3「神よ、私は無力です。」
翌日丸太に縛り付けられたノイレンは知らない町にいた。そこに着くと2人の大人は食事のできる店のそばに馬車を停めて店の中に入っていった。通りすがりの人にノイレンを見られないようご丁寧に大きな布で荷台を覆って。
しばらくして2人は出てきた。男は自分の腹をぱんぱんと叩いている。
「あ〜、食った食った。」
「案外美味しかったわね。」
女も満足そうだ。
2人が馬車に戻ると男はノイレンを隠している布を少し持ち上げて彼女の様子を伺った。ノイレンは険しい目で男を睨みつける。
「ふんっ。」
男はそう発しただけで布から手を離した。"物扱い"だから食事も与えない。
腹ごしらえを終えた2人は店で聞いた奴隷商のところへ向かった。しかしそこでもノイレンの幼さを理由に買取拒否された。それならばと別の奴隷商を紹介してもらおうとしたが、同じ理由で紹介できるところはないと断られた。
「どこか買い取ってくれるところないのか?こういうのが好みの変態野郎の1人や2人いるだろう?」
男はしつこく食い下がるが奴隷商は無言で「早く出て行け」と手首を上下に振るだけだった。
「ったく、どいつもこいつもシケてやがる!」
男は捨て台詞を吐いて御者台に上がると花街とは反対の閑静な方へ馬車を走らせた。
「どこ行くの?」
キツイ香水の女が不審に思って訊くと男は黙ったまま答えない。しばらくすると屋根に十字架のある建物が見えてきた。男は町の教会へ向かっていた。女は男がノイレンを売るのを諦めたと思って文句を言った。
「なんで?まだ娼館があるじゃない。禿としてなら買ってくれるわよ。そっち行ってみましょ。」
男は閉じていた口を開いて苦々しく吐き捨てた。
「結局娼館だって変わんねえよ。どこも買ってくれやしないさ。」
「そんなの交渉してみなきゃわかんないじゃない。大体禿なら5~6歳の子もいるじゃないの。」
「そうは言ってもノイレンの器量じゃ二束三文がいいところだろ?遣手婆や女衒はガメツイからな。それじゃばかばかしい。」
男は肩をすくめながら返した。どうも男は娼館には売る気がないらしい。
「そんなこと言って教会じゃ一文にすらならないじゃない。それに、アレけっこう上玉になるわよ。」
女がノイレンを一瞥して言うと、男は笑って自分のヒラメ顔を指差した。
「冗談いうなよ、オレの顔見てみろ。」
「あんたに似なくてよかったじゃない、アハハ。」
と、女は男の肩を叩いた。男は仏頂面をして、
「とにかく、アイツは教会に連れていく。」
するとキツイ香水の女は小馬鹿にしたような目つきで男を見た。
「ふ〜ん、あんたにもまだ少しは親心が残ってるみたいね。」
「そんなんじゃねえよ。」
男はそっぽを向き、それきり黙って手綱を操った。
この町の教会は古びた礼拝堂のほかは神父が寝泊まりする部屋があるだけの小さなところだった。
「ここにいろ。どこにも行くんじゃないぞ。」
男はそう言ってノイレンを丸太に縛りつけたままドンと押して外から教会の敷地の中へ突き飛ばした。ノイレンはそのまま転げて顔から地面に突っ伏す。キツイ香水の女はそれを見てゲラゲラ笑っている。
生来の負けん気の強さからノイレンは2人に喰ってかかっていきたかったが、丸太に縛り付けられていて体が動かない。文字通り手も足も出ない。
「うぅあう~、うぁうぅ・・」
しかも猿轡のせいでまともに声が出せない。叫ぶことも怒鳴ることもままならない。
ノイレンは悔しくて悔しくて堪らなかったが涙が涸れ果てたその瞳からは何もこぼれてこない。ただ歯を食いしばってその悔しさに耐えることしかこの時のノイレンにはできることがなかった。
背負わされている丸太の向こうから徐々に遠ざかっていく男と女のあざけるような笑い声だけがノイレンの耳に届いてきた。何もできない自分がどうしようもなく無力であることを痛感した。
最後にほんの少しだけ父親としての親心を見せた男とキツイ香水を纏った女は楽しそうに笑いながらノイレンの前から姿を消した。
* * *
日が沈み空が藍色に染まった。
ノイレンは昼間突き飛ばされて転がったままの状態で身動きが取れずにいた。初夏であるのが唯一の救いだった。冬ならば凍えていただろう。地面に頬を付けたままその目は一点を睨みつけている。そこに何があるわけでもない。彼女の目に映っているのは自分をここに捨てていった2人の大人。心の中では2人への憎しみから大人への不信感が膨らんでいる。
『ちくしょうぅ、大人なんか、大人なんか。』
とっぷりと夜の闇が濃くなり瞬く星で空が賑わっている。もうだいぶ夜も更けた。礼拝堂の戸締まりのために神父が中から顔を出した。あたりの様子を一目伺って中に戻ろうとした時、丸太に縛り付けられて礼拝堂と正門の間の通路に転がっているノイレンに気がつき駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか?誰がこんな酷いことを・・・」
神父は地面に両膝をついてノイレンを縛り付けている縄を解き彼女を抱き上げた。
「触らないでっ!」
両手で神父を押しのけて離れようとするノイレンを彼は跪いたままぎゅっと抱きしめた。
「かわいそうに、もう大丈夫ですよ。安心してください。」
ノイレンの不安や恐怖を取り除かんとするかのように神父はその両腕で力強く彼女を包み込む。しかしノイレンはその神父の腕にも、体を包むぬくもりにも嫌悪感しか感じなかった。自分に触れる神父に性的な嫌悪感を抱いたのではない。彼女の心の中で大きく膨らんだ大人への不信感が神父さえも拒否させた。
「いやだっ、あっちいって!」
お母さんの回復を祈りに教会へ通っていたときの藁にもすがる信心さえも大人への不信感に覆われて心の奥底に埋もれてしまっていた。ノイレンは渾身の力を込めて神父の腕から抜け出す。
「なんと言うことでしょう、よほど辛かったのですね。神よ、この子を救い給え。」
神父は跪いたまま目を閉じて胸の前で十字を切って祈りを捧げた。
ノイレンは目を大きく見開いて顔を赤らめ仁王立ちになって神父を見上げて睨みつけた。
「神様なんか要らない!お母さん助けてくれなかった!!」
神父は驚いて目をむいた。幼い子どもから予想もしていなかった言葉を叩きつけられたことに動揺した。
「なんと罰当たりな。そんなことを言ってはいけませんよ。神は等しく愛を分け、救ってくださいます。あなたも祈りましょう。」
そうして神父はノイレンの両手をとって胸の前で合わせるよう促したが、ノイレンは両手を掴む神父の手を払い退けて怒鳴った。
「ウソつき!!」
そして教会の外へ向かって走り出した。
「どこへ行くのです?暗いから危ないですよ!」
しかし昨日の昼間から丸太に縛り付けられていたノイレンは足がもつれてすぐに転んでしまった。神父は慌ててノイレンを抱き起こして土を払い、怪我をしていないか確かめた。
「触るなっっ!!」
ノイレンは乱暴に神父の手を払うが彼はなおもその手を差し伸べてきた。このままでは力で負けると思ったノイレンは神父の腕に噛み付いた。
「ひいっ!」
神父は痛みと驚きで手を引っ込め、噛みつかれたところをもう一方の手でさすりながらノイレンを見た。
ノイレンはその目に憎悪の光を宿してキっと見上げている。神父はその目に居竦まり動けなくなった。ノイレンの心は固く凍てついていた。
とてつもない凍えた冷たい眼差しに神父は恐れおののき神に祈ることしかできなかった。
「神よ、私は無力です。どうかこの子をお救いください。」
再び目を閉じ自分の胸で十字を切った。
次回予告
街のあちこちに彼女だけの隠れ処を持っている12歳のノイレン。大人たちから逃れるため毎日場所を変えて彼らの目を欺いていた。だが街の有力者のボンボンにその1つが運悪く見つかってしまった。ボンボンと喧嘩するがノイレンは彼の薄っぺらいずるさにかつての自分を重ねて憤る。
君は彼女の生き様を見届けられるか。
次回第四話『いーだっ!』