75「わたしもお母さんの絵ほしかったな。」
トレランスの家でニワトリ目覚ましがその美声を披露する頃。
「アニー! 起きて、起きて!」
ノイレンがまたしても無断でアニーの部屋に入り込み、まだ夢の中のアニーの体をゆすって無理やり現実世界に引きずり出した。
「なんなのよ! あんたバカ?」
いきなり叩き起こされたアニーは寝起き第一声で思いっきりノイレンを罵倒した。
「そうだよ、昨日も言ったじゃん。もう忘れたのか?」
ノイレンの開き直りにアニーはぷくうと頬をカエルのように膨らませた。
「さあ走りに行くぞ、カエルタコちゃん。」
「はあ?」
「ほれ、さっさと起きて。」
ノイレンはアニーの手を引っ張ってベッドの上に上体を起き上がらせた。
「あんたバカ?!」
「何度も言わせんな。」
ノイレンはアニーのほっぺを両手でつまんでニカっと笑う。
「触んないでよ!」
アニーはノイレンの両手を振りほどくと枕に顔をうずめて体を丸めた。
「ほれ、早く。走りにいこっ。」
ノイレンはアニーの背中を揺らして催促する。
「走ってどうすんの? 面白くないじゃない。」
「わたしは毎朝師匠と走ってんだ。だから走んないと気持ち悪い。」
その場で足踏みし始めそうな勢いのノイレンに呆れたアニーはまた頬を膨らませて拒否した。
「だったら一人で行けばいいでしょ。」
「走ると気持ちいいよ。だからアニーも一緒に行こう。ほら着替えて。」
ノイレンはベッドの傍らに置いてあるアニーの服を手に取り急かしてくる。
「いやよ!」
「そう思うのは最初だけだよ。走ってみると病みつきになるぜ。」
「それはあんたがバカだからでしょ。わたしは違うわ。」
「カエルタコなのに?」
「誰がカエルタコよ! バカにしないで。」
アニーはぷくうと頬を膨らませたまま顔を赤くしていく。
「それだ、それ!」
ノイレンは面白そうにアニーの顔を指さした。アニーはむくれて布団をかぶって中に籠ってしまった。
「仕方ない。それじゃあ、レイトワと走ってこよ。」
ノイレンはわざとらしくレイトワの名を強調した。すると亀の甲羅のようにこんもりしていた布団がぶわっと舞いあがりアニーが中から飛び出してきた。ノイレンはしてやったりと笑顔になった。
「きょ、今日だけよ。」
アニーはむくれながら強調した。自分の代わりにレイトワを誘うといわれたのがよほど悔しかったらしい。ふくれっ面のまま着替えた。
早朝はさすがにひんやりする。けれどまだ息が白くなるほどではないから手足がかじかむこともない。
「アニーに合わせるから無理しないで同じペースで走るんだよ。いきなり飛ばすとすぐにバテちまうからな。」
ノイレンがトレランスのもとで修業を始めたばかりの頃のように、今朝はノイレンがアニーの様子をみながら彼女に合わせてゆっくりと走っていく。だが、わずか200メートルも走るとアニーは息が荒くなってきた。普段から体を動かしていないから仕方ないといえば仕方ない。
「ほらアニー、バテんの早いよ。まだ家が見えてんじゃん。もっとずっと遠くまで走んないと気持ち良くなんないよ。」
アニーの横で足踏みして彼女を促すノイレン。
「はあ、はあ、そんなこと、言ったって、わたし、こんなに走ったこと、ないもん・・・」
「仕方ないなあ。」
「きゃあっ!」
ノイレンはアニーの背後に回ると彼女の背中を両手で押しながら走り始めた。ノイレンに押されてアニーはそれまでよりも速いペースで走らされていく。
「やめ、やめっ、やだ、うあっ!」
あまりにもペースが速かったためにアニーは足がもつれて蹴っつまずき、ズベベベっと顔面から大地に飛び込んでしまった。
「ごめーん! ちょっと速すぎたかな。大丈夫?」
ノイレンはアニーを抱き起すと頭や体に着いた土を払った。アニーの顔は擦り傷だらけ。
「大丈夫、それくらいすぐに治る。唾付けときゃ平気平気。」
ノイレンは笑ってあっけらかんと言い放つがアニーはどうにも怒りが収まらない。
「わたしだけ痛いのずるいっ! あんたもずべべってしなさいよ!」
「あっはは、わたしも昔はよく転んだよ。師匠にわざとやられたこともある。」
アニーはいつものようにぷくうとカエルのように頬を膨らませようとしたが負った擦り傷の痛みで出来ず怒りで顔を真っ赤にするだけだった。
「仕方ないなあ、もう。」
ノイレンは有無を言わさずアニーをおんぶするとそのまま走り出した。
「ちょ、何よ、おろして!」
ノイレンの背中で暴れるアニー。
「うわっ、暴れんな。落ちるぞ。」
ノイレンはアニーをひょいと上に放りなげるように浮かして背負い直すとペースを上げて走り出した。
家に戻ると擦り傷だらけのアニーを見たレイトワが目と眉を吊り上げた。
「あなたいったいアニーに何したの!」
かくかくしかじかとノイレンが説明するとレイトワはさらに怒った。アニーとあまり仲が良くないとはいえ、さすがにご主人様の娘を傷つけられたことは腹に据えかねたらしい。
「今日はもうアニーに近づかないで。あなたは外で護衛してなさい。」
ノイレンは家から追い出された。レイトワは玄関の外にノイレンを突き飛ばすとバタンとドアを閉めて鍵をかけた。
「う~ん、ちょっとやりすぎちまったか。しかたない。」
ノイレンは座ると玄関ドアに寄りかかった。腕組みをしてぷうと頬をリスのように膨らませ通りを行きかう人たちを見ていた。
しばらくそうしていたがノイレンは退屈になってしまった。なぜならこれと言って何が起こるわけでもない。重要人物や貴重品の護衛と違って誰かが襲ってくるわけでもない。ただあまり仲の良くない若いメイドと幼い子供の女二人だけを残していくのが不安で依頼されただけ。もし襲われるとしたら金目の物を狙った泥棒くらいだろう。それだってオレンジ色の石が付いた目立つサーベルを提げた剣士がいればまず諦める。
ノイレンは庭に回るとサーベルを抜きシャドウ稽古を始めた。相手は師匠のトレランスや騎士団指南役だったころのカディン。その二人が、この一年ノイレンが実際に戦った賊として襲い掛かってきたらと想定して剣を振るう。やはり実際の賊よりも彼らのほうが数段強い。稽古の相手にするならあの二人を置いて他にはいない。
ノイレンはつま先立ちでかろやかに、ダンスのステップを踏むように飛び回りながら手首のひねりや回転を生かして目の前に迫る二人に攻撃を仕掛ける。時にはセイベルから盗んだ木の葉返しのような技も取り入れ、流れるように動くよう心掛ける。またある時には得意のバク転をし、着地と同時に膝のバネを用いて鋭い突きを入れる。
気づくとアニーが窓を少し開けてノイレンのその様子を窺っていた。窓の外から何やら物音や気合を入れる声などが漏れ聞こえてくるのが気になったらしい。
「アニー、朝はごめんね。怪我まだ痛い?」
アニーは答えもせず窓をピシャリと閉めた。ノイレンは気を取り直して再びシャドウ稽古を始めた。
ノイレンの目の前にセイベルの幻が現れた。得意の木の葉返しでトレランスの右目を傷つけた時の光景が蘇る。師匠の右目を斬ったあとこちらを向いてペロっと上唇を舐めるとニヤニヤとせせら笑う。
「ふざけんな!」
ノイレンは態勢を低くしてサーベルの切っ先を地に這わせるように滑らせセイベルの幻を斬り上げた。彼女の姿は真っ二つに割れ、歪み、風に揺れるように掻き消えた。
「きゃあっ!!」
突然ノイレンの耳に現実の悲鳴が飛び込んできた。そこには洗ったばかりの衣類を入れた洗濯かごを持ったレイトワが。
「ごめんなさい! 大丈夫?」
ノイレンはサーベルを逆さに持ちかえると、恐ろしさで足がすくんでいるレイトワの顔を覗き込んだ。
「あ、危ないじゃないの、気を付けてよ!」
「ごめんなさい。」
レイトワはぷんぷんと頭から湯気が出てるんじゃないかと思うくらいに怒っている。
「練習ならもっと向こうでやってよね。」
「はい・・・」
ノイレンはすごすごとレイトワが指さしたほうへ立ち退いていく。その様子をアニーが窓の隙間から覗いていた。レイトワの悲鳴を聞いて興味を持ったのだ。ノイレンが窓の前を通り過ぎるときアニーと目が合った。ノイレンはバツの悪そうな顔でアニーを見ると彼女はニンマリとした。
「なんか気が削がれちゃったな。」
ノイレンは剣を鞘に納めると足をそろえてまっすぐに立ち、目を閉じて両手を広げた。
深呼吸すると目を開けてゆっくりと踊り始めた。一心不乱にステップを踏む。今度は何も考えず、思い浮かべずにただその体に染みついたダンスを体現していく。シャルキーに習った動作を一通りすべて行い最後につま先立ちでくるんと回転して動きを止めた。そしてダンス衣装を着ているかのようにカーテシーで締めくくった。
「すごい! なにそれ、わたしもやりたい!」
アニーが窓から身を乗り出して目を輝かせている。
「え?」
ノイレンは集中するあまりアニーに見られていることに気づかなかった。窓越しに目が合ったアニーはそこからノイレンの行動をずっと見ていたのだ。
「じゃあやろっか。」
「うん!」
ノイレンは嬉しくなった。
「こっちおいで。」
アニーに窓を乗り越えて外に出てくるよう手を伸ばして受けとめようとした。
「やめなさい! アニーそんな”はしたない”ことをしてはダメ。」
レイトワが汚らわしいものでも見るような目つきでアニーを制止した。
「アニーごめん。ちゃんと玄関回っておいで。」
「そういうことじゃないわ!」
ノイレンがばつが悪そうに笑って言ったのを聞いてレイトワはさらに声を荒げた。
「ノイレン、あなたがダンスをするのは勝手。でもアニーにそんなものを教えないで。」
いきなりのことでノイレンは驚いたが、ダンスを「そんなもの」と言われ怒りが湧いてきた。
「ダンスのどこが悪いってんだ。ふざけんなよ。」
レイトワに向かって眉を吊り上げたノイレンの両手の拳に力が入る。
「ダンスなんて売女のすることよ。あなたよほど育ちが悪いのね。」
「なんだと、もういっぺん言ってみろ! いくら雇い主でも許さねえぞ。」
両手の拳が小刻みに震える。
「私を殴る気?」
ノイレンはすぐにでも殴りたいのを堪えた。ぷるぷると震える拳の指を開いた。
「旦那様もさぞがっかりするわね。銀貨100枚も払って”こんなの”が来たなんて。」
レイトワの視線が冷たい。ノイレンは必死に怒りを抑えて訊いた。
「なんで、なんでダンスがはしたないことなんだ。」
「は? 当たり前じゃない。ダンスって露出の高い衣装で男に媚を売るのよ。売女と同じじゃない。そんなことも分からないの?」
レイトワは冷たく言い放つ。そのトゲのある声音に「売女」を忌み嫌う感情があふれている。
「そんなことない。確かにダンス衣装は肩や足を出してるのもあるけど、売女じゃない。」
「いいえ同じよ。どちらも男に媚びて自分を売るんだから。」
レイトワは必要以上に嫌悪感を抱き、それで苛立っているようにみえた。ノイレンは彼女の目をまっすぐに見据えて反論しながらそれを感じ取った。
「あんた、もしかして、」
ノイレンがそこまで口にするとレイトワの平手打ちがノイレンの左頬を襲った。甲高い音が庭中に響いた。
「それ以上言わないで、汚らわしい。」
レイトワはそれだけ言うと洗濯かごを持って家の中に戻っていった。その背中をノイレンは悔しそうに見つめていた。
「大丈夫?」
アニーが窓の中から問いかけてきた。ノイレンの左頬にばっちりレイトワの手形が付いているのを見て同情した。
「大丈夫だよ。ありがとう。」
ノイレンはにっこり笑って答えた。アニーがこっちに来てと手招きする。ノイレンが窓に近づくとアニーはきょろきょろとあたりを見回してから囁いた。
「レイトワってね、うちに来たときすっごい香水臭かったんだよ。お父さんが『ここはお店じゃないんだぞ』って怒ってた。」
ノイレンの中で推測が確信に変わった。
「ね、お店ってなに? お父さんに訊いても教えてくれなかった。」
素朴な疑問を投げかけるアニーにノイレンは苦笑いしてごまかした。
その日の夕食時。ようやく家に入れてもらえたノイレンはまたも衝撃を受ける。
テーブルにはアニーとレイトワの二人分しか配膳されていない。ノイレンはレイトワがまだ怒っていて自分には食べるなと言いたいのかと思ったが違った。
「ねえ、ノイレンの分はどこ?」
アニーがレイトワに訊くと彼女はちらと部屋の隅を目で指した。ノイレンがそのほうへ目を向けると、部屋の隅の床の上にじかにパンとスープの汁だけよそった皿が置いてあった。
ノイレンはこみあげてくる怒りを抑えてレイトワへ視線を向けた。
「私もそこまで鬼じゃないわよ。それに食事の世話も依頼した内容に含まれているから、あなたの分も用意しないと私があとで旦那様に叱られるもの。」
レイトワはアニーに席に着くよう促すと自分も座り、「いただきます」と食べ始めた。
「酷いレイトワ。」
アニーがノイレンのパンを拾い上げほこりを払うとレイトワはとげとげしい口調で言い放った。
「アニー、汚らわしいノイレンにはそこがお似合いなの。」
アニーはムっときてレイトワに言い返そうとしたらノイレンに肩を掴まれ止められた。見るとノイレンは黙って首を横に振った。
「ノイレン。」
「大丈夫、わたしは慣れっこだから。」
アニーの手からパンを受け取ると床に座り込んで食べ始めた。温かいスープがあるだけホームレスをしていた時に比べればずっとマシな食事だし、他の街へ行く途中で野宿しているとでも思えばイスとテーブルがなくても気にならない。レイトワはそんなノイレンを一瞥だけしてあとは無視した。
食事中アニーはずっと不機嫌な表情を浮かべてレイトワを睨みながらパンをかじっていた。
この家でノイレンに与えられた部屋はアニーの部屋の隣。彼女の護衛兼お守りだから一番近いところというわけだ。
夜もだいぶ更けたころノイレンはそっと部屋を出てアニーの部屋のドアを静かに開けた。
「なによ。」
アニーは慌てて例の絵を枕の下に隠すと頭を枕に乗せてノイレンを睨んだ。擦り傷が痛くてカエルになれない。
「もう寝たかなと思って見にきたんだよ。まだ起きてたのか。」
「わたしの勝手でしょ。もう寝るから出てって。」
「今朝はごめんね。明日も一緒に走ろう。おやすみ。」
「いやよ、もう走んない。」
ランプに照らされたアニーの顔が擦り傷のせいで赤く見える。
「そんなこと言わないでよ。明日は気を付けるから。」
「い・や!」
ノイレンは音を立てないよう忍び足でそろっとアニーのベッドに近づき、しゃがんでぬうっとベッドの下から顔を出した。驚いたアニーは仰け反るようにベッドの向こう側に転がって床に落ちた。ノイレンはベッドの上を乗り越えて上からアニーを覗き込んだ。
「大丈夫?」
「あんたバカ?!」
「またそれかよ。何度言えば分かるんだ。」
ノイレンはニカっと笑った。アニーは床に転げたまま右手をノイレンに差し出してきた。
「どした?」
「どしたじゃないわ。早く起こしなさいよ。」
アニーは擦り傷だらけの頬を少しだけ膨らませた。
「なんだ、カエルタコちゃん一人で起きられないのか。」
ノイレンはニンマリしてアニーの手を掴んで引き上げた。
「カエルタコじゃないもん。」
アニーは痛いのを我慢してぷくうと頬をカエルのように膨らませた。
「あはは確かに。今はただのカエルちゃんだな。」
それを聞いたアニーはかあぁと顔を真っ赤にして怒る。
「あ、タコになった。」
ノイレンは声量を押さえて笑った。
「あっ!」
アニーが慌ててベッドに飛び乗った。ノイレンがベッドの上を乗り越えたとき枕がずれて、下に隠していた絵が露わになっていた。アニーはその絵を掴むと大事に胸に押し付けた。
「その絵、」
アニーが絵を手に取るときちらっと見えた。そこに描かれた人物、たしかに女性だった。
「もしかしてアニーのお母さん?」
アニーの背中に向かって問いかける。アニーはこくんと頷いた。ノイレンはベッドに上がるとうしろからアニーの頭にその薬指の長い手をぽんと乗せ、頬をつけるようにアニーに顔を近づけて囁いた。
「大切な宝物だね。いいな。」
アニーは振り向いた。
「わたしもお母さんの絵ほしかったな。」
アニーの目を見て微笑むノイレンの胸の中にそよ風に楽しそうに揺れる幾輪もの忘れ草が咲いた。
「ね、見せてよ。」
アニーはこくんと頷いて絵を見せてくれた。そこに描かれた人物の顔を見た途端ノイレンは驚きで息が詰まりそうになった。
「え? この人、」
「違うもん! レイトワじゃないもん!」
アニーはものすごい剣幕で否定した。
次回予告
ノイレンなりのやり方でアニーと心を通わし始めたノイレン。レイトワを快く思っていないアニーをなだめつつなんとか二人とも仲良しになってもらいたいと思っていた矢先事件は起きた。買い物に出かけたままレイトワが帰らない。ノイレンは四苦八苦しながら探し続ける。
君は彼女の生き様を見届けられるか。
次回第七十六話『こういうとき師匠ならどうするだろう。』




