第十六話 明日を期待している者たちですわ
南部港湾都市・二十日目。
十日前は瀕死から歩ける程度だったこの港は今、ようやく走り出しても転ばないようになっている。
【南部港湾都市・二十日目】
・港の稼働率:六割 → 七割強
・作業券の流通:安定(換金率、一割未満で推移)
・共同食堂:利用者数横ばい/喧嘩発生率低下
・「来月もここで働きたい」労働者:前週比 +23%
・評価:短距離走から長距離走へ移行
「ここまでですね」
私は港を見下ろす小高い丘の上で、最後の確認を終えた帳簿をぱたりと閉じた。
赤錆びた桟橋はまだ残っている。崩れかけた倉庫も完全には建て替わっていない。だが放置された傷はもうどこもなく、すでに誰かの手が入っている。
「本当に行っちまうのかい?」
イルマが腕を組んで立っている。いつものように腰に手を当てる代わりに、今日は胸の前で帳簿を抱えていた。
【港湾管理主任・イルマ】
・新肩書き:港湾管理主任(臨時 → 正式)
・自覚:七割方
・評価:港の心臓
「港湾管理主任の正式任命おめでとうございますわ」
「やめてくれよ、くすぐったいね」
イルマは照れくさそうに笑い、帳簿の端を指で弾いた。
「でも、あんたが来る前に比べりゃ、こっちも覚悟は決まってるさ。港はあたしが守る。あんたは……」
「もっと面倒な場所を動かしに行きますの。帝都はここよりずっと人が多くて、ずっと愚かで、ずっと壊れやすい。私にとっては楽しい玩具ですわ」
「その玩具の下に住んでるのが、あたしの親戚やら友達やらなんだけどね」
「だからこそ丁寧に扱って差し上げますわよ」
そう言ったものの、私の視界には別の文字が浮かんでいる。
【南部港・留守番体制】
・港湾管理主任:イルマ
・会計監査役:クラウストラ派遣書記官二名
・治安担当:港湾警備隊長と、元ならず者数名
・外部監査:月一回、通商連合より巡回官派遣
・評価:私がいなくても三か月は崩れない
(許容範囲ですわ)
そこへ、ミリアが息を弾ませて駆け上がってくる。
「ユーフェミア様、荷物の積み込み完了しました。それと――」
「それと?」
「マシドさんが最後の挨拶をしたいと」
丘の下を見ると、小太りだった男が一変し、痩せ細った体格になっていた。
【マシド】
・体脂肪率:減少
・港でのあだ名:元利権屋
・評価:そこそこ使える反省材料
「呼びなさい」
「は、はい!」
◇
「……恩に着ます、クラウストラ様」
事務テントの中で、マシドは深々と頭を下げた。
以前の脂ぎった笑みは影を潜め、代わりに疲れ切ったが、どこか晴れた顔がそこにあった。
「何の恩かしら? 私はあなたを『使える形』に削っただけですわよ」
「それですよ」
マシドは自嘲するように笑う。
「最初にここへ来た時、正直あんたのことを別の搾り取り屋だと思ってた。港を数字でしか見ない冷たい奴だってな」
「今は違いますの?」
「数字でしか見ていないのは同じなんだろうが、数字の向こう側にいる人間を、無駄に減らさないようにしてるのは分かりました。そこが、今まで俺が仕えてきた連中とは、まるで違う」
マシドの頭上に、小さな更新が入る。
【マシド】
・私への理解度:『怖い』 → 『怖くて少しありがたい』
・逃亡リスク:ゼロ
・評価:港の黒歴史として有効活用済
「あなたはここに残りなさい。まだ謝る相手も、やり直せる相手も沢山いるでしょう?」
「ええ、全く、あんたに首根っこ掴まれてなきゃ、とっくにどこかに逃げてたでしょうけどね。帝都で何が起きるかは分かりませんが、港は守ります。俺の利権のためではなく、ここの連中の飯のために」
「それが一番長持ちする利権ですわよ」
私は軽く手を振った。
「行きなさい。今日もあなたには謝罪と根回しと、ついでに作業券の説明という仕事がありますから」
「了解しましたよ、ボス」
そう言って出て行ったマシドの背中は、軽く見えた。
◇
出発の日の朝。
港の入口には、小さな見送りの列ができていた。
労働者、魚屋のおじさん、共同食堂のおばさんたち。子どもたちも混ざっている。
「クラウストラ様、また来てくれるのかい?」
「今度は港祭りの時に来てくださいよ!」
「私はそんなに暇ではありませんわよ」
そう言いつつも、ミリアに目配せする。
「港祭りの計画書ができたら、私の元に回しておきなさい」
「はい、ユーフェミア様。『予算審議』という名目で、と」
「ええ、予算は大事ですもの」
見送りの中から、小さな少年が前に飛び出してきた。
「お姉ちゃん!」
「お姉ちゃんとは、私のことでしょうか?」
首を傾げると、少年は両手で、ぐっと胸を張った。
【港の少年】
・年齢:十歳
・日課:桟橋の作業見学
・評価:十年後の戦力候補
「俺、大きくなったら港で一番の荷揚げ人になるから! だから、それまで港を潰さないでね!」
「もちろん潰すつもりはありませんわ。むしろ、あなたが働く頃には、もっと忙しい港にしておきます」
「ほんと?」
「ええ、嘘をつくのは非効率ですから」
少年はぱっと笑い、列へ駆け戻っていった。
私の視界の端で、文字が静かに揺れる。
【この港に『明日』を期待している者】
・推定人数:百人強
・うち子ども:三割
・評価:この港を簡単には捨てられない理由
(やはり効率だけで語るには、少し贅沢な港になってしまいましたわね)
馬車の前で待っていたエリアスが一礼した。
「お待たせしました、クラウストラ様。道中の護衛も準備が整っています」
「では出発いたしましょう」
私は馬車に乗り込み、最後にもう一度だけ港を振り返った。
赤錆びた桟橋。
湯気を上げる共同食堂。
笑顔で手を振る街の人たち。
「次は帝都ですわ」




