうとしなかったし、私も特に気にしていなかった。少なくとも、気にしないようにしていた。


 私の恋愛対象は、女性に限られている。


 それが絵美里とのあいだに、見えない非対称性を生んでいることは、頭ではわかっていた。絵美里には帰る場所がいくつもある。私には、ひとつしかない。そして、そのひとつは彼女だった。ただそれだけのことなのに、今になってそれが、じわじわと毒のように胸に広がってくる。


 絵美里は言った。


 「御笠のことも大事だけれど、大和くんのことも大事なの」


 声が、震えていた。告白のようでも、懺悔のようでもあった。


 「それって二股がけじゃん」


 私はあからさまに言い放った。自分でも驚くくらい声が平坦だった。感情を乗せまいとしていたのかもしれない。乗せてしまったら、崩れてしまう気がして。


 「そういうの、嫌だから。どちらかにして」


 絵美里はさらに泣いた。涙というのは、これほど人を無力にするものだったか。怒りと、痛みと、どうしようもない愛おしさが、胸の中で混ざり合って、どれが本当の感情なのかわからなくなる。


 「……選べない、選べないよ」


 「なにそれ。信じられない」


 私は席を立った。椅子が後ろに引かれる音が、ジャズの合間に小さく響いた。


 「──待って、待って、御笠!」


 追い縋るように絵美里も席を立つ。背後に気配を感じた。伸ばされた手が、私の袖をかすかに掠めた。


 私はお代を払って、店を後にした。振り返らなかった。振り返ったら、戻ってしまう気がしたから。


二.


 三年間つき合った彼女との関係が終わった。


 駅まで歩く道すがら、私は自分の足音だけを聞いていた。コンクリートを叩く革靴の音。規則正しくて、感情がなくて、それがひどく他人事みたいに聞こえた。横断歩道の赤信号の前で立ち止まった時、ふと自分がどこへ向かっているのかわからなくなった。わかっていた。帰るのだ、誰も待っていないアパートに。


 はじめて会った時のことを、今でも鮮明に覚えている。大学のゼミの飲み会で、隣に座った絵美里がいきなり「御笠さんって、なんか面白い顔してますね」と言い放って、私が絶句していたら「ほら、また面白い顔してる」と笑った。腹が立つより先に、笑ってしまった。それが始まりだった。


 絵美里となら、どこに行っても、何をしても楽しかった。夏の花火大会で、人波のざわめきと火薬の匂いの中、彼女の手を握った瞬間のことを、今でも覚えている。あの熱気と、手のひらの温かさ。花火が空に広がるたびに絵美里が歓声を上げて、その横顔をついつい眺めてしまった。二人で並んで海辺の定食屋に座った夜は、波の音と店内の灯りが入り混じって、目に見えない安心感が漂っていた。窓から見える夕陽が、テーブルいっぱいに橙色を広げていた。絵美里がアジの干物を器用にほぐしながら「御笠って食べるの遅いよね」と笑った。私は「急いで食べることに何の意味があるんだ」と言い返して、また笑い合った。


 たとえ公にできない関係でも、そんなことはどうでも良かった。私の両親は知らない。絵美里の両親も、きっと知らない。友人の中に打ち明けた相手は、ほんの数人だけ。世界の大部分に隠しながら、それでも確かに、私たちは三年間、一緒にいた。


 隠していることを不満に思ったことはなかった、と言えば嘘になる。誰かに絵美里のことを話したいと思ったことは、何度もあった。でも絵美里が望まなかったし、私も、声に出してしまえば何かが変わってしまう気がして、黙っていた。そういう沈黙を、私たちはお互いに共有していた。それもまた、ふたりだけの言葉のひとつだったのかもしれない。


 ──私は幸せだった。


 もう二度とあの日々は返ってこない。


 帰りの電車の中で、私はずっと窓の外を見ていた。流れていく街の灯り。見知らぬ人々の横顔。窓ガラスに映った自分の顔は、ひどく疲れた中年のように見えた。まだ二十六歳なのに。


 でも心のどこかで、いつかこんな日がやってくると思っていた。絵美里の恋愛対象が男女どちらでも良いと知った時から。いや、その前から。絵美里はモテる。一緒に街を歩けば、知らない男に声をかけられることなど珍しくなかった。絵美里はいつもにこやかに断って、私のそばに戻ってきた。その度に私は安堵して、そして恥ずかしくなった。こんなに不安になるくらいなら、最初から好きにならなければよかったと、何度も思った。


 きっといつかは、私の元から離れていく。それが現実になっただけだ。覚悟の上だった。


 ──なのに。


 覚悟の上だったはずが、いざその瞬間が来ると、何も準備できていなかった自分に気づく。頭でわかっているということと、心が受け入れるということは、どうやら別の話らしい。


 アパートの自室に帰り着いて、靴を脱いで、コートも脱がないまま床に座り込んだ。電気もつけなかった。暗い部屋の中で、膝を抱えた。ひびの入った白い天井が、暗がりの中で妙に遠く見えた。どこかで救急車のサイレンが鳴って、遠ざかっていった。時計の秒針の音だけが、静かな部屋に響いていた。


三.


 絵美里の連絡先を削除しようとした。──出来なかった。


 スマートフォンの画面に、「北条絵美里」という名前が表示されている。アイコンには去年の夏、二人で行った水族館で撮った写真が設定されていた。絵美里がクラゲの水槽の前で、青い光を浴びながら笑っている。あの日、絵美里はクラゲが好きだと言っていた。「ふわふわしてて、何も考えてなさそうだから」と。私は笑いながら、でも内心でちょっと羨ましいと思っていた。何も考えずにいられるなら、どれほど楽だろう。


 削除ボタンを押す指先が、何度も画面の上で止まった。まだ残しておきたい気持ちの方が強かった。我ながら未練がましくて、自嘲の笑みが漏れた。


 絵美里との思い出が詰まったSNSはすべて退会した。三年分の投稿が消えた。旅先の写真も、何気ない日常の記録も、すべて。退会ボタンを押した後、画面が真っ白になって、それっきりだった。思ったより、あっけなかった。データというのは、積み重ねた時間の重さを持たない。


 一瞬躊躇った後、絵美里との写真も削除した。一枚ずつ消すのは耐えられなくて、フォルダごと選択した。確認ダイアログが出た。


 「削除しますか?」


 親指が、何度も空中で止まった。それでも、押した。


 ──終わった。完全に。もう会うことはないだろう。


 空になったフォルダを眺めた。白い画面。何も残っていない。あれだけ積み重ねてきたものが、親指一本で消えてしまった。デジタルというのは残酷だと思った。あるいは、だから便利なのかもしれなかった。


 目は熱かった。でも、泣かなかった。泣いたら、全部が本物になる気がした。


 私はまだこんなにも絵美里のことが好きだったのだと思った。頭ではとっくに諦めていたつもりなのに、心というのは正直で、融通が利かない。


 スマートフォンをしまって、電気を消した。暗い部屋の中で、しばらく天井を見つめた。外を車が通り過ぎていく音がした。どこかで子どもが笑っている声がした。世界は何も変わらずに動いていた。私だけが、止まっていた。


四.


 数日後、絵美里からLINEが来た。通知バナーが画面の上部に現れた瞬間、胸が跳ねた。反射的に手を伸ばしかけ、止めた。


 私は開けなかった。


 未読のまま、通知だけが残った。既読をつけたくなかった。既読をつければ、まだ彼女のことを意識していると知られてしまう。そんな意地を張っていた。画面を見つめるたびに胸がちりちりして、早く消えろと願った。消えなかった。通知は翌日も、その翌日も、画面の端でひっそりと光り続けていた。


 仕事中も、食事の最中も、ふとした瞬間に絵美里のことを考えた。考えたくなかった。でも止められなかった。絵美里は今どこにいるのだろう。大和くんと会っているのだろうか。いや、そんなことを考えることに何の意味もない。考えれば考えるほど、自分だけが傷つく。それはわかっていた。それでも、考えた。


五.


 一週間が過ぎた。仕事に行き、帰り、飯を食い、寝る。そんな日々が続いた。感情は麻痺しつつも、だんだん普通に息ができるようになっていた。眠る前、ベッドで天井を見つめながら絵美里の笑顔を思い出し、胸がぎゅっとなることもあったが、その痛みが少しずつ色褪せていくのを感じていた。消えたわけではなく、ただ、距離が生まれていく感じだった。


 同僚の篠崎さんが「最近元気ないね」と言ってきた。特に深い意味はない問いかけに「ちょっと寝不足で」と答えたら、「それはいかんね」と言いながらチョコレートをくれた。それだけのことが、じわりと胸に来た。傷ついている時というのは、人の他愛ない親切がやたらと染みる。私は「ありがとうございます」と言って、ポケットにそっとしまった。帰りの電車の中で食べた。少し甘すぎて、それがちょうど良かった。


 その夜、私は久しぶりに絵美里のLINEを開いた。ブロックするつもりだった。しかし画面を開いた途端、既読がついた。送信から一週間が経った後で。絵美里のメッセージが目に飛び込んできた。


 「御笠、ちゃんとご飯食べてる?」


 責めるでもなく、縋るでもなく、ただそれだけ。私は長い間、その文字を眺めた。眺めながら、奥歯を噛み締めた。こういう人なのだ、絵美里という人間は。怒っているのに、許してしまいたくなる。傷ついているのに、心配されると少し胸が緩む。だから私は三年間、この人から離れられなかった。


 返信はしなかった。でも、ブロックも、しなかった。


 スマートフォンを伏せて、天井を見上げた。「ちゃんとご飯食べてる?」という問いが、頭の中でもう一度鳴った。三年間、私は絵美里にそう聞いたことが何度あっただろう。絵美里も私に聞いてくれた。仕事が忙しい時期、体調を崩した時、落ち込んでいる時。どちらかが問いかけて、どちらかが答えた。それは私たちのあいだの、ほんの小さな習慣だった。その習慣を、絵美里はまだ手放していなかった。私も、手放せなかった。


六.


 二週間後、職場の近くで絵美里に会った。


 角を曲がった瞬間に目が合った。お互い、一瞬だけ動きが止まった。絵美里は少し痩せていた。顔色もあまり良くなかった。十月の風に吹かれて、コートの前をかき合わせている。頭上の銀杏並木から、黄色く色づいた葉がひとひら、ひらりと舞い落ちた。


 「御笠」


 絵美里の声に、思わず肩が硬くなる。距離が近すぎて、逃げることはできなかった。


 「……絵美里」


 「会えてよかった」


 それだけの言葉に、何も言えなくなる。


 「……何してるの、こんなところで」


 「御笠の会社、この辺だって知ってたから」


 ──つまり、待っていたのだ。私は言葉を失った。怒ればいいのか、呆れればいいのか、判断がつかなかった。その両方だったかもしれない。


 「ちょっとだけ話せる?」


 絵美里の目が、真っ直ぐ私を見ていた。泣いていなかった。あのカフェの日とは違う、静かな目だった。私は少し考えた後、「五分だけ」と言った。自分でも、なぜそう言ったのかわからなかった。


──────


 近くのベンチに並んで座った。


 十月の風は冷たくなっていた。絵美里はコートの前をかき合わせながら、しばらく何も言わなかった。私も黙っていた。頭上で、銀杏の葉がまたひらりと舞い落ちた。


 「大和くんとは、もう別れた」


 絵美里が静かに言った。私は何も言わなかった。それが絵美里を責めるためなのか、本当に言葉が出てこないのか、自分でもよくわからなかった。


 「選べないって言ったのは本当だけど、たぶん、私が正直じゃなかった。御笠のことが怖かったんだと思う」


 「怖い?」


 「御笠に嫌われることが。御笠と一緒にいると、全部見透かされるみたいで。男の人といる時は、普通でいられるの。気を張らなくていいから」


 それだけ言って、絵美里は黙った。


 私は答えなかった。答えたくなかったというより、言葉が出てこなかった。じゃあ私は、普通じゃなかったんだ、と思った。腹も立った。でも同時に──腹が立つくらいには、まだ私は絵美里のことを好きだった。好きだからこそ腹が立つ。好きだからこそ、傷ついている。その単純な事実が、改めてずしりと胸に落ちてきた。


 絵美里が続けた。


 「御笠と一緒にいると、本当の自分でいなくちゃいけない気がして。それが怖かった。逃げたかったんだと思う。でも逃げた先で、やっぱり違うってわかった」


 風がひとしきり強く吹いて、銀杏の葉が何枚もいっせいに舞った。私たちは黙ってそれを見ていた。落ちた葉が地面でくるくると回り、やがて静かに止まった。


 「謝りたかっただけ」


 絵美里が立ち上がった。


 「御笠が、私のことをもう嫌いでも、しょうがないと思ってる。ただ、ちゃんと謝りたかった。傷つけてごめんなさい」


 そして、「ありがとう、話を聞いてくれて」と言い残して、歩き出した。


 私はベンチに座ったまま、その背中を見ていた。呼び止めようとして、やめた。また呼び止めようとして、──今度は、やめなかった。


 「絵美里」


 声をかけた自分に、自分で驚いた。絵美里が足を止める。振り返る。


 私は立ち上がりながら、なんて言えばいいか考えた。怒っている。傷ついている。それは本当だ。でも同時に──三年分の時間が、ずっしりと胸の中にある。あのクラゲの水槽の青い光が、定食屋の夕陽が、花火大会の夜の温かさが。忘れようとしていた。忘れられなかった。


 「……ご飯、食べたの」


 私は言った。それは愛情ではなく、習慣だった。許したわけじゃない。元に戻るとも思っていない。ただ、長く一緒にいた人間が目の前に立っていて、顔色が悪くて、それを無視できないだけだ。それが精一杯だった。


 絵美里が目を丸くした。それから、少しだけ──ほんの少しだけ、笑った。


 「まだ」


 「ならこっち来て。昼飯くらい、付き合う」


 答えを待たずに歩き出した。後ろから、小走りに絵美里がついてくる足音がした。


 許したわけじゃない。元に戻るとも思っていない。それでも、隣を歩いていた。


 近くの定食屋に入った。壁に黄ばんだメニューが貼られた、古い店だった。絵美里は「日替わりでいい」と言って、私も同じものを頼んだ。味噌汁が運ばれてきて、湯気がゆらゆらと立ち上る。二人ともしばらく黙ったまま箸を動かした。


 「美味しい」


 絵美里が小さく言った。


 「そう」


 私はそれだけ答えた。会話はそれで終わった。でも、沈黙が苦しくはなかった。不思議なことに。


 食べ終わって、店を出た。外はもう少し風が強くなっていて、銀杏の葉が足元を転がっていった。


 レジで私がお代を払った。「割り勘でいい」と絵美里が言ったが、「いい」とだけ答えた。なぜそうしたのか、自分でもよくわからない。習慣かもしれないし、意地かもしれない。どちらにしても、大した意味はなかった。


 「じゃあ、また」


 絵美里が言った。「また」がいつを指すのか、私にはわからなかった。彼女にも、おそらくわからなかっただろう。それで良かった。まだ決める必要はなかった。


 「うん」


 私はそれだけ言って、反対方向に歩き出した。背後で絵美里の足音が遠ざかっていく。振り返らなかった。今度は、振り返りたくないからではなく、まだそんな気持ちになれないから。そういう意味で。


 足音が完全に消えた後も、しばらくその場に立ち止まった。胸の中で何かがゆっくりと動いているのを感じた。怒りでも悲しみでもなく、もっとなだらかな何か。名前のつけにくい感情が、少しずつ形を変えていた。


 来た道を戻りながら、私は銀杏の並木を見上げた。黄色と緑が混ざった葉が、光を透かして輝いている。この木はまだ、どちらでもない。秋の途中で、まだ決まっていない。


 赦すとはどういうことなのか、私にはまだわからない。誰かを傷つけられた後で、もう一度その人の隣に立つことが、果たして赦しと呼べるのかどうか。それとも、ただの未練なのか。あるいは、どちらでもないのか。答えは出ない。でも今日のところは、それでいいと思った。答えを出すのは、もう少し先でいい。


 私たちも、たぶん、まだそういう季節なのだろう。


 冷たい風が頬を撫でた。息が白く滲んだ。私は少しだけ足を速めて、自分のオフィスへと戻っていった。



──完──

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