第二十七話 血栓除去作戦ですわ
ナザールでの賭けが始まって五日目。
私が滞在している宿の執務室には、朝から冷えた空気が漂っていた。
「……動きませんね」
窓の外、雪混じりの風が吹く街を見下ろしながら、エリアスが低い声で言った。
エリアスが手に持つ報告書には、ナザール市内の穀物価格の推移が記されている。
【賭けの経過:五日目】
・穀物価格:帝都の1.9倍(変化なし)
・街道の荷動き:微増
・市場の空気:様子見と疑心暗鬼
・評価:動脈硬化を起こしている
「グレタ殿は動いているはずです。ギルド員たちに『値を下げろ』と触れ回っている姿も見ました。ですが、末端の店や仲買人が従おうとしません」
「当然ですわ。彼らにとって価格が高いことは利益そのものですもの。今日売れば金貨二枚になる麦を、明日売れば一枚になるかもしれないと言われて、はい、そうですかと下げる馬鹿はいませんわ」
「ですが、このままでは三十日の期限に間に合いません」
「ですから、少しばかり『背中を押して』差し上げませんと」
私は立ち上がり、コートを羽織った。
「市場が動かない理由は二つしかありませんわ。『まだ高く売れると信じている』か、『安く売ると損をすると思っている』か。どちらにせよ、その幻想を叩き割る必要がありますの」
◇
ナザールの中央市場裏手にある巨大な倉庫街。
ここは商人ギルドの直轄地であり、同時に、闇市へと流れる物資の隠し場所でもあった。
「入るな! ここは関係者以外立ち入り禁止だ!」
倉庫の前に立ちはだかったのは、柄の悪い男たちだ。だが、その後ろからカールス将軍率いる武装兵たちが無言で圧力をかけると、彼らは露骨に怯んだ表情を見せた。
私は彼らに堂々と歩み寄る。
「この倉庫の管理権を持つ商人ギルドとは、すでに話がついていますの。在庫の確認に参りました」
「け、けどよ! ここを管理してるのは『ボルグの旦那』だ! 旦那の許可がなきゃ――」
「俺がどうかしたか?」
倉庫の奥から、毛皮のコートを着込んだ肥満の男が現れた。指には高そうな宝石を嵌め、口に葉巻を咥えている。
【倉庫管理者・ボルグ】
・立場:ギルド幹部(グレタの部下だが、独立独歩気味)
・収入源:物資の隠匿と価格吊り上げ
・評価:典型的な詰まりの原因
「あんたか、噂の女商人は。グレタの姉御と何か賭けをしたらしいが、俺の倉庫は俺の城だ。勝手な値付けはさせねえぞ」
「挨拶は省略しますわ、ボルグ殿。単刀直入に申し上げます。この倉庫に眠っている小麦をすべて今の相場の七掛けで市場に放出なさい」
「はあ!?」
ボルグは呆れたように笑い、葉巻の煙を吐き出した。
「寝言は寝て言え。そんな値段で売れば俺たちの儲けが吹っ飛ぶだろうが。あと半月もすればもっと雪が深くなる。そうなりゃ、値段は今の三倍だ。それを待って売るのが商売ってもんだろ?」
周囲の部下たちが、下卑た笑い声を上げる。
「姉御がどう言おうと、現場の在庫を握ってるのは俺たちだ。あんたの紙切れ一枚で、この小麦が動くと思っているのか?」
「思いませんわ」
私は冷たく言い放った。
「紙切れ一枚では動きませんわね。ですから『現実』を持って参りましたの」
私が指を鳴らすと、ミリアが懐中時計を取り出し、時刻を確認した。
「ユーフェミア様、予定時刻です!」
ミリアが大声をあげると、街道の方角から地響きがする。最初は遠雷のようだったが、次第にそれは車輪の軋みと、馬のいななき、そして無数の男たちの掛け声へと変わっていく。
「な、なんだ……?」
ボルグが怪訝な顔で倉庫の外を見る。
市場の入り口に巨大な荷車の列が姿を現した。一台や二台ではない。十、二十、いや、五十台を超える大船団のような輸送隊だ。
荷台には溢れんばかりの麻袋が積まれ、そのすべてに『クラウストラ通商連合・南部港』の焼き印が押されている。
「店の前に並べなさい! 一斉に荷解きを!」
私の号令で、輸送隊は市場の広場を埋め尽くすように展開した。袋が開けられ、黄金色の小麦が山のように積まれていく。
「ただいまより! クラウストラ通商連合による『北方支援・特別市』を開催いたします! 価格は帝都標準価格! 今の市場値の半額です!」
事務員の声が響き渡ると、一瞬の静寂の後、市場にいた市民たちが雪崩を打って殺到した。
「半額だぞ!?」
「あんなにあるぞ!」
「買え! 今のうちに買え!」
狂乱のような騒ぎの中、私は凍りついたままのボルグに向き直った。
「物流は水と同じですわ。せき止めれば値は上がりますが、他から溢れるほどの水が流れ込めば、せき止めていた水は、ただの『余り物』になりますの」
【市場価格・リアルタイム変動】
・供給量:瞬間的に三倍へ急増
・需要:一気に充足
・ボルグの在庫価値:暴落中
「ふ、ふざけるな! あんな量を一度に流したら相場が壊れるぞ!?」
「ええ、だから壊しましたの」
私は優雅に微笑んだ。
「あなたが『冬になれば三倍になる』と信じて抱え込んでいた、その小麦。明日には二束三文ですわ。なぜなら、私の輸送隊は明日も明後日も来ますもの」
嘘ではない。南部港で買い付けた在庫とエリアスが手配した帝都の備蓄の一部を、このタイミングに合わせて全力で送り込んだ。
「さあ、どうしますの? 今すぐ七掛けで売って、少しでも損を減らしますか? それともカビが生えるまで抱えて無一文になりますか?」
ふと、ボルグの頭上を確認する。
【ボルグ】
・精神状態:混乱
・損得勘定:崩壊
・評価:自分の重さで沈む小船
「う、売れぇッ!!」
ボルグが悲鳴のような声を上げて、部下たちに怒鳴り散らした。
「倉庫を開けろ! 全部だ! 半値でもいい、いや、四割でいいから叩き売れ! あの女の麦より先に捌くんだッ!」
部下たちが慌てて倉庫の扉を開け放つ。
隠匿されていた大量の物資が、雪崩のように市場へ吐き出されていく。それを見たグレタが、人混みをかき分けてやってきた。その顔には、驚きと諦め混じりの苦笑いが浮かんでいた。
「……やってくれたね、あんた」
グレタは私の輸送隊と、慌てて在庫を放出し始めたボルグたちを見比べた。
「これじゃ、あたしらが値を吊り上げてたのが馬鹿みたいじゃないか」
「ええ、馬鹿馬鹿しいことですわ」
私はグレタに向かって手を差し出した。
「物を隠して値を上げるのは三流のやり方です。物を流して、回転数で稼ぐのが一流のやり方。どちらの側につくか、もうお分かりですわね?」
「……分かったよ。あたしの負けだ。いや、この流れに乗らなきゃ、あたしらが干上がっちまう」
グレタはくるりと踵を返し、呆然とする配下の男たちに一喝した。
「お前ら! ボサッとするんじゃないよ! クラウストラの荷車を手伝え! これからは『薄利多売』で稼ぐんだよ!」
◇
夕暮れ時、市場の熱気はまだ冷めやらぬまま、ナザールの空には安堵の空気が満ちていた。
エリアスが、信じられないものを見る目で報告書を見つめている。
【賭けの経過:五日目夕刻】
・穀物価格:帝都の1.2倍まで急落
・放出された隠し在庫:推定八割
・評価:劇薬投与により、血栓は溶解
「本当に一日でひっくり返してしまうとは……」
「力技ですけれどね。ですが、これでナザールの連中も学びましたわ。『溜め込むより、回した方が安全だ』と」
「恐怖による学習ですね」
「効率的な学習と言ってくださいな」
私の視界の隅で新しい通知が点滅する。
【北方交易都市ナザール】
・物流機能:正常化開始
・ギルドの忠誠度:恐怖により『服従』へ移行
・次の課題:裏金の洗浄システム構築
「さて、血栓は取れました。次はこの街の汚れた金を、私の綺麗な金庫に入れる仕組みを作りますわ」
私はエリアスに微笑みかけた。
「王弟殿下、次は帳簿のお勉強ですわ。マフィアの適当な勘定を、近代会計に書き換えさせに行きますわよ」
「……覚悟を決めるしかなさそうですね」




